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池田昌之です。

このブログはあるゴルフ倶楽部の会報に連載したゴルフ紀行が始まりである。その後テーマも多岐にわたるものになった。

ニュージーランドでのゴルフ(その2)

2013-08-11 12:37:26 | ニュージーランド / ハワイ

 一九九五年(平成七年)の三月末から四月にかけてニュージーランドに旅をした。このときのことは前回(ニュージーランドでのゴルフ・その1)に書いた。(2012-06-21 投稿)この投稿はその時に書き漏らしたことの補足と続編である。

 十人余の団体旅行であつた。早春の東京から初秋のオークランドへ、つまり北半球から南半球へ赤道を跨いで一飛びしたのである。時差は三時間しかないのでその点では大して応えることはないが、それより夜行便で機内ではあまり眠れないのでちょっと辛い旅だった。何故か南半球への便は目的地へは朝に到着する。オークランドは緯度的には福島県と茨城県の県境に近い位置である。従って気温の変化は殆ど感じられない。しかし季節には秋の気配が漂い紛う方もないのだ。春や夏を飛ばして一気に秋を迎えたわけで、突然去っていった季節を惜しむような一種不思議な喪失感が、まずこの旅の心となったことは前回も書いた。

 市内に入る手前でエデン山に立ち寄る。標高は一九六米の死火山だがオークランド市内と港が一望の下に見渡せる。ここはもともと先住民族のマオリの城塞(パと呼ぶ)だったところである。旧火口の部分が緑色の漏斗の形で陥没し自然の造形をそのまま残している。ダウンタウンの東にドメインと呼ばれる広大な公園がある。そこにオークランド博物館が建っている。ギリシャのパルテノン神殿のようなゴシック式の建築である。玄関のホールに入ると力強い絶妙なハーモニーが聞こえてきて、あたりの空間を浸していった。マオリの民族衣装を着た男女の歌と踊りの歓迎だった。ポリネシアの伝統的な合唱にはもともと宗教的な儀式の背景があるようだ。シャーマニズムの呪術のように人の心に迫ってくる。彩色した萱の腰蓑で踊る姿や優美にたゆたう身体の動きはハワイのフラダンスと共通するものがあった。男たちは上半身裸であるが、女性たちはバンダナで髪を飾り、祖先が身体に彫った伝統的な刺青模様の上衣で胸を覆っている。何故か両胸にポイという白い大きなボンボリを吊るしている。昔はふくよかな乳房を露わにして踊ったことの名残なのであろうか。

 マオリの祖先は同じポリネシアのタヒチのソシエテ群島から八世紀頃に移住してきたといわれており、それぞれ酋長を頂く部族が各地に割拠して抗争を繰り返していた。そして遂にハワイのように一つの王国として統一を実現することはなかった。そのうえ捕鯨船や商人や宣教師たちを先駆とした西欧人の流入によって、父祖伝来の大切な土地を蝕まれていったのである。 

 博物館には全長二十五米に及ぶ巨大な朱塗りの戦闘用カヌーが展示されていて、部族間の争いの時代を象徴していた。巨大な駝鳥であるモアの骨格や保護鳥のキーウィの剥製がいる。モアは食用になるので。乱獲されてもうとっくに絶減してしまった。キーウィは深い森林に隠れて細々と生存している。高い壁面に飾られて彼らを見下ろしているのは、大きな白い木製の仮面である。その表情は眼を半眼に閉じて哀しげであり、まるで民族の未来を予知していたかのようである。

 オークランドのダウンタウンはこぢんまりしているが、坂の多い落ち着いた街だった。人口は約百万人でこの国最大の都市だ。港や湾に林立する夥しいヨットのマストが印象的である。派手さのない目抜き通りのクーインズ・ストリートやパーネル・ヴィレッジには、この地に入植してきたイギリス人たちの質実な生活様式が如実に現れていた。

 ロトルア湖を訪れたあと、次なる宿泊地のクイーンズタウンへ飛ぶ。南島のワカティプ湖の北の畔にある、まるで「玩具の国」のような町である。夕刻の到着だった。ケーブルカーでボブズ・ヒルの中腹に登った。そして眺望の良いスカイライン・シャレーというレストランで夕食をとることになった。湖を取り囲む壁のような山々に夕日が映えている。日陰になって夕闇が迫っている湖面に視線を走らせたそのとき、突然デジャヴーが襲ってきて我が眼を疑った。向こう岸からしゃもじの形の半島が張り出していて、そこにはゴルフ場らしきものが見えるではないか。またロトルアでの夜のときのように夢を見ているのであろうか。しかしたちまちにして、あたりは幻のように闇に包まれていってしまった。 

 翌日の朝早く ミニバスでミルフオード・サウンドのフィヨルド(氷河が刻んだ峡湾)へ向けて出発した。この辺は緯度が北海道の宗谷岬に近い。典型的な氷河の地形である。山々は雪を頂き、平地でも所々に万年雪の層が残っていたりする。

 クイーンズタウンからミルフォード・サウンド迄は、地形の関係で大きく迂回をしなければならない。矩形の短い一辺の両端が出発地点と終着地点とすると、この迂回路は西南に延びた矩形の三辺をコの字型に辿っていくのだ。目的地のフィヨルドに着くまでの片道の所要時間は、約五時間半に及ぶ長旅になる。昼食場所のテ・アナウから北上するその最後の一辺の道程は、夢のような天然の景勝地だった。行く手の左側に細長い湖が続き、背景に長い帯を横にして立てたような山脈が続いている。その湖面と山壁の間を、白くて長い雲が襷の形で伸びているのである。その昔マオリたちがタヒチから新天地を求めて大航海をしてきた。ニュージーランドを発見した際に「アオテアロア」(「白い長い雲のたなびく地」)と名付けたといわれる。そうしてみると、これはそもそもニュージーランドの原風景だったのであろうか。途中、ミラー湖という名所で湖畔に降りてみた。鏡のような湖面で有名だという。               

 冷え冷えとした原生林の下生えを掻き分けて湖面に近づいてみる。そして暗がりから湖面を覗き込んだ。ところが湖面に写る樹々と湖面に覆い被さる樹々とが、重なり合ってどうしても見分けがつかない。いくら眼を凝らしてみても、どちらが水に映った樹々の影でどちらが本物の樹々かが、もどかしい位に見分けが付かないのであった。実在するものと、実在の影が渾然一体となってしまっていたのである。

 そもそも実在するとはどういうことであろうか。最近の量子論の影響を受けた認識論はいう。観測する行為に関係なく、それに影響されないで不易かつ独立の実体なるものは、そもそも存在しないなどというのである。観測という行為が対象の位置に変化を与えるのだからという素人にはちょっと理解し難い議論である。ミラー湖で見た光景は、これとは直接繋がらないことではあるが、新しい認識論を連想させるかのように、自然が仕組んだ手の込んだ悪戯のようにも思えたのである。

 ホーマー・トンネルに入る前に長い道中で最後の休憩をとった。遠方に雪を頂いたモンブランのような山容の嶺が見える。路端の万年雪の層に近寄って手にとって見る。マオリ族のような褐色の肌をした日本人のガイドの女性が、引詰めにした長い髪に手を遣りながら、さり気なく提案をしてきた。          

 「お帰りは、また今まで来たコースを戻るのですが、セスナ機でお帰りになる方法もございます。それですと約三十分でクイーンズタウンヘお戻りになれます。」と言うのである。このガイドはゆったりとしたちょっと浮世離れした古風な語り口の人だった。その提案の口調に何か不思議な魔力でもあったのか、全員がシーンとしてしまった。しばらくの間賛成とも反対とも声を出す人は居なかった。セスナ機に乗る場合には事前の予約が必要であって今がそのタイムリミットだというのである。確か数年前だったが日本人の新婚旅行の客がフィヨルドの遊覧飛行中に墜死したのはここではなかったかと思う。リスクは怖い。しかし時間が大幅に節約できる魅力もある。また五時間半もかけてバスに揺られて帰るのはうんざりする。皆内心でその選択に悩んでいる様子は明らかであった。結局団長の立場の私から、「希望者だけがセスナ機に乗ることにしましょう。それが嫌な人は予定通りバスで帰ればよい。」と提案したのである。ところがそれで踏切がついたのかバスを希望する者は誰一人居なかったのである。

そうと決まると誰彼ともなく、「日程が空いた時間で、クイーンズタウンのゴルフ場でハーフラウンドはゴルフができるぞ。」という華やいだ声をあげた。

湾内を遊覧船で巡りながらイルカと競争したり、アザラシの昼寝を見たり、目前に迫る丸の内ビルの二倍の高さという滝の壮観を楽しんだりした後、結局我々は二機のセスナに分乗したのだ。いよいよ岩山の嶺々の上を飛ぶことになったのである。

私は一番機の副操縦席に座った。機はフィヨルドを眼下に一瞥してから反転して、上昇気流に吹き上げられて機体を震わせながら高度を上げていく。尖った岩の頂上が当機を見下ろしながら真正面に迫ってくる。それなのに当機の高度はなかなか上がらないのである。「このままだとあの嶺に衝突する」とすんでのことで叫びそうになる。しかしその瞬間操縦士は機首を翻して、その嶺の横をすり抜けていく。

操縦士がしきりにエンジンに油圧を送るチョークのようなノブに手を掛けるのも気になってしようがない。私は操縦士に断ってから副操縦席の操縦桿を握ってみた。利かないように設定してあるから大丈夫だという。エンジンの振動が直に伝わってきた。そうこうするうちに、機上の環境にも慣れてきた。周囲を見回してみると、一同は一所懸命に手近にある把手にしがみ付いて手に汗を握っている様子である。厳粛な表情ばかりなのである。考えてみるに、もしも万一飛行機が墜落した場合には、何にしがみ付いていても結果は同じだなと思うと、急に何か馬鹿らしくなって気が楽になってくる。それならばこれは千載一遇の機会ということになる。私一人だけは両手を自由にしてカメラをあちこちに向けて写真を撮りまくった。

