goo blog サービス終了のお知らせ 

池田昌之です。

このブログはあるゴルフ倶楽部の会報に連載したゴルフ紀行が始まりである。その後テーマも多岐にわたるものになった。

その7 香港でのゴルフ・寄港地での出会いと別れ

2012-06-07 11:51:14 | ゴルフ紀行 (風土と文化)

一その7 香港でのゴルフ・寄港地での出会いと別れ一

 まるでレースで縁取ったような島々が紺碧の海に点在して、眼下を通り過ぎて行く。白い航跡を曳く船の数がめっきり増えたと見る間に、飛行機は高度を下げて行った。林立するビルの間を縫うようようにして進む。まるで手を伸ばせば届きそうな人々や車の群れをかすめて 滑走路に滑り込む。
 空港ビルから街へ出る。一種独特な匂いが鼻孔を襲う。油と醤油と線香の香りが混ざった様な匂い、紛れもない中国人の街の匂いである。……ああとうとう帰つて来た。……突然中国(旧満州)で過ごした幼年時代の嘆覚の記憶が、懐かしい感情と共に蘇る。
 
 重なり合い犇めき合う極彩色の看板と文字の氾濫、 ビルの上層階の窓々から直角に突き出た物千竿にはためく万艦飾の洗濯物、街路にはみ出した屋台の食べ物屋。そして辺りの活気と喧騒はまるでぶんぶん音をたてて回転する坩堝の中のようだ。
 カー・フェリーの船着き場に近づくと、折り重なるように密集する船のマストの向こうに対岸の香港島の山肌を覆う石柱の群れに似た高層ビルが迫って来る。
 今から42年前の昭和45年に初めて香港に着任した時の、鮮明な記憶のひとこまである。

 香港と私の因縁は浅くない。この時の香港駐在は2年半だったが、13年後の昭和58年から2度目の駐在となり3年間呑港で暮らした。 その後も何回となく香港へは里帰りしている。
 香港でのゴルフの思い出は、約半世紀前と、34年前の2度にわたる駐在時と、最近の何度かの訪間の時の3層に跨がるのである。その舞台は概ねロイヤル・ホンコン・ゴルフ・クラブであつた。
 ロイヤル香港クラブは、半島の奥深く中国との国境に程近い粉嶺(ファンリン)に3つの18ホールがあったが、これとは別に香港島の南側の景勝地深水湾(デイープ・ウォーター・ベイ)にもこじんまりした9ホールのサイトがあった。
 
 記憶の中の一番古いシーン。それは何といっても昭和40年代のアジア・サーキット華やかなりし頃の、香港オープンの競技であった。
 当時は日本の有名プロも大挙してこの春先の香港オープンに参加していた。中堅プロのKがスタート・ホールでチョロをした時は、並み居る外国人観客の中で我がことの様に赤面してしまった。ところが第2打をスプーンでツ―オンして難無くパーを拾ったので、流石プロは違うものだと逆に感激してしまう。この時に観戦に赴いた職場の同僚のアップの写真が、日本のゴルフ雑誌の巻頭のグラビヤを飾った。本人が偶々帰国してそれを知らされて、休日の観戦ですと大慌てで弁明して廻った事件も今は懐かしい。

 香港のゴルフ場の景観は南中国の田舎の風情が色濃い。がしかし英国の植民地スタイルが各所に厳然と顔を出して来て中々興味深い。
 亜熱帯の気候で秋と冬と春はごく短く、大抵はうだるような暑さの中でのゴルフである。コースは良く整備されてはいるが、土壌は何故か赤茶けていて固い。樹々も樹皮が白く乾いていて、葉は細かいのである。

 オールド・コースの10番は正面の小高い丘を越えて行く。初心者には難所のホールで、最初の頃は よくこのごつごつした岩と固い雑草だらけの丘にボ―ルを打ち込んで苦労したものである。
 この丘の反対側には大きな半円形の墓が鎮座していて、初めての時は振り返って見てギヨッとさせられた。こういう墓はコースの他の場所にも幾つかあつたような気がする。正面の白いタイルに故人の写真が焼き付けて有ったりして、何となくこちらの不謹慎さを詰られている気がして落ち着かなかった。


 コースの中間地点には、いかにも中国風の緑の瓦に白い壁の茶屋が有り、暑さと渇きを一時でも凌ごうと、我々はいつも我先にとへたり込んだものである。当地では日本と違って、アウト・インが別々に分かれてはおらず18ホールを通してラウンドするレイアウトになっている。茶屋ではキャディに冷たいものを与える慣わしだ。彼らはちゃっかりとケーキなども注文して昼飯代を浮かせたりしている。キャディは中年から初老の男が多く、女性も居る。若いキヤデイはまず見たことがなかった。昔はチップをせがまれる煩わしさがあった。それに油断しているとバッグの中のニュー・ボールが忽然と消え失せるのに頭を悩ましたものだ。

 2度目の駐在の時にはすつかり事態は改善していた。A、 B、 Cの3ランクの格付けがなされていて料金が違う。つまり勤務評定が導入されていたのだ。上手いことを考えたものだ。キヤデイの中には、中国の流浪の民と言われる客家(ハッカ)の人も居る。女性は黒い布のひらひらの付いた帽子兼日傘を被っているのですぐ見分けがつく。広東語が余り通じないのも変だ。

 ニュー・コースとエデン・コースが交差する地点の茶屋の前は、コースの中にも拘わらず、半ば公道である。イギリス人の少女が馬上で通り過ぎる姿をよく見掛ける。コースの隣に乗馬クラブが有るのだ。我々のテイー・ショットの終わるのを目で確認して、ちょっと小首を傾げ会釈をして長い髪を扉かせながらギャロップで駆け抜けて行く。その姿は小公女である。

