ー ゴルフ紀行15 エジプトでのゴルフー
2002年3月28日早朝のカイロ空港に到着した。今から10年前のことである。タラップを降りながら、エジプト航空の機体を見上げる。朝焼けの空の茜色が白い胴体に映えている。ナイル・ブルーの尾翼には、鷲の姿をしたホルス神のマークがついている。エジプト神話の空の神である。ナショナルフラッグの機体に、こういうロゴを使うところにエジプト人の自らのルーツに対する誇りを見るような気がした。
エジプト旅行は永年の夢だった。エジプトを見ることは人類の古代文明の跡を直接目の当たりにすることだと思っていたからだが、その夢をなかなか果たせないでいた。急に思い立って妻と一緒にある旅行会社のツアーに参加した。この時期はいわば端境期である。運が悪いと砂嵐に遭う。さりとて初夏を過ぎると暑熱が耐え難い。という訳で三月のエジプト旅行は観光客の姿が少ない。我々のツアーは砂嵐にも遭わず幸運というほかなかったが、それは旅の後に知ったことである。
空港からハイウェイでカイロの街を横断してギザのほうに向う。ナツメ椰子や月桂樹の並木が珍しい。月桂樹はまるで金盥を置いたような形に刈り込まれている。ラムセス中央駅の前を通る。 駅前広場にラムセス二世の巨大な像が立っている。古代エジプトの新王朝、第十九王朝のラムセス二世は王国の版図を大いに拡大した王である。この像は古代の本物だそうだ。この王は、王権の偉大さもさることながら、とても自己顕示欲が強いファラオだったようだ。エジプトの各地でその存在はたいへん目立っている。まるで3,300年もの年月を超えて王朝の威令を示そうとしているかのようだ。
エジプト人は7世紀にアラブに征服されてイスラム教に改宗した。言語もアラビア語を受け入れていわばアラブ化して今日に至った。従って、街にモスク(ガーミアと呼ばれている)が多いのは当然として、その割にはキリスト教の教会が目に付く。十字架を頂くドームや荘重な尖塔のそばを通る。エジプトにはアラブの支配下に入る前にグレコ・ローマン時代といわれる時期があった。マケドニアから興ったアレキサンダー大王によってエジプトが征服された時代である。このときに純粋な古代エジプトの時代は終焉する。それ以来キリスト教がエジプトのほぼ全土へと広がった。この時代はエジプト人の多くがキリスト教徒になった。キリスト教といっても、コプト教と呼ばれる原始キリスト教である。イエスを神の子としてではなく 神そのものとして崇める信仰である。従ってコプト教はキリスト教世界では異端視された。その後アラブの支配下になるとイスラム教に改宗する人々が増えイスラム教徒が多数派となったが、コプト教徒は現在もまだ人口の約一割弱を占めている。その比率はここ数百年間あまり変わっていないそうである。
エジプト人は現在アラビア語を話している。民族のアイデンテティは言語である。いったいエジプト語はどこに行ってしまったのであろう。エジプト語は日常の話し言葉としてはいわば死語であるが、何とこのコプト教の祈祷文の言葉として残っているという。
古代エジプトの多神教の信仰が一旦はキリストを唯一の神とするコプト教になったが、その祈りの言葉は祖先伝来のエジプト固有語を使っていたのだ。その後アラブに征服され、アラーを唯一の神とするイスラム教徒が多数となり日常の言葉はアラビア語になった。コプト教徒は少数派ながら残ったが、彼らも日常の言語はアラビア語という訳なのである。
一方イランの場合アラブの征服によってイスラム教を受け入れたが、言語は依然としてペルシャ語を守っているのと好対照である。この相違を生んだのはいったい何だったのか、ペルシャ語がアラビア語とは別系統のインド・ヨーロッパ語族であったのに対し、そもそもアラビア語のセム語族とエジプト語のハム語族が近似しているからなのだろうか。
ナイル川を渡ると間もなく突然何の前触れもなく、ピラミッドの四角錘の遠景が視野に飛び込んできた。今まで幾度も写真や映像で馴染んできた筈のその姿は、いまや間違いのない現実として目前に惜しみなくその実物の姿を現している。
『ああ、とうとう来てしまった。ピラミッドがあそこにあんな風にさり気なく日常の中に存在していて、いいのだろうか?』という不思議な感慨が襲ってくる。
