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池田昌之です。

このブログはあるゴルフ倶楽部の会報に連載したゴルフ紀行が始まりである。その後テーマも多岐にわたるものになった。

日清戦争から太平洋戦争までの半世紀に於ける満洲と安東(その4)

2013-09-08 18:03:08 | 我が故郷 満州(安東)

本稿は日清戦争から太平洋戦争までの半世紀に於ける満洲と安東(その3)の続編である。

8. 満洲の戦後の状況

イ. ソ連占領下で国民党勢力と共産党勢力の抗争が行なわれた

A中ソ友好同盟条約の意味するもの

 昭和20年(1945年)8月の何と終戦前日に、中ソ友好同盟条約が締結された。米国が蒋介石にヤルタ密約の存在を初めて伝えたのはヤルタ会談の4か月後の6月半ばであった。そしてソ連と交渉することを要請した。
 蒋介石は大いに不満だったが、熟慮の末にこの要請に従うことにした。
 その理由はソ連が毛沢東と手を結ぶのを恐れたからだ。しかし中国の主権を侵すヤルタ密約を簡単には承諾できず、交渉は難航した。スターリンが中国代表団に対し、間もなく中国共産党が満洲に入ってくるだろうと警告
したので、渋々妥協した。日本のポツダム宣言受諾直前に条約が締結されたのは、かかる経緯である。
 もともとヤルタ協定の内容はソ連参戦の条件だった筈だが、条約は国民党が満洲でのソ連の権益と外蒙古の独立を認めるのと引き換えに、ソ連が中国共産党を相手にしないことと、旅順・大連を除く全満洲を国民党政府
が接収することを認めるという、取引となった訳である。  

B
さて満洲を巡る蒋介石と毛沢東の戦略はどうだったか;

 
蒋介石も毛沢東も満洲を制するものが中国全体を制するという認識だった。理由は広大な沃野や資源と日本が残した産業設備やインフラの存在である。

蒋介石は;短波放送で連日呼びかけた。
「悪いのは日本の軍閥と財閥であり、一般居留民は誠実に産業設備や資材の接収に協力するならば、迫害せず保護せねばならない」

毛沢東も;終戦に先立ち、4月に以下の基本方針を発表している。
「東北4省(黒竜江、吉林、遼寧、熱河)は極めて重要だ。我々の党と、中国革命の現下と将来の道を考えると、仮に我々が現在の全ての根拠地を失っても東北さえ確保しておけば中国革命に強固な基盤ができるだろう」
 昭和12年(1937年)毛沢東の軍隊は僅か四万人程度だった。その後華北や揚子江流域の日本軍占領区を重点とし、解放区を拡大する戦略を採った。その結果昭和13年18万人、昭和15年50万人、昭和20年91万人と増強された。

C次にソ連軍の占領政策の影響と国共双方の地理的条件等の相違 

①  ソ連軍の政策;
 9月中には全満洲を占領した。その最重点戦略は、蒋政府に大連・旅順を除く満洲各地の行政権を引き渡すまでに、満洲の産業施設、資材、貴金属などの金融資産を戦利品として持ち去ることだった。彼らは当初こそ、中ソ友好同盟条約を尊重し、国府側の政府代表団を受け入れる姿勢を示したが、国府側の接収には非協力的で遅延行為を繰り返した。

②  国府側は;
 
熊式輝将軍を東北行営主任に、蒋経国を東北外交委員に任命し新京に派遣した(東北は満洲地区の呼称)。ソ連軍は東北行営の活動と影響力の行使に種々制限を加えた。軍事関係者の存在は一切許可しなかった。
 国民党の軍隊は重慶方面に押し込められて自前の大量移動手段を持たず、米軍に依存していたが、米軍の飛行機や艦船は満洲に入れない決まりだった。

③  八路軍は;
 
日本の降服後、ただちに幹部級党員や軍隊を満洲に派遣した。正規部隊は山東地方から海を越え、遼東半島方面に押し寄せてきた。北西の延安に本拠を持つ八路軍は上記のごとく華北に勢力を拡大していた。従って、満洲への進出では八路軍は断然優位な地理的条件を占めていた。

 D国府側と八路側の実働勢力と内戦; 

①  重慶政府は;
 
終戦時に旧満洲国政府の幹部と連絡を取り治安維持委員会を組織し地方の省政府もこれに倣わせた。地方の治安維持委員会に警察力や旧満洲国軍の一部を加えて国府側勢力とした。

②  八路軍は;
 
満洲各地で組織化された現地部隊と山東地方や華北地方から進駐してきた正規軍部隊からなる。現地部隊とは満洲国時代に地下に潜り活動していた共産党分子が戦後浮かび上がってきたものが中心である。八路軍は二本足で移動する。スプーンとコップと薄布団を携行するだけの軽装だったので1日40キロは楽に移動できた。当初は日本軍の武装解除の武器を当てにして丸腰だった。しかし地理的条件などで正規軍の満洲進出では、国府軍側は八路軍側に2か月も後れをとった。

③  国府正規軍は;
 
錦洲攻略によって満洲への扉をこじ開けて、一部は空輸によりやっと軍隊を送り込んだ。新京、奉天の大都市を抑えたものの、地方都市や農村地帯は八路軍が勢力を張り巡らせていた。各地の治安維持委員会が組織し
た保安隊は、八路軍現地部隊により武装解除されていた。

④  ソ連軍の方針転換;
 
