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池田昌之です。

このブログはあるゴルフ倶楽部の会報に連載したゴルフ紀行が始まりである。その後テーマも多岐にわたるものになった。

ー ゴルフ紀行15 エジプトでのゴルフー

2012-07-17 11:53:49 | エジプト / モロッコ

ー ゴルフ紀行15 エジプトでのゴルフー

2002年3月28日早朝のカイロ空港に到着した。今から10年前のことである。タラップを降りながら、エジプト航空の機体を見上げる。朝焼けの空の茜色が白い胴体に映えている。ナイル・ブルーの尾翼には、鷲の姿をしたホルス神のマークがついている。エジプト神話の空の神である。ナショナルフラッグの機体に、こういうロゴを使うところにエジプト人の自らのルーツに対する誇りを見るような気がした。

エジプト旅行は永年の夢だった。エジプトを見ることは人類の古代文明の跡を直接目の当たりにすることだと思っていたからだが、その夢をなかなか果たせないでいた。急に思い立って妻と一緒にある旅行会社のツアーに参加した。この時期はいわば端境期である。運が悪いと砂嵐に遭う。さりとて初夏を過ぎると暑熱が耐え難い。という訳で三月のエジプト旅行は観光客の姿が少ない。我々のツアーは砂嵐にも遭わず幸運というほかなかったが、それは旅の後に知ったことである。

空港からハイウェイでカイロの街を横断してギザのほうに向う。ナツメ椰子や月桂樹の並木が珍しい。月桂樹はまるで金盥を置いたような形に刈り込まれている。ラムセス中央駅の前を通る。 駅前広場にラムセス二世の巨大な像が立っている。古代エジプトの新王朝、第十九王朝のラムセス二世は王国の版図を大いに拡大した王である。この像は古代の本物だそうだ。この王は、王権の偉大さもさることながら、とても自己顕示欲が強いファラオだったようだ。エジプトの各地でその存在はたいへん目立っている。まるで3,300年もの年月を超えて王朝の威令を示そうとしているかのようだ。
 エジプト人は7世紀にアラブに征服されてイスラム教に改宗した。言語もアラビア語を受け入れていわばアラブ化して今日に至った。従って、街にモスク(ガーミアと呼ばれている)が多いのは当然として、その割にはキリスト教の教会が目に付く。十字架を頂くドームや荘重な尖塔のそばを通る。エジプトにはアラブの支配下に入る前にグレコ・ローマン時代といわれる時期があった。マケドニアから興ったアレキサンダー大王によってエジプトが征服された時代である。このときに純粋な古代エジプトの時代は終焉する。それ以来キリスト教がエジプトのほぼ全土へと広がった。この時代はエジプト人の多くがキリスト教徒になった。キリスト教といっても、コプト教と呼ばれる原始キリスト教である。イエスを神の子としてではなく 神そのものとして崇める信仰である。従ってコプト教はキリスト教世界では異端視された。その後アラブの支配下になるとイスラム教に改宗する人々が増えイスラム教徒が多数派となったが、コプト教徒は現在もまだ人口の約一割弱を占めている。その比率はここ数百年間あまり変わっていないそうである。
 エジプト人は現在アラビア語を話している。民族のアイデンテティは言語である。いったいエジプト語はどこに行ってしまったのであろう。エジプト語は日常の話し言葉としてはいわば死語であるが、何とこのコプト教の祈祷文の言葉として残っているという。
 古代エジプトの多神教の信仰が一旦はキリストを唯一の神とするコプト教になったが、その祈りの言葉は祖先伝来のエジプト固有語を使っていたのだ。その後アラブに征服され、アラーを唯一の神とするイスラム教徒が多数となり日常の言葉はアラビア語になった。コプト教徒は少数派ながら残ったが、彼らも日常の言語はアラビア語という訳なのである。
 一方イランの場合アラブの征服によってイスラム教を受け入れたが、言語は依然としてペルシャ語を守っているのと好対照である。この相違を生んだのはいったい何だったのか、ペルシャ語がアラビア語とは別系統のインド・ヨーロッパ語族であったのに対し、そもそもアラビア語のセム語族とエジプト語のハム語族が近似しているからなのだろうか。

 ナイル川を渡ると間もなく突然何の前触れもなく、ピラミッドの四角錘の遠景が視野に飛び込んできた。今まで幾度も写真や映像で馴染んできた筈のその姿は、いまや間違いのない現実として目前に惜しみなくその実物の姿を現している。
『ああ、とうとう来てしまった。ピラミッドがあそこにあんな風にさり気なく日常の中に存在していて、いいのだろうか?』という不思議な感慨が襲ってくる。
 ギザのホテルで旅装を解くのももどかしくピラミッドを訪れる。3つのピラミッドがほぼ直列に並んでいる。その北側からアプローチする。この3つは古王国・第四王朝のクフ王とカフラー王、メンカフラー王のピラミッドである。気の遠くなるような昔である4,550年前の、日本なら縄文時代に建設されたものである。近くで見るピラミッドは、想像していたほどは大きくないような気も一瞬はするが、よくよく見るとやはり大きい。妙な感じである。最大のピラミッドであるクフ王のピラミッドの高さは約140メートルで、40階建てのビルの高さに相当するという。
 ピラミッドの外部を覆っていた化粧板の石材はあらかた剥がされてしまって、ごつごつした石塊が剥き出しになっている。一個2~3トンの石を3百万個も積み上げたというその膨大な重量が迫ってくる。基底部の石壁に暫くの間身体を預けて、そのエネルギーを貰った。
 一番北側のクフ王のピラミッドは偶々立ち入り禁止になっていた。中央にあるカフラー王のピラミッドの内部に入る。約1メートル四方の狭い穴を前屈姿勢で進むと大回廊と呼ばれる天井の高い通路に出る。やがて花崗岩でできた王の部屋という30畳位の玄室に到達する。その玄室には蓋のない石棺のようなものがあるだけで、ガランとしている。気のせいか耳の奥がジーンと鳴る感覚が襲ってくる。


