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池田昌之です。

このブログはあるゴルフ倶楽部の会報に連載したゴルフ紀行が始まりである。その後テーマも多岐にわたるものになった。

ゴルフ紀行その14 モロッコーー「陽の沈む国」でのゴルフーー

2012-07-04 11:50:42 | エジプト / モロッコ

モロッコ-----「-陽の沈む国」でのゴルフ----

 八月下旬の午後の日を浴びて、カサブランカからラバトまでの道を車が疾走する。16年前の1996年(平成8年)だった。赤茶けて乾いた土の原を過ぎると、ユウカリの疎林が続いている。ユウカリは 豪州から輸入されこの地で育ったものと いう。続く樹林はミモザだ。アトラス山脈が南の壁となってサワラ砂漠の乾燥の侵入を防ぎ止めているとはいうものの、モロッコは基本的には乾燥地帯である。  ここでは土が乾いている。緑は自然に繁茂するというよりは、目立たないがやはりいろいろ気を使って育てているのではなかろうか。

 ラバトのハイヤット・リジェンシー・ホテルの庭園はこの土地としては贅を尽くしたものであろう。ホテルの裏側に規則正しい幾何学的な遊歩道が、はるか遠くまで続いている。その遊歩道に縁取られて、20メートル四方ほどの緑の芝生の絨毯が十枚ばかり縦に並んでいる。各々の絨毯には、ひとつおきに星型の噴水と一対の低い椰子の植木が配置されて、篝火用のポールがマチ針を刺したように並んでいる。
 隣地にはこんもりとしたユーカリの林と、行儀よく刈り込まれた糸杉の木立に囲まれて、星型のプールが青い水を湛えている。ここはこの土地のパラダイス(楽園)なのである。
 アラブの衣装を纏った長身の男たちが数人遊歩道を行く。黒いヘッドギアの頭巾と長衣の裾を夕風になびかせながら、早足に歩いている。只のそぞろ歩きではなく、商談の最中のようである。

 翌日は、ゴルフ・コースの予約を手配してあった。我がガイドのモハンマド氏が、水色のジュラバ(フードつきのガウン)にバブーシュ(スリッパ型の皮靴)という民族衣装を纏い颯爽と現れた。なかなかの男前でまだ活きのいい働き盛りの年齢だが、頭は禿げ上がっている。結局彼が旅程のすべてを付き合ってくれることになった。流暢な英語を話し、時々日本語も口から飛び出してくる。
 当地の名門ゴルフ場、ロイヤルゴルフ・ダル・エス・サラムは車で10分位走った森の中にあった。和訳すると「王立平安の館・ゴルフ場」とでもいうところであろうか。
 ところが、緑色のタイルを張った立派な門には何故か車止めの白いバーが降りていて、門番が入れてくれないのである。ガイド氏がなにか門番と交渉している。どうやら電話を借りて、クラブハウスと話しているらしい。そのうち、やっと門が開かれてクラブハウスの前までくることができた。だがその後もなかなか物事が進まない。
 そのうち白い作業衣の若い男がスクーターを運転して出てきて、一言二言叫ぶと門の方に走り去った。ガイド氏はこの時まで何を聞いても『ノープロブレム』と言を左右にしてなかなか事情を明らかにしなかったが、このときになって一切がはっきりした。
 つまり、その日は月曜日でゴルフ場は定休日だったのである。事前の予約とか確認とかいうことは、一切していないことは成り行きから明らかである。それが怠慢によるものなのか或いは当地はすべて行き当たりばったりのやりかたが通用するためなのかは、よく分からない。ガイド氏が適当に鼻薬を効かしたのかもしれないが、とにかく当直員らしいスクーターの男が貸しクラブなどを格納してあるらしいロッカー・ルームの鍵を取りに、近隣に住む担当者の自宅へ向ったという次第であった。

 クラブハウスの外観は白を基調とした、清潔だが何の変哲もない近代的な建物であった。用意したシューズを電動カートの陰で履き替えて、そのまま出発である。橙色のシャツのキャディがその白い カートに同乗しコースに向う。クラブには18ホールのコースが3つあり、我々はルージュ(紅)コースでプレイすることになった。スコア・カードはフランス語で表記されている。フランスの植民地だった頃に、この国の近代化が進められたというが、その約40年間の影響だろう。