ソ連軍は八路軍の浸透作戦が見事だったので、米国の反応を恐れて方針が左右される場面もあったが、次第に八路側攻勢を黙認するにいたる。ソ連は当初は延安の実力を過小評価していた嫌いがある。
 ソ連軍は戦利品輸送に手間取ったこともあり、終戦の年の駐留期限11月を再三延長した。翌年昭和21年(1946年)の4月にようやく撤退した。

⑤  満洲の国共内戦の実状;
 
国府軍は緒戦こそ近代的な装備の威力で有利に展開し八路軍を北方の臨江近辺まで追い詰めた。昭和21年(1946年)暮。しかしこの臨江作戦を分岐点として八路軍が優勢に転ずる。

その要因は;
・八路軍の巧妙な戦略(ゲリラ戦;優勢な相手には無理せず退く、敵の補給路を寸断する、相手が引けば押す)
・農村地帯では、土地解放により農民を味方につけた
・敵の投降は寛大に扱う(大部隊が投降すれば英雄扱で自軍に取り込む)
・八路軍の装備は戦闘毎に改善されていった(投降、敗軍の遺棄武器)

ロ. 邦人の遣送(引き揚げ)

 A捕虜のシベリア抑留;

 
武装解除した日本軍兵士はポツダム宣言では日本に帰国させる取り決めであった。ところがソ連軍はこれら捕虜をシベリアに連行し強制労働に従事させた。その総数65万人といわれ、その1割の6万人以上が、劣悪な環境下の労働で死亡したとされる。

 B一般邦人の遣送;

 国府軍統治地域では一般邦人の引揚が昭和21年5月から実施され始めた。米国の働きかけで、国共の停戦に係るハーレー米大使と蒋介石と毛沢東の「三人委員会」が成立した。昭和21年7月末八路軍地域から国府軍地域へ日本人引揚者を受け渡す取り決めができた。

5か所に「転運指揮所」設立。
終戦時、満洲の邦人人口は155万人だった。そのうち105万人がコロ島を経由して引き揚げた(コロ島は遼東湾の港)。転運指揮所を経由して八路軍地域から引き揚げた邦人は24万人弱。この外大連地区の邦人は大連港から他地域より遅れて昭和24年9月までに引き揚げた。23万人弱である。
 更に安東地区の邦人は鴨緑江から朝鮮経由2万弱が引き揚げている。
 満洲で戦後あるいは引揚中に不幸にして命を落とした邦人は、20数万人に上る。歴史に「もし」はないというが、ポツダム宣言が7月下旬に受諾されていたら原子爆弾もソ連参戦もなかっただろうにと、悔やまれる。

 

9. 安東の戦後 

 最後に我々が住んでいた安東の戦後について付言する。

イ.ソ連軍の安東進駐;

 ソ連軍が安東に進駐したのは9月10日だった。先遣隊の入場を市民は小旗を持って出迎えた。彼らの服装は貧相だったが、マンドリンと通称される自動小銃を抱えているのが目を引いた。日本の歩兵装備の主力は、日露戦以来の38式歩兵銃(明治38年製)と99式(昭和14年製)だった。
 日本軍の装備の遅れや、機械化力のお粗末さは昭和14年のノモンハン事件で露呈されていたにも拘わらず、軍のエリートたちは下剋上的な政治権力の争いに熱中したり、軍人勅語の精神主義を振り回したり、目の付け所が全く誤っていた。事変に関わった辻正信や服部卓四郎参謀は一旦左遷されたが、ほとぼりが冷めると栄進した。この事変の真相を秘密裏に葬ったりしたことを含めて、まさに日本陸軍の恥部ともいえる体質だった。
 安東ではソ連軍と関東軍の戦闘はなかった。安東守備隊は武装解除されて間もなく北方へ移送された。噂では、シベリアへ送られたといわれる。
 安東のソ連軍の最大の仕事は、安東軽金属アルミ工場やその他の工場施設の撤去、鴨緑江上流にある水豊ダム発電設備の一部撤去、安奉線(複線)の単線化による線路軌道の撤去などであった。
 他の地域で日本人婦女子が大量に凌辱された事件があったので、日本人会が水商売の女性に因果を含めて慰安施設を作った。心配された囚人兵は入ってこなかった。従って大量の犠牲者が出る事件はなかったものの、散発的なソ連兵による凌辱事件はあった。彼らが日本人家庭に現れて時計や万年筆等文明の利器を召し上げていくのは、進駐の当初は珍しいことではなかった。

ロ.安東の治安維持機関;

 
終戦直後に安東省政府によって治安維持委員会が組織された。省長だった曹承宗が委員長になり、省次長の渡辺蘭治が顧問となった。ソ連軍はこの治安維持委員会と日本人会を現地折衝の窓口としていた。
 国府側は高吉先を安東市長に任命したが、実際は若干名の特務機関員を治安維持委員会と協力させ、国府軍の入城までの準備にあたらせた。
 一方で八路軍の現地部隊が9月中旬に近郊へ進出してきたが、中ソ友好同盟条約の建前をソ連軍が守って、八路軍を市内には入れなかった。
 満洲事変の記念日の9月18日の前夜、日本の支配の象徴だった安東神社が何者かに爆破された。ソ連軍は日本人の撹乱だと疑った。(八路軍の仕業ではないかと見る向きもあった)

ハ.安東に於ける国共の抗争;

