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池田昌之です。

このブログはあるゴルフ倶楽部の会報に連載したゴルフ紀行が始まりである。その後テーマも多岐にわたるものになった。

ホール・インワンの光と影

2012-08-11 14:22:28 |  ゴルフ紀行 (風土と文化)

ホール・インワンの光と影

 これはあるゴルフクラブの会報に寄稿したものに、若干の訂正・加筆をした文章である。

 ホール・インワンをこの目で見たのは、かれこれ20年ほど前のことである。約150ヤード先のティーグラウンドは逆光と背景の木立のせいでやや黒ずんで見えた。
 プレイヤーの動作を捉えようと目を凝らした瞬間に、打ち出された白球に視線がピタリと合ったのである。白い光の空にボールが打ち出された。ボールは重みに耐えかねたように、放物線を描いてグーンと目前に迫ってくる。ボールは一瞬視界から消えたと見るや、ボターンという質量感のある音とともに、ピンの7~8メートル手前のグリーン上に落下して、スライス・ラインを描いてカップに消えた。
 先行組の我々が拍手をしながら迎えているのに、気持ちが舞い上がってしまった、当の若いプレイヤーは友人たちとはしゃぎ廻っていて、我々には目もくれずにいる。そのまま一言の答礼もないのには興ざめだった。
演じた人間の非礼はともかく、ホール・インワンしたボールの描いた線はまるで奇跡のように美しく脳裏に焼き付いて、違う意思の仕業かと思わせるものがあった。

 ところでホール・インワンの快挙を祝う流儀にもいろいろお国柄がある。
 その昔シンガポールで経験したさわやかな体験がある。プレイが終わって冷たい飲み物で寛いでいたときのことである。『ミスター誰それが、X番ホールでエースの快挙を成し遂げました。今食堂においでの皆様にお飲み物を振る舞いたいとの申し出がございました。ご本人に対する心からのお祝いの気持ちを込めてご紹介申し上げます』とのアナウンスがあり、期せずして拍手と歓声が沸きあった。
 家族連れで賑わう休日の食堂は、華やいだ気分で盛り上がった。飲み物の伝票に本人のサインをもらいがてら、ヒーローに握手と祝福をする人々の列ができた。開け放たれた戸から、南国の午後の風が爽やかに吹き抜けていった。

 ホール・インワンを巡る話では、台湾で経験したミステリヤスな事件がある。これは、ゴルフ紀行・その2 事件は霧の中で起きたで書いたので省略する。ホール・インワンがもたらす恩寵にもいろいろあるという話である。

 我が国ではホール・インワンのお祝いを派手にやるという点では、他国に絶対引けを取らない。それで時には笑えない悲喜劇が起きることもある。海外出張中に、保険の期日が到来することには気が付いていたが、その延長を仕損なった人がいる。帰国後すぐやればいいと多寡を括ったのである。ところが週末に帰国して、ゴルフ大会に出た。そこでホール・インワンをやってしまったのである。参加者も大勢だったので、大変な物入りを蒙ることになった。保険会社の友人に頼まれて入った保険なので、何とかバックデイトで延長をと頼んだが、それだけはと断られたという。

 さて次は私自身のホール・インワンの経験の話だ。場所は大日向カントリークラブ、時は約20年以上も前のことである。
 ある先輩がお祝い状をくれた。『ホール・インワンの快挙おめでとう。私自身の経験から申すと、これから半年ぐらいは、ショートホールにやってくるとまた入り相な気分になる筈です』本当にその言葉通り、しばらくはショートホールに来るといつもそんな気分になった。

 でもそもそもそれが実際に起きたときは、身構えるすべもないと突然の出来事だった。中学時代の同級生とのゴルフだった。しかも高速道路で事故渋滞に合って遅刻するという最悪のスタートの日だった。
 ホール・インワンはその直後の2番ホールで起きた。『お友達ゲーム』というのをやっていて、相方の第1打者がピン4~5メートルに寄せた。第2打者の私が、よしそれならばと、勢い込んで打った球が入ってしまったのである。
 ピンに絡んで行くなとは思ったが、ボールが消えるほんの一瞬の残像は、靄がかかったようでやや頼りなく、コトーンという音だけがやけにはっきりと耳に残った。

 さて事後の処理はやはり語るに落ちるというか、人並みのことになってしまった。
 同伴の悪友たちに宴席をたかられた。また長いゴルフ暦の間に一緒にプレイしたことのある方々に記念の時計をお送りした。加えて、ゴルフ・ウィドウの家内へハーフ。セットのゴルフクラブを送ることを忘れなかった。
 もしかすると、平素の不義理を幾分なりとも埋め合わせさせようというのが、ゴルフの神様のご託宣だったのかもしれない。(了)