ギザのホテルで旅装を解くのももどかしくピラミッドを訪れる。3つのピラミッドがほぼ直列に並んでいる。その北側からアプローチする。この3つは古王国・第四王朝のクフ王とカフラー王、メンカフラー王のピラミッドである。気の遠くなるような昔である4,550年前の、日本なら縄文時代に建設されたものである。近くで見るピラミッドは、想像していたほどは大きくないような気も一瞬はするが、よくよく見るとやはり大きい。妙な感じである。最大のピラミッドであるクフ王のピラミッドの高さは約140メートルで、40階建てのビルの高さに相当するという。
ピラミッドの外部を覆っていた化粧板の石材はあらかた剥がされてしまって、ごつごつした石塊が剥き出しになっている。一個2~3トンの石を3百万個も積み上げたというその膨大な重量が迫ってくる。基底部の石壁に暫くの間身体を預けて、そのエネルギーを貰った。
一番北側のクフ王のピラミッドは偶々立ち入り禁止になっていた。中央にあるカフラー王のピラミッドの内部に入る。約1メートル四方の狭い穴を前屈姿勢で進むと大回廊と呼ばれる天井の高い通路に出る。やがて花崗岩でできた王の部屋という30畳位の玄室に到達する。その玄室には蓋のない石棺のようなものがあるだけで、ガランとしている。気のせいか耳の奥がジーンと鳴る感覚が襲ってくる。
このピラミッドがどういう目的で作られたかについて、後世になっていろいろな説が唱えられてきた。王の墓であるとギリシャの歴史家ヘロドトスが書き残しているが、神官のための食糧庫だとか、天文台だとか、ナイルの氾濫期に農民に生活の糧を与える公共工事だったという説もある。エジプトの歴史に造詣の深い我がガイド氏によれば、やはり墓としか考えられないという。 王墓説を否定する立場から言えば、まず玄室が地上よりはるかにに高い位置にあるのはおかしいという。王のミイラは古来地下に葬られた伝統があることに反するというのだ。また玄室内部には副葬品などが置かれた痕跡が全くない。またクフ王の父スネフェルのように五つもピラミッドを建設した王もいるので、墓説は矛盾する。以上が否定論の あらましであった。
墓を遺体の安置場所と考えると矛盾するが、古代エジプトの死と再生の信仰を考えると、私は死後の王の魂魄が宿る場所と考えるのが一番ぴったりするような気がしてならなかった。
古王国のファラオたちは、神そのものであったと思う。乾燥地帯のエジプトに豊かな恵みを齎したのは何か。それは七月から十月過ぎまで氾濫しているナイルが豊富な水量と上流地帯の肥沃な土砂を運んできたからであった。農民たちはこの氾濫期には段丘地帯に逃れて時期を待つのである。一握りの人たちが洪水の時期を正確に予測する知恵を持つ。その人たちが豊かさの源の洪水を招き寄せる霊力を持つものとして、至高の存在とされるのは当然のことであったと考えられる。
何か考古学的な根拠を基に云々する訳ではない。素人のおこがましい想像を許して頂きたい。年代を経て王と神官の役目が分化してくると、その故に王は神そのものから神の特別の庇護を受ける存在に変わっていったのではないだろうか。まだ神そのものだった古王国のファラオたちが冥界に旅立つとき、その魂(カー)が宿る場所であるピラミッドにその亡骸がないのは、より相応しいことのように思えたのである。
グレコ・ローマン時代になって、新しく救世主としてキリストの教えを受け入れたエジプト人たちが、異端とされながらもキリストを神そのものとする信仰を守ったのと何か共通するものがその根っこにあるような気がしたのである。
ピラミッド考古学の最近の発展は目覚しい。特に早稲田大学の吉村作治教授のハイテクを駆使した調査と学説が良く紹介される。その学説も日進月歩の感があって、このピラミッドの隠された真実に鋭く迫りつつあるように思われる。
最新の吉村教授の説では、ギザのピラミッドの建設には、当時の王朝内の権力争いが絡んだ意外な事実があったとしている。