機上から見るあたりの嶺々の風景には清冽で凛とした気品が感じられた。冷気を孕んだ、青と黒の微妙に沈んだ色調が心を寄せ付けない非情さである。「あそこに人間の肉体が叩きつけられたとしてもブルンとも震えないだろうな」などとあらぬ空想を巡らしてしまう。ふと斜め後ろで何かが崩れ落ちていくような感覚が襲って来てその方向に目を遣る。切り立つような嶺の近くに藍色の淵があって満々と水を湛えている。そこから真っ白な一筋の滝が、長い生き物のように奈落の底へ落ちていくのが見えた。ロトルアで見た、あの夢の景色とそっくりだ。

前方の嶺と嶺の間から、ジェット気流のように一団の白い雲が突進してきた。信じられないようなスピードで迫ってきて背後へと流れていく。その瞬閲にセスナは大きく煽られて空が回ったのである。一瞬今は夢なのかそれとも現実なのかその区別がつかなくなった。

 翌日はゆっくり起きて午前中クイーンズタウンの町でショッピングをする予定だった。ところが皆の希望が強く、早起きをして出発前に残りのハーフランドをプレーすることになったのだ。朝霧の中から少しの間だけ明るい陽光が顔を出して、爽やかな日の始まりの歌を唄った。

 クイーンズタウンを離れて機上の人となる。私はオーストラリアのシドニーで開かれる会議に出席するべく一足先にニュージーランドを発ったのである。ほかの人たちは会議自体には出席しないが、会議の後に催されるコンベンションに参加するのだ。その会議の間を利用してクライストチャーチへ立ち寄ることになっていた。 

 機上から大きな川が見える。南島最大のクルーサー川に違いない。日本の利根川と全く同じ、三百二十二キロの長さだといわれる。平旦な平野部を流れているせいであろうか、老人の縮れた髭のように細かい支流に分かれ、茶色の流域を一杯に広げている。旅の期間中つくづく感じたのはこの国の自然環境の保全に掛ける熱意であった。何しろ我が国の国土から北海道を除いた部分よりやや小さいという面積の土地に、三百七十万人の人間しか居ない国なのである (一九九六年現在)。そして生活水準の高い完全福祉国家といわれている。また南太平洋における超大国の原爆実験の被害をその領土の一部で実感した国として、徹底した反核政策を国是にしている。従って安全性の見地で原子力発電すら採用しておらず、地熱発電や水力発電を積極的に推進しているのである。

 我々は主としてニュージーランドの自然の魅力を味わえる地域を旅した。そこでは先住民族のマオリの生活や文化に触れる機会があった。この国にも先住民と後から押し寄せた西欧人の移民との争いの歴史が影を落としているのである。その最大の問題はマオリの部族社会が有していた土地の権利に関するものであった。マオリの酋長たちはフランスの露骨な植民地化侵略からの保護を求めてまた彼ら自身の部族間抗争に安定を齎すために、イギリス女王との間にワイタンギ条約を結びその保護下に入ることにしたのである(一八四〇年)。この条約はマオリの酋長達が所有する土地、森林、水産資源の権利をイギリス女王に委譲する代わりにその権利の保証を受けるということと、マオリに英国民としての特権を与えるというものであった。この結果この国はイギリスの植民地になったのである。

 ところがイギリスはこの国を植民地化してしまうと、この条約を無視してしまったのである。イギリスの統治は野蛮人しか住んでいない無主の土地を先取したことに基づく権利だというものであった。これが永年にわたるマオリの抵抗運動の原因となった。この問題はいまだに全面的な解決には至っておらず、現在も依然として尾を引いている。

 この国の人口の七十五%は北島に住んでいる。今や人口の一割になってしまった先住のマオリ族はやはり北島に多い。自然の中で伝統的な生活をしていた人たちが都市に移住するようになり、同時に混血も進んでアイデンティ喪失の問題が起きているのである。

 都市に移住したマオリには高度福祉社会に取り残された貧困やそれに伴う都市の悪弊の問題が生じている。マオリの作家であるアラン・ダフの代表作「ワンス・ウォリアーズ(嘗ては戦士たちだった)」がこの問題を取上げている。この作品は同じマオリ人の監督で映画化されてもいる。一九九四年にモントリオールの国際映画祭でグランプリをとった。ニュージーランドでは三人に一人は見たという注目作である。

 それはオークランドの郊外に住むマオリ族の一家の悲劇的な物語だ。妻は酋長の末裔という血統の誇りをいったんは捨て、元は奴隷出身の男と結婚し都会に出てきた。彼女は力自慢の男の魅力に惹かれて一族の反対を押し切って結婚したのだが、所詮マオリは都会の生活に適応できず、その日常生活はさっぱりうだつが上がらない。おまけに夫は仕事を首になって、一家は失業手当で暮らす始末となった。周囲の仲間たちも同様なその日暮しである。安酒場で酒を煽っては騒ぎときには喧嘩などで憂さを払っていた。夫は腕力自慢でお山の大将の羽振を示したくて、ともすれば仲間たちを自宅に呼んで大騒ぎをする。そして妻が思うようにならないと、暴力を振るった。そんなことでは到底家庭が治まるわけがなく、子供たちの一人が悪い仲間にそそのかされて盗みを働き少年院送りになる。嘗ての勇壮なマオリの戦士たちの末路はかくも惨めである。

 或る日の酒盛りの夜に夫婦の十三歳の心優しい娘が夫の呑み仲間の一人に犯され、首吊り自殺をする。妻は悲しみに打ちのめされて、屈辱に満ちた都会の生活と夫に決然と別れを告げて、子供たちを引き連れて故郷のマオリの田園生活に戻っていく。娘を犯した仲間を殴り殺した夫は、妻たちに向い「必ずやまた都会に戻ってくるくせに」と喚きたてるが、背後には警察の車のサイレンが迫ってくる。絶望して膝から崩れ落ちた夫の腕には三本の腕輪のような刺青があった。これはもしかするとマオリの神殿の切り妻を飾るテコテコの像の三本指なのか。とすると、彼にとって「生まれる、生きる、死ぬ」とはいったい何であったのだろうか。

 「キオラ」とは、マオリの挨拶言葉で「やあ、元気か?」である。近代化や文明化によって人々の物質生活は確かに向上する。しかし未開とはいえ伝統的な生活の中にはあった精神文化の価値までが失われていくのは淋しいことである。

 ポリネシアの人たちは古い昔から航海の達人であった。それは南海の生活環境に起因する。多くは珊瑚礁や岩だらけの島々であり強い風と降りしきる雨が支配する。それは決して「楽園」といえるような結構ずくめのものではなかった。つまり人口が増加するとともに常に新天地を求めて航海せざるを得なかったからであろう。ポリネシアの部族社会には相互の争いが絶えなかったようである。

 ニュージーランドのマオリの人たちの間でも、部族間の争いは絶えなかったようである。そこに白人たちが進出してくると自分らの争いの故に付け込まれ、父祖伝来の土地を簒奪されていく。そして進歩した文明や技術の前に、たちまち隷属的な地位に追い込まれていく。今や圧倒的に優位な西欧文明が支配している。その中でポリネシアの先住民族は固有の文化を失い洋風化しつつある。いずれなす術もなく西欧文明に同化されるしかないのだろうか?

 去り行く機上から心中でマオリの人たちに「キオラ」と呼びかけてみた。それはせめての同情をこめた、力のない呟きにしかならなかった。           

  (了)                 

 

 

 

 

 


ハワイでのゴルフ(その3)

2013-08-10 17:47:02 | ニュージーランド / ハワイ

 

 西暦二千年(平成十二年)八月、友人仲間に誘われてハワイ島に逗留してゴルフを楽しむ旅に参加することになった。日頃親しくしている五組の夫婦が、ハワイ島の西岸にあるマウナラニ・リゾートに四日間滞在したのである。またも団体旅行であり予めセットされた日程で行動することになった。

 ハワイ島の中央に、四千米級のマウナケアとマウナロアの両峰が聳えている。東南には約千二百米の活火山キラウエアがある。そしてハワイ島はこの三山から流出した火山岩に覆われた島である。

 西岸のコナ空港に降りて海岸に面したクイーン・カフマヌ・ハイウェイを北上する。右手に雄大な裾野が広がっている。火山の溶岩が固まりごつごつした地肌を晒している。表面が風雨で浸食されその上に植物の種が着床して緑が覆うようになるには、相当の年月を要するのだそうである。潅木の疎らな緑と黒い溶岩の斑模様が、溶岩の流れた年代の差を物語っているのである。一方海岸に点在するリゾート地などには見事に緑の絨毯が敷き詰められてはいるが、それは火山の溶岩や珊瑚礁の上に客土をして、人工的に造成したものだという。我々が滞在したマウラナニ・リゾートもその例外ではなかった。つまり島全体には、総じて太古から引き続いてきた荒削りの自然が残されている。 

 我々は「マウナラニ」と、名門の「マウナケア」のゴルフコースで何回もゴルフを楽しんだ。それが今回の旅の主要目的だった。コースにはほかの場所のようにラフという中途半端なものはない。緑のビロードのように手入れの行き届いたフェアウェイを外すと、火山岩の黒いごつごつしたトラップに捕まってしまう。そうなるとペナルティを払って横へ出すしかない。おまけにバンカーという白い落とし穴も多い。美しい海越えのショートホールがどちらのコースでも名物になっている。各ホールではコバルト色の海を背景にして、明るい陽光の下で原色の色彩の競演が眼を楽しませてくれる。しかし、決して油断はできない、相変らず風との戦いには神経が休まらないのである。 