 
 このピラミッドがどういう目的で作られたかについて、後世になっていろいろな説が唱えられてきた。王の墓であるとギリシャの歴史家ヘロドトスが書き残しているが、神官のための食糧庫だとか、天文台だとか、ナイルの氾濫期に農民に生活の糧を与える公共工事だったという説もある。エジプトの歴史に造詣の深い我がガイド氏によれば、やはり墓としか考えられないという。   王墓説を否定する立場から言えば、まず玄室が地上よりはるかにに高い位置にあるのはおかしいという。王のミイラは古来地下に葬られた伝統があることに反するというのだ。また玄室内部には副葬品などが置かれた痕跡が全くない。またクフ王の父スネフェルのように五つもピラミッドを建設した王もいるので、墓説は矛盾する。以上が否定論の  あらましであった。

 墓を遺体の安置場所と考えると矛盾するが、古代エジプトの死と再生の信仰を考えると、私は死後の王の魂魄が宿る場所と考えるのが一番ぴったりするような気がしてならなかった。
 

 古王国のファラオたちは、神そのものであったと思う。乾燥地帯のエジプトに豊かな恵みを齎したのは何か。それは七月から十月過ぎまで氾濫しているナイルが豊富な水量と上流地帯の肥沃な土砂を運んできたからであった。農民たちはこの氾濫期には段丘地帯に逃れて時期を待つのである。一握りの人たちが洪水の時期を正確に予測する知恵を持つ。その人たちが豊かさの源の洪水を招き寄せる霊力を持つものとして、至高の存在とされるのは当然のことであったと考えられる。
 何か考古学的な根拠を基に云々する訳ではない。素人のおこがましい想像を許して頂きたい。年代を経て王と神官の役目が分化してくると、その故に王は神そのものから神の特別の庇護を受ける存在に変わっていったのではないだろうか。まだ神そのものだった古王国のファラオたちが冥界に旅立つとき、その魂(カー)が宿る場所であるピラミッドにその亡骸がないのは、より相応しいことのように思えたのである。
 グレコ・ローマン時代になって、新しく救世主としてキリストの教えを受け入れたエジプト人たちが、異端とされながらもキリストを神そのものとする信仰を守ったのと何か共通するものがその根っこにあるような気がしたのである。
         
 ピラミッド考古学の最近の発展は目覚しい。特に早稲田大学の吉村作治教授のハイテクを駆使した調査と学説が良く紹介される。その学説も日進月歩の感があって、このピラミッドの隠された真実に鋭く迫りつつあるように思われる。

 最新の吉村教授の説では、ギザのピラミッドの建設には、当時の王朝内の権力争いが絡んだ意外な事実があったとしている。
かいつまんで言うと、第四王朝の第一世スネフェル王以後の王位継承権を巡って当時太陽信仰派と星信仰派の争いがあり、太陽信仰派が勝利してクフ王が王位継承権を手中にした。王権の権威と太陽信仰派の確固たる基盤を象徴するためにクフ王はスネフェルをはるかに凌駕する大ピラミッド建設を計画する。しかしそのピラミッド建設のノウハウは星信仰派が独占するものだったので、星信仰派の生き残りのヘムオン王子にクフ王以降のピラミッド建設を任せざるを得なかったというのである。ギザのピラミッドはこの星信仰を反映した壮大な天空図だった。3つのピラミッドは、まさにオリオン座を表している。王の部屋から外部に伸びる通気孔らしきものはオリオン座を指し、王妃の部屋からのそれはシリウス星をさしている。これらは通気孔ではなく王や王妃の霊魂の通り道だったというのである。その霊魂はそれぞれの星座で、神の手で再生すると考えられたのである。ピラミッドの入口はいずれも太陽の出る東でなく、北極星の方向の北を向いている。
北はメソポタミアの方向なのである。ピラミッドを設計したヘムオンは、この秘密について一言も書き残すことなく、この巨大なプロジェクトに自らの星信仰の証を刻みこみ、後世の発見に委ねたというのである。

 そもそもエジプトにピラミッドが作られるようになったのは、それから100年遡る第二王朝のジェセル王の時代からだという。カイロの南方約30キロのサッカーラに階段状のピラミッドがある。 それより前の王墓はマスタバ墳と呼ばれるベンチ状の墓で、以降、いくつかの変遷を得てギザに見るようないわゆる真正ピラミッドへと繋がっていく。その階段ピラミッドは、メソポタミアの都市国家に見る、段丘状の神殿ジッグラートに倣ったのだというのである。メソポタミア文明はエジプト文明の約1000年先輩であった。
 メソポタミア文明の最初の担い手はシュメール人であったとされている。シュメール人はその後継者であるアッカド人がセム語族であることが知られているのに、いまだにその言語的系統が明らかにされていないという。私は西洋占星術を勉強しているので、特にこの辺のことに興味をそそられるのである。そしてシュメール人こそは、人類史上Astrology(占星術)の元祖であるとされている。 
 
 ジェセル王の階段ピラミッドを作ったのはシュメールからきた人々の子孫のイムヘテプという人物であることが分っているという。そもそも星信仰そのものがメソポタミアのシュメール人から齎されたのかも知れない。エジプトの神話では、原初の頃エジプトを治めていた名君オシリスは、王位を狙う弟のセトに殺されるが、その妻イシスがオシリスを布で包み(ミイラにする)祈るとオシリスは蘇生する。そしてオシリスとイシスの間に子が生まれホルスとなる。ホルスは化身してファラオになる。やがてオシリスは死して後にオリオン座に、イシスはシリウス星になる。これはエジプトにおける星信仰を象徴しているというのである。
 約220年後に作られた第五王朝のウナス王のピラミッドの中にこの神話の記録が残されており、それはピラミッド・テキストと呼ばれているそうだ。
 以上が吉村教授の説のあらましであるが、この説にはたいへん魅力を感ずる。
 さて吉村教授は最近ピラミッドをめぐる大発見をした。それで従来の世界の考古学者たちの定説を大幅に書き換える事実が明らかになったのである。その端緒は第2の太陽の舟の発見である。
 すでに発見されて復元された第1の太陽の舟の並びの地下に大きな空洞があることをハイテク機器で察知したことに始まる。その空洞に合計40個の石材が発見され、そのうち35個が発掘された。
その下に第2の太陽の舟の木材が発見された。石材には合計1000個の古代エジプト文字で書かれた記録が記載されていた。それによって明らかになりつつある事実を以下にかいつまんで紹介する。
第2の太陽の舟には太陽神ラーがのり、第1の太陽の舟にのるクフ王の魂を曳航して、西の冥界を目指して航行する。クフ王の魂は鳥の姿で象徴されている。ピラミッドの中の玄室の石棺で王の魂はエネルギーの補給をする。そして死と再生の旅を続ける。ピラミッドは王の魂のエネルギーの補給所だったのである。前述の私の素人の感は当たっていたのである。
 ピラミッドの中に5層の王の部屋がある。最上階に王が神と仲間になったという記述があった。クフ王の墓はまだ発見されていないが、ピラミッドの西側にある墳墓群の中に隠されている筈だと吉村教授は言う。
 