 
国府側と八路側の武力による小競り合いは、何件か発生する。最大の事件が三股流事件である。昭和20年10月末、安東郊外の三股流山地で発生した。ソ連軍の産業設備等の搬出がほぼ終了する頃合いであった。

 日本人会の協和会系(旧満洲国の大政翼賛会)の一部人間が国府特務機関と通じて、国府軍上陸が近いという情報に踊らされて、八路軍勢力と戦うために3百人余の戦闘部隊を動員した。旧警察や満洲国軍の残党、それに偶々安東に来ていた海軍の航空整備・通信部隊を糾合し部隊を組成中だった。
 ソ連軍と相通ずる八路側がこの情報を掴んで、西方から進軍してきた千人以上の八路正規軍が機先を制して攻撃を加えて大勝する。この勝利により安東に八路軍政権が樹立された。ソ連軍は表面中立を装って、国共の両勢力に郊外で戦わせる策略だったのである。
 八路軍には約3百人の日本人徐隊兵の志願兵がいたという。同胞が敵味方に分かれて日本人としては、何の大義もない戦闘をしたのである。まさに戦後の日本人社会の混乱と苦難を、象徴する事件であった。

(この事件は、小説『三股流の霧』文芸書房2009年11月刊に書いた)

ニ.安東に於ける八路軍統治;

 
国府軍が入城するのは1年後だった。八路軍は昭和21年10月末までの約1年間安東で統治を行なう。その間曹元省長や渡辺元省次長を初めとし元官僚、警察関係者などが約3百人が人民裁判に掛けられて処刑された。人民裁判はとても裁判といえない政治ショウで被告人は終戦時の役割だけで裁かれた。余程勇気のある満洲人がいて弁護しない限り、処刑は免れえなかった。
 その後、国共内戦の激化によって、安東の邦人は様々な苦難を経験する。
 
 革命軍たる八路軍の軍紀は厳格で市民から物資を徴発する行為はなかったが、軍事的徴用は技術者の留用と共に、一般人にも厳しく実施された。 

ホ.「民主連盟員」の非人間的な邦人取締;

 
八路軍の手先となって日本人社会を管理し、戦犯の摘発や徴用を行ない、引き揚げ時の最後の瞬間まで邦人の身の回り品を絞ったのが、民主連盟という同胞の日本人の共産主義組織だった。                 (延安からきた日本人共産党員が中核分子だが、多くは俄か共産主義教育を受けた徐隊兵上がりだった)
 一般人徴用の仕事は、前線での塹壕掘り・負傷兵運搬、婦女子の看護婦、農村地帯の労役などである。邦人家庭に生活難や肉親が離れ離れになるなど様々な悲劇を生んだ。

ヘ.安東地区の引き揚げ;

 
国府軍地域で5月から内地遣送が開始された。安東地域の邦人達も焦って自力で脱出を始める。9月以降は転運指揮所経由の遣送列車が安奉線を出発した。
 出発時の荷物検査は民主連盟により苛烈に行われたばかりでなく、連山関付近の鉄道不通箇所が数キロあるのを口実として、約30キロの行程で平坦な県道を通らせなかった。そしてわざと付近の山岳地帯へ誘導した。 引揚者が僅かな身の回り品を放り出すように仕向けて、剥ぎ盗ろうとした。このような数日間の厳しい山岳行で病人や幼児や老人等に、多数の犠牲者を出した。

 国府軍地域では、兵隊の不品行はあったが、邦人の世話人達の優しさにやっと救われる気持ちになった。 10月に入ると国共の休戦は有名無実となる。転運指揮所経由の遣送は中止された。安東地区の邦人は、高い船賃を払い鴨緑江から3回に分け漁船船団を組み朝鮮経由の帰国をする。私自身の家族もこの漁船に乗った。朝鮮の近海で海難事故により多くの引揚者が犠牲になった。

 以上が安東の戦後に於ける日本人社会の状況である。鴨緑江は日清戦争・日露戦争の際に騎虎の勢いで満洲の地に渡る日本人を目撃した。その僅か50余年後に哀れな姿で故郷を目指す日本人達を、再び目撃することになった

日清戦争から太平洋戦争までの半世紀に於ける満洲と安東(了)


日清戦争から太平洋戦争までの半世紀に於ける満洲と安東(その3)

2013-09-08 17:11:55 | 我が故郷 満州(安東)

 本稿は日清戦争から太平洋戦争までの半世紀に於ける満洲と安東(その2)の続編である

7.日本の敗戦から戦後へ

 イ.ソ連参戦の条件;

 昭和20年 (1945年)2月クリミア半島のヤルタで米・英・ソ3巨頭会談が行われた。関係国間で戦後処理条件を討議。対日関連の米ソ間の密約は;
①ソ連がドイツの降伏後90日以内に対日参戦する。
②見返りとして南樺太・千島をソ連へ与える。
満洲の港湾と鉄道について、日ロ戦争前のソ連の権益を確保する。
以上の合意には交戦国中国の預かり知らない内容を含んでいた。

イ. 原子爆弾の開発成功と投下がソ連参戦を早めた;