 滞在の三日目はゴルフの中休みで、ハワイ島をほぼ一周する観光に出かけた。ここは亜熱帯で、時は八月である。しかし海洋性の気候は絶え間ない風が暑熱を吹き飛ばしてくれるので、意外なほど厳しい暑さはない。しかしハワイの気候はそんなに単純ではない。ポリネシアに関してよく耳にする「常夏の楽園」という表現は、外の世界が抱くイメージが先行し過ぎたレッテルである。ハワイ島観光に出かける前にガイドから言われたのは、「ここでは一日のうちに四季を体験できる」ということであった。

 島の西岸の北部、カワイハエから十九号線を真東に向う。道路はかなり急な登り勾配となる。右手前方には、個人所有としては世界最大級といわれているパーカー牧場が展開する。この島の最高峰マウナケアの北西山麓になる。百二十万平方米の土地に約七万頭の家畜を放牧しているという。とはいっても、この辺まで来ると天候が一変し低い雨雲が垂れ込めてきて展望が利かない。この先に果たして牧場があるのかという感じである。車を降りてみると、肌寒い。上着と長袖の用意が見事に的中する。やがて峠を降りて、東の海岸を左手に見下ろしながら道路は進んでいく。あたりの景観は陽が当たり明るく乾いた西海岸とは様変わりである。雨や霧に煙ってはいるが、豊かな緑の生い茂る林が深い。右手の山側は雲に阻まれて見通しには限界があるが、起伏の激しい山襞の奥にある高みから突然水瀑が吐き出されて、滔々と流れ落ちて見る眼を驚かせる。やがて車はヒロの市街に差し掛かって目抜き通りらしい十字路を走り抜ける。このヒロの街はハワイ諸島ではホノルルに次いで第二の都市といわれているが、高層のビルは見当たらない。木造の建物が混在する薄暗く鄙びた家並みが、ひっそり静まり返って雨に濡れそぼっていた。そもそもヒロは別名「雨の町」と呼ばれて、降雨量の多いところだという。ここは日系や中国系の移民が多い。遠い出身地の昔の時代の甲羅を大切に守っているのか、それともただそれから抜け出せないでいるだけなのかという風情が感じられる。

 いったん南下してから南西に走る。キラウエア火山の火口に着いて早速展望台に登る。カルデラの広大な眺望の前に立った。噴火は数年に一度という頻度なのだという。目前には水蒸気を吹き上げている場所が幾つかあるだけである。キラエウア火山は地下のマグマを閉じ込めず、徐々に噴火する構造になっているので、突然の大噴火にはなり難いということらしい。でもなんとなく不気味だ。眼下に広がる火口原の規模とその容貌魁偉なるさまに見入ってしまう。大自然の営みの壮烈さと比べると人間の存在は如何に矮小かということを思い知らされているような気がして、しばらく呆然と無言で佇んだ。 

 火口原に近い周回道路に下りてみる。道路のアスファルト舗装の上を溶岩流が覆い隠したまま冷えて固まってしまった場所があった。踏んでみると何となく弾力が感じられる。比較的最近の噴火のときのものだという。

 島の南端の方向を目指して車を走らせる。海岸に近い密林の彼方に紅い火柱が間歇泉のように吹き上げているのが見えた。そのときから十年以上も遡る一九八九年(平成元年)の噴火によって、沿岸のカラパナ地区が二ヶ月のうちに溶岩流で全滅したというが、これがその場所であろうか。

 ハワイ・ベルトロード(十一号線)はヒロの南から西岸のコナまで島の南半分を周回している。その十一号線をひたすら走って、キャプテン・クック寄航の集落も、カイルア・コナの町なども殆ど素通りしたまま宿のマウナラニへ夕刻に戻った。

 立ち寄った場所といえばヒロの郊外の「手造りのクッキーの店」と「赤塚オーキッド園」のみやげ物売り場とコナの「コナ・コーヒーとマカデミアナッツの店」くらいだった。島を一周して明るいうちにホテルに戻るという使命を託されたガイドの差配にただ従うだけだったのと、はたまた旅の土産品を漁りたがる我々自身の悲しい習性のせいであろう。後日になって旅行案内などで調べてみると、島の北端のカメハメハ大王の生誕地や、そのヘイアウ(神殿)があるプーコハラ国立歴史公園など、また西欧社会が最初にポリネシアを発見した所縁の場所といえるキャプテン・クック記念碑、それと古代ハワイの社会生活が見られるプウホヌア歴史公園などは、訪れられることもなく見すごされたのである。

 旅の終わりはホノルルへの立寄りだった。二泊の滞在期間では実質丸一日しかなく、お決まりコースの観光しかできなかった。ダウンタウンを訪れる。前二回の訪問時には素通りに近かったカメカメハ大王の銅像を見る。十八世紀末にハワイ群島を統一した王様である。ポリネシア北端の一角に位置するハワイ群島は酋長たちの治める部族社会が割拠していて部族間の争いが絶えなかった。人々は島々に別れ、また同じ島の中でも厳しい海岸の岩礁に隔てられて対立した。島々に強風が吹き荒れると人々の闘争に拍車が掛かったのであろうか。一朝事あるときは、戦闘用のカヌーが荒波を縫いながら活躍した。

 ハワイ群島が統一されるのはキャプテン・クックが来航してから三十年後の一七九五年であったという。かつて勇猛を讃えられた大王の巨体が槍を片手にして、仁王立ちの姿勢でダウンタウンの一角にひっそりと立っていた。愛 の「アロハ」精神がハワイ人の心に根付くようになったのは、この統一王朝の平和が長く続いたからであろうか。 

 ところでポリネシアはハワイとニュージーランドとイースター島をそれぞれ三角形の頂点とする太平洋の広大な地域である。ポリネシアの住民は相互に数千キロを隔てた環境にありながら共通の人種的・文化的な特徴を共有するという。彼らは今日の通説では中国南東部を故郷とするモンゴロイドである。アウトリガーと呼ばれるフロートつきのカヌーや、後にカタマランと呼ばれる双胴船を操り、天空の星辰を読みながら信じられない遠洋航海をした。中国を四千年前に離れて、さらに三千二百年前にサモアやトンガを起点として幾波にも及ぶ移住を続けこの地域に展開したのである。そしてハワイの人たちはタヒチから移住してきたといわれている。(M・スティングル著、「古代南太平洋国家の謎」による)

 さて統一後のハワイには捕鯨船基地やサトウキビ農園のコロニーとして西欧人が盛んに進出してくるようになり、イギリスやフランスの支配を受けそうになったこともある。後にアメリカのキリスト教の宣教師による布教活動の結果として、ポリネシア系の住民がキリスト教へ改宗するようになった。そのうえ、アメリカ人を中心とする政府顧問らの影響力が増し、白人勢力を抑えられなくなっていく。やがてハワイ王朝の転覆を狙う勢力が生まれ、王朝の外堀が徐々に埋められていく。事態を憂慮したカラカウア国王は日本との関係強化を図る。一八八一年日本を訪問して皇室との縁組を画策するが成功には至らなかった。しかし十九世紀末にかけて日本からの移民の積極的な導入を進めた。

 やがてライフル銃の威嚇により約一世紀続いていた王制が打倒されて、共和制に移行する。そのうえ一八九八年の米西戦争の勃発を契機にアメリカの太平洋戦略の必要性が高まる。その結果アメリカ国内でハワイ王朝の尊重を唱えていた派が後退して、ハワイ併合派が優位となりとうとうハワイ共和国を合併する法案が成立したのである。その経緯を紐解いてみると、それはまさにハワイ王国とハワイ人伝統社会の強引な簒奪であった。時代は弱肉強食の帝国主義時代の最中にあった。ハワイばかりでなく世界のほかの場所でも、人々が生き残るために露骨に他の人々を侵す時代だった。 

 当時のハワイの人口では、白人の比率は二割に過ぎなかった。(うち七割はポルトガルからの移民だ。従って支配層は全体の七%弱のほんの一握りの人たちだった)ハワイ人は混血も含めて三割五分に達し、日系が二割強、中国系が二割弱だった。しかも共和制を成立させる舞台となった議会は少数の白人が独占していた。彼らは王制打倒の革命だと主張していたようだが、これはとても市民革命といえる代物ではなかった。(猿谷要著「ハワイ王朝最後の女王」による)。キリスト教の信仰をハワイ人が受け入れたというが、ハワイ人の心にはポリネシアの神々への信仰の基層が根強く残っていた。日本人の心の中には、いまだに神と仏への信仰が仲良く同居して残っているのと同様である。

 ハワイアン音楽の象徴のような「アロハ・オエ」はハワイ王朝の最後の王となる、女王リリウオカラーニが作詞し、共和派に幽閉されていた最中に作曲を完成したものだという。「アロハ」は愛や親切を表わす言葉で出会いや別れの際の挨拶である。やがて彼女は静かに運命を受け入れて失意のうちにその生涯を終えたのである。「アロハ・オエ」は彼女自身への挽歌であると同時に、ハワイとその人々への別れの歌となった。アロハのスピリットはその優しさの故に血を流すことを避けて、西欧人のライフルに眉を顰めて後ずさりをしたのである。

 カメハメハ大王像の北側にイオラニ宮殿があり、そのさらに先にリリウオカラーニ女王の住居であったワシントン・プレイスが木立に囲まれて佇んでいる。そこは現在知事公邸になっている。ここから西へ展開しているダウンタウンは夜間になると治安が悪く、観光客の一人歩きは出来ないといわれている。 文明化が齎した都市の悪徳が蔓延る場所なのである。カメハメハ大王もさぞかし眉を顰めて嘆いていることであろう。

 ハワイは欧風化が進んでいるといっても、決して古くからのハワイが消えたわけではない。しかし欧風文化が昂然と大手を振っているのは間違いない。ハワイ人の文化は観光客の呼び物とはなっている。しかしその伝統的なライフスタイルと心のありようは、物陰でひっそりと遠慮勝ちに生き永らえているように見える。キラウエア火山の溶岩流が舗装道路を覆い隠してしまった光景をふと思い出していた。優勢を誇っている西欧人の生活様式と価値観が先住民族の心を否応なしに消し去ることにならなければ良いがと、夕刻の眩しい陽差しの中で思った。