かいつまんで言うと、第四王朝の第一世スネフェル王以後の王位継承権を巡って当時太陽信仰派と星信仰派の争いがあり、太陽信仰派が勝利してクフ王が王位継承権を手中にした。王権の権威と太陽信仰派の確固たる基盤を象徴するためにクフ王はスネフェルをはるかに凌駕する大ピラミッド建設を計画する。しかしそのピラミッド建設のノウハウは星信仰派が独占するものだったので、星信仰派の生き残りのヘムオン王子にクフ王以降のピラミッド建設を任せざるを得なかったというのである。ギザのピラミッドはこの星信仰を反映した壮大な天空図だった。3つのピラミッドは、まさにオリオン座を表している。王の部屋から外部に伸びる通気孔らしきものはオリオン座を指し、王妃の部屋からのそれはシリウス星をさしている。これらは通気孔ではなく王や王妃の霊魂の通り道だったというのである。その霊魂はそれぞれの星座で、神の手で再生すると考えられたのである。ピラミッドの入口はいずれも太陽の出る東でなく、北極星の方向の北を向いている。
北はメソポタミアの方向なのである。ピラミッドを設計したヘムオンは、この秘密について一言も書き残すことなく、この巨大なプロジェクトに自らの星信仰の証を刻みこみ、後世の発見に委ねたというのである。
そもそもエジプトにピラミッドが作られるようになったのは、それから100年遡る第二王朝のジェセル王の時代からだという。カイロの南方約30キロのサッカーラに階段状のピラミッドがある。 それより前の王墓はマスタバ墳と呼ばれるベンチ状の墓で、以降、いくつかの変遷を得てギザに見るようないわゆる真正ピラミッドへと繋がっていく。その階段ピラミッドは、メソポタミアの都市国家に見る、段丘状の神殿ジッグラートに倣ったのだというのである。メソポタミア文明はエジプト文明の約1000年先輩であった。
メソポタミア文明の最初の担い手はシュメール人であったとされている。シュメール人はその後継者であるアッカド人がセム語族であることが知られているのに、いまだにその言語的系統が明らかにされていないという。私は西洋占星術を勉強しているので、特にこの辺のことに興味をそそられるのである。そしてシュメール人こそは、人類史上Astrology(占星術)の元祖であるとされている。
ジェセル王の階段ピラミッドを作ったのはシュメールからきた人々の子孫のイムヘテプという人物であることが分っているという。そもそも星信仰そのものがメソポタミアのシュメール人から齎されたのかも知れない。エジプトの神話では、原初の頃エジプトを治めていた名君オシリスは、王位を狙う弟のセトに殺されるが、その妻イシスがオシリスを布で包み(ミイラにする)祈るとオシリスは蘇生する。そしてオシリスとイシスの間に子が生まれホルスとなる。ホルスは化身してファラオになる。やがてオシリスは死して後にオリオン座に、イシスはシリウス星になる。これはエジプトにおける星信仰を象徴しているというのである。
約220年後に作られた第五王朝のウナス王のピラミッドの中にこの神話の記録が残されており、それはピラミッド・テキストと呼ばれているそうだ。
以上が吉村教授の説のあらましであるが、この説にはたいへん魅力を感ずる。
さて吉村教授は最近ピラミッドをめぐる大発見をした。それで従来の世界の考古学者たちの定説を大幅に書き換える事実が明らかになったのである。その端緒は第2の太陽の舟の発見である。
すでに発見されて復元された第1の太陽の舟の並びの地下に大きな空洞があることをハイテク機器で察知したことに始まる。その空洞に合計40個の石材が発見され、そのうち35個が発掘された。
その下に第2の太陽の舟の木材が発見された。石材には合計1000個の古代エジプト文字で書かれた記録が記載されていた。それによって明らかになりつつある事実を以下にかいつまんで紹介する。
第2の太陽の舟には太陽神ラーがのり、第1の太陽の舟にのるクフ王の魂を曳航して、西の冥界を目指して航行する。クフ王の魂は鳥の姿で象徴されている。ピラミッドの中の玄室の石棺で王の魂はエネルギーの補給をする。そして死と再生の旅を続ける。ピラミッドは王の魂のエネルギーの補給所だったのである。前述の私の素人の感は当たっていたのである。
ピラミッドの中に5層の王の部屋がある。最上階に王が神と仲間になったという記述があった。クフ王の墓はまだ発見されていないが、ピラミッドの西側にある墳墓群の中に隠されている筈だと吉村教授は言う。