 昭和20年(1945年)7月17日に、米国は原子爆弾の実験に成功した。この時点で米国はソ連の対日参戦がなくても戦争終結の見込みが立った。
 7月26日に日本に無条件降伏を迫るポツダム宣言が発表される。日本は当時中立国だったソ連に対して戦争終結の仲介を依頼していた。これに一縷の望みを架けていたので、ポツダム宣言を黙殺したまま放置した。
 (ソ連は着々と兵力の国境への移動を行い対日参戦の準備を進めていたが、日本は気がつかなかった)
 米国は8月6日、広島に原子爆弾を投下した。昭和20年5月7日ドイツが無条件降伏した。従ってその3か月後とは8月上旬となる。ドイツ降伏後にソ連は満洲への侵攻を8月中旬に予定していたが、米国による原爆の投下があったので、予定を早めて8月9日未明に決行した。

 ハ.日ソ中立条約があったのにソ連が対日開戦をした理由;

 先立つ4月にソ連は日ソ中立条約(1946年4月期限)を延長せぬ旨通告していた。ソ連が一方的に中立条約を破ったというのが日本の大方の認識だった。しかし先方側から見ればお互い様で、条約は意義喪失したという認識だった。

 中立条約の虚々実々;
 
昭和16年(1941年)4月松岡外相がスターリンをモスクワに訪ねた際、ソ連側の提案でこの条約を締結した。
直後の6月に独ソ戦が始まる。ソ連は諜報活動でドイツの攻撃が至近なことを把握していた。松岡外相はうまく乗せられた訳だ。ソ連側は日本がこの条約で安心して南進政策を進められる利点があると思って日本大使に囁いた。
 松岡外相は6月独ソ戦が始まるや否や掌を返すように「ソ連を攻撃すべし」と大本営政府連絡会議で主張した。その上「関特演」(関東軍特殊大演習)を日本がやった。これは対ソ戦準備作戦(兵員・資材の大幅動員)でありソ連軍の極東部隊を東部に釘付けられる。ソ連は極東部隊を西部戦線に移動せずに、ドイツの攻勢を凌いだ。日本は当てが外れて、関特演は名称のとおり演習で終わった。
 外交が如何に虚々実々であるかの如実な例である。日本は暗号が解読されるなど、情報戦で劣後していた。ソ連は日本を分割占領することを強く主張したが、米国の強硬な反対で断念したという経緯がある。

ニ.ソ連軍の満洲侵攻はどうだったか;
 
Aソ連軍は3方向から満洲に侵入した;

①東部戦線;
 ソ連軍主力の第1極東方面軍が 牡丹江と延吉を目指した。関東軍の主力第一方面軍と最も熾烈な戦闘を繰り広げる。ソ連軍内では中国人部隊の「東北抗日連軍」が越境して諜報活動を行い、要塞見取り図を作成していたので、奇襲攻撃は成功した。ソ連軍は戦車を先頭にして虎頭要塞などを素通りして先へ先へと進む。関東軍の陣地は守備よりは攻撃を優先したものだった。
 関東軍は火力が劣勢で、制空権も相手が握っており、ソ連軍戦車や自走砲の攻撃に晒され牡丹江付近で3万以上が死傷した。8月15日までは戦況が泥沼状態だったが、ソ連側は150から200キロ前進した。
 この地域は開拓団が多い。昭和18年の根こそぎ動員で45歳以下の男子は兵隊にとられ婦女子と老人しか残っていなかったが、戦闘に巻き込まれたり、暴民の虐殺に遭ったり、集団自決の道を選んだりで、多くの犠牲者が生まれた。満洲全土で開拓民の総数は約30万人とされたが、犠牲者数は8万人弱に上ったとされる。これは開拓民総数の4分の1にあたる。

②北部戦線;
 第2方面軍は黒竜江の全沿岸で渡河して侵入した。チチハルとハルピンが目標だった。しかし北満の関東軍の牽制が主目的であり8月15日までに50キロしか進めなかった。

③西部戦線;
 ザ・バイカル方面軍の機械化部隊が最も迅速な作戦をした。大興安嶺を強行突破して、堅固な阿爾山要塞を素通りして、1日に150から180キロ進み、8月14日には首都新京を目前に望む要地、洮(トウ)南に到達した。
 この途中でソ連軍の戦車部隊が婦女子のみの日本人避難民1千数百人を攻撃し、千人以上を殺傷する蛮行を行なった。これが葛根廟事件である。

B戦闘は9月まで継続;

 
日本政府はポツダム宣言受諾を宣言し、天皇が終戦詔勅を放送した。しかし戦争がただちに終結した訳ではない。関東軍司令部は8月16日夜に降伏受諾方針を決定した。同時に大本営からの停戦命令も届いた。しかし各戦場での戦闘は続き、ソ連軍参謀本部は攻撃続行を指示していた。
 日本陸軍とは上部の命令を無視する軍隊だった。局地的な組織的戦闘は9月上旬まで続いた。

主要都市のソ連軍占領は以下の通りである。
赤峰、新京、奉天、チチハル(8月19日から21日まで)、牡丹江、汪清、吉林(8月16日)、大連、旅順(8月22日から24日まで)

日清戦争から太平洋戦争までの半世紀に於ける満洲と安東(その3)(了) 

 


日清戦争から太平洋戦争までの半世紀に於ける満洲と安東(その2)

2013-09-08 14:23:05 | 我が故郷 満州(安東)


日清戦争から太平洋戦争までの半世紀に於ける満洲と安東(その1)

3.ここから日本の満洲支配への道筋を追う

イ. 日本はロシアから南満洲鉄道の経営を引き継いだ;