 折から強い突風があたりを襲ってきた。

(了)


ハワイでのゴルフ(その2)

2013-08-10 14:17:58 | ニュージーランド / ハワイ

 

 振り返ってみると、ハワイには仕事がらみで二回、余暇で一回、都合三回訪れている。オアフ島、マウイ島、カウアイ島、ハワイ島の四島に足を記してはいる。しかし実際に訪れたのはオアフ島では表玄関のホノルルだけであるし、ハワイ島は一応一周したものの、カウアイやマウイを含めて全体としてみればほんの一部しか見ていないのかしれない。前回、マウイ島でゴルフをしたことを書いた(2012-06-15 投稿)。今回はその続編であるが、内容としてはハワイの文化をポリネシャ地域の一環として捉えているのでより包括的な視点で見ていることになる。

 ハワイ諸島は緯度的にはフィリッピンのやや北にあたり、亜熱帯の海洋性気候である。背の高い椰子の木立がハワイの特徴的風景だが、私の気持ちを捉えたのは風の姿だ。全三回のハワイ滞在中どこにいても常に風を感じていたような気がする。あるときは心地よい微風であるかと思えば、あるときは身体ごと持っていかれそうな暴力的な強風であったりする。同じ島内でも場所や時間によって風の様相がぜんぜん違うのだ。まさにハワイの風は滞在の間バックグラウンド・ミュージックの通奏低音のように常に私の心の中で鳴り響いていた。前回のマウイ島でのゴルフの話は、この風の激しさに基調を置いたものであった。  

 一九九四年(平成六年)十二月、私が勤務する会社がホノルル・マラソンの協賛各社の一翼を担うことになった。その関係で私は初めてその開催地のホノルルへ飛んだのだ。

 到着して早々マラソンコースを車で視察する。マラソンの出発地点はダウンタウンに程近いアラモアナ・ビーチ公園である。そこからワイキキのカピオラニ公園を通過して、標高二百三十米ぐらいの死火山、ダイヤモンド・ヘッドを横目にしてカハラの高級住宅地へと向かう。ダイヤモンド・ヘッド方向への登り坂は復路の難所でもある。カハラは復路でも通過する。住宅地に隣接して有名なワイアラエ・カントリークラブが見える。ハワイアン・オープントーナメントで、青木功が劇的な逆転優勝をした場所だ。往路はここから東進してハワイ・カイで折り返して、カピオラニ公園まで戻ってくる。変化に富んだ、美しい景観のマラソンコースである。途中で車が揺れるようなかなりの強風に晒された。マラソンランナーたちはかなり風に悩まされるだろうと心配になる。

 終着地のカピオラニ公園ではゴール地点の道路を跨ぐ展望櫓の設営が行われていた。海兵隊の隊員たちがボランティアー活動をしているのだ。お得意の陣地構築の要領で、手際よく櫓を組み立てていく。

 カピオラニ公園内の緑地には各種のテントが張られ、エントリーの手続きをする参加者たちで賑わっている。祭りの雰囲気のさんざめきがあたりに満ちている。このホノルル・マラソンへの参加者は年々増加して三万人を越え、そのうち日本人の数は二万二千人に達していた。広場の各所に野外パーティの会場が設営されていた。カーボ・パーティというユニークな前・前夜祭が開かれる場所だ。競技の参加者が炭水化物(カーボ)の栄養補給をするのだ。

 翌日はマラソン関連の種々なイベントが行われたのだが、適当に中座してホノルル市内の観光に出かける。日本人観光客向けのお決まりのコースだ。真珠湾の洋上の記念館のことは前回に書いた。 真珠湾攻撃の実録映画が上映されていた。抑制された調子のナレーションが淡々と当時の出来事を追っていく。圧倒的な破壊のシーンが二十分ほど続く。平和な海辺の環境の中で、その空間だけがとても非現実的なものに思えてくる。その映画は闘う個々人の表情が一向に見えてこないドラマであった。香港に駐在していた頃に「トラ・トラ・トラ」という日本映画を見たことがある。真珠湾攻撃のシーンが再現された場面で、信じられないことが起きた。こともあろうに香港の中国人観客が熱狂して大歓声をあげたのだ。奇妙なことに東洋人が西洋人を木っ端微塵にやつけるという図式に観客が反応したのであろう。それは白人種に対する黄色人種の歴史的なコンプレックスをぶち壊すようなカタルシス的心理だったのであろうか。

 しかしここ真珠湾では私はまったく別な思いに囚われた。圧倒的な破壊の凄まじさと生々しさは、恐怖に駆られた集団的な狂気の印象を容赦なく発散するものであった。魚雷攻撃の若い飛行士たちは勿論映像としては捉えられてはいなかったが、その飛行兵たちに憎しみの感情はあったであろうか?それよりもそこでは国家という人間の集団のぶつかり合いが生む、狂気じみた闘争への掛け声が支配していたに違いないと思えたのである。誰の心の中にも住む隠れた暴力への本能が、国家の集団の大義によって呼び覚まされるのだろうか?

 ホノルル市の北の外れにパンチ・ボウルと呼ばれる名所がある。標高百五十米の死火山だ。その外輪を越えると広い旧火口があってそこが国立の墓地になっている。その墓地は車でないと入園できない。しかも我々が許されるのは車内に留まって徐行するだけである。この場所は第一次、第二次大戦とヴェトナム戦争の太平洋における戦没者たちの墓所である。三万七千柱余りの墓標が整然と並んでいる。眠りを妨げない静謐さが人間たちのこの世での終わりを際立たせ、一つの厳粛な形で大きな額縁の中に納まっていた。 

 車は山道を登ってヌアヌ・パリに着く。オアフの脊梁山脈であるコオラウ山脈の峠だ。そこは名うての風の名所であった。駐車場からしばらく歩くとⅤ字状に切り立つ崖が左右に迫ってくる。見晴らし台に出る。コンクリートの手摺に立つと、島の北側の眺望が素晴らしい。眼下にゴルフ場やプランテーションや村落が展開し、その先に白く泡立つ海岸線が見える。そこは北から南へと風が抜ける狭い通り道になっている。まるで「天然のふいご」のようである。耳を聾するばかりの轟音と風圧の中で何かにしがみ付きたい気分になる。ガイドが前もって十分警告しているのに帽子を飛ばされる観光客が出てくる。あたりにはその悲鳴が響きわたっていた。

 宿舎のモアナ・サーフライダー・ホテルに戻った。夕食会までまだ時間があるので、夕べのひとときをバニヤン・テラスで過ごした。真珠湾やヌアヌ・パリとは別世界である。心地よい微風がそっと頬を撫ぜていく。

 翌日は早朝四時に起きてマラソンの出発地点に向う。このイベントは一万人を越す地元市民のボランティアーの献身的な運営に依って成り立っている。そのお蔭で毎年世界各地から、市民ランナーを吸い寄せる一大祭典となっている。そしてこのマラソン大会の基本精神と合言葉は、「アロハ・スピリット」つまり真心からの歓迎と人間愛なのである。

 我々は雲霞のようなランナーたちのスタートを見届けると、カピオラニ公園内の十キロ地点の標識まで戻ってきた。そこでは地元のボランティアーの人たちが、日本語で「頑張って、頑張って、大文夫!」と激励の掛け声を掛けていた。この大会の随所に心の触れ合いがあった。お互いに励まし合って走り、家族のように応援するのだ。最終のゴール地点では完走の悦びで涙を流すランナーたちの姿が見る人々の感動を呼んでいた。

 一九九五年(平成七年)十一月、再び仕事でハワイを訪れた。国際会議がカウアイ島で開かれた。その会議がスポンサーとなっていたゴルフトーナメントを引き続き観戦することになったのだ。それは四大ゴルフトーナメントの優勝者中の覇者を決める大会であり、夫婦同伴のイベントであった。 

 カウアイ島に入る前にホノルルで一泊して、前年のホノルル・マラソンの際にお世話になったC夫妻と会食をして、旧交を温めた。その夫人がマラソンの運営委員会の事務局長であった。彼らは中国系のハワイ人で、非常に気さくで親しみの持てる人たちである。何故か、是非自宅を見て欲しいというので、ちょっとの間立ち寄った。奥さんが家中案内して廻り、キッチンの大型冷蔵庫二台をご披露する。そして冷蔵庫の扉を大開きに開け放ち、如何に食料の買い置きが一杯詰まっているかを誇らしげに説明してその前で記念写真を撮るのだ。前年も全く同様な儀式に立ち合わせられたことを思い出した。

 旧満州や香港での経験を思い出す。商店の家族が食事をする際に態々埃っぽい店頭で食べ物を拡げるのだ。そして見せびらかしながら賑やかに食べていたのである。そのように日々の食事に不自由しないことをひけらかせるのはなんと幸せなことかという感慨を噛み締めているのだ。C夫人の場合も、中国人の血がそうさせるのであろう。移民当初の食うや食わずの苦しいマイノリティとしての生活の記憶は世代を超えて忘れ難い筈である。つまり「こんなにたくさん食料の蓄えがある」と他人に誇りたいというメンタリティなのだろうか。