 コースはよく手入れが行き届き、フェア・ウェイは平坦で広々としている。くねくねと曲がった幹が目立つ濃い緑の林が、各ホールをしっかりと隔てている。この日は休業日で、コース・メインテナンスの日なのであろう。フェア・ウェイのあちこちで散水弁が開かれて、まるで噴水の街道を行くかのようである。
 3ホール程プレイした後で、キャディが自分もプレイするのでベット(賭け)をしようと申し込んできた。3ホールで、こちらの実力を見極めたに違いない。彼のスイングはプロのように美しい。彼の言いなりのハンデキャップで始めては見たものの、これはしこたま剥ぎ取られてしまうのかなとちょっと心配になった。旅の前にモロッコの旅行案内を読んだ。悪徳私設ガイドの話や、騙されて金をまきあげられたり、法外に高いものを押し付けられたりした話がさんざん書かれていたからである。
 コースの中ほどにかなり広い池があった。水面には水草の葉が一面に浮いている。フェア・ウェイとの高低差が殆どない。水辺にはススキのような植物の群生が白い穂を頂いている。曲がりくねった枝々が涼しい蔭を落とし、遠景に二本の糸杉がぼんやり立っている。そして反対側の岸には、葉鶏頭の紅い花が一面に咲いている。白鷺が数羽水辺の餌をあさっていた。

 プレイを終えてクラブハウスの前に戻る。我がガイド氏があくびを噛殺したような顔で待っていた。前方のメンバー専用らしいコースを、西洋人のプレイヤーが手引きカートを引っ張って歩いていく姿が見えた。矢張り定休日とはいっても、ここは「なんでもあり」らしい。
 さて、問題のキャディとのベット(賭け)の精算だが、確か5-6ホールは負けている筈なのにもじもじしてはっきり言わない。そこでキャディフィーに休日手当て的なチップとベットの負け分を胸算用で加えて払うと、彼ははにかんだような表情で感謝の意を表すと立ち去って行った。私の心配は杞憂だったのである。内心、少し恥じるものがあった。

 モロッコへの旅でいきなり最も「それらしくない所」へ来てしまったようだ。ここはモロッコの中の西欧なのかもしれない。細かい旅程のことは現地のガイドに任せるほかなかったからである。でも人影のない自然の中でキャディと二人で黙々とプレイをする一種透明な時間も、おおらかでまんざら悪いものではないと思った。まさにクラブの名称の通り一刻の平安を楽しんだのである。
 
 モロッコでのゴルフと銘打って置きながら、モロッコらしくないゴルフ場のことを書いてしまった。モロッコの特色を書くために、ここで幣著の紀行・イスラムとヒンドゥーの国々を巡って、モロッコ編から若干抜粋した部分を記載してみたい。
 ゴルフ場のあるラバトはモロッコの北部にありで大西洋に面している。割合こじんまりした落ち着いた古都で、モロッコの現在の首都である。モロッコを舞台にした映画は、外人部隊のことを描いている「モロッコ」とか第二次大戦中の悲恋物語の「カサブランカ」がある。いずれも古典的名画とされているが、この土地と住む人々は主題ではなくて、単なる舞台装置に過ぎなかった。


 
 ラバトの町で心を惹かれたのはその絵画的な美しさだった。午後の海岸に立つ。大西洋がコバルト色に広がり、そして褐色に続く海岸の向こうに、隣街のサレの真っ白な市街が眩しく映えている。   ラバトの海岸はキャンバスにコバルトの絵の具をぶちまけ、手前には地の色の褐色が少し残り、上部に白の絵の具で一本太い線を引いた感じである。
 面白いことに、昼食に入った海岸のレストランがまさにこの海岸の風景のミニアチュアであった。まずインテリアは褐色で統一され、白いテーブルクロスに、コバルトブルーのクロスが45度ずらして各辺から三角巾が垂れ下がるように掛けてある。配膳のカウンターにもコバルトブルーのクロスが垂れ下がっている。