 
ロシアは清国と条約を(露清密約)結び、鉄道建設に必要な「鉄道附属地」を獲得していた。ロシアはこの条約を拡大解釈し、単なる土地の所有権だけでなく、清朝の行政権が及ばない排他的行政権を認めさせていた。また線路や駅など鉄道用地のみならず、鉄道から数百米も離れた用地をも鉄道附属地とし、鉱山都市などを開発していた。明治39年(1906年)に日本の国策会社南満洲鉄道(満鉄)が設立されると、この鉄道附属地制度も継承した。日本の満洲経営は、清国領土内における日本の治外法権、旅順・大連  (関東州)と南満洲鉄道(満鉄)や付属地からスタートする。 

ロ. 次に張作霖爆殺の陰謀と石原莞爾が起こす満洲事変が続く;

A張作霖の爆殺;

 明治44年(1911年)辛亥革命が成就して清国は滅亡し、各地に地方政権が誕生した。満洲の土地は軍閥・張作霖が支配した。張作霖は当初日本に対し協力的だったが、次第に独自路線を進み北京に進出して中原に覇を唱えようとした。国民党の北伐により北京は陥落し瀋陽に帰還する。その途上で関東軍の河本大佐が彼を爆殺した。昭和3年。昭和天皇は下手人の処罰を厳命したが、その意思に従わなかった田中義一首相は天皇の不興を買い以後謁見を拒否され、内閣は総辞職となる。
 これを反省した昭和天皇が、以後は内閣の決めたことに異論を唱えないことにした(立憲君主の立場)。それが内閣から独立する天皇の統帥権を陸海軍が事実上干犯するという悪習を生んだ。憲法上の矛盾が露呈する(立憲君主制の君主の天皇と、統帥権の長である大元帥陛下が同一人物)。以後の軍部独走の原因となった。

B満洲事変の陰謀; 
 
 張作霖の息子張学良は反日の立場に徹して、満鉄の平行線を建設して満鉄の経営を圧迫する。これに対抗して石原莞爾参謀が画策し学良軍を潰しにかかる。関東軍が自作自演で奉天郊外の柳条湖の満鉄線を爆破しておいて、張学良軍の仕業として北大営を攻撃した。これが満洲事変の発生である。昭和6年(1931年)9月18日。張学良軍が蒋介石の不抵抗方針の指示を受けて日本と事を構えるのを回避しようとした。1万2千の関東軍は朝鮮軍の支援もあって30万といわれた学良軍を相手に5ヶ月で全満洲を占領した。事変そのものも関東軍の独断専行だが朝鮮軍の出動も現地独断で、事後の悪例となった。
 政府は不拡大方針であり、陸軍中央も局地解決方針であったが、関東軍はそれを無視し、自衛のためと称して戦線を拡大した。政府や軍の中央の反対が強く、国際世論の圧力もあった。関東軍は当初の満洲全土を領土化しようとする方針を捨てて、傀儡政権を樹立する方策に方針変更した。そのために清国最後の廃帝だった宣統帝愛新覚羅溥儀を担ぎ出す。

イ.   傀儡政府の樹立;

 
まず東北3省(遼寧・吉林・黒竜江)の各地の有力者で東北行政委員会を組織して、国民党政府からの独立を宣言する。(後に遼寧省は奉天省に改称する)これらの地方政権の自発的統合という体裁をとって新国家を樹立させた。

各地有力者の顔ぶれ;張軍閥麾下の部將が多い。馬占山はすぐ離脱する。

①蔵式毅;陸軍士官学校卒、元国民党軍事官僚、作霖・作良奉天省長
②煕洽;清朝王家の一族、張学良麾下の吉林軍参謀長だった
③張景慶;張作霖の下でハルピン特別区長官、満洲八旗の一名門
④馬占山;馬賊の頭領、張作霖の下で黒竜江省の旅長

ハ.
日蓮主義者の政治行動;

 
この建国会議は勿論関東軍がお膳立したものだが、その会場には満洲国の新国旗となる五色旗もなくて、墨痕淋漓たる「南無妙法蓮華経」の字幕が飾られていたといわれる。立役者石原莞爾の思想的背景を雄弁に物語る。この話はあまり知られていない。石原莞爾は井上日召や北一輝と同じ日連主義者だった。井上は昭和7年一人一殺の血盟団事件を起こして無期懲役となり、北は昭和12年2.26事件の扇動者として処刑された。石原莞爾は、世界最終戦が日本と米国で戦われると予言し、資源に恵まれた満洲を日本の領土に取り込んで備える必要ありと主張していた。彼はドイツに留学中欧州戦史を研究していた。

ニ. 満洲国の実態と成果;

 こうして昭和7年(1932年)3月1日満洲国が成立した。
 溥儀が建国時は執政だったが2年後に皇帝に即位した。首都は長春に置かれて、新京と改称された。   満洲国の建国理念は五族協和の王道楽土の建設であるとされたが日本人主導の政治体制だった。五族は日・鮮・満・蒙・漢の五民族である。王道とは西洋流の覇道に対する君子の統治を意味する。
 関東軍のいわゆる「内面指導」が国の重要方針を決めた。所謂「2キ・3スケ」の要人が満洲政府を動かしていた。
①  東條英機星野直樹鮎川義介岸信介松岡洋右

 満洲国は13年の寿命だったがその間のインフラや各種産業の育成は満鉄時代からの延長でもあった。その成果は見事なものだった。
 その傾斜生産方式の手法や産業育成策などは岸信介らにより、日本に持ち帰られて戦後の経済復興に大いに役立った。