 翌日カウアイ島に飛び、島の南端にあるポイプー湾のリゾートへ直行する。到着日夜リセプションが行われた。この年の四大トーナメントのチャンピオンたちの顔ぶれは、ペイヴィン、エルキントン、クレンショウ、デイリーであった。確か、各々全米プロ、全米オープン、マスターズ、全英オープンの順の優勝者たちだったと思う。デイリーはアルコール依存症という噂で、ドクターストップによりお酒の出る場所には出てこないという。残りの三人のプロたちは家族連れで現れた。ハワイの流儀で参加者全員がレイを掛けられて歓迎される。そしてフラダンサーズたちの踊りがパーティの雰囲気を盛り上げる。三人のプロたちは一人ずつ次々に呼び出されて、一緒にフラを踊らされたのである。彼らのファンに対するサービス精神は徹底していて、積極的に参加者を喜ばせたいと努力している姿が窺がわれた。それは翌朝の記者会見の席でも遺憾なく発揮された。 全米にテレビ放映される晴れがましい席なので、用意万端であったのだろう。インタビューに対する各プロのコメントは実に立派であった。なかには意地の悪い質問などもないではなかったが、ユーモアでさらりと交わす。彼らが常々一流の社会的存在としての自覚を持って自分を磨き上げていることがよく分かった。

 その日はプロ・アマの競技が行われたのだが、その運営方法にも感心した。十八ホールを四人のプロと一緒になんと六十人のアマチュアがプレーを行うのだ。所謂ショットガン方式の一種である。十八ホールのうち一番ホールと八番ホールの二箇所から十分毎にスタートする。アマチュアは五人が一組になって各ホールの第一打は全員が打ち、第二打以降は五人の中で一番良い打球を一つ選んでそこからまた全員が一斉に打っていくのである。プロは六人目としてアマチュアの一組に加わり六ホールその組と一緒にプレーした後に前の組に移っていく。アマチュアは各打毎に五人のベストショットを選択して、次打を打っていく。従って全体の進行が遅れることはない。アマチュアがプロと一緒にプレーできるのは、皆公平に六ホールずつである。

 我々はエルキントンと一緒にプレーをした。彼ははるか後ろのバックティから打つのであるがその打球は我々の頭上を越えてはるか遠い先に着地する。従って彼と一緒にプレーしているという感覚はあまりなかった。しかも同じ組の同伴プレーヤーたちは皆飛ばし屋で私はショートホール以外殆どチームに貢献する余地がなかった。

 一方ご夫人連中にはほかのコースでコンペが行われた。主催者側の役員が各組に入って世話をするうえに、トム・ワトソンが海越えのショートホールで待ちうけて個別指導をするサービスがあったそうだ。家内は幸運にもそのホールでワン・オンして、ワトソンから記念のボールを貰ってきた。以来ワトソンは彼女の一方的思い込みの「お友だち」ということになってしまった。 

 その夜の夕食会では主催者側の配慮でハワイの日系三世の人たちと同じテーブルに座った。当然のことであるが、彼らは血統こそ日本人の血が流れているものの、アメリカの風土で育ったアメリカ人なのである。感覚や関心の対象も極めてアメリカ的である。それに彼らからみれば、ハワイでは日本人の観光客が溢れているので物珍しさはさらさらない。最初のうちは多少外交的なやり取りはあったが、その後の会話がトンと続かないのだ。一方我々の方も相手が日系だと意識してしまうと、なんとなく普通のアメリカ人に対するのと違う相応しい話題がある筈だと逆に考え込んでしまう。かくして同じテーブルの中で自然に日系ハワイ人と日本人の二つのグループが分かれてしまうことになった。 

 翌日から二日間にわたって、愈々本番の四大チャンピオンの競技である。

 最初のホールで四人がティーオフする。印象的だったことといえば、一番飛距離の短いのがクレンショウで最も飛ばし屋がデイリーなのだが、その差がティーショットで七~八十ヤード位はあるのだ。ところが結果はデイリーがパーで、クレンショウがバーディだったりするのだ。飛ばし屋で利かん坊のようなデイリーには何故か熱狂的なファンが付いているようだった。上り坂のグリーンまで百七十五ヤード位の距離をピッチングで簡単に乗せてくると、ファンたちの喚声がしばらくは止まなかったほどである。

 我々夫婦は私の日本での仕事の関係で二日目の競技を見ずに帰国した。トーナメントの結果は後から聞いた。結局、二日間のトーナメントの勝者は、パッティングの名手であるクレンショウだったようである。

 カウアイ島を去るにあたり何となく未練が残った。三日間の滞在で、リュフェの空港からポイプー湾に直行してそこに籠りっきりだったからである。マウイ島滞在も同様だったが、あのときは最初から一部だけを下見する心算だったのでしようがなかったのだ。

 ゴルフが大好きの連中は到着の日に島の北端のプリンスヴィルのコースに遠征した。島内で一番の名門コースであり全米でもランキングの高いコースだからである。私と家内は手じかにあるという理由から、ポイプー最寄りのキアフナのコースでプレーすることにした。プリンスヴィルならば、往復に時間が掛かっても島の半周をドライブして島の様子を見ることができたのだと後になって悔やまれた。あるいはゴルフなど止めにしてあちこち見物して廻ることもできたのだ。そうしたら多少は予想外の発見があったかもしれない。このときまでは仕事上の必要でハワイを訪れたのであり、従って日程もお仕着せだったこともあった。要すればハワイは結構日本語が通ずる洒落た観光地で、日本の芸能人などがファッションのように休日を楽しむところだと多寡を括っていたことの咎めであった。その後いろいろ勉強する機会があって、もっと別な角度から見たり聞いたりしたいという興味が湧いてきた。もともとハワイという場所は西欧世界の視点に立った南海の楽園的なイメージが先行している。いうなればハワイのサニーサイドばかりではなく、一歩日陰の奥に入った目線で風土と人々を見たいと思うようになったのである。そう考えてみると、あまり行動の自由がなかったとはいうものの、もう少し違った時間の使い方があった筈だと後になって反省した次第である。

 帰国の際に、リュフェ空港で若い女性が我々を待ち受けてチェックインの手伝いをしてくれた。ポリネシア系の大柄な美人で、爽やかで愛らしい。彼女の態度には「アロハ」のホスピタリティが溢れていた。「カウアイ島に住んでいるのですか?」と尋ねると、「ビッグアイランドに住んでいます。今度のイベントのためにリクルートされて来ているのです」とニッコリと微笑んでくれた。そのビッグアイランドという言い方は初耳だったが、咄嗟にそれはハワイ島のことだと気がついた。ハワイ島がハワイ群島の中で一番大きな島だからだ。ハワイの八つの島は火山活動により生成されたものであるが、カウアイ島はそのうちで最初に生まれた島といわれている。その後に東南に向って次々と島が生まれ、群島の最南端にあるハワイ島が最後にできたのだ。そしてそのハワイ島の南部のキラウエア火山だけは現在も盛んに噴火活動をしている。 

 そんなわけで最古のカウアイ島はハワイの先住民族の古代の遺跡が多いところなのだ。                                          フラダンスは神々に捧げる宗教的な意味合いの行事だったという。本来は男だけが打楽器と掛け声に合わせて踊ったものだそうだ。ハワイの先住民族の信仰はもともと自然崇拝のアニミズムであり、神々と直接霊的に交流するシャーマニズムでもあった。そしてフラダンスは身体の啓発やスピリチュアルな成長を促すものであった。そのフラの聖地である神殿(ラカ・ヘイアウ)がこのカウアイ島に存在するそうだ。そこではアニミズムの伝統を反映し、自然の岩が聖なる祭壇になっているという。

 ポリネシア系の人々が信仰する四大男神の一つ、ロンゴ(ハワイではロノ神と呼ばれている)は農業や豊穣を司る神である。十一月に天空に現れるプレアデス星座(和名ではスバルである)の神である。このプレアデスはポリネシアでは最も大切な星座なのだ。毎年十一月に、ハワイのポリネシア系の人たちはロノ神が豊かな稔りを齎すのを祈念してお祭りをするという。ロノ神は何故か肌が白く、髭を生やしている。探検家のキャプテン・クックがハワイ島で、ハワイ人に襲われて死に至る負傷を受けた。その事件にはこのロノ神が関係しているという。白人が船で現れたのでいったんはこのロノ神の再来と信じて歓迎されたにも拘わらず、その夢を破ってしまったためという経緯があったそうである。キャプテン・クックの受難事件は歴史的な事実である。

 このロノ神の神話は古代メキシコの肌の白い神、ケッツアルコアトゥルや、古代ペルーのインカのピラコチャなどと類似している。どこからともなく現れて人間に知恵を授けてどこかヘと姿を消した神なのである。その故に異星人であったとも考える向きもある。 

 ハワイの神話では、最初にフラを踊ったのは火山の女神ペレの妹ラカだという。そしてそのラカは他ならぬ豊穣の神・ロノ神の妻なのである。従ってフラダンスの聖地はラカ・ヘイアウと呼ばれている。カウアイ島にワイルアという場所が東海岸の中央にあって、そのワイルア川の流域には多くの古い伝説や遺跡があるようだ。 

 原初的には男性の踊りであったフラは後に女性によっても行われるようになった。しかしその女性たちの踊りの装束は、まだハワイ王朝が命脈を保っていた十九世紀末期までは、上半身裸で腰蓑を着けただけだったという。それは豊穣つまり多産を齎す官能のエロスを暗示していて、しかもそれを大らかに歌い上げるものでもあった。腕や脚や腰の揺らめく動きと乳房のたゆたい自体が祈りのパントマイムであり、身体のチャクラ(経絡)にエネルギーの流れを促すものであったという。それだけにフラダンスを踊るためには男女を問わず厳しい資格審査を経なければならなかった。そのうえクムと呼ばれる神官に弟子入りして厳しい修練を積むことが要件だったのである。

 やがてハワイは白人たちの支配下に入っていくが、キリスト教の宣教師たちの倫理観と衝突してフラダンスはいったん禁止の憂き目に遭う。そしてそれが再び許されるにあたって、女性は西欧風のコスチュームを着用するという妥協が必要だったのである。