 以上は拙著『紀行・イスラムとヒンドゥの国々を巡って』エジプト編の冒頭部分からの抜粋に加えて最近の事情を加筆したものである。今しばらくその抜粋を続ける。前段がやや長くなるが、この文章は『エジプトでのゴルフ』というゴルフ紀行なのでお許しいただきたい。
 
 カイロはナイルデルタの扇の要の位置にあり、東岸にいると乾燥地帯の実感はそれほどでもない。ところが西岸のギザや郊外のサッカーラやダハシュールでは、もう砂漠地帯の真只中である。飛行機で南へ一飛びしてルクソールまでくると、その実感が更に強く沸いてくる。 
 ルクソールは嘗てテーベと呼ばれた。古王国の首都があったギザやメンフィスとは異なり、中王国や新王国以降にエジプトの中心となった場所である。古代エジプト世界の拡大に伴って、その中心がナイルを遡り南下してきたのである。
 もちろんこの地にも現代のエジプトが存在するのだが、ここでは壮大な過去の遺跡に囲まれて昔ながらの生活様式が営まれ、主役は確実に過去の世界が握っているように思えてならない。
 エジプト古代の信仰の中心であった太陽はナイルの東岸から昇って西岸に沈む。そして黄泉の世界を巡って甦り再び東岸から姿を現しこの世に農作物の成長や諸々の恵みを齎してくれるのだ。
当時の権力者たちは、この信仰に基づいて死後の再生を願ったのであろう。エジプト各地で見られるように、ルクソールでは東岸にカルナック神殿やルクソール神殿がつくられ、西岸には葬祭殿やら岩窟墳墓が作られてネクロポリスと呼ばれたのである。
  
 我々の旅はナイルを遡って南に向かった。ルクソールのハトシェプスト葬祭殿を見た。西岸の遺跡の中でひときわ目立つ存在である。1997年秋にイスラム原理主義者の武装グループが無差別に外国人観光客を襲撃し、62名の死者を出した惨劇が起きた場所だ。昨年のエジプト革命によて瓦解した前ムバラク政権が国内の治安対策を強化していた。その結果としてルクソール、アスワン、アブシンベル市は安全になったと伝えられてはいた。

アフガニスタンのタリバン、或いはイランのシーア派革命、更に遡ってサウデイ・アラビアのワッハーブ運動などに、コーランの戒律への厳格な回帰を主張する例を顕著に見ることができる。
エジプトではムハンマド・アリ朝がオスマントルコの支配からエジプトの独立を果たした。しかしイギリスの植民地支配には勝てず、民族主義を掲げたナセルの「自由将校団」革命によって倒された。そのナセルは英仏の列強に対抗し、アラブの大義を旗印にアラブ世界の盟主を目指したが病に倒れる。ナセルを継いだのがサダトであるが、彼の政策は一転して米ソ対立の中での親米路線であった。国内的には民主化・自由化路線をとった。これが内外の矛盾を生み、反体制の「モスリム同胞団」の凶弾に倒れることになる。
 これらの反体制運動はすべて厳密な意味で宗教的な原理主義を掲げるものとはいえないかもしれないが、少なくてもハトシェプスト葬祭殿で起きた事件は明らかにイスラム原理主義路線によるものであった。当時のムバラク政権はサダトの路線を忠実に継承しており、外にパレスチナの難問や、イラク問題、さらには国内経済停滞の問題などがあり、原理主義者の抵抗に晒されていた。
 
 ハトシェプスト葬祭殿の背後を北側から迂回していくと、谷間の奥深くに新王国のファラオたちの岩窟墳墓が密集している。いわゆる「王家の谷」である。そこでツタンカーメンの墓を見た。
 バスは谷の入り口までしか行かない。そこから先は専用車に乗り換える。屋根付きトロッコを数珠繋ぎにして牽引車が引っ張り、切り立つ涸れ谷を縫って行くのである。その場所で我々を待ち受けていたのは原理主義者ならぬ、土産物売りの屋台の群れでであった。そこで姦しい押し売りと値引き合戦が瞬時を惜しんで慌しく繰り広げられた。
 この谷で発見された王の墓は62基あるそうだが、結局は殆どが盗掘にあって、ツタンカーメンの墓は運良く盗掘を免れた稀有の例である。ツタンカーメンの墓はこの王が18歳で夭折したために割合質素であったのと、後年入り口の上あたりに別の王墓を掘るための作業小屋が作られたので、運良く盗掘者に発見されなかったといわれる。比較的質素だったというが、その副葬品はカイロ考古学博物館(2階建)の2階スペースの三分の一を占めるほど大量の宝物であった。当時のファラオの富がいかに巨大であったかを示している。
 