以上は拙著『紀行・イスラムとヒンドゥの国々を巡って』エジプト編の冒頭部分からの抜粋に加えて最近の事情を加筆したものである。今しばらくその抜粋を続ける。前段がやや長くなるが、この文章は『エジプトでのゴルフ』というゴルフ紀行なのでお許しいただきたい。
カイロはナイルデルタの扇の要の位置にあり、東岸にいると乾燥地帯の実感はそれほどでもない。ところが西岸のギザや郊外のサッカーラやダハシュールでは、もう砂漠地帯の真只中である。飛行機で南へ一飛びしてルクソールまでくると、その実感が更に強く沸いてくる。
ルクソールは嘗てテーベと呼ばれた。古王国の首都があったギザやメンフィスとは異なり、中王国や新王国以降にエジプトの中心となった場所である。古代エジプト世界の拡大に伴って、その中心がナイルを遡り南下してきたのである。
もちろんこの地にも現代のエジプトが存在するのだが、ここでは壮大な過去の遺跡に囲まれて昔ながらの生活様式が営まれ、主役は確実に過去の世界が握っているように思えてならない。
エジプト古代の信仰の中心であった太陽はナイルの東岸から昇って西岸に沈む。そして黄泉の世界を巡って甦り再び東岸から姿を現しこの世に農作物の成長や諸々の恵みを齎してくれるのだ。
当時の権力者たちは、この信仰に基づいて死後の再生を願ったのであろう。エジプト各地で見られるように、ルクソールでは東岸にカルナック神殿やルクソール神殿がつくられ、西岸には葬祭殿やら岩窟墳墓が作られてネクロポリスと呼ばれたのである。
我々の旅はナイルを遡って南に向かった。ルクソールのハトシェプスト葬祭殿を見た。西岸の遺跡の中でひときわ目立つ存在である。1997年秋にイスラム原理主義者の武装グループが無差別に外国人観光客を襲撃し、62名の死者を出した惨劇が起きた場所だ。昨年のエジプト革命によて瓦解した前ムバラク政権が国内の治安対策を強化していた。その結果としてルクソール、アスワン、アブシンベル市は安全になったと伝えられてはいた。
アフガニスタンのタリバン、或いはイランのシーア派革命、更に遡ってサウデイ・アラビアのワッハーブ運動などに、コーランの戒律への厳格な回帰を主張する例を顕著に見ることができる。
エジプトではムハンマド・アリ朝がオスマントルコの支配からエジプトの独立を果たした。しかしイギリスの植民地支配には勝てず、民族主義を掲げたナセルの「自由将校団」革命によって倒された。そのナセルは英仏の列強に対抗し、アラブの大義を旗印にアラブ世界の盟主を目指したが病に倒れる。ナセルを継いだのがサダトであるが、彼の政策は一転して米ソ対立の中での親米路線であった。国内的には民主化・自由化路線をとった。これが内外の矛盾を生み、反体制の「モスリム同胞団」の凶弾に倒れることになる。
これらの反体制運動はすべて厳密な意味で宗教的な原理主義を掲げるものとはいえないかもしれないが、少なくてもハトシェプスト葬祭殿で起きた事件は明らかにイスラム原理主義路線によるものであった。当時のムバラク政権はサダトの路線を忠実に継承しており、外にパレスチナの難問や、イラク問題、さらには国内経済停滞の問題などがあり、原理主義者の抵抗に晒されていた。
ハトシェプスト葬祭殿の背後を北側から迂回していくと、谷間の奥深くに新王国のファラオたちの岩窟墳墓が密集している。いわゆる「王家の谷」である。そこでツタンカーメンの墓を見た。
バスは谷の入り口までしか行かない。そこから先は専用車に乗り換える。屋根付きトロッコを数珠繋ぎにして牽引車が引っ張り、切り立つ涸れ谷を縫って行くのである。その場所で我々を待ち受けていたのは原理主義者ならぬ、土産物売りの屋台の群れでであった。そこで姦しい押し売りと値引き合戦が瞬時を惜しんで慌しく繰り広げられた。
この谷で発見された王の墓は62基あるそうだが、結局は殆どが盗掘にあって、ツタンカーメンの墓は運良く盗掘を免れた稀有の例である。ツタンカーメンの墓はこの王が18歳で夭折したために割合質素であったのと、後年入り口の上あたりに別の王墓を掘るための作業小屋が作られたので、運良く盗掘者に発見されなかったといわれる。比較的質素だったというが、その副葬品はカイロ考古学博物館(2階建)の2階スペースの三分の一を占めるほど大量の宝物であった。当時のファラオの富がいかに巨大であったかを示している。