-その5シンガポールでのゴルフ・真昼の静寂―

2012-05-25 14:37:44 |  ゴルフ紀行 (風土と文化)

私は嘗て所属していたゴルフクラブの会報に、外国でゴルフをした経験を13回ほど連載したことがある。その多くは私が出版した      『紀行・イスラムとヒンドゥの国々を巡って』であるとか『紀行・華僑の住む国々を巡って』の文中にも取り込まれている。

http://www.ikedam.com


 そのゴルフクラブの会報のゴルフ紀行に訂正・加筆をして順次掲載してみようと思う。年月が経過して昔の話になったものもある。開発や都市化の進行で外見は一変した場所もある。
しかし風土やその土地柄には変わらない本質的な面がある。それが窺えれば幸いである。
 

-その5シンガポールでのゴルフ・真昼の静寂―

シンガポールには昭和47~9年に駐在した。もう38年もの歳月が経ってしまった。
今回はシンガポールでのゴルフに纏わる思い出を書いて見たい。

私が所属していたシンガポール・アイランド・カントリー・クラブは当地では最上級のクラブであった。昔の英国統治時代からの伝統の匂いを残していた、
ゴルフ・クラブそのものが、もともと英国の植民地風のライフ・スタイルの遺産だった。支配階級のイギリス人たちや現地の上層階級が、家族単位で社交を楽しむ場であつた。
したがって施設も整っていた。 2か所のサイトには、合計4つの18ホールのゴルフ・コース、 2つの水泳プール、テニスやスクウォッシュのコート、さらに各種のレストランやホールがあって、家族で早朝から深夜まで楽しむことが出来た。


 当時のシンガポールは、お隣のマレーシャから分離独立して未だ10年たらずの新興国で、何かにつけて建国の矜持と自負が感じられるお国柄であった。 ―

 さて赤道直下の土地柄で、夜と昼の狭間の時間がとても短い。
 休日は、早朝未だ暗い内にゴルフ・バッグを車に詰めて家を出る。コースまでせいぜい10分の道程であるが、その10分間に夜が明けてしまう。
 真っ暗な夜の帳の中からチラリと朝日が顔を覗かせたと思うと、あっという間に辺りが明るくなる。緑の芝に結ぶ露は朝の光りを宿して、さながらビーズを敷き詰めたようだ。
 早朝のグリーン上に描き出されるパッティングのシュプールはなかなか美しいものだ。
 朝のうちは涼しいが 日が高くなるとさすがに暑い。朝の湿気が陽炎となって文字通りじりじりと燃え立つようである。したがってゴルフは成るべく夜明けとともにスタートし、暑さが厳しくなる前にラウンドを終えるようにするのである。
 半ドンの土曜日は午後のスタートになる。暑さを避けるために午後の風を待ってからということにすると、 日暮れとの追い駆けっこになる。
 西日が眩しいと思う問もなく、あとは逆さ落しの日没なのである。どういう訳か、辺りが暗くなって来るといっせいに蝙蝠の大群が低空を飛び回る。超音波のようなものを発しながら飛ぶので、人にはぶつからないとは聞くものの薄気味が悪い。したがって、早々にクラブ・ハウスに引き揚げることになる。

 午後のゴルフの大敵はまだある。スコール(驟雨)と雷である。熱帯性気候で年中雨が降り高温多湿であるが、特に12月から1月くらいは雨が多い。
 それもシトシトという降り方はまずなく、降れば必ず土砂降りだ。車軸を流したようにとかバケツをひっくり返したようにとかいう表現が有るが、 とにかく凄まじい量の水が空から落ちて来るのである。そして大抵は雷を伴う。ズブ濡れになるのを覚悟で、何もかも放り出して避難することになる。一説によると、シンガポールの土壌は鉄分を多く含んでいるために雷が多いのだと言う。真偽の程は分からないが………。


 シンガポール・オープンの競技の最終日に18番ホールで観戦していたときに、すぐ近くに落雷したことが有った。肝を冷やしてクラブ・ハウスに我先に逃げ込んだ。今でも思い出すとぞっとする。
 『雨が降っていないのに突然落雷することもないではない。気を付けた方がいいですよ』と現地駐在の当初に言われたことがあった。或る会社の駐在員が帰国の寸前にゴルフをしていて、雷に打たれて不慮の死を遂げたというのである。ゴルフ仲間で送別のゴルフをしているときのことである。頭上には大きな雲の塊が有ったが、遠くには未だ晴れ間すら残る状況であったと言う。シンガポール駐在が長くなり、やっと待ち望んだ帰国の発令が降りた矢先の悲劇だった。既に家族は帰国しており、お父さんの帰国を待ち侘びて居たという。
 『主人をもっと早く帰国させて呉れればこんな事にはならなかったのに』と奥さんが会社に抗議したという話が伝わって来たそうである。