 ホ.国際連盟脱退による国際的に孤立する;

 
国際連盟はリットン調査団を派遣して、満洲事変は自衛措置だったとする日本の主張を調査した。その結果日本の主張は否認され、日本は国際連盟を脱退する。昭和10年(1935年)3月27日正式に発効。

4.満洲という名称(満洲とは土地名ではなく、ここで発祥した民族名である)

 
満洲は清朝の始祖ヌルハチの故地。ツングース系民族の女真族が明の時代に万里の長城外のこの地を平定する。そして「後金国」を樹立し、やがて明も征服し清国となる。満洲族はチベット仏教(ラマ教)を信仰していた。マンジュとは彼らが信仰していた文殊菩薩から来ている。
 清朝成立後、長年父祖の地・満洲には漢民族の移住を許さなかった。清末には漢民族の農民の移住が許されるようになる。移民が増加し満洲国の成立時の昭和7年(1932年)には満洲の人口は約30百万人に達した。多い時期には年に百万人の流入であった。日本人の人口は約60万人になる。
 満鉄と満鉄付属地に役人や商工業従事者、土建屋、運輸業者、その他旅館や料理屋などサービス業が進出した。明治39年(1906年)に満鉄が設立された後の26年間に流入した。
 安東は新たに建設された町でモデル的だった。
 石原莞爾は満洲を無主の土地(no-man’s-land)と位置付けて、日本の征服を正当化しようとしたが、我が国の歴史学者の賛成さえも得られなかった。
 現在満洲族の末裔の人口は約10百万人。東北3省の人口は一億7百万人。圧倒的な漢民族への同化が進み、漢民族の文化に埋没しかかっている。
 ヌルハチの故地は沈陽の東方の135キロ、新賓にある。

 5.日本の満洲への植民政策(開拓民の移住

イ. 農村の余剰人口対策;

 積極的に満蒙へ開拓民を送り込んだ。当時20年間に5百万人の植民を計画した。
 昭和7年(1932年)第一次武装移民団(140名)が佳木斯の東方100キロにある永豊鎮に送られた。開拓団とはいいながら、耕作する土地は地元民から半強制的に只同然の地価で買上げた。第1次開拓団は弥栄村と命名された。次いで第二次武装移民団が七虎力(チフリ)に入植し千振村と命名された。

ロ. 土龍山事件という先住民族の反乱;

 
昭和9年(1934年)3月土龍山事件が発生し、ニューヨークタイムズにも報道され世界の耳目を集めた。地元の自衛団が抗日武装団を結成して千振村を襲撃した。武装移民団の強制的な土地取り上げと、地元民の武器回収や、一部不心得団員の婦女暴行などの非行に、抗議したものである。

 依蘭駐屯の飯塚連隊長が少数の手勢と共に指導者謝文東の説得に出掛けたが、土龍山付近で抗日団に包囲され全滅した。増援の関東軍が飛行機を投入して抗日武装団を蹴散らす。以後5年間も抵抗が続いた。このほか、先住民の反乱は各地で起こった。楊靖宇という反日英雄の名は地名に残っている。

ハ.対ソ防衛を考慮した北満開拓団の配置;  

 北満は治安が悪く匪族が横行。移民団の配置は対ソ防衛上の狙いもあった。

ニ. 派遣者総数;

 昭和7年 (1932年)から黄海の制海権を失う昭和17年(1942年)までに、派遣された人数は27万人とも32万人ともいわれる。地域は主として北満。

6. 支那事変から太平洋戦争へと続く紛争の連鎖

イ. まず支那事変が勃発し長期化する;

 
昭和12年 (1937年)日本の華北駐留軍と蒋介石軍との武力衝突が発生した。日本軍の駐留は義和団事件後の北京議定書による。各国も駐留していた。この盧溝橋事件(支那事変)が発端で、中国側が徹底抗戦(ゲリラ戦)する。太平洋戦争迄は宣戦布告なき戦闘が続く。中立国の援助継続を望む中国側の思惑と、国際的非難を恐れる日本側思惑が一致して、事変と呼んだが立派な戦争であった。何度かの停戦の機会を逸しながら、日本政府や陸軍中央の不拡大方針にも拘らず戦線は拡大してしまう。
 南京陥落後蒋介石が重慶に首都を移し戦争が益々長期化する見通しとなる。

【この間昭和14年(1939年)、欧州ではドイツがポーランドに侵攻した。第2次大戦の勃発である。独ソ戦は必至となる。独は日独同盟を迫ってくる。日本はドイツを半年待たせ、昭和15年(1940年)日独伊3国同盟締結。】

ロ.日本の南進政策に対し米・英・和が経済制裁で対応; 

 日本は事変長期化を嫌い援蒋ルートの遮断を画策、仏のヴィーシー政権と合意の上で仏印(ヴェトナム)へ進駐した。昭和16年(1941年)7月。これが東南アジアを植民地としていた米国、英国、オランダなどを刺激する。
 米国は7月在米日本資産を凍結、8月石油輸出全面禁止の厳しい経済制裁を発令し、英国、オランダもすぐ同調した。(ABCD包囲陣と呼ばれた)
 この制裁は日本にとって致命的なもの。日本は石油や鉄、工作機械等の70%以上を米国から輸入していた。当時国内の石油備蓄は民事・軍事を併せて2年分、禁輸措置は日本経済に対し破滅的な影響を与える恐れがあった。日本は益々南進政策によって資源の確保に走らざるを得なくなった。

