本稿は9年前に国際善隣協会フォーラムで行った講演に手を加え、再録したものである。字数が多いので分割し(その1)とした。
何しろ小学校5年から6年生にかけての子供の経験である。やはり視野に限界はある。 旧満州には約20年前の対外解放直後に2回、ここ3年で5回足を運んだ。それからいろいろ文献や資料を読み、当時の自分を取り巻く状況を調査した。つまり子供として生きたあの時代を、大人になって追体験したものということになろうか。従って、自分の目で見たことや体験したことが主軸になっているが、読んだり聞いたりしたことで補完し、私が住んでいた旧安東という場所で、終戦から帰国迄に何が起きたかを語ることになる。
私の一家は終戦の1年2ヵ月後昭和21年10月5日に朝鮮との国境を流れる鴨緑江で漁船に乗り込んだ。3~40隻の船団を組んで荒海を渡り北朝鮮に上陸した。北緯38度線を歩いて越境した。昭和15年末に渡満したときは小学校に上がる直前のことでその際は僅か一昼夜の行程だった。しかし帰国の旅は、船や徒歩、あるいは鉄道などで約40日間にも及んだ。
終戦後の1年有余の期間には、他の地域で邦人が直面したのと共通する状況もあった。ただ安東という場所には、歴史的な経緯からくる特別な事情が あり、地理的要因も加わったので、対ソ連の戦闘地域となった北満と比べると、状況の酷さは遙かにましなものだったように思われる。
安東の歴史的事情とは;
イ)第一に安東は昔から現地人が住んでいた街ではなく、そもそも最初から日本人が作った街だったということである。
ロ)それと工業地帯が市の外れにあったことだ。進駐したソ連兵の主力はそちらに向った。
郊外の2~30キロ離れた大東港の建設で山東苦力が一時は数万人もいた。終戦間際に「物動計画」が破綻して資材の供給が途絶えたために解雇されて、山東に帰郷していたことも幸運だった。つまり 暴徒になる予備軍が居なかったということだ。これらの要因が相俟って、満州の他地域で見られたような大規模な暴民の略奪や虐殺などがなかったものと考えられる。
終戦当日の状況;
8月15日は夏休中だった。私は学校に行き校庭の砂場で空中転回の練習をしていた。正午にラジオで重大発表があるというので急いで帰宅する。近所の大人たちが群がっていた。私の母親が顔を上気させて、目を泣き腫らしていたのを目撃する。
翌8月16日全校生徒が集められて、校長の訓辞を聞くことになる。広い校庭があるのに、わざわざ校舎の脇の菜園に整列させられた。苦労して作った菜園を踏んでもいいというので、何か大変なことが起きつつあると感じた。
大人たちはうすうす戦争の雲行きが怪しいと感じてはいたように思うが、敗戦という事実は大方の日本人にとってまさに青天の霹靂だった。ところが、 満人や朝鮮人(ここでははすべて当時の呼び方にならう)の間ではとっくに情報が行き渡っていたようだ。翌日8月16日になると、いつの間に用意して いたのか満人街には数多く青天白日旗が立てられ、朝鮮人の一団がトラックに太極旗を押し立てて、気勢を上げながら町中を走り回った。我々は突然の事態の急変に対してただ狼狽するだけだった。本当に迂闊な国民だった。我々が特別ぼんやりしていたというより、日本国の体制そのものが満人や朝鮮人から滑稽にみえるような迂闊さを生んでいたという意味である。
私の父は安東省の省公署に勤めていたのだが、昼間から泥酔して帰宅した。朝鮮人をぶった切ると怒鳴って日本刀を持ち出そうとした。家族全員で取り縋って必死に止めた。本当は酒を飲んで悲憤慷慨しておられる状況ではなかったのだ。しかし、突然信仰の対象の大伽藍が音を立てて崩れるのに直面したようなものなので、平均的日本人としては無理もないことだった。この日朝鮮人たちは川向こうの新義州の集会に参加する途中に示威行進をしていたのだ。一応事前に官憲に了解を求めてきたそうである。この期に及んで態々了解を取るというのが、いかにも安東という土地柄を示す話である。 遙か北方の東辺道では朝鮮人が邦人虐殺に走ったという。
終戦の何ヶ月も前から、満州国崩壊を予期した事件が安東近辺でも起きていたらしい。ただ日本人だけが知らないか、或いは官憲は知っていても報道されなかったのだろう。
終戦直前の胎動;
20年5月:市の郊外各地で安東抗日青年救国会が組織された。
20年6月:安東県大狐山の製油工場でストライキ発生。
この頃、医療日本人技術者を地方に招いて将来の留用を準備するための首実検の動きあり。