古代エジプトは、自然条件によって他から隔絶した世界であった。
つまり全長6,700キロにも及ぶナイルの下流にあって、北は地中海、東北はパレスチナへの回廊で僅かに外界に開けてはいたものの、ナイル流域の東西で砂漠に守られ、またナイル上流とは幾つかの急漠(カタラクト)により守られていた。この第一、第二急漠のある流域がヌビア地方で、アスワンやアブシンベルが位置している。ここはヌビア人という別の文化を持った人々の世界であった。古代エジプトの版図拡大に伴って、この地域はエジプトの属国としてその支配下に組み込まれていくのである。
アスワンの宿はかの有名なオールドカタラクト・ホテルに隣接の新館であるニューカタラクト・ホテルだった。アガサ・クリステイの「ナイルに死す」の舞台になった場所である。
行き交うヌビア人の帆船(ファルーカ)の眺望に時間の感覚を失って、一瞬別の時空に投げ出されたような気がした。急坂の遊歩道を降りてホテルの前の船着場に向かう。色とりどりの花々が咲き乱れる植え込みはトンネルのようである。
我々が乗船したファルーカ(帆船)は午後の風を受けて緩やかにナイルを滑っていく。ヌビア人の若い船頭達は愛想がよく、しかも目鼻立ちが美しい。白や青色の木綿のガウンを纏い、縮れ髪である。そして真っ黒な顔から白い歯をこぼしている。この青年たちが大きなタンバリンを打ち鳴らして彼らの舟歌を歌いながら踊りだす。最初はしり込みしていた客達も、結局うまく引っ張り出されて踊りの輪に加わる。互いに手と手をつないで拍子をとる。しばし船上で楽しい歌と踊りの饗宴が続いた。
アスワンハイダムはヌビア地方のナイル河畔にあった多数の遺跡を水没させることになった。ユネスコが世界的なキャンペーンを張って資金を集めた。これら人類の遺産である遺跡のうちで、20箇所あまりを移設する壮大なプロジェクトを実施したのである。
アスワンからさらに空路で280キロ、ナセル湖を遡りアブシンベル空港に着いた。バスを降りて徒歩で山の裾を前方に廻り込むと、ナイルが前方に姿を現し手前がアブシンベルの大神殿だった。小神殿共々水没を避けるために元の位置から約60メートル高所に移設された。元の神殿を数千個のブロックに切断して運びそれを再び組み立てるという大工事だったという。高さ60メートルのコンクリート・ドームを作り、そこに神殿を納めたもので約4年の歳月がかかった。完成は1972年だそうである。
大神殿の正面に新王国第十九王朝のラムセス二世の巨大な座像が四体聳え立っている。入口から約40メートル入ったいちばん奥の至聖所に、3つの神々と神格化されたラムセス二世の坐像があるが、この王の誕生日(1月21日)と戴冠式の日(7月21日)になると、朝日が差し込んで坐像を照らす驚くべき仕掛けになっていたそうである。ところが最新技術の粋を集めて移設の位置関係を決定したにも拘らず、朝日が差し込む日が一日ずれてしまったという。
王妃を祀る小神殿の正面は、4体のラムセス二世像の間に2対の王妃ネフェルタリの像が並んでいる。移設前には、小神殿の位置はやや低くなっていた。そしてナイルの氾濫の時期になると神殿内部に浸水する仕組みになっていたそうである。これは、ナイル(男)が土地(女)を犯して豊穣を産み出す、つまり人間の生殖、動物の繁殖、植物の繁茂を象徴するものであった。今更ながら古代の知恵の深さと建築技術の高さを思い知らされたのである。
さて今度のエジプト旅行では何とか機会を捉えツアーを抜け出し、ピラミッドの遠景を見ながらゴルフができたらどんなに素晴らしいだろうかと思っていた。旅も終りに近づきカイロに舞い戻った際にうまく機会を作ることができた。ギザのピラミッドを訪れたとき、ピラミッドのすぐ手前に、緑の絨毯を敷き詰めたようなゴルフコースを発見してびっくりした。
周りの乾いた砂漠と萌えるような緑のコントラストが素晴らしかった。ところが、ホテルが予約してくれたのは郊外のリゾート地のゴルフ場だった。宿泊したのがラムセス・ヒルトンだったので、同系のヒルトン・ドリームランド・ゴルフクラブになったのである。事前の調査をして注文を付けて置けばよかった。そうすればピラミッドのすぐ近くでプレーできたのにと残念に思った。