ニ.日米交渉決裂と日米開戦;

 
日米交渉は難航する。最終的に米国が「ハルノート」という屈辱的な条件を突き付けて交渉は物別れとなった。(ハルノートとは中国と仏印から日本の軍、警察力の撤退や日独伊三国同盟の破棄などを要求するもの)
 昭和16年(1941年)12月8日の真珠湾攻撃によって日米開戦となる。
 こうして見ると満洲事変・支那事変・太平洋戦争は因果関係で連鎖する。

日清戦争から太平洋戦争までの半世紀に於ける満洲と安東(その2)(了)


日清戦争から太平洋戦争までの半世紀に於ける満洲と安東(その1)

2013-09-08 12:02:58 | 我が故郷 満州(安東)


 8月15日から8月18日にかけて、私の旧満州での終戦体験について、4回に分けて投稿した。
 私はある会で『日清戦争から太平洋戦争迄の半世紀に於ける満洲と安東』という題で講演を行ったことがある。その演題は上記『私の終戦体験』の歴史的背景であったので、ここに若干手直して再録することにした。

1.講演会の幹事が私の昔の同級生だった関係で、『旧満洲・安東の話をして欲しい』という依頼となった。

イ. 旧満州の安東という場所;(現在は丹東と改称されている)

①安東は旧満洲(現中国)と朝鮮(北朝鮮)の国境を流れる全長790キロの大河、鴨緑江の河口の町である。(現丹東市は人口2.4百万人の大都会に発展し、北朝鮮関連ニュースでTVによく登場する場所でもある)。 

②19世紀末日清戦争が朝鮮の国で勃発し、清国領土(満洲)へ拡大する。
第一軍(山縣有朋軍)は明治27年(1894年)10月25日に安東の上流の九連城を無血占領した。日本軍が初めて清国領土へ足を踏み入れた時だ。日露戦争は日清戦争の第二幕ともいうべき戦争。10年後に勃発する。

明治37年(1904年)5月1日に第一軍が(黒木為軍)朝鮮の義州から渡河して、九連城を占領した。戦争が 本格化すると兵站の便宜の為下流に鉄橋を渡し、両岸の芦原に安東と新義州の街を作った。つまり安東は日露戦争を契機として日本人が作った町なのである。

③満洲と朝鮮は日本にとって、日清戦争から太平洋戦争に敗戦するまでの半世紀の跳躍台になった地である。我々が少年時代を過ごした安東は日本の満洲進出の出発点となった。安東には後の首相吉田領事がいた。

ロ. 日本が朝鮮や満洲に進出した時代背景の特徴は;

 当時は帝国主義の時代で、国際社会においては現代よりもずっと露骨な弱肉強食の時代であった。まさに食うか食われるかの時代である。19世紀の半ばに欧米列強はアジア諸国に次々と迫ってくる。
 老大国清国は国内各地でアヘン戦争や太平天国の乱があり、19世紀末には義和団事件(北清事変)などの対外抗争が頻発し、欧米列強の門戸開放の要求や不平等条約締結の草刈り場になる。
 (嘉永6年 (1853年)。日本もペリー来航により同様に開国を迫られた。その14年後の1867年に日本は太政奉還により明治維新を実現する。爾後の旧速な近代化により日本は遅れ馳せながら列強の競争に参加する。
日本は被害者から加害者の側に回った訳である)
 1911年に辛亥革命によって清国が滅亡してからも、中国は各地に軍閥が割拠して、統一的な国民国家とはいえない状況であった。
 19世紀後半帝政ロシアは不凍港を求め南下政策の野望を露わにする。19世紀半ばの愛琿条約、南京条約で黒竜江左岸の広大な領土を簒奪した。                                

ハ.我が国の国際社会における重要な今日的な課題の一つは;

 中国、韓国、北朝鮮などの近隣諸国との関係である。これらの国からは歴史認識という問題を常に突き付けられる。
 日本人は一般的に言って忘れっぽい国民だといわれる。特に加害者の立場になったこれら諸国との関わりを忘れている。というよりは近・現代史に疎くてあまり歴史的事実をよく知らないのである。
 いつまでも昔のことを根に持っているとつい反発したくもなるが、政治家などが全くの無知で不用意な発言するのが相手国民の感情に火をつける。
 これは受験本位の中・高の学校教育にも責任がある。年代別に編纂された教科書では、近・現代史は最後になるので大体は端折られてしまう。本当は現在の諸問題に直結した近・現代史を最初に教えるべきではないだろうか。

2.日清戦争から日露戦争への道筋

イ. まず日清戦争はなぜ起きたか?;

 一言でいえば、清国の属国だった朝鮮を日本が手に入れようとしたからだ。あらゆる機会を利用して軍事力を行使し、その結果清国と衝突した。

 朝鮮王朝は500年続いた。14世紀末李成桂が高麗を滅ぼして建てた王朝である。朝鮮はそれ以前の百済・新羅・高句麗三国時代から、中国の属国だった。
 日本は秀吉時代に二度の戦役で一時は朝鮮全域を占領した。徳川時代には朝鮮通信使や日本の使節団が相互往来し平和的な交流が幕末まで続く。鎖国下の日本にとって朝鮮は唯一の外交関係のある国だった。
 明治維新後は明治政府が朝鮮王朝を臣下である旧徳川幕府と同等のレベルと見做して、国交を再開しようとする。それで反発を招き交渉は難航し七年間を要した。近代の日朝関係はそういう段階からスタートしたのだ。