 古代エジプトは、自然条件によって他から隔絶した世界であった。
 つまり全長6,700キロにも及ぶナイルの下流にあって、北は地中海、東北はパレスチナへの回廊で僅かに外界に開けてはいたものの、ナイル流域の東西で砂漠に守られ、またナイル上流とは幾つかの急漠(カタラクト)により守られていた。この第一、第二急漠のある流域がヌビア地方で、アスワンやアブシンベルが位置している。ここはヌビア人という別の文化を持った人々の世界であった。古代エジプトの版図拡大に伴って、この地域はエジプトの属国としてその支配下に組み込まれていくのである。
             


  アスワンの宿はかの有名なオールドカタラクト・ホテルに隣接の新館であるニューカタラクト・ホテルだった。アガサ・クリステイの「ナイルに死す」の舞台になった場所である。
 行き交うヌビア人の帆船(ファルーカ)の眺望に時間の感覚を失って、一瞬別の時空に投げ出されたような気がした。急坂の遊歩道を降りてホテルの前の船着場に向かう。色とりどりの花々が咲き乱れる植え込みはトンネルのようである。
 我々が乗船したファルーカ(帆船)は午後の風を受けて緩やかにナイルを滑っていく。ヌビア人の若い船頭達は愛想がよく、しかも目鼻立ちが美しい。白や青色の木綿のガウンを纏い、縮れ髪である。そして真っ黒な顔から白い歯をこぼしている。この青年たちが大きなタンバリンを打ち鳴らして彼らの舟歌を歌いながら踊りだす。最初はしり込みしていた客達も、結局うまく引っ張り出されて踊りの輪に加わる。互いに手と手をつないで拍子をとる。しばし船上で楽しい歌と踊りの饗宴が続いた。


                     
 アスワンハイダムはヌビア地方のナイル河畔にあった多数の遺跡を水没させることになった。ユネスコが世界的なキャンペーンを張って資金を集めた。これら人類の遺産である遺跡のうちで、20箇所あまりを移設する壮大なプロジェクトを実施したのである。
                  
 アスワンからさらに空路で280キロ、ナセル湖を遡りアブシンベル空港に着いた。バスを降りて徒歩で山の裾を前方に廻り込むと、ナイルが前方に姿を現し手前がアブシンベルの大神殿だった。小神殿共々水没を避けるために元の位置から約60メートル高所に移設された。元の神殿を数千個のブロックに切断して運びそれを再び組み立てるという大工事だったという。高さ60メートルのコンクリート・ドームを作り、そこに神殿を納めたもので約4年の歳月がかかった。完成は1972年だそうである。
 大神殿の正面に新王国第十九王朝のラムセス二世の巨大な座像が四体聳え立っている。入口から約40メートル入ったいちばん奥の至聖所に、3つの神々と神格化されたラムセス二世の坐像があるが、この王の誕生日(1月21日)と戴冠式の日(7月21日)になると、朝日が差し込んで坐像を照らす驚くべき仕掛けになっていたそうである。ところが最新技術の粋を集めて移設の位置関係を決定したにも拘らず、朝日が差し込む日が一日ずれてしまったという。
 王妃を祀る小神殿の正面は、4体のラムセス二世像の間に2対の王妃ネフェルタリの像が並んでいる。移設前には、小神殿の位置はやや低くなっていた。そしてナイルの氾濫の時期になると神殿内部に浸水する仕組みになっていたそうである。これは、ナイル(男)が土地(女)を犯して豊穣を産み出す、つまり人間の生殖、動物の繁殖、植物の繁茂を象徴するものであった。今更ながら古代の知恵の深さと建築技術の高さを思い知らされたのである。

さて今度のエジプト旅行では何とか機会を捉えツアーを抜け出し、ピラミッドの遠景を見ながらゴルフができたらどんなに素晴らしいだろうかと思っていた。旅も終りに近づきカイロに舞い戻った際にうまく機会を作ることができた。ギザのピラミッドを訪れたとき、ピラミッドのすぐ手前に、緑の絨毯を敷き詰めたようなゴルフコースを発見してびっくりした。
 周りの乾いた砂漠と萌えるような緑のコントラストが素晴らしかった。ところが、ホテルが予約してくれたのは郊外のリゾート地のゴルフ場だった。宿泊したのがラムセス・ヒルトンだったので、同系のヒルトン・ドリームランド・ゴルフクラブになったのである。事前の調査をして注文を付けて置けばよかった。そうすればピラミッドのすぐ近くでプレーできたのにと残念に思った。

                
 

クラブハウスに神殿の列柱のデザインを取り入れているのはいかにもエジプトらしい。ハウスの前にはプールがあって青い水を一杯に湛えている。人影が無いプールの周辺には、所在なげに畳まれたパラソルが巧まずしてパピルスの木のように林立している。平日のゴルフ場には我々以外客が見えない。キャディ・マスターが自ら出陣してくれることになった。2人乗りの電動カート2台に分乗して出発する。キャディのカートが先導役である。
 ティーグラウンドのティマークは一対の白いピラミッドだった。はるか前方には、ピラミッドではなくてリゾートマンション群が見えたのが残念である。空気が乾燥しているせいか、ボールが気持ちよく飛んでいく。周辺はすぐ土漠が迫っているが,  コース内は別天地のような緑で、フェアウェイの状態も悪くない。ホールとホールを隔てるのは、背の低い椰子の木と赤や黄や青の花木の茂みである。
 パー4のホールで家内が第3打目を直接カップインしてしまった。初体験のバーディに家内が奇声を上げて喜んでいる。次のホールに向っているとキャディ氏のカートが少し遅れて追ってきた。
いつの間に作ったのか枯れ枝と色とりどりの花で作ったフラワー・バスケットを持っており、それを恭しく家内に捧げるのである。バーディのお祝いだという。その心遣いと作業の手早さに感心するばかりであった。
 コースの半ばほどのホールにくると、池があって噴水が惜しみなく水を噴き上げている。その遥か向うにギザのピラミッドがやや霞みながら姿を見せている。ピラミッドの見える所でゴルフをするという願いがやっと叶った瞬間であった。わざとそうしているのであろうが、ティーグラウンドの周りには土漠そのものの乾いた土くれの塊がでこぼこと露頭してそれを石の列で囲ってある。心憎いデザインである。正にエジプトの自然をそのまま切り取ってきたようなティーグラウンドであった。
 ツアーのスケジュールでは考古学博物館の近くで中華料理の昼食が予定されていた。久し振りの中華料理だった。それでその時間が気になり何ホールかのプレーを打ち切って帰ることにした。
 我がキャデイ氏には相応のチップを渡したつもりだったが、彼はニヤッと笑って、「バーディ、スペシャルボーナス!」と催促するのである。先程のフラワーバスケットは彼の個人的営業の一環だったのである。仕方なく追加のチップを渡すと、彼は満面の笑みを残して去っていった。
 