 雷は怖いが気を付けようにもどうにも気を付けられない面もあって、段々と平気になってしまった。人間の慣れというのは怖いものである。
 
 シンガポール・アイランド・カントリー・クラブは、なだらかな丘陵コースである。
 日本のコースと違う点はフェア・ウェイの芝だ。日本では、大抵のコースの芝はボールを浮かせるが、あちらの芝は地面を這うような生え方である。したがってフェア・ウェイでもボールは芝の中に沈んでしまう。ウッド・クラブを使うのは大変難しい。大抵ダフッてしまったリ、トップしたりする。

 面白いのはコースの途中でボール売りが来ることである。ロスト・ボールを集めては、ビニールの袋に入れて突然木立の中から現れる。勿論クラブがそんなことを認めている訳はないからもぐりでやっているのである。見たところまだ新しいボールで値段が何分の一だから、こちらもつい手を出してしまう。

 癪にさわるのは、池の中にボールを打ち込んでしまうと、子供たちが池の中で待ち受けていて、濁った水の中から、今まさに打ち込んだばかりの我がボールを器用に拾い上げて、
 『ワン・グラー(約百円)』と叫ぶのである。それを拾い賃と考えればいいのかも知れない。だがボールが一旦彼等の掌中に入った途端に所有権は彼等に帰属し、そのボールを改めて売りつけられているような気がするから不思議である。十中八九の人はそんなもの買えるかとそっぽを向いて商談は成立しない。でも結局のところ、それらのボールは廻り回って彼等のビニール袋に潜入して、我々がついつい買わされているのだから世話はない。

 南洋の地らしく、コースを廻っていてときどき珍しい動物に出くわすことがある。
 高い樹の梢から黒い風呂敷のようなものが突然舞い降りて来て、キャディたちがプレー中の我々をそっちのけにして騒いでいる。よく見ると正体はむささびであった。
 あるときは、動物園から黒豹が逃げ出して中々捕まらず我々のゴルフ場近くの森林に潜んでいるとの噂が流れた。結局 1か月以上にも及ぶ国を挙げての捜索作戦の後、或る村の用水路の暗渠の中で発見されて射殺された。一時はゴルフ場に出かけるのも、おっかなびっくりであった。
 当時シンガポールはリー・クワン・ユー首相の強力な指導のもとに建国の途上にあった。反対者の存在を許さない苛烈な政治的な環境だった。首相はこの事件の最中に国連総会のためニューヨークに滞在中であったが、国際電話で逐―この作戦の指示を飛ばしたと言われている。シンガポールでは黒豹1匹さえ首相から逃れられないと囁かれたものである。

 日本のゴルフ・コースと違う点はまだある。ハンデイキャップに大変厳格であることと、プライベイト・コンペを認めない点などである。
 クラブはメンバー同志が誰彼の隔てなく一緒にプレーをして親しくなるところで、特定の人々だけが固まってグループをつくるべきではないという至極真っ当な考え方が基礎になっているようだ。そして知らない人同志でプレーをして賭けたりすることも有るので、ハンデイキャップは現在の実力を正確に反映させるべきであるということであろう。

 因みにハンデイキャップの決め方はU・S・G・A方式である。新規に取得する際は委員による同伴テストがある。プレーの都度必ずスコア・カードを提出することを義務づけられていた。
 もっとも現実には必ずしも建前通りという具合には参らない。我々日本人は殆ど日本人ばかり固まってプレーをしていたし、シンガポ―ル人も仲間同志でやっていることが多かった。しかし今にして思えば、 もっとゴルフを通じて現地の人たちと交流する努力を払うべきであったと反省される。