 さらに伝承の世界の話だが、現在のハワイの先住民族よりもっと昔に、ポリネシア最古の先住民族がいたという伝承が残っている。メネフネと呼ばれる黒人の小人族である。メネフネ或いはマナフナとは「秘密のチカラの一族」という意味だそうである。彼らが高度の技術や、一種のサイキック・パワーを持っていたからだとされるのである。そのうえ彼らはプレアデス星座からやってきた異星人だという説まである。これはムー大陸の伝説に繋がっている。このメネフネたちは或る時代に純血維持の必要に目覚めるに至り、突然その行く先も知らさずにカウアイ島の北端から姿を消したのだそうだ。カウアイ島にはこのメネフネが築造したといわれる養魚場の遺跡も現存している。(サージ・カヒリ・キング著、「ハワイアン・ヒーリング」による)

 これらの伝承はあくまで神話的なもので、勿論考古学的な検証の裏付けがあるわけではない。ただポリネシア各地にこの神話は伝えられている。ロノ神やケッツアルコアトゥルなどの神話と共通の構造が感じられる。そしてポリネシアの宇宙観やその哲学に含まれる人間観(特に人間の心の構造に関する考え方、つまり人間の心は顕在意識と潜在意識とハイヤーセルフといわれる宇宙的な魂があるとする)や、その考え方の基盤に立脚した人間の心と身体の癒しの技術には、未開時代の迷信だといって笑い飛ばすことのできないような、今日でも立派に通用する洞察を含むものと感じさせられる。

 ポリネシア・トライアングル(ハワイ群島・ニュージーランド・イースター島)の頂点の場所に位置するハワイには、古代からの歴史のロマンが潜んでいる。カウアイ島へいつかゆっくり再訪してみたいと今は思う。そしてハワイの伝統文化の中に分け入ってみたい。観光客用にアレンジされたフラではなく、TVの映像では見たことがある「カヒコ」という本物のフラも見てみたい。

 (了)


ゴルフ紀行ーその11 ニュー・ジーランドでのゴルフ・残された最後の楽園への幻視行ー

2012-06-21 18:49:25 | ニュージーランド / ハワイ

ーその11 ニュー・ジーランドでのゴルフ・残された最後の楽園への幻視行ー

 1995年の3月にニュー・ジーランドに旅をした。10人あまりの団体旅行であつた。

 早春の東京から初秋のオークランドに、つまり北半球から南半球へ、赤道を跨いでひとっ飛びしたのである。
気温の変化は殆どないというものの、春や夏をとばして秋を迎えてしまったせいか、季節が急に去って行くのを惜しむような、一種不思議な感覚がこの旅の心となった。

 最初の宿泊地オークランドから、バスで北島の中央に向かう。起伏に富んだ牧草地帯がえんえんと続く。白と黒の斑のホルスタイン種の乳牛の群れが、そこかしこで悠々と草を食んでいる。  
 街道は左右に旋回しながらどんどん低地へ向かつて吸い込まれるように下降している。緑の丘陵がゆったりと雄大に広がってうねる。その中を加工するうちに、不思議なことに段々平衡感覚  
が失われて行く。見上げているのか見下ろしているのか分からなくなる。
 遙か先の信じられないような高所にポプラの並木が整列していろ。その尖った頂きの線の更に向こうに、大地がせり上がって行って雲に隠れてしまう。
川が流れている。水際は深い草に覆われていて川原というものがない。緑の野原に深く刻まれたような川に、豊かな疾い水が、お互いを急かすかのように幾重もの縞を作りながら流れている。

 やがて山間の道に入つた。曲がりくねった街道の左右の路傍に、時々白い小さな十字架がいくつか現れては草窓の後方に消えて行く。ガイドの説明では交通事故の犠牲者の現場なのだと言う。
さして難所とも思われない道筋なのに、この十字架の群れは暫くの間現れては消えして、我々の眼を捉えて離さなかった。 
 
 バスは今度は小さな村落を駆け抜けて行く。浅黒い顔をした、がっしりした体格の青年が、独りで歩いて来る。
 『あれが、この地の先住民族マオリ族の人です』とガイドが言う。
 前日にオークランドのマオリ文化の博物館を訪れた。そこで見たもろもろの情景が蘇って来る。
 
 …………マオリの民族衣装の男女の踊り。彩色された腰蓑を纏い、男は上半身が裸で、女はバングナの髪飾りの姿である。恋の物語か?優美にたゆたう身体の動き、力強く絶妙なハーモニーの
合唱が観客の心をも溶かして辺りにこだまして行く。
 お次は、男達の戦士の出陣の踊り。日玉を剥いて舌をべろりと出すのが、敵を威嚇する男の勇壮さのあかしである。…………
 …………もう絶減した巨大な駝鳥のモアや、深い森林に隠れる保護鳥のキィーウィの剥製の数々。そして彼らを見下ろすのは大きな白い木製の仮面。眼を閉じて哀しげに民族の未来を予知する
かのようである。……………

 マオリ族の王様の末裔が住む館の前を通る。細い寄木で葺いた屋根や壁が特徴的だ。朱色に近い褐色に塗られた屋根の破風に、マオリの戦士の像が眼を大きく吊り上げて白い歯を剥き出して、
こっちを睨んでいる。胸の前に合わされた大きな左右の掌の指は、何故か3本ずつしかない。この3本の指の意味は、『生まれる、生きる、死ぬ、なのです」とガイドが教えて呉れた。
 何と簡潔で深い哲学であろう。この言葉はまるで天啓のように、私の耳の底でいつまでも鳴り続けた。

 やがて、我々はワイトモの鐘乳洞に着いた。この洞窟はブナや苔や羊歯の原生林に囲まれて、地上にポッカリ開口している。洞内を下って行くと、鍾乳石や石筍が電光に美しく映える。それは
途方もない悠久の時の流れの跡である。そしてすべての想念を奪って真空のような境地に誘い込む。暗い階段を更に地底に向かって降りて行く。やがて『大聖堂』に行き着く。
 入り口にほの暗い灯火が小さな鐘乳石の輪郭をぼんやり浮かび上がらせていると見ると、……そこには無数の透明な糸が、櫛の歯状に垂れ下がっているではないか。そしてその糸のあちこちに
数十本のねばねばした透明の糸を垂らし、餌となる昆虫を光り粒状の蛍光が灯つていて、夢幻的な雰囲気を醸し出していた。 ニユー・ジーランドにしか棲息していないと言う、ツチ・ボタル
(GlowWorm)だ。蚊に似た二枚羽の昆虫の幼虫である。巣の周りにs数十本の粘々した透明の糸を垂らし、餌となる昆虫を光で誘って待つのだ。この虫の寿命は約1lヵ月だ。その齢、数万年にも  
達する鐘乳石との取り合わせは皮肉だが、造化の神の深い思し召しなのであろうか。
 地底には川が流れ、船着き場が有った。我々の乗った船は、真っ暗間の中を張り巡らしたロープを頼りに滑って行く。綱を手繰るのは、マオリの男たちである。
 突然、何とも幽玄な寂光のドームが頭上に開けて来た。ツチ・ボタルの洞窟だ。数十万の小さな光りは、天上の奥深いところから靄のように淡く、しかし薄い雲の彼方の星の光のように確実に
届いて来る。と同時に、微かな、遠い木魂のような声が聞こえて来た。…………『生まれる。生きる。死ぬ』と、その声は言っているようだった。

 次に訪れたのはロトルアという湖である。ニユー・ジーランドは多くの湖に恵まれている。そして、湖のほとりには昔から人が住んだ。この国には温泉もたいへん豊富である。ロトルア湖の畔
にはマオリ族の村落があって、今なお伝統的な生活様式を守っている。温泉と言えば、近くに有った80米以上の白煙を吹き上げる間欧泉の方が観光の目玉であったのだが、それよりのはずれ
の共同温泉の方に目を惹かれた。70~80度の熱湯を地面に掘った水路で冷ましながら露天の凹所に導き入れている。その素朴で自然そのままを生かした知恵に心を打たれてしまう。夕方になると、
の人々が一日の汗を流しに三々五々集まって来るという。そこでは、 どんな会話が交わされるのだろう。

 ホテルの前にゴルフ・コースが有った。白い柵の向こうにフェア・ウェイがうねり、深い木立の蔭から白い湯気が盛んに立ち登つている。コースの中に温泉が湧いているのである。
(因みに、この国では自然保護の為に、温泉を商業目的に利用することは禁じられている。したがってこんな勿体ない風景が見られるのだ)
 飛び出して行って、ハーフ・ラウンドだけでもプレーしてみたいと思う。とても旅程の変更を提案する勇気はなかったが、未練が残った。そのせいか、その夜半に不思議な夢を見た。
……その宵は、マオリのハンギ料理とマオリの合唱と踊りの見物が呼びものだった。白人との混血のチヤーミングなマオリ娘に、手を引っ張られて舞台に登らされた。その誘い込むような鳶色の
目が美しかった。他の観客の何人かと共に、マオリの戦士の真似をさせられた。目を剥き舌をべろりと出す仕事を実演させられたが、それも夢の引き金だったのか。……


 

 …………目の前にマオリの戦士が剣を片手に目を剥いて舌を出して迫つて来る。彼のいいなずけを誘惑したと詰っているのだが、そのいいなずけとはあの混血の娘に違いない。壁に追い詰めら
れて身動きが出来なくなり、とうとう相手の剣が我が胸を貫く。ふと気がつくと、ベッドと壁の間の隙問に落ち込むようにして自分の身体が横たわっているのが見える。自分の意識が、自分の
身体から解き放たれて自由に高みに飛んで行くではないか。この讐えようもない透明な感じは一体何だろう。
 眼下に白い雲が流れる。緑の絨毯の上に白い米をいっぱい撤き散らしたように見えるのは、羊の群れだろうか。高い山々の間をすり抜けるように飛ぶ。岩肌が雪で薄化粧している頂きの辺りに
ぼっかりと藍色の水を湛えた湖があり、その高い淵の切れ目から、長い白い糸のような滝が低い峯々に向かって注いでいる。
 山々を越えて、広い大きな湖に出る。湖に しゃもじの先の形をした半島が突き出ていて、そこにはゴルフ場が半島いっぱいに展開しているのが見える。
『ああ、自分はあそこに行こうとしているのだ。でも、こんな意識だけの自分になって、何が出来ると言うのだろう』…………… 
 突然、暗転した闇の遠くに、誰かの叫び声らしい物音を聞いた。カーテンの隙問から前庭の常夜灯の光りが漏れて来ていて、我が身を照らしていた。自分はベッドと壁の間で身動きも出来ずに
汗まみれになっていたのだ。