 考古学博物館は見るものがあまりにも多すぎて目移りするばかりである。そして展示品の貴重さの割には雑然としていて、整理の悪い倉庫のような感じすらする。やはり圧巻は、盗掘を免れたツタンカーメンの黄金のマスクや棺、副葬品の数々であった。ツタンカーメンの黄金の玉座には妃が王に優しく手を触れている図が描かれていた。また第四王朝のラーホテブ王子とその妻であるネフェルトの彩色の坐像があった。いずれも、主人公たちの表情を生き生きと伝えてくる。もう一つの圧巻は、特別室に安置された11体のミイラだ。いずれも嘗てのファラオたちの亡骸である。例の新王朝のラムセス二世のミイラをしげしげと見る。半眼に閉じた目と鉤鼻、突き出した薄い唇とそして長い首が3,200年の永い眠りを続けている。肉体の形が時を超えて保たれていること自体は驚異というほかはないが、国中に残されているその巨像の勇姿とは似ても似つかない姿で干乾びた姿で横たわっている。その姿を見るのは生前の尊厳を損なうような気がしないでもない。
 ミイラは霊魂が神の手によって新しく再生されて現世に戻って来たときに元の肉体に宿れるように保存されたという。ラムセス二世の魂はその願いどおり元の身体に戻ってくることが叶わなかったようだが、今どこに宿っているのであろう。

 旅の終わりはナイル川のナイト・クルーズであった。船着場には「ファラオたちの門」と書かれた門がたち、アクエンアテンの立像が我々を古代の世界に迎えてくれた。宗教改革を行い、この国に太陽神の一神教を根付かせようとしたファラオである。
 古代の信仰によれば、太陽は夜の間に冥界を船で旅をして翌朝再生を果たし東の空からまた登ってくる。さしずめ我々も再生のため、この船で冥界を旅するということになのであろうか。観光客の目を楽しませるエキゾチックな踊りやショウが続く。最後の呼び物は、きらびやかに着飾った男が緞帳のように分厚い布地でできた傘状のものを片手で頭上を振り回しながら、自身もくるくると回転を繰り返す。その回転は次第に激しさを増して際限もなく続く。男の肌が汗で光りその表情が陶酔の頂点に達したと思う瞬間に、舞台は暗転してその姿は突然消えた。そのときこれは演者にとって単なるパフォーマンスというより、一種の修行ではないかという気がしたのである。


 イスラム教の一派に少数派であるフィズムがある。トルコのメヴレヴィー教団がその一つで、これと似た回転舞踊を行って陶酔状態の中で神との合一を果たすのである。トルコのコンヤ地方などでよく観ることができる。大会堂で大勢の教徒が三角帽子と独特のコスチュームを着けて踊るのであるが、観光の目玉として一般にも公開されている。この船上のダンスもスーフィーの一種ではないかと思った。
 
 エジプトは5,000年の過去から現代までの歴史の姿を余すことなく見せてくれる。エジプトでは古代の多神教の神々は現代では死滅したといわれ、そして数々の遺跡や出土品は貴重な観光の資源であり、海外からの客を集める生活の糧として利用するだけのように見える。しかしその外見はともかく、エジプト人の隠された内面はどうなっているのであろう。
 我が国では特に信心深い人でなくても、神社や仏閣の前で手を合わせる人々は多い。イギリス人の女性で古代エジプトの神々を信仰しその一生を古代の神々に捧げた人がいたそうだ。この女性はナイル中流域のアビドスで約30年前に亡くなったという。現代のエジプト人はアラーやキリストへの信仰のゆえに、古代の神々を全く心から消し去ってしまったであろうか? 
 そもそも多神教とはこの世の出来事が人智の及ばない驚異に満ち満ちていた頃、その自然現象や大自然のかたちに、超人間的な力を認めて崇拝したところから始まったのであろう。ところが、人間がだんだん賢くなって身の回りのことに何か説明がつくようになると、もはや古代の神々に対する畏敬の念は消えていくのは道理かもしれない。
 紀元後の世界からこのかた現代に至るまでエジプト人は古代とは一転して一神教のイスラム教やコプト教の信仰に帰依している。多神教の時代にはこの世を象徴するものの形象が豊かだった。
それが一神教の時代になると単純化され禁欲的で観念が勝ったものになるようである。それは人間にもっと根源的な疑問に対する答えが必要になったからであろうか?だからといって、多神教と一神教の優劣や功罪を云々するつもりでは毛頭ない。ただ人間の長い歴史の中で身の回りの現象に対し説明してきたことは果たしてすべてを説明し尽くしたものなのであろうか?一定の前提条件の下で成り立つ部分的な説明に過ぎないとしたら、それですべて分かったとするのは人間の傲慢といえないだろうか?