クラブハウスに神殿の列柱のデザインを取り入れているのはいかにもエジプトらしい。ハウスの前にはプールがあって青い水を一杯に湛えている。人影が無いプールの周辺には、所在なげに畳まれたパラソルが巧まずしてパピルスの木のように林立している。平日のゴルフ場には我々以外客が見えない。キャディ・マスターが自ら出陣してくれることになった。2人乗りの電動カート2台に分乗して出発する。キャディのカートが先導役である。
ティーグラウンドのティマークは一対の白いピラミッドだった。はるか前方には、ピラミッドではなくてリゾートマンション群が見えたのが残念である。空気が乾燥しているせいか、ボールが気持ちよく飛んでいく。周辺はすぐ土漠が迫っているが, コース内は別天地のような緑で、フェアウェイの状態も悪くない。ホールとホールを隔てるのは、背の低い椰子の木と赤や黄や青の花木の茂みである。
パー4のホールで家内が第3打目を直接カップインしてしまった。初体験のバーディに家内が奇声を上げて喜んでいる。次のホールに向っているとキャディ氏のカートが少し遅れて追ってきた。
いつの間に作ったのか枯れ枝と色とりどりの花で作ったフラワー・バスケットを持っており、それを恭しく家内に捧げるのである。バーディのお祝いだという。その心遣いと作業の手早さに感心するばかりであった。
コースの半ばほどのホールにくると、池があって噴水が惜しみなく水を噴き上げている。その遥か向うにギザのピラミッドがやや霞みながら姿を見せている。ピラミッドの見える所でゴルフをするという願いがやっと叶った瞬間であった。わざとそうしているのであろうが、ティーグラウンドの周りには土漠そのものの乾いた土くれの塊がでこぼこと露頭してそれを石の列で囲ってある。心憎いデザインである。正にエジプトの自然をそのまま切り取ってきたようなティーグラウンドであった。
ツアーのスケジュールでは考古学博物館の近くで中華料理の昼食が予定されていた。久し振りの中華料理だった。それでその時間が気になり何ホールかのプレーを打ち切って帰ることにした。
我がキャデイ氏には相応のチップを渡したつもりだったが、彼はニヤッと笑って、「バーディ、スペシャルボーナス!」と催促するのである。先程のフラワーバスケットは彼の個人的営業の一環だったのである。仕方なく追加のチップを渡すと、彼は満面の笑みを残して去っていった。
考古学博物館は見るものがあまりにも多すぎて目移りするばかりである。そして展示品の貴重さの割には雑然としていて、整理の悪い倉庫のような感じすらする。やはり圧巻は、盗掘を免れたツタンカーメンの黄金のマスクや棺、副葬品の数々であった。ツタンカーメンの黄金の玉座には妃が王に優しく手を触れている図が描かれていた。また第四王朝のラーホテブ王子とその妻であるネフェルトの彩色の坐像があった。いずれも、主人公たちの表情を生き生きと伝えてくる。もう一つの圧巻は、特別室に安置された11体のミイラだ。いずれも嘗てのファラオたちの亡骸である。例の新王朝のラムセス二世のミイラをしげしげと見る。半眼に閉じた目と鉤鼻、突き出した薄い唇とそして長い首が3,200年の永い眠りを続けている。肉体の形が時を超えて保たれていること自体は驚異というほかはないが、国中に残されているその巨像の勇姿とは似ても似つかない姿で干乾びた姿で横たわっている。その姿を見るのは生前の尊厳を損なうような気がしないでもない。
ミイラは霊魂が神の手によって新しく再生されて現世に戻って来たときに元の肉体に宿れるように保存されたという。ラムセス二世の魂はその願いどおり元の身体に戻ってくることが叶わなかったようだが、今どこに宿っているのであろう。
旅の終わりはナイル川のナイト・クルーズであった。船着場には「ファラオたちの門」と書かれた門がたち、アクエンアテンの立像が我々を古代の世界に迎えてくれた。宗教改革を行い、この国に太陽神の一神教を根付かせようとしたファラオである。