 
 サレの街とラバトを隔てるのは、ブーレグレグ川である。両川岸は地元の人たちの格好の水浴び場になっている。河口に近い場所なので水の色は海と同じコバルト色で、真っ赤に塗られた船体に白いブリッジを乗せた船が、ブイのついた長いロープを引きずっている。漁でもしているのだろうか。ここでは見るものすべてが絵画的である。
 それにしても川の名前のブーレグレグは、奇妙だが何となく口にしてみたい響きだ。その意味するところをガイド氏に聞いた。ベルベル語で川の流れる音からとった名前だと言われたような気がする。それが間違いないとするならば、心地よい安らぎを与えてくれる川音の擬音は、いわゆる1/f のゆらぎの振動数を持つ音である。そよ風や心臓の鼓動にも似た、宇宙の振動との同調を思わせる素敵な名前である。その言葉の意味について確認が取りたくて、旅の後に東京のモロッコ政府観光局に問い合わせてみた。しかし観光局は閉鎖されたという。モロッコ大使館に照会して見た。男の係官が出てきて、『分かりません』という。『ええ?』と訝ると『いや、本当に分からないのです』と、繰り返す。愛想のない応対であるが、どうやら本当に知らないのだろう。
 実はここにこの国の国柄が隠されている。北アフリカの北西部には、紀元前から先住民としてベルベル人と呼ばれる人たちが住んでいた。「ベルベル」とはもともとギリシャ語の「バルバロス」から来た言葉で、意味の分からぬ言語を話す野蛮人という意味だった。
 このベルベル人がどこから来たのかは定かではなく、言語系統としてはハム語族と分類する説もあったが、文字らしい文字を持たなかったために歴史的文献もなく、はっきりしないのである。この地に勃興したベルベル人の王朝は、有史以来何度となく外部から侵入してきた他民族の征服を受けて、比較的短い寿命の興亡を繰り返してきた。八世紀のアラブの侵入以降は、急速にイスラム化し言語もアラビア語を受け入れアラブ化したのである。
 勿論アラブとの混血も進んだ。現在も、ベルベルのアイデンテテイと固有の文化を墨守している人たちはいるが、山間部や砂漠地帯のオアシスに追い遣られている。現在モロッコ語といえば、それは アラビア語である。従ってブーレグレグとはどういう意味と聞いても、正しい答えが帰ってくるのは無理なのかもしれない。
 我々が「知床」という地名はどういう意味かと外国人に聞かれたら、それがアイヌの言葉の読み替えという想像はつく。その原義は「地の果て」ということだそうだが、よっぽど物知りでなければ説明できないのと同じなのかもしれない。

 ラバトからこの国最古の都フェズへ汽車の旅をした。モロッコを語るとしたら、欠かせないのはメディナであろう。メディナとは古い街区のことである。フェズの旧市街は生活空間であり、商工業街区でもある。フェズでは暑さを避けるために、摺鉢の底のような窪地に、折り重なるように密集している。その街を迷路のような通りが縫っている。
  
 フェズ駅のある新市街から旧市街へ入り、車を乗り捨てて歩くとすぐ王宮の前へ出る。アーチ状の正門は金色の扉で閉ざされている。門の彩色は、上品な灰色がかったブルーが基調で、フェズ・ブルーと呼ばれている。そして緑の線が輪郭を引き締めている。見事なその門に見とれて数えてみると、アーチの数は3つある。門の最上部は、さらに細かいアーチの集合で飾られているが、その数は9つと、その倍の18だった。

 モロッコでは随所でこのアーチを見かけるが、その数は3つか、5つである。フェズ駅は5つであった。ただの通用門とか補助的な側門のように1つの場合もある。2つ一対のアーチを見かけることは  皆無ではないが稀である。ピタゴラスの数秘論など古来伝えられている数の秘義によれば、1はすべてを包含し、2は陰陽のごとき対立を、3は2にもう1つが加わって調停、調和であり、5は手足の指の数で創造を意味する。9には定説がないが3掛ける3で、宗教的な悟りであるとする見方もあるようだ。アーチの数にこのような数の秘義を当てはめて考えるのもあながち見当はずれではないのではと思う。我々の身近で見られる仏塔の場合にも、三重塔や五重塔、また搭上の九輪に、同じ数の意味を当てはめることができる。人間の認識が文化の伝統の相違を超え、根源的な共通性を持つような気がして興味深い。

 ブー・ジュルード門の堂々とした3つのアーチを通して、旧市街フェズ・エル・バハリの雑踏とモスクの塔が望見される。コバルト色の空を背景に、ジェルード門のフェズ・ブルーのアラベスク 模様が美しい。フェズの顔と呼ばれている門である。

 

 メディナの中のスーク(市場街)は、ほの暗い無数の迷路が縦横に走っている。ガイドなしでは、たちまち迷って立ち往生してしまうだろう。狭い迷路を人間ばかりでなく時には羊の群れや、荷物を一杯に積んだロバなども罷り通る。