 遊覧船の船内のさんざめきを逃れデッキに出てみる。両岸に煌めく電光と競うように満天に星が輝いている。足下にはナイルが黒々と流れてその豊かな水量が体感できる。アフリカの内陸から滔々と流れ出るナイルの水が無数の命を育み、輝く5,000年の文明を生み出した。年間の降雨量は殆どゼロに等しいこの乾燥の地に、かつサハラ砂漠という殆ど死の世界と呼んでも過言でない地と隣合わせに、豊かで多彩な文明が花開いたのである。そしてまさにその乾きゆえに、かくも豊かに過去の形あるものが保存されてきた。
                  
 ここの人間はナイルを堰止めて洪水をコントロールすることには成功した。しかしこの国のすべてが圧倒的にナイルに依存していることには変わりはない。一方において、ここの人間が抱える問題は、ますます形を変え複雑化し重くなっているようにさえ見える。ナイルの水そのものは変わらない。ナイルの水に育まれてきた人間の心の形はかわってきた。これからは、果たしていつどのように変わって行くのだろうか、と問いかけているうちに人々のざわめきが高まり、ナイト・クルーズの終わりが来たことを知った。
 明朝になれば、新しいサイクルがまた始まるのだ。

 この旅からまだ16年しか経っていないのにエジプトはいわゆるアラブの春の現象で、ムバラク政権が瓦解した。モシリー大統領が選出されたが、軍部やイスラム原理主義組織ムスリム同胞団等との綱引きがあって安定化には多難な道のりが予想される。私たちの旅は、ここ当面では安定したエジプトへの最後の切符だったのかもしれない。(了)


ゴルフ紀行その14 モロッコーー「陽の沈む国」でのゴルフーー

2012-07-04 11:50:42 | エジプト / モロッコ

モロッコ-----「-陽の沈む国」でのゴルフ----

 八月下旬の午後の日を浴びて、カサブランカからラバトまでの道を車が疾走する。16年前の1996年(平成8年)だった。赤茶けて乾いた土の原を過ぎると、ユウカリの疎林が続いている。ユウカリは 豪州から輸入されこの地で育ったものと いう。続く樹林はミモザだ。アトラス山脈が南の壁となってサワラ砂漠の乾燥の侵入を防ぎ止めているとはいうものの、モロッコは基本的には乾燥地帯である。  ここでは土が乾いている。緑は自然に繁茂するというよりは、目立たないがやはりいろいろ気を使って育てているのではなかろうか。

 ラバトのハイヤット・リジェンシー・ホテルの庭園はこの土地としては贅を尽くしたものであろう。ホテルの裏側に規則正しい幾何学的な遊歩道が、はるか遠くまで続いている。その遊歩道に縁取られて、20メートル四方ほどの緑の芝生の絨毯が十枚ばかり縦に並んでいる。各々の絨毯には、ひとつおきに星型の噴水と一対の低い椰子の植木が配置されて、篝火用のポールがマチ針を刺したように並んでいる。
 隣地にはこんもりとしたユーカリの林と、行儀よく刈り込まれた糸杉の木立に囲まれて、星型のプールが青い水を湛えている。ここはこの土地のパラダイス(楽園)なのである。
 アラブの衣装を纏った長身の男たちが数人遊歩道を行く。黒いヘッドギアの頭巾と長衣の裾を夕風になびかせながら、早足に歩いている。只のそぞろ歩きではなく、商談の最中のようである。

 翌日は、ゴルフ・コースの予約を手配してあった。我がガイドのモハンマド氏が、水色のジュラバ(フードつきのガウン)にバブーシュ(スリッパ型の皮靴)という民族衣装を纏い颯爽と現れた。なかなかの男前でまだ活きのいい働き盛りの年齢だが、頭は禿げ上がっている。結局彼が旅程のすべてを付き合ってくれることになった。流暢な英語を話し、時々日本語も口から飛び出してくる。
 当地の名門ゴルフ場、ロイヤルゴルフ・ダル・エス・サラムは車で10分位走った森の中にあった。和訳すると「王立平安の館・ゴルフ場」とでもいうところであろうか。
 ところが、緑色のタイルを張った立派な門には何故か車止めの白いバーが降りていて、門番が入れてくれないのである。ガイド氏がなにか門番と交渉している。どうやら電話を借りて、クラブハウスと話しているらしい。そのうち、やっと門が開かれてクラブハウスの前までくることができた。だがその後もなかなか物事が進まない。
 そのうち白い作業衣の若い男がスクーターを運転して出てきて、一言二言叫ぶと門の方に走り去った。ガイド氏はこの時まで何を聞いても『ノープロブレム』と言を左右にしてなかなか事情を明らかにしなかったが、このときになって一切がはっきりした。
 つまり、その日は月曜日でゴルフ場は定休日だったのである。事前の予約とか確認とかいうことは、一切していないことは成り行きから明らかである。それが怠慢によるものなのか或いは当地はすべて行き当たりばったりのやりかたが通用するためなのかは、よく分からない。ガイド氏が適当に鼻薬を効かしたのかもしれないが、とにかく当直員らしいスクーターの男が貸しクラブなどを格納してあるらしいロッカー・ルームの鍵を取りに、近隣に住む担当者の自宅へ向ったという次第であった。

 クラブハウスの外観は白を基調とした、清潔だが何の変哲もない近代的な建物であった。用意したシューズを電動カートの陰で履き替えて、そのまま出発である。橙色のシャツのキャディがその白い カートに同乗しコースに向う。クラブには18ホールのコースが3つあり、我々はルージュ(紅)コースでプレイすることになった。スコア・カードはフランス語で表記されている。フランスの植民地だった頃に、この国の近代化が進められたというが、その約40年間の影響だろう。

 コースはよく手入れが行き届き、フェア・ウェイは平坦で広々としている。くねくねと曲がった幹が目立つ濃い緑の林が、各ホールをしっかりと隔てている。この日は休業日で、コース・メインテナンスの日なのであろう。フェア・ウェイのあちこちで散水弁が開かれて、まるで噴水の街道を行くかのようである。
 3ホール程プレイした後で、キャディが自分もプレイするのでベット(賭け)をしようと申し込んできた。3ホールで、こちらの実力を見極めたに違いない。彼のスイングはプロのように美しい。彼の言いなりのハンデキャップで始めては見たものの、これはしこたま剥ぎ取られてしまうのかなとちょっと心配になった。旅の前にモロッコの旅行案内を読んだ。悪徳私設ガイドの話や、騙されて金をまきあげられたり、法外に高いものを押し付けられたりした話がさんざん書かれていたからである。
 コースの中ほどにかなり広い池があった。水面には水草の葉が一面に浮いている。フェア・ウェイとの高低差が殆どない。水辺にはススキのような植物の群生が白い穂を頂いている。曲がりくねった枝々が涼しい蔭を落とし、遠景に二本の糸杉がぼんやり立っている。そして反対側の岸には、葉鶏頭の紅い花が一面に咲いている。白鷺が数羽水辺の餌をあさっていた。