 次の宿泊地は、南島のワカテイプ湖の畔のクインズ・タウンだった。ケーブル・カーで山の中腹に登り、眺望の良いレストランで夕食をとることになった。湖を取り囲む壁のような山々に夕日
が映える。日陰になって夕間が迫っている湖面に視線を走らせていた。その時、愕然として我が眼を疑った。向こう岸からしゃもじの形の半島が張り出していて、そこにはゴルフ場らしきところ
さえ見えるではないか。……… しかし、問もなく辺りは幻のように闇に包まれて行ったのである。

 翌日の早朝、 ミニ・バスでミルフォード・サウンドというフィヨルド(氷河が刻んだ峡湾)ヘ向けて出発した。途中夢のような天然の景勝地に立ち寄つて観光しながらであったが、 目的地の
フイヨルドに着くまで約5時間半の長旅であった。最後の中休みの場所で、マオリ族のような褐色の肌をした日本人ガイドの女性が、ひっつめにした長い髪に手を遣りながら、さり気なく提案を
して来た。『お帰りは、またもと来たコースを戻るのですが、セスナ機でお帰りになる方法もございます。それですと約30分でクインズ・タウンヘお戻りになれます』と言うのである。
 このガイドは、ゆったりとしたちょっと時代離れの古風な語り口の人だった。その提案の声に何か不思議な魔力でもあったのか、全員がシーンとしてしまって、賛成とも反対とも声を出す人は
いなかった。セスナ機に乗る場合には事前の予約が必要であって今がそのタイムリミットだというのである。確かその数年前だったが日本人の新婚旅行の客がフィヨルドの遊覧飛行中に墜死した
のはここではなかったかと思う。リスクは怖い。しかし時間が大幅に節約できる魅力もある。また五時間半もかけて、バスに揺られて帰るのはうんざりする。皆内心でその選択に悩んでいる様子
は明らかであった。結局団長の立場の私から、『希望者だけがセスナ機に乗ることにしましょう。それが嫌な人は予定通りバスで帰ればよい』と提案したのである。ところがそのひとことで踏切
がついたのかバスを希望する者は誰一人居なかったのである。湾内を遊覧船で巡りながら、イルカと競争したリアザラシの昼寝を見たり、九ビルの2倍の高さという滝の壮観を楽しんだりした後、
結局我々は2機のセスナに分乗して、帰ることになった。そうと決まると、誰彼ともなく、『これで、クインズ・タウンのゴルフ場でハーフ・ラウンド出来るぞ』と言う華やいだ声を上げた。
 私は 1番機の副操縦席に座った。機はフィヨルドを眼下に一瞥してから反転し、上昇気流に突き上げられて揺れながら登る。真正面に岩の頂きが機を見下ろしながら迫って来るのに、機の高度
は上がらない。この儘だとあの峯に衝突すると見る間に、機首を翻してその横をすり抜けて行く。私はもう夢と現実の区別がつかなくなった。
 何かが崩れ落ちて行くような感覚が襲って来る。その方向に目を遣ると、岩の峯近くの藍色の淵から白い一筋の滝が、今落ちて行く。峯と峯の間にジェット気流のように白い雲が流れた、その
瞬閲、煽られて空が回った。セスナは山々を抜けて、大きなワカティプ湖辺りに出た。クインズ・タウンの町も、湖に突き出た半島も、ゴルフ場も見える。私が夢で見た風景その儘である。
 やがて機体が滑るように滑走路に降りると、期せずして皆が盛大な拍手をした。

 月曜日の午後の陽がクインズ・タウン・カントリー・クラブに降り注ぎ、人影は疎らだ。プロ・ショップでクラブや靴を借り、帽子や手袋やボールなどをせかせかと買い整える。我々はまるで
少年のように興奮して、4台のカートに分乗してコースヘと乗り出した。

 1番ホールを終え、ブナの原生林の中の急な坂道を登り切ると、2番ホールのテイー・グラウンドである。ここからは、半島の根元へ向けてコースが展開して行くのが眺望出来る。
 碧い湖水が左右両側から切れ込む、その向こうに山々が壁のように連なっている。その山々は褐色の岩肌を薄い靄のような衣で包んでいる。千米の樹木限界線の下方には樹林が展開しているのが
見える。前景には、一本の針葉樹の大木がもっとくっきりと色濃い蔭を宿している。3番ホールヘ打ち下ろして行くと、平坦になった場所の右手にポプラの並木が美しい。
 折から、風が吹き出した。ポプラの葉が風にそよぎ、まるで無邪気な少女たちのようにお喋りをすると、幼年時代を過ごした旧満州の思い出のひとこまが蘇って来る。この後は、コースは半島の
反対側の湖岸を進む。殆ど総てのホールから、湖やまわりの山岳を望むことが出来る。我々は文字通り大自然の懐に抱かれながら、時間の過ぎるのを忘れていた。
 9番ホールに立った時は、既に急速に夕間が迫って来た。まわりの森が吐息のように吐き出す精気が、妖しく心を浸して来る。森の中から今にもあの混血のマオリの娘が飛び出して来そうな、
甘く不吉な予感が漂つて来る。
 ふと、ミルフォードヘの道中で見た、鏡の様なミラー湖の風景が眼に浮かんで来た。冷え冷えとした原生林の暗がりから覗き込んだ湖面に写る樹々と、湖面に覆い被さる樹々とが重なり合って
見分けがつかない。いくら眼を凝らして見ても、 もどかしい位 どうしても見分けがつかないのだった。実在するものと写つたものが、淳然一体となってしまっていたのだ。
 すると、現実の中の夢と、夢の中の現実も、時には分別がつかなくなるのだろうか。………

 遠景に立つクラブ・ハウスに、ほっと灯が灯った。(了)


 


ーその10 ハワイでのゴルフ・風が見たものー

2012-06-15 16:04:15 | ニュージーランド / ハワイ

ーその10 ハワイでのゴルフ・風が見たものー

 1994年の12月にハワイに4日間滞在した。その間殆んど毎日風が吹いていたような気がする。
 ホノルルがあるオアフ島とマウイ島を訪れたのであるが、不思議なことに同じ島内でも場所によって
風の強さがぜんぜん違うのである。
 極端な例かもしれないが、オアフ島のパリーという風の名所を訪れたときは物凄かった。空が吠える
ような猛烈な風圧の中で吹き飛ばされないように、何かに掴まりたい位であった。
 
 その後にすぐワイキキに降りてみたが、そこはまさに別天地であった。ホテルのポーチに腰かけてい
ると心地よいそよ風が頬を撫でていく。
 ハワイアン・バンドのトリオが、囁くように『真珠貝の歌』のメロディを爪弾いている。あの懐かしい、ゆ
ったりした波のうねりのように上昇と下降を繰り返す音階が、夕映えにそよぐヤシの葉影を漂っていく。
聴くほどに穏やかな陶酔の気分が身体中を浸してくる。

 ホノルル・マラソン競技の翌日、マウイ島へ向かう。
 風の中で機体を震わせているプロペラ機に滑り込む。セスナに毛が生えた程度の小型機である。座席
数は18席である。後部の登乗口に近い席に陣取る。近くの2列の席の背もたれに赤いカバーがしてある。
『英語の堪能でないものは座るべからず』と掲示してある。緊急時の配慮であろう。
 パイロット兼パーサーの男が早口の英語で話しかけてくる。若い日本人の女性の二人連れがキョトン
としていると、引っ張りだされて席を替えさせられてしまう。

 飛行機は間もなく、向かい風に煽られるようにして舞い上がった。ホノルル市街が白っぽい靄の中で
かすんでいる。ダイヤモンド・ヘッドの褐色の山肌が、眼下を横切って視界から消えていく。

 海面一杯に白い波頭が立っている。よく目を凝らしてみると、潜水艦の潜望鏡らしいものが何本か突
き出して航跡を引いている。真珠湾の艦隊の訓練なのであろうか。
 平和な日常の風景にはそぐわない。一瞬不意を突かれたような不安な気分が胸をよぎる。

 前々日に訪れた真珠湾上のアリゾナ記念館が目に浮かんでくる。
 
 ………約20分の真珠湾攻撃の再現フィルムを見たのち、艀で洋上の記念館に向かった。圧倒的な                                    破壊のシーンが、淡々としたナレーションと共に映し出される。それが瞼を離れないが、目の前の平和                                    な現実とはどうしても重ならない。
 戦争というものを、狩り出される側の個人の意識のレベルで捉えてみるなら、一体それは何だろう。
真珠湾攻撃の艦載機から魚雷を発射した若い飛行士の心中に、どの位の憎しみの感情があっただろう。
 日本側の宣戦布告は攻撃の前に相手に届く手筈だったが、タイピストが休日で不在のために遅れた。                                        米国の政府首脳は奇襲を予知していたが、日本海軍の実力を軽視して真珠湾の艦隊には知らせなかっ                                       たともいわれる。 
 こうして戦争は始まった。戦争とは一種暴力的な風に似た、狂気の応酬のようなものである。
 