 クラブ・ハウスヘ帰つて来ると、そこはやはりまさしく英国のコロニーである。中国人や日本人の姿もないではない。欧米人就中イギリス人が断然多いのである。しかも結構家族連れが多い。クラブとはそもそも家族で楽しむ所であつて、プールや子供の遊び場の施設が完備しているのは当然なのだ。食堂の奥はラウンジであるが、これがいかにも英国風の重厚さだ。落ち着いた雰囲気である。クラブ・ハウスの上のロッジに泊まって、夜の退屈な時間をラウンジで過ごしたことがある。昼も暗いが、夜は夜でフロア・スタンドの明かりだけを灯している。灰かな光が辺りを浸す。季節によつては暖炉には本物の火がはじける。部屋の中程に白い丸柱があるが、その輪郭が白壁に溶け込む辺りに金縁の額の淡い水彩画が掛かっている。じじ―っと、耳の中で静けさが音を立てて鳴っている。

 紳士のみ(婦人は入室お断り)の部屋もある。プレイの後シャワーを浴びて、ラフなスタイルでビールに喉を鳴らしながら、男だけでオダを上げる空間なのだ。クラブ・ハウスの外にはポーチが有って、大きなパラソル付のテーブルが並んで居る。御丁寧にここにもメンズ・オンリーの一角が設けられている。イギリス人とは普段余程奥様に気兼ねをして生きている人たちなのかと、つい同情してしまうのである。

 永年の香港の生活でいろんな人々と一緒にゴルフをした。私は未だにロイヤル・ホンコンの個人メンバーである。何年かに一度は里帰りをしてプレイをしたいと思っていたが、最近は足が遠のいている。昔一緒にプレイをした人はもう誰も居ないのはなんとも寂しい。
 一時的に駐在をする外国人ばかりでなく、土地の人達の変化も割合激しいようである。

 2度の香港駐在のいずれの時も、香港島のヴイクトリア・ピークの中腹にある、素晴らしい見晴らしのフラット(日本でいうマンション)に住むという幸運に恵まれた。ヴェランダに出ると眼下にヴイクトリア湾の港と対岸の九龍半島が見える。港にはひつきりなしに大小様々な船の出入りがある。貨物船、軍艦、時には客船。艀やフェリーが往き交うさまもまことに娠やかである。遥か右手には空港が霞んでいる。飛行機の発着も間を置くことがない。湾に向かってこういう往来を眺めていると飽きることがない。その海の色彩の変化が又素晴らしい。早朝の海は、白く滑るように流れ、 日が昇るにつれそれが深々とした紺碧色に変わる。そして日暮れ時には黄金色に輝くのだ。

 香港それは所詮一時の寄港地なのだろうか。もしかすると永年住み着いた土地の人々にとつても本当のところは寄港地かも知れない。 香港はまるで故郷のように私の心を惹き、そのくせちょっとつれなくて寂しい。ここでは人々は別れる為に出会うみたいだと思った。

 2度目の香港駐在の時だからもう半世紀前になるが、日本と韓国の双方の領事館の肝いりで両国の駐在員のゴルフ定期戦が始まった。日本の植民地支配の傷は深い。彼の国でも我が国でも何かとギクシャクすることが多いのに、香港という国際都市の開放的な雰囲気のなせるわざか、これがたいへん和やかな集いであった。
 ゴルフの後の懇親会では、あちらの人たちが古い懐かしい日本の唄を競って披露して呉れる。そんなにオープンにやって本国に聞こえでもして、問題になったりすることはないのだろうかと、はらはらする位いであった。残念なことに、我が方には韓国語で歌える人は居ない。 その次の機会には一所懸命に韓国の唄を覚えて行って歌ったものである。
 そこで仲良くなった韓国の人たちとは何回か一緒にプライベートのゴルフをやった。ある時誰かがYさんという人を連れて来た。韓国の  商社マンだがこのYさんが帰国するというので、送別の宴を持った。飲む程にYさんのメートルは上がって、段々と感情が激してついには 鳴咽が漏れる始末となる。だがYさんはすぐに冷静さを取り戻した。
 『私はだらしない男なのです…』
 Yさんは故国に妻や子供を残した単身の駐在であった。ただならぬ仲になった或る中国人の女性がいたが、彼の前から突然姿を消したと言う。その女性との馴れ初めは不明だが、その10数年前に中国本土からの逃避行中に銃弾で打たれたことがあり、左足が不自由だったと言う。
 その話を聞いて最初の香港駐在時代の昭和45年頃の香港に思いを馳せた。
・……あの頃の香港は文革で揺れた中国本土のあおりが未だ若干残っていて、香港政庁舎に爆弾が仕掛けられたりしたこともあった。その当時の香港の観光の必見コースと言えば、中国本土との国境が望める落馬州(ロク・マー・チヤウ)の小高い丘であった。その丘からは  眼下に何の変哲もない水田が拡がりその中を一筋の小川がうねりながら流れて、1隻の巡視船がちょっとした緊張を孕みながらゆっくりと滑って行くのであった。…・……
 

 その夜更け、車でYさんを送る。喧騒も静まった街々の暗がりの中に、突然Yさんの彼女の顔が白く浮かんで消えて行く。……・
 『私は大文夫。もう充分貴方は私を助けて呉れたわ。早く家族の所へ帰ってあげて。』……と、その顔はYさんに向かって別れを告げているように見えた。(了)