 プレイを終えてクラブハウスの前に戻る。我がガイド氏があくびを噛殺したような顔で待っていた。前方のメンバー専用らしいコースを、西洋人のプレイヤーが手引きカートを引っ張って歩いていく姿が見えた。矢張り定休日とはいっても、ここは「なんでもあり」らしい。
 さて、問題のキャディとのベット(賭け)の精算だが、確か5-6ホールは負けている筈なのにもじもじしてはっきり言わない。そこでキャディフィーに休日手当て的なチップとベットの負け分を胸算用で加えて払うと、彼ははにかんだような表情で感謝の意を表すと立ち去って行った。私の心配は杞憂だったのである。内心、少し恥じるものがあった。

 モロッコへの旅でいきなり最も「それらしくない所」へ来てしまったようだ。ここはモロッコの中の西欧なのかもしれない。細かい旅程のことは現地のガイドに任せるほかなかったからである。でも人影のない自然の中でキャディと二人で黙々とプレイをする一種透明な時間も、おおらかでまんざら悪いものではないと思った。まさにクラブの名称の通り一刻の平安を楽しんだのである。
 
 モロッコでのゴルフと銘打って置きながら、モロッコらしくないゴルフ場のことを書いてしまった。モロッコの特色を書くために、ここで幣著の紀行・イスラムとヒンドゥーの国々を巡って、モロッコ編から若干抜粋した部分を記載してみたい。
 ゴルフ場のあるラバトはモロッコの北部にありで大西洋に面している。割合こじんまりした落ち着いた古都で、モロッコの現在の首都である。モロッコを舞台にした映画は、外人部隊のことを描いている「モロッコ」とか第二次大戦中の悲恋物語の「カサブランカ」がある。いずれも古典的名画とされているが、この土地と住む人々は主題ではなくて、単なる舞台装置に過ぎなかった。


 
 ラバトの町で心を惹かれたのはその絵画的な美しさだった。午後の海岸に立つ。大西洋がコバルト色に広がり、そして褐色に続く海岸の向こうに、隣街のサレの真っ白な市街が眩しく映えている。   ラバトの海岸はキャンバスにコバルトの絵の具をぶちまけ、手前には地の色の褐色が少し残り、上部に白の絵の具で一本太い線を引いた感じである。
 面白いことに、昼食に入った海岸のレストランがまさにこの海岸の風景のミニアチュアであった。まずインテリアは褐色で統一され、白いテーブルクロスに、コバルトブルーのクロスが45度ずらして各辺から三角巾が垂れ下がるように掛けてある。配膳のカウンターにもコバルトブルーのクロスが垂れ下がっている。


 
 サレの街とラバトを隔てるのは、ブーレグレグ川である。両川岸は地元の人たちの格好の水浴び場になっている。河口に近い場所なので水の色は海と同じコバルト色で、真っ赤に塗られた船体に白いブリッジを乗せた船が、ブイのついた長いロープを引きずっている。漁でもしているのだろうか。ここでは見るものすべてが絵画的である。
 それにしても川の名前のブーレグレグは、奇妙だが何となく口にしてみたい響きだ。その意味するところをガイド氏に聞いた。ベルベル語で川の流れる音からとった名前だと言われたような気がする。それが間違いないとするならば、心地よい安らぎを与えてくれる川音の擬音は、いわゆる1/f のゆらぎの振動数を持つ音である。そよ風や心臓の鼓動にも似た、宇宙の振動との同調を思わせる素敵な名前である。その言葉の意味について確認が取りたくて、旅の後に東京のモロッコ政府観光局に問い合わせてみた。しかし観光局は閉鎖されたという。モロッコ大使館に照会して見た。男の係官が出てきて、『分かりません』という。『ええ?』と訝ると『いや、本当に分からないのです』と、繰り返す。愛想のない応対であるが、どうやら本当に知らないのだろう。
 実はここにこの国の国柄が隠されている。北アフリカの北西部には、紀元前から先住民としてベルベル人と呼ばれる人たちが住んでいた。「ベルベル」とはもともとギリシャ語の「バルバロス」から来た言葉で、意味の分からぬ言語を話す野蛮人という意味だった。
 このベルベル人がどこから来たのかは定かではなく、言語系統としてはハム語族と分類する説もあったが、文字らしい文字を持たなかったために歴史的文献もなく、はっきりしないのである。この地に勃興したベルベル人の王朝は、有史以来何度となく外部から侵入してきた他民族の征服を受けて、比較的短い寿命の興亡を繰り返してきた。八世紀のアラブの侵入以降は、急速にイスラム化し言語もアラビア語を受け入れアラブ化したのである。
 勿論アラブとの混血も進んだ。現在も、ベルベルのアイデンテテイと固有の文化を墨守している人たちはいるが、山間部や砂漠地帯のオアシスに追い遣られている。現在モロッコ語といえば、それは アラビア語である。従ってブーレグレグとはどういう意味と聞いても、正しい答えが帰ってくるのは無理なのかもしれない。
 我々が「知床」という地名はどういう意味かと外国人に聞かれたら、それがアイヌの言葉の読み替えという想像はつく。その原義は「地の果て」ということだそうだが、よっぽど物知りでなければ説明できないのと同じなのかもしれない。

 ラバトからこの国最古の都フェズへ汽車の旅をした。モロッコを語るとしたら、欠かせないのはメディナであろう。メディナとは古い街区のことである。フェズの旧市街は生活空間であり、商工業街区でもある。フェズでは暑さを避けるために、摺鉢の底のような窪地に、折り重なるように密集している。その街を迷路のような通りが縫っている。
  