 日本が朝鮮を支配するに至ったには、幾つかの要因があった。 

A最大の要因は朝鮮王朝に熾烈な権力争いがあったこと;

 その政治が旧態依然だったこと。国王の実父大院君に国王と閔妃が対立し、日本はそこに付け込んだ。

B次に日本の伊藤博文首相と知恵袋陸奥宗光外相の巧妙な内政介入

 大体は弱い方の大院君を利用する。朝鮮を近代化しようとする勢力を支援する。守旧派である国王と閔妃や、宗主国の清国と対抗する構図となる。

C日清戦争の直接の契機は東学党の乱;

 これは農民の蜂起で民生の改善と日・欧の侵出を阻止する運動。朝鮮王朝が清国に派兵の要請をしたので、日本も出兵の口実ができ、朝鮮で両軍が衝突することになった。

ロ.日清戦争の経過と結果;

A日本の勝利は大方の予想外だった;

 朝戦王朝も諸外国も清国が勝つと信じていた。清国軍は内部腐敗で弱体化していた。海戦でも陸戦でも日本は連勝し遂に清国が停戦を申し入れる。

日本が下関条約で清国から戦果を手にする。(眠れる獅子が豚だった、といわれた)

①朝鮮が清国から独立した(日本の朝鮮への影響力が増大する)。

②台湾・遼東半島の領有権と多額の賠償金を獲得する。

 しかし露・独・仏の三国干渉によって日本は泣く泣く遼東半島を返還させられる。日本の国力はこれら三国には対抗できなかった訳である。

B朝鮮王朝がロシアとの親密化工作に走る、首謀者閔妃を日本が暗殺する;

 清国の後ろ盾を失った閔妃と国王は日本の圧力と対抗するために、頻りにロシア公使館に働きかける。三国干渉で日本の権威が地におち日本の勢力は大幅に後退する。危機を感じた三浦梧楼公使が画策して大院君を擁し閔妃の暗殺を決行する。国王は万事閔妃の言いなりで、閔妃が実力者だった。
 明治28年(1894年)の10月8日。「国母」を日本人が殺したということで王朝の悪政に苦しんでいた筈の民衆が大いに怒る。各地で反日の義兵運動が盛んになる。この事件は現在でも半島の人は誰でも知っている。

ハ.日露戦争はなぜ起きたか?;

A朝鮮のロシア接近を日本が阻止ようとする;

 国王がロシア公使館に移って、公務を行なうようになった。親日内閣に代わり親露内閣が成立する。ロシアは三国干渉で日本の遼東半島割譲を阻止した後、大連・旅順を清国から租借し、満洲に鉄道を敷設し権益を拡大する。
 一方朝鮮国内でも鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの権益を取得して影響力を増す。日本はロシアの南下政策に危機感を持った。朝鮮にこれらを買い戻して回復させ、正面からロシアと対立する。
 ロシアは1900年に清国の義和団事件の機会を捉えて満洲を占領し居座る。 

B 日露交渉の決裂と軍事衝突;

 日本とロシアの間で朝鮮での支配領域や権益調整の交渉が開始される。ロシアの高圧的な姿勢によって交渉は決裂し、日本は国交断絶を宣言する。
 大国ロシアは自国の方が望まない限り戦争にはなるまいと多寡を括っていたが、明治37年(1904年)2月に、日本が旅順港を奇襲し、引き続き仁川沖で両海軍が衝突して、戦端が開かれる。日露戦争の勃発である。
 英国は明治35年(1902年)日英同盟を締結していた。英国は軍事・経済両面で日本を支援する。清国は中立を宣言した。大韓帝国も中立を宣言したが、戦況が日本有利に傾くにつれて進歩派が勢いづく。国内では日本追随の機運が奔流となった。一方伊藤博文は明治42年ハルピンで朝鮮人安重根に暗殺される。
 翌年(1910年)日韓併合が実現する。伊藤は併合に反対だった。

 .日露戦争の経過と結果;  

A日本は勝利するが、まさに綱渡りの勝利だった;

 明治38年(1905年)ロシア国内で連戦連敗の報に民衆の蜂起が頻発した。日本も国力をすべて使い果たしていた。そこで米国の調停を渡りに船として、停戦に応じる。奉天会戦に勝利し、日本海海戦に大勝した好機を捉えた戦争終結だった。

Bポーツマス条約で日本が手にしたのは;

①南満洲に於ける鉄道経営の利権(南満洲鉄道;長春から大連・旅順)
②遼東半島の旅順・大連(関東州)の租借権
③南樺太・千島の領有
④しかし賠償金は1銭も取れなかった。
戦争の実情に無知な民衆は政府が弱腰だと非難、日比谷で焼打事件起こる。

C一方で日露戦争の世界史的意義は大きいものがあった;

 「白色人種の絶対王政」が「有色人種の立憲君主制」に敗れたと、波紋を呼んだ。その影響はロシアの植民地地域やアジアで独立・革命運動が高揚する。

①清朝では孫文辛亥革命が成功;
オスマン帝国では青年トルコ革命
③ペルシャのカジャール王朝では立憲革命
仏印(ヴェトナム)では東遊運動(日本への留学が流行);
英領のインド帝国ではインド国民会議が開催される;

『日清戦争から太平洋戦争までの半世紀に於ける満洲と安東』(その1)(了)