 路上にゴザを敷いて雑多な売り物を並べている。                                                                                                                                                                               店構えの食品店があった。間口が狭いその壁には、びっしりと商品が陳列されている。戸口の前には白い布でカヴァーされた笊が置かれ、商品が円錐状に積み上げられている。すべてが整然として  美しい。
 絨毯屋の内部には入り口からは想像もできない広壮なパティオがある。パティオを囲んで、三階建ての回廊が店内を見下ろしている。屈強な若者たちがそのパティオの床に、次から次へと見事な手捌きで絨毯を繰り広げていく。魔術にかかったようになり、とうとう小ぶりのベルベルの絨毯を一枚買ってしまった。後から冷静になって反省した。つい気圧されて大胆に値切ることができず、矢張り高い買い物をしてしまったようだ。

 スークには真鍮細工、木工細工などの手工業の街区があるが、その中の圧巻は皮なめし職人の地区であった。狭い階段を登って陽光に晒された屋上に出る。そこからフェズ川の川岸に向って、かなり広いテラスが続いている。テラスの床には数多くのコンクリートで固めた楕円形や長方形のピットが掘られ、そこに色とりどりの染料が湛えられている。そしてなめされた皮が、周壁一杯を覆うように吊るされている。皮なめしの強烈な匂いから解放されて、別天地のように静謐なメデルサ(神学校)に入る。大理石を敷き詰めたパティオには噴水があり、明るい空が眩しかった。
                
 メディナのところどころには、空に向って開かれた小広場がある。その一つの広場で、プラタナスの大木が心地よい日陰を作っていた。傍らのカフェで、ミント・テイーを楽しんでいると、子供達の歌声がした。誘われて歌声の方に近寄ると、通路の壁に窓枠もない大きな開口部があった。ここはメディナのメクテブ(初等学校)なのだろうか。内部は白壁に土間だけの空間で、粗末な木製のイスに腰掛けた10人あまりの子供たちがいた。若い女性が先生役なのであろう、子供達にコーランの一節を暗誦させている風であった。
                 
 フェズの後マラケッシュの町に行き、ここでベルベルの文化に触れた。これは割愛する。

 双六ゲームの賽の目が「振り出しに戻る」を出してしまったわけではないが、出発点のカサブランカに戻る。カサブランカという詩的な響きの名前を持つこの都市は、古い伝統の顔と貿易港としての  近代的な顔という2つの顔を持っている。しかし最も外来者の目を奪うのは、抜けるように青い空や大西洋と、白い街のコントラストである。
 昔話に『塩を挽き出す魔法の石臼が海の底に沈みいまだ廻り続けているので、海水が塩辛い』というのがあったが、ここでは、コバルトブルーの絵具を吐出す魔法のチューブを空と海のどこかに置き忘れてきたのではないかという冗談が出てきそうだ。
 
 街から太平洋に突き出した突端に、前国王ハッサン二世の建立したモスクが壮大な威容を見せており。その石畳の広場は八万人を収容できるという。モスク全体はベージュと緑のシンプルな彩色である。二重の屋根に守られた伽藍の前面中央には、高さ2百メートルというミナレット(尖塔)が屹立する。頂上の小塔は金色の三連珠を頂き、主塔の上端には緑色のアラベスク模様の帯を巻きつけたかたちである。上部には5つのアーチが、低部には3つのアーチが開口している。この地のモスクの典型なデザインである。
簡潔でつよい造形のセンスと、洗練された色彩感覚は、きっとこの地の風土が、乾燥と必死に戦う精神が生んだものに違いない。

 

 午後の日が、大西洋に落ちようとするとき、この街は昼間の輝きを失って淡い茜色の中に浸っていく。マグレブ(日の沈む場所)にはそこはかとない寂寥感が迫ってくる。
 これは、旅の終わりの旅愁であろうか?それともモスクに象徴されるイスラムの終末観の反映なのだろうか?
アラーを唯一の神と戴き、この世での勤めをまじめに果たせば、最終の日の審判で天国の至福へと導かれる。人々はそう信じて今日の勤めを終えて夜の休息につく。
夜の帳に吸い込まれ輪郭が薄れていく街々、その中であちこちのモスクのミナレットは、日の終わりの残光を集めて立ち続けていた。(了)

 


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