古代の信仰によれば、太陽は夜の間に冥界を船で旅をして翌朝再生を果たし東の空からまた登ってくる。さしずめ我々も再生のため、この船で冥界を旅するということになのであろうか。観光客の目を楽しませるエキゾチックな踊りやショウが続く。最後の呼び物は、きらびやかに着飾った男が緞帳のように分厚い布地でできた傘状のものを片手で頭上を振り回しながら、自身もくるくると回転を繰り返す。その回転は次第に激しさを増して際限もなく続く。男の肌が汗で光りその表情が陶酔の頂点に達したと思う瞬間に、舞台は暗転してその姿は突然消えた。そのときこれは演者にとって単なるパフォーマンスというより、一種の修行ではないかという気がしたのである。
イスラム教の一派に少数派であるフィズムがある。トルコのメヴレヴィー教団がその一つで、これと似た回転舞踊を行って陶酔状態の中で神との合一を果たすのである。トルコのコンヤ地方などでよく観ることができる。大会堂で大勢の教徒が三角帽子と独特のコスチュームを着けて踊るのであるが、観光の目玉として一般にも公開されている。この船上のダンスもスーフィーの一種ではないかと思った。
エジプトは5,000年の過去から現代までの歴史の姿を余すことなく見せてくれる。エジプトでは古代の多神教の神々は現代では死滅したといわれ、そして数々の遺跡や出土品は貴重な観光の資源であり、海外からの客を集める生活の糧として利用するだけのように見える。しかしその外見はともかく、エジプト人の隠された内面はどうなっているのであろう。
我が国では特に信心深い人でなくても、神社や仏閣の前で手を合わせる人々は多い。イギリス人の女性で古代エジプトの神々を信仰しその一生を古代の神々に捧げた人がいたそうだ。この女性はナイル中流域のアビドスで約30年前に亡くなったという。現代のエジプト人はアラーやキリストへの信仰のゆえに、古代の神々を全く心から消し去ってしまったであろうか?
そもそも多神教とはこの世の出来事が人智の及ばない驚異に満ち満ちていた頃、その自然現象や大自然のかたちに、超人間的な力を認めて崇拝したところから始まったのであろう。ところが、人間がだんだん賢くなって身の回りのことに何か説明がつくようになると、もはや古代の神々に対する畏敬の念は消えていくのは道理かもしれない。
紀元後の世界からこのかた現代に至るまでエジプト人は古代とは一転して一神教のイスラム教やコプト教の信仰に帰依している。多神教の時代にはこの世を象徴するものの形象が豊かだった。
それが一神教の時代になると単純化され禁欲的で観念が勝ったものになるようである。それは人間にもっと根源的な疑問に対する答えが必要になったからであろうか?だからといって、多神教と一神教の優劣や功罪を云々するつもりでは毛頭ない。ただ人間の長い歴史の中で身の回りの現象に対し説明してきたことは果たしてすべてを説明し尽くしたものなのであろうか?一定の前提条件の下で成り立つ部分的な説明に過ぎないとしたら、それですべて分かったとするのは人間の傲慢といえないだろうか?
遊覧船の船内のさんざめきを逃れデッキに出てみる。両岸に煌めく電光と競うように満天に星が輝いている。足下にはナイルが黒々と流れてその豊かな水量が体感できる。アフリカの内陸から滔々と流れ出るナイルの水が無数の命を育み、輝く5,000年の文明を生み出した。年間の降雨量は殆どゼロに等しいこの乾燥の地に、かつサハラ砂漠という殆ど死の世界と呼んでも過言でない地と隣合わせに、豊かで多彩な文明が花開いたのである。そしてまさにその乾きゆえに、かくも豊かに過去の形あるものが保存されてきた。
ここの人間はナイルを堰止めて洪水をコントロールすることには成功した。しかしこの国のすべてが圧倒的にナイルに依存していることには変わりはない。一方において、ここの人間が抱える問題は、ますます形を変え複雑化し重くなっているようにさえ見える。ナイルの水そのものは変わらない。ナイルの水に育まれてきた人間の心の形はかわってきた。これからは、果たしていつどのように変わって行くのだろうか、と問いかけているうちに人々のざわめきが高まり、ナイト・クルーズの終わりが来たことを知った。
明朝になれば、新しいサイクルがまた始まるのだ。
この旅からまだ16年しか経っていないのにエジプトはいわゆるアラブの春の現象で、ムバラク政権が瓦解した。モシリー大統領が選出されたが、軍部やイスラム原理主義組織ムスリム同胞団等との綱引きがあって安定化には多難な道のりが予想される。私たちの旅は、ここ当面では安定したエジプトへの最後の切符だったのかもしれない。(了)