安東にはソ連軍進入と同時に避難民が安奉線の列車で大量に流入してきた。その結果安東の日本人人口はたちまち約2倍の7万人に膨れ上がった。その対応のためまず疎開本部が設けられた。新京から派遣されてきた金沢辰夫氏らが中心になった。国際善隣協会の事務局長の金沢毅氏の父君だ。新京では税務司長をしていた。間もなく終戦になり、安東省の満人首脳を中心として治安維持会が発足した。新京での東北治安維持委員会の設立に伴い、各省や各県でもこれにならった。
首都の新京では武部総務長官が協和会の三宅中央本部長とともに治安維持会に請われて日本人を代表して委員になった。引続き安東で日本人会が発足し疎開本部は日本人会に吸収されたが、その主目的は流入した避難民の救済事業だった。
終戦前後の動き;
8月12日:長春その他各地から難民の流入が始まる。以降安東を素通りして朝鮮へ向う難民もいたが約3万5千人が滞留して安東の人口は約2倍の7万名に膨れ上がった。満人街(当時の言い方)の規模は30万。難民は一時的に学校・寺院・工場などに仮収容された後に、一般家庭に分宿させる方針だった(これから寒い冬に向うという配慮)。 8月15日:疎開本部の設立。渡辺省次長、金沢辰夫氏(新京より派遣、元税務司長)。
8月17日:日本人会発足。
8月18日:安東にて治安維持委員会発足。(委員長:曹承宗前安東省長、顧問:渡辺蘭治前省次長。
8月19日:新京にて東北地方治安維持委員会発足。委員長張慶恵元総理、副委員長蔵式毅参議。従来の満州国政府の政務一切を引き継ぐ。(日本人委員;武部総務長官、三宅協和会中央本部長)。 地方も省、県別に治安維持会を設立することになった。
私の父は50歳で戦時下でも根こそぎ動員を免れたので、我家は一家7人の大家族だった。 市内の治安は当初比較的良く大規模な暴動の発生はなかったが、散発的に強盗事件が発生したので、隣組の協力で近隣ブロックの入り口に、 木製の大扉を設置した。近所で、何か怪しい動きがあると金盥を叩いて撃退する作戦だった。
ソ連軍の進駐; 敗戦のショックに続いて、「ロスケ」(当時のソ連兵の呼び方)がやって来るらしいという噂が街中を駆け巡った。奉天では、ソ連兵が片端から略奪をしたり婦女子に乱暴したりしているという恐ろしい話が聞こえてきた。ソ連軍の先遣部隊は予想より早く8月下旬にはやってきた。入城の日には我々市民も赤旗を持って安東駅前で歓迎行列をした。ソ連兵の隊列は意外に薄汚れていて日本人は吃驚した。若い少年兵も混じっていた。マンドリンと呼ばれていた 自動小銃が物珍しく、軍帽をチョコンと斜めにかぶるのや、白い産毛の目立つ肌だとか、高い鼻などを恐る恐る見物したものだった。満人たちはソ連兵のことを大鼻子(ターピーズ)と呼んで軽蔑していた。
ソ連軍の進駐と関東軍の武装解除;
8月19日:先遣隊が瀋陽から進駐。
8月21日:第39軍団(バルスコフ中将麾下)の第44旅団、1個大隊入城。(27日?)駐屯司令官カルニューヒン少佐、将校70名・兵130名。安東ホテルを司令部とし、安東高女・安東中学を兵舎にあてた。ソ連軍は山の手に駐屯していた日本軍の守備隊を武装解除し、軍事管制を実施した。この地域の関東軍は岡部通少将指揮下の独立混成第79旅団(約8千名?)が、安東から草河口に展開していた。 三頭浪道の安東飛行場には若干の航空部隊がおり、水豊ダムがある拉古硝に満州国軍の高射砲部隊が駐屯していた。9月中旬に先遣部隊に続いて、本隊である工場施設の撤去部隊約1千名が進駐してきた。安東市内外の各種工場施設や水豊ダムなどの調査を行った。日本人や満人を使役して施設を撤去し貨車に積んで本国に運び始めた。主要施設は満洲軽金属と水豊ダムの発電機等である。 それから複線であった安奉線の安東と鳳凰城間を単線化して、線路を取り外して持ち帰えるということもやった。
鎮江山の安東神社が爆破される事件が発生;
9月17日。明らかに9月18日の満州事変の記念日を狙ったものと思われる。しかしこともあろうに日本人が疑われ多数の逮捕者が出た。ソ連兵は街にも頻繁に現れ始め、いろいろな被害が続発した。 ラジオは没収され、時計やカメラなど文明の利器は徴発された。婦女子の暴行などの事件も起きた。邦人女性は坊主頭にして、胸にさらしを巻いて堅くし、顔に鍋墨をつけて変装し身を守った。