 フェズ駅のある新市街から旧市街へ入り、車を乗り捨てて歩くとすぐ王宮の前へ出る。アーチ状の正門は金色の扉で閉ざされている。門の彩色は、上品な灰色がかったブルーが基調で、フェズ・ブルーと呼ばれている。そして緑の線が輪郭を引き締めている。見事なその門に見とれて数えてみると、アーチの数は3つある。門の最上部は、さらに細かいアーチの集合で飾られているが、その数は9つと、その倍の18だった。

 モロッコでは随所でこのアーチを見かけるが、その数は3つか、5つである。フェズ駅は5つであった。ただの通用門とか補助的な側門のように1つの場合もある。2つ一対のアーチを見かけることは  皆無ではないが稀である。ピタゴラスの数秘論など古来伝えられている数の秘義によれば、1はすべてを包含し、2は陰陽のごとき対立を、3は2にもう1つが加わって調停、調和であり、5は手足の指の数で創造を意味する。9には定説がないが3掛ける3で、宗教的な悟りであるとする見方もあるようだ。アーチの数にこのような数の秘義を当てはめて考えるのもあながち見当はずれではないのではと思う。我々の身近で見られる仏塔の場合にも、三重塔や五重塔、また搭上の九輪に、同じ数の意味を当てはめることができる。人間の認識が文化の伝統の相違を超え、根源的な共通性を持つような気がして興味深い。

 ブー・ジュルード門の堂々とした3つのアーチを通して、旧市街フェズ・エル・バハリの雑踏とモスクの塔が望見される。コバルト色の空を背景に、ジェルード門のフェズ・ブルーのアラベスク 模様が美しい。フェズの顔と呼ばれている門である。

 

 メディナの中のスーク(市場街)は、ほの暗い無数の迷路が縦横に走っている。ガイドなしでは、たちまち迷って立ち往生してしまうだろう。狭い迷路を人間ばかりでなく時には羊の群れや、荷物を一杯に積んだロバなども罷り通る。

 路上にゴザを敷いて雑多な売り物を並べている。                                                                                                                                                                               店構えの食品店があった。間口が狭いその壁には、びっしりと商品が陳列されている。戸口の前には白い布でカヴァーされた笊が置かれ、商品が円錐状に積み上げられている。すべてが整然として  美しい。
 絨毯屋の内部には入り口からは想像もできない広壮なパティオがある。パティオを囲んで、三階建ての回廊が店内を見下ろしている。屈強な若者たちがそのパティオの床に、次から次へと見事な手捌きで絨毯を繰り広げていく。魔術にかかったようになり、とうとう小ぶりのベルベルの絨毯を一枚買ってしまった。後から冷静になって反省した。つい気圧されて大胆に値切ることができず、矢張り高い買い物をしてしまったようだ。

 スークには真鍮細工、木工細工などの手工業の街区があるが、その中の圧巻は皮なめし職人の地区であった。狭い階段を登って陽光に晒された屋上に出る。そこからフェズ川の川岸に向って、かなり広いテラスが続いている。テラスの床には数多くのコンクリートで固めた楕円形や長方形のピットが掘られ、そこに色とりどりの染料が湛えられている。そしてなめされた皮が、周壁一杯を覆うように吊るされている。皮なめしの強烈な匂いから解放されて、別天地のように静謐なメデルサ(神学校)に入る。大理石を敷き詰めたパティオには噴水があり、明るい空が眩しかった。
                
 メディナのところどころには、空に向って開かれた小広場がある。その一つの広場で、プラタナスの大木が心地よい日陰を作っていた。傍らのカフェで、ミント・テイーを楽しんでいると、子供達の歌声がした。誘われて歌声の方に近寄ると、通路の壁に窓枠もない大きな開口部があった。ここはメディナのメクテブ(初等学校)なのだろうか。内部は白壁に土間だけの空間で、粗末な木製のイスに腰掛けた10人あまりの子供たちがいた。若い女性が先生役なのであろう、子供達にコーランの一節を暗誦させている風であった。
                 
 フェズの後マラケッシュの町に行き、ここでベルベルの文化に触れた。これは割愛する。

 双六ゲームの賽の目が「振り出しに戻る」を出してしまったわけではないが、出発点のカサブランカに戻る。カサブランカという詩的な響きの名前を持つこの都市は、古い伝統の顔と貿易港としての  近代的な顔という2つの顔を持っている。しかし最も外来者の目を奪うのは、抜けるように青い空や大西洋と、白い街のコントラストである。
 昔話に『塩を挽き出す魔法の石臼が海の底に沈みいまだ廻り続けているので、海水が塩辛い』というのがあったが、ここでは、コバルトブルーの絵具を吐出す魔法のチューブを空と海のどこかに置き忘れてきたのではないかという冗談が出てきそうだ。
 
 街から太平洋に突き出した突端に、前国王ハッサン二世の建立したモスクが壮大な威容を見せており。その石畳の広場は八万人を収容できるという。モスク全体はベージュと緑のシンプルな彩色である。二重の屋根に守られた伽藍の前面中央には、高さ2百メートルというミナレット(尖塔)が屹立する。頂上の小塔は金色の三連珠を頂き、主塔の上端には緑色のアラベスク模様の帯を巻きつけたかたちである。上部には5つのアーチが、低部には3つのアーチが開口している。この地のモスクの典型なデザインである。
簡潔でつよい造形のセンスと、洗練された色彩感覚は、きっとこの地の風土が、乾燥と必死に戦う精神が生んだものに違いない。

 

 午後の日が、大西洋に落ちようとするとき、この街は昼間の輝きを失って淡い茜色の中に浸っていく。マグレブ(日の沈む場所)にはそこはかとない寂寥感が迫ってくる。
 これは、旅の終わりの旅愁であろうか?それともモスクに象徴されるイスラムの終末観の反映なのだろうか?
アラーを唯一の神と戴き、この世での勤めをまじめに果たせば、最終の日の審判で天国の至福へと導かれる。人々はそう信じて今日の勤めを終えて夜の休息につく。
夜の帳に吸い込まれ輪郭が薄れていく街々、その中であちこちのモスクのミナレットは、日の終わりの残光を集めて立ち続けていた。(了)