 或るとき我々日本人仲間がプレー中に、現地の人たちのグループとの間にちょっとしたトラブルが起きた。
 例によって午後遅いスタートであった。我々の一組前は中国系の“四人組”であるが、ワイワイ、ガヤガヤと騒々しい。プレー中にふざけ合ってお互いにちょっかいを出す。我々は後ろにいて苛々していた。何回か『フォアー……』と叫んで進行を促したが、彼等は一向に気にする様子はない。そうこうする内に果せるかな、日が落ちた。最終ホールを控えて、辺りは急に薄暗く成って来た。コース左手に目印の樹が有って、そこを前の組が通り過ぎたら打てとキャディが言う。我々は何とか最終ホールを全うしたいと焦ってここでもまた大声を挙げて前方の組を促した。仲間の一人がここで打ったティ・ショットが紛争の種となった。
 彼等がこちらを見て何か叫んだ様だったが、打った当人は球が届く筈はないのにと首を傾げる。しかしすべては夕闇の中ではっきりしない。
 クラブ・ハウスに戻って見ると、前の組がクラブのマネジヤーを捉まえて息巻いている。危険な打ち込みを受けたのでコミッティに正式に提訴をしたいと言っている。
 自分たちのスロー・プレーやマナーの悪さを棚に上げて、注意されたことを根に持って意趣返しに出たなと思ったものの、正直言って一寸厄介になるぞと内心覚悟をした。ここは何と言つても彼等の国である。こういう場合、キャディは後難を恐れて味方になって貰うことはまず期待できないのである。ところが我々は好運であった。我々に付いたのはマレー人の少年だったが、この少年が実に雄弁に我々を弁護して呉れたのだ。そして相手方のキャディの発言の段になったときに、当方のキャディが一言マレー語で何か咳いた。すると相手のキャディは殆ど満足な受け応えをせず、勝負は誰の目にも明らかだった。結局一件は落着することと相成ったのである。

 日がとっぷりと暮れた。家路に急ごうと車のエンジンを始動させたとき、集蛾灯の光りの輪の中に先程のマレー人の少年の姿が浮かび上がった。つい車で走り寄り家まで送ろうと申し出た。彼は一瞬びっくりして逡巡したが、素直に助手席に滑り込んで来た。
 聞いてみるとジョホール・バルーから来ていると言う。今度はこっちがびっくりする番であった。お隣のマレーシャからである。尤もシンガポールとは狭い水道で隔てられているだけで、せいぜいそこから30~40分の道のりであった。途々少年に話かけるが、先程の雄弁さとは打って変わって口が重い。
 当時シンガポール政府は自国人の雇用を確保するためにマレーシャからの出稼ぎを規制し始めていた。彼等は最長一週間ノー・ビザでシンガポールに滞在出来る。従って週末に里帰りをしてまた入境して来る。そして就労詐可を取らずにシンガポールで職に就いているのだ。新聞はこうした不法就労の摘発をしばしば報道した。雇われる側ばかりではなく雇う側も処罰されたという記事が目を惹いた。
 少年も先行きの不安を洩らした。『ジョホール・バルーでは仕事がありません………』先程の少年の雄弁さと勇気は、政府に対する遣り場のない不満が誘因となったのかも知れない。そう思うと何だか不憫な気がした。
 ジョホール水道を渡るコーザウェイ(土手道)の袂で降ろすと、少年は手をひと振りしたかと見る間に、後はこちらを振り向きもせずに足早に去って行った。



 帰路、車の窓を開けてシンガポール北部の森を走る。マレー人が住むカンポン(村落)が多いのか、夕餉の芋を炊いているような匂いが鼻孔に迫って来る。

 ………我が家のメイドの“ティー”を送り出したときのことが目に浮かんで来る。彼女もジョホールから毎週通って来たのだが、当局の規制がやかましくなったので止むを得ず解雇したのである。
 マレー人は大家族で生活をして居り、小さい頃から目下の兄弟の面倒を見慣れていて、子供の扱いが実に上手であった。我が家の幼児の次女がむずかっているのをひょいと小脇に抱えて立去ったと思うと、まるで魔法をかけるようにあやして機嫌を直してしまうことがよくあった。
 別れのときは、本人も妻や子供たちもお互いに手を取り合うようにして涙を流した。見ているのも辛い情景だった。妻は『政府の規制のせいなのよ。私たちは皆あなたと別れるのが嫌なのよ』としきりに繰り返した。………

 南国の夜の暗闇はすべてを吸い込んでしまうかのように深くそして何故か物寂しい。森の奥に見え隠れする灯火は満ち足りた安らぎの円居なのか、それともそこには癒しきれない嘆きがあるのだろうか、などと思いを馳せながら車を走らせた。

 シンガポールでの滞在は1年半と割合短かった。ゴルフをするには絶好の環境であるが、気候の変化に乏しく日本人仲間では『3年居るとボケが始まってしまう』と良く言い合っていたものである。
 常夏の風土は緑に溢れ、照ったり降ったり、すべてに盛んである。
 ゴルフをするときはなるべく日盛りを避ける様にしていたのに、今思い出すと一番心に焼きついているのは真昼の静寂だった。
 奇妙な静けさが、真昼の燃え立つコースをすっぽりと包んでいたのであつた。(了)