我が家にも突然ソ連兵士が現れて、時計や万年筆などを持っていった。私はソ連兵たちが日本女性を拉致する現場を目撃したことがある。悲鳴を上げジープの中でもがいている女性をロスケが押さえつけていた。夕暮れ時だった。ただ悪名が高かった囚人部隊は安東には来なかったようで、それがまだしも幸運だった。婦女子防衛の為に安東幼稚園にソ連兵用の慰安所が設けられた。建物正面にネオン・サインがつけられた。日本人会の苦肉の策であった。我家の便所の窓からこのネオンが夜な夜な見えていた。生まれて初めて見る悩ましい光景だった。この頃、市の歓楽街に近い三番通にソ連兵相手のキャバレー『安寧飯店』が開業した。
国府側の動向;
治安維持会はその政治的立場を迅速かつ明確に表明した。「満州国は中国の領土に編入されて蒋介石政権の支配下となる。ソ連軍の占領は一時的であり、やがて重慶から派遣される国民党の接収委員によって継承される。国府側中央軍の到着迄、ソ連軍と折衝を行ってできるだけ治安を維持する」ということだった。「その名は体を表す」である。 旧満州国の満人首脳たちは、当然情勢をある程度見通して対応策を考えていたようだ。また一部の人は重慶との間に前広に連絡を取っていたようだ。
当時この治安維持会の立場と存在は別として、国府軍の存在は一般邦人にとって「そのうちやって来る」と言われながらも、最も見え難い部分であった。邦人社会はソ連軍にラヂオなどの通信手段を没収され、正に霧の中を手探りしていた。
蒋介石はいち早くラヂオ放送を通じて満州の一般日本人の保護を宣言した。これが口伝えに邦人の間に流されて、国府軍待望の機運が醸成されていった。蒋介石の戦略は満州国の遺産を日本の民間人の協力を得て何とか無傷のまま取り込みたいということだったと思われるのだが、これが不安に喘ぐ日本人社会の心を捉えていた。
安東における国民党機関;
9月1日:蒋介石は熊(ユウ)式輝を東北方面管轄主任に任命し、旧東三省を遼寧、遼北、安東、吉林、松江、合江、黒龍江、嫩江、興安九省とハルビン、大連両直轄市に区分し、九省主席と両市市長を任命して公表する。これにより “東北主権”の大儀名分を明らかにした。
9月4日:高惜氷を安東省主席に任命する。(実際には安東には姿を現さない。)
9月10日:国民党遼寧省党部主任委員李光忱は、張鴻逹を安東に派遣し、国民党部--安東県執行委員会を組織し成立させ、張鴻逹は書記長となる。(当時李鳳鳴とか趙少佐とかいう人物が登場するが彼等の偽名であろう。)
共産側・八路軍の動向;
ソ連兵の主力は市内から離れた工業地帯のほうに専念し、また主要工場施設や鉄道線路の撤去が進行するにつれて、市内でソ連兵の姿は徐々に少なくなっていった。一方東北人民自治軍は八路軍と呼ばれていたが、実際には9月下旬に安東に進駐してきていた。丁度その日は丁度安東神社の爆破の日と一致する。ソ連軍は終戦直前に締結された国府側との中ソ友好条約を楯に、八路軍の市内侵入を許さなかった。表向き中ソ条約による国府側への配慮を示し、施設撤去の舞台裏を中国側の目に晒したくなかったことや、更には国共の衝突が起きて撤去作業が遅れるのを嫌った為と思われる。
八路軍には二つの系統があった。地元の潜伏分子が中心となって組織された現地部隊と、華北から進入してきた正規の八路軍だ。これは東北各地において共通した状況だった。乱世の常というか、地元編成の自治軍の中には偽八路軍と呼ばれて中共中央が公認しないような連中も居たし、地域によっては相互間の戦闘すら起こった。安東では地元編成の部隊がまず進出してきました。呂其恩とか孫已泰という人物を中心とする部隊だ。呂其恩は荘河という大連と安東の中間地点にある街の出身で、孫已泰は古くから共産党地下組織で活躍した人物だ。続いて正規の八路軍部隊が山東半島から続々と海を渡って安東に到着した。公安関係は事情に通じた地元出身者が表面に立ち、山東出身者は背後で実権を握る体制を取っていたようだ。
安東における中共軍の体制;
9月下旬:中共側の安東市保安司令部が成立。呂其恩が司令となり、鄒(しゅ)大鵬が政治委員、張奎が参謀長となる。
10月3日:山東東部軍管区渤海軍分区の参謀長王奎先が独立大隊を引率して安東に進駐する。ほどなく安東保安司令部と合体し東満人民自治軍直属の第3支隊となる。王奎先が司令、呂其恩が政治委員となる。
10月5日:冀熱遼軍管区の第16軍分区・21旅団、第61団、第62団が、鳳城に進駐する。鳳城は中共地区となる。
10月初め:肖華の統一指揮下で山東軍管区の舞台が進駐して体制を整備する。以下略。
『私の終戦体験(その1)』(了)