 海底に沈んだままの戦艦アリゾナを跨ぐ形で白亜の記念館が建っている。それは時々空を引き裂く                                           ように鳴る風の中で、どっしりと海面に腰を据えている。心持肩を怒らした船の艦橋の姿である。
 いまだに船体の一部分から重油が漏れて海面に浮かびあがってくるという。もう半世紀以上前の重い                                          歴史的事実と現在を繋ぐ強い意志のようなものを感じさせる。
 記念館には艦と運命を共にした約1500名の戦士の名を刻んだドームがあった。日本の慰霊団が
捧げた花輪があった。それが枯れそうになって残されていて、虚しさを感じさせた。
 遙か東のホノルル市街の方に、美しい虹か出ていて息をのんだ。
 虹の橋は不幸な歴史を越えて、未来に向かって架けられているのだろうか。………

 

 飛行機はオアフ島の南のモロカイ島をかすめて東へ進んでいく。山肌には大昔に火山の溶岩が、                                              一斉に海に雪崩れ落ちた跡がそのまま残されている。その異様な景観の上を、風が吹く。飛行機は                                      あまり高度を下げもせず、マウイ島の北端の小さな空港に着陸する。
 滑走路を白い霧が流れる。それとも空港そのものが厚い雲に包まれたのか。風が霧を吹き流した                                             向こう一面に、パイナップルの畑がうねって続いている。そのまた向こうには視界一杯に海が広がって                                               いる。
 モロカイ島とラナイ島の雄大な姿が、その海と空の間を繋いで広がっていた。
 ホテルに手配しておいたリムジンの到着を待ちながら、茫然と景色に包まれて立つ。
 そぞろ歩きの通りすがりに、所在無げな金髪の女性と目が合う。黒いスパッツにすらりとした脚を包み、
何となく憂いを感じさせる表情だ。やるせない旅情がヒタヒタと心に溢れてくる。

 目指すカパルア・ベイのホテルはリムジンで約10分の距離だった。クリスマス・シーズンの端境期で、
ホテルは拍子抜けするくらい空いていた。客の姿もまばらである。
 ホテルの庭園は、白い波頭に噛まれた岬を抱き、風に煽られる椰子の樹林に縁どられている。、
 

 陽差しは紛れもなく午後であり、時が急ぎ始めている。昼食もそこそこにして歩いて数分の所に有る                                                    『ベイ・コース』に向かう。一応スタートの予約をしておいたが、当方はたった独りなので 日本人の夫婦                                     らしい一組と組み合わされることになった。
 スターターがそのことを告げると相手方の男性は一瞬当惑した表情を浮かべた。そして何か言おうと                                      したが、思い止まった様子だった。

 『Nと申します』とご主人らしい男性が日焼けした顔に微笑を浮かべて、折り目正しい挨拶をした。奥さん                                                                   らしい女性はカートの蔭に隠れるようにして目礼をしただけだ。人見知りをするタイプなのであろうか、でも                                    中々の美人である。

 『私の家内はまだ初心者なので、ご迷惑を掛けるかも知れませんが、宜しく』
 『いいえ、こちらも下手ですからどうぞお気軽に』という遣り取りがあって、我々の乗った2台のカートは走                                              り出した。

 1番ホールはやや登りのロング・ホールだ。猛烈な向かい風に煽られたのと、貸しクラブが重いせいか、                                                              ティ・ショットをダフってしまう。2打目も3打目も地を這うような当たりばかりで、だんだん焦ってくる。相手の                                    夫婦はと見れば、フェア・ウェイの逆のサイドでもっと苦労をしている様子である。奥さんの方が一向に前に                                 進まないのである。ご主人が辛抱強くそして丁寧に手を取るようにして教えている。まるで何か壊れやすい                                  ものを大切に扱っているような雰囲気が感じられるのであった。
 我々の次のもう一組の日本人の男女が、後方でじっと待っているのが見える。やっとの思いで1番ホール                                      を終えたところで、恐る恐る提案してみた。
 『後ろの組は二人のようですから、パスさせてしまいましょうか?』
 『 ………」
 『その後に外人の組が続いていたようですから、思い切ってこの儘行ってしまいましょう』
 奥さんの方を気遣いながらご主人が言う。言い方はソフトであったが、そこには決然とした意思が感じ                                                          られた。目を伏せている奥さんを突風が容赦無く襲う。乱れ髪を風に舞うに任せているその顔には、何故か                                      はっとするような凄惨な美しさがあった。

 フェア・ウェイのはずれに、コンドミニアムがひっそりと立ち並んでいる。
 凹地に舞い降りるような2番グリーンを終えて、3番のショート・ホールに向かう。正面に小さなチャベルの                                       塔の十字架が見えた。その背景は海である。右手にはホテルの建物が榔子の樹の間に見え隠れしている。                                        左手にはカナダ杉のお行儀のよい樹列が続く。美しいホールである。どうしたことか後続の組の人たちの                                                                         姿が全然見えない。途中でショート・カットして先に進んでしまったのかも知れない。私は初めて落ち着いた                                                            気分になって、辺りを見回す余裕を取り戻した。カメラを取り出してこの風景をフィルムに収めようとすると、                                              相手のご主人が『シヤッターを押しましょう』と近寄って来た。
 『記念にそちらの方も如何ですか』と言うと、                                                                                     『いや私達は以前ハワイに駐在していたので、たくさん撮っていますから』と固辞する。このご主人はいろいろ                                                             とこちらに対して気遣いを見せて呉れるのであるが、何となく一定の線から中には踏み込ませないというような                                                              感じがあって、お互いの身上のことを話題にするのは憚られた。

 

 次のホールは小さな岬の根本に差し掛かる。猛烈な横風を充分計算に入れて、ショート・アイアンをグリーン                                                                  右横のバンカーに向けて打ったのに、ボールはグリーンの遥か左へ流されていってしまった。処置なしという                                                             感じだ。
 次のショート・ホールが又難所である。目の前の崖が深く抉られて湾が口を開けており、泡立つ海の向こうに                                                  グリーンがある。スコア・カードを見ると154ヤードと書いてあるが、えらく遠く感ずる。
 こちらは一寸遅れてティ・グラウンドに到着したのであるが、それは、それこそあっと言う間の出来事だった。                                                  奥さんが真っ先に打った。シャンク気味の打球はあえなく海に消えて行った。遥か向こうのグリーンの近くに                                                赤いテイが見えるのに、何故今回に限ってわざわざ難しい白いティから打ったのだろう。びっくりしていると、                                                    奥さんがもう一度打ち直した。今度はダフってボールは眼前を転がつて消えた。彼女が憑かれたような表情で                                                  ボールをもう一つ取り出した。
 一瞬空気が凍り付くように張りつめた。あっと声を出す問もなく、 もうひと振りが空を切りボールは数メートル                                                  先に転がった。サイレント映画のひとこまのように物音がすべて消え失せて、何も聞こえない。突然、彼女が                                                       蒼白な顔をして、いきなリクラブでティ・グラウンドを叩くような構えをしたように見えたが、それよりほんの一瞬                                               早くご主人が動き、彼女の両肩を優しくしつかりと抱いた。                                                                                『君が打つ場所は、此処じゃなくてあっちだよ………』                    |
 この瞬間に轟音と共に一陣の突風が襲い、ご主人の帽子を吹き飛ばした。ご主人は笑い声の悲鳴をあげて                                                    帽子を追う。奥さんも一瞬遅れてその後を追い掛ける。帽子は運良く少し離れた濯木に引つ掛かって、二人が                                             折り重なるようにして取り押さえることが出来たのである。 二人は顔を見合わせて大笑いをする。こちらも救わ                                                   れた気分でこの笑いに唱和して、何かを吹き飛ばすように大声をあげた。

 『私は、実はハワイは初めてなのですよ。ホノルル・マラソンを見に来たのです』と私は当たり障りのない話題を                                                 投げ掛けた。

 ………『頑張って、頑張って、大丈夫!』ホノルル・マラソンの10キロ地点で、市民のボランテイアーの人たちが                                            日本語でランナーを励ます、あの掛け声が耳に蘇って来る。この『頑張って……』は、その時のご主人に対す                                               私の気持ちが呼び起こした運想だったのかも知れない。
 このマラソンの参加者は年々増えて3万人を越え、日本人の数は2万2千人に達するに至ったのである。この大                                          イベントは 1万人を越す地元のボランテイアーの献身的な運営に依って、毎年世界各地の市民ランナーを集める                                               祭典となっている。
 大会の基本の精神は「アロハ・スピリット」つまり真心からの歓迎と人間愛である。この大会の随所に、お互いに                                                励まし合って走ることと、それを支援することを通じて心の触れ合いが見られ、感動的であった。…………

 その後は無事にワン・ラウンドの残りを終えてクラブ・ハウスヘ戻る。夜のとばりが慌ただしく降りた。
 別れ際にご主人の見せた眼差しには、深い感謝の気持ちが込められているように見えたのは、私の独りよがり                                                       の思い違いだったのだろうか。

 シャワーを浴びさっばりして、夕食に行く。ホテルの中のレストランは休みなので、ベイ・クラブと言う場所まで、                                                     10分程林の中を歩く。海岸の戸外にオープンとなったレストランには、数組の老夫婦が静かに食事をしている。
 その内の一組が風を避けて私の近くに席を移して来た。食事の最中に何度となく皺だらけの腕で抱き合って、                                               キスをしては、愛を確かめ合っている。

 帰り道に林の切れ目から砂浜に出て見る。大きな立札が目に入る。
  『高波に注意!もし高波に襲われた場合は絶対に波に背を向けない事』と物騒なことが書いてある。
 踵を返して立ち去ろうとした時、一陣の黒い突風が首筋を襲った。恐怖のあまり、叫びそうになった。

 林を越すと、ホテルの窓の疎らな明かりが見えた。遠くから人の温もりを伝えて来て呉れた。
 私は暗い海に向かって振り返り、大きく腕と脚を拡げて、温かい風を身体一杯に受け止め、抱いた。                                    (了)