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ピエール・ダルタニャン元帥伝

2013年05月19日 00時22分37秒 | 大北方戦争+軍事史
ピエール・ドゥ・モンテスキュー=ダルタニャン伯爵 モンテスキュー元帥 1640?45?-1725/8/12
バイヨンヌ総督アンリ・ドゥ・モンテスキュー=ダルタニャンとジャンヌ・ドゥ・ガッシオンの4番目の息子。

 フランス近衛銃士隊長シャルル・ダルタニャンと言えば、あるいは既に三銃士の主人公ダルタニャンのモデルとして有名かも知れない。しかしその従兄弟となるとやはり途端に無名になるのは世の習い。
 ピエール・ドゥ・モンテスキュー=ダルタニャン伯爵、後にモンテスキュー元帥として知られるこの男は、かのダルタニャンの母方の従兄弟である。
 生まれは1645年となればシャルル・ダルタニャンに比べておよそ30才の年齢差。この年の離れた従兄弟をあこがれの目で見たのが、ピエール14才の時だと伝わる。
 それは1660年6月9日。この日はフランスにとって晴れがましき、国王ルイ14世とスペイン王女マリア・テレサとの結婚式の当日であった。ガスコーニュの一都市サン・ジャン・ドゥ・リューズで盛大に挙げられた式には当然ながらシャルル・ダルタニャンが隊長代理として実質の隊長を務める白銃士隊も参列する。かくて彼らは祝賀のパレードを飾り立て、その姿を沿道から眺め見たピエールは銃士隊入隊を決意した次第らしい。
 なにしろ若きピエール、当年取って14才。そんな若者にとって腕一本で成り上がるシャルル・ダルタニャンは、それこそ大デュマの銃士ダルタニャンもかくやの英雄だ。そもそも地縁を頼るのが当たり前の時代である。シャルル・ダルタニャンからして、親戚のつてを頼り上京しての立身出世。ピエールがそれに倣うを躊躇する理由はない。
 早くもその年の10月に上京したピエールは、まずは順当にパリ北東にあるオラトリオ会系の王立ジュイイ学院で文武を修め、次いで4年後の64年に王宮小厩舎の小姓となって宮仕えの第一歩を踏み出した。
 ちなみにこのような手順を踏むのは何もピエールだけではない。後に彼の上官となり、あるいは対立することもあったフランス大元帥ヴィラールも王立ジュイイ学院から、こちらは王宮大厩舎の小姓となっている。ヴィラールと違ったのはピエールには頼れる従兄弟がいたことか。
 折しも絶対王政の端緒とも言えるフーケ事件に関わっていたシャルル・ダルタニャンは、これを若者教育に最適と判断。かくして65年、既に近衛歩兵連隊の青年隊士となっていたピエールはダルタニャン配下としてフーケを移送するピニェロル護送に加わり、しかもその流れで銃士隊に入隊を果たす。
 こうして1665年のオランダ遠征、67年の遺産相続戦争に参加。銃士隊長および騎兵旅団長となったシャルル・ダルタニャンの側で、今や将軍となった従兄弟の第一流の指揮ぶりを学べたのだから、やはりピエールは恵まれていたと言えるだろう。
 トゥルネー、ドゥエー、リールと転戦し、1668年に戦争が終結するまでにピエールは一端の軍人になっていた。
 となれば今度は乳離れならぬ従兄弟離れと相成るわけで、戦争終結後直ぐにピエールは銃士隊から近衛歩兵連隊に移籍して直ちに旗手となる。普通なら、なかなか若者の昇進は覚束ないところであるが、ピエールには従兄弟譲りのガスコン地縁があった。この連隊は支援者グラモン公爵の連隊だったのである。
 早くも3年後の1671年には少尉(隊長代理補 sous-lieutenant )に昇進すると、再び始まったオランダ戦争に参加して、1673年には中尉(隊長代理 lieutenant )となる。この年にマーストリヒトの攻囲戦で偉大なる従兄弟シャルル・ダルタニャンを失うが、もう押しも押されぬ近衛将校であったピエールの出世街道に支障はない。
 1674年には幕僚長補(aide-major)に昇進。スネフの激戦にも参加して1676年には近衛幕僚長(major)。スヘルデ川流域作戦に参加してコンデ、ブシャンと進撃し、1677年のヴァラシエンヌ、カンブレー、サントメールの攻略、モン・カッセルの戦いに従軍。最早、従兄弟の力なくとも独力で運命を切り開く。
 翌1678年にはヘントとイーペルの包囲にも参加して、かくてオランダ戦争が終わる頃、ピーエルは近衛幕僚長の職と兼務して近衛歩兵連隊の中隊長職を得てしまう。
 なんとなれば僅か33才でピエールは近衛隊長となっていた。ルイ14世からの信頼篤く、1682年には歩兵査察官となったピエールの前途はまさに洋々であった。しかし彼をしてやはり抗し得ぬ評判がある。つまり出来星の将校ではないかという悪口である。そう。前述したが、ガスコン地縁だ。
 なるほど確かに、彼の生家、モンテスキュー家はガスコーニュ地方においては名門の家柄であった。父アンリはバイヨンヌ総督を務めた地元の名士。おまけに母ジャンヌ・ドゥ・ガッシオンの実兄はフランス元帥ジャン・ドゥ・ガッシオン伯爵なのだから一族の力は伊達ではない。
 もちろん、従兄弟にしてリール総督をも歴任した銃士隊長シャルル・ダルタニャン伯爵も忘れてはいけない重要な要素だ。
 だからやはり、パリに網の目の様に広がる一族の絆は確実に、ピエールの立身出世に大きな力を及ぼした。だが、これは当時のフランス軍人界の常識であり、ピーエルを非難するのは土台が時代錯誤のお門違いなのだ。
 こうして彼の出世は続く。1683年にはフランドル方面軍の参謀長、大同盟戦争が始まった1688年には准将に昇進。1689年にはシェルブールの守備を任された。1690年にはフリュールスの戦いに参加し功績が認められると、1691年には少将となるのだから、やはり地縁だけでなく能力もあったということだろう。
 同年モンスの包囲に参加し、翌年にはナミュール包囲戦へ、そしてステーンケルケの戦い。1693年はネールウィンデンの戦いにとピエールの転戦は止まらない。
 改めて見てみると、大同盟戦争の著名な戦い殆どすべてに参加しているのだから、大したものである。1696年1月3日には中将となったピエールは、特筆すべき大功こそ立てたことはなかったが、歴戦の将軍へと成長を遂げていた。
 戦争が終結すると1698年、ピエールはようやく前線勤務から外れることとなる。アラスの都市総督そしてアルトワ地方国王総代という輝かしい地位が忠実に戦った軍人への褒美であった。とはいえ、自らが地方に赴くのは出世にも影響するし、何よりも常に近衛であった彼自身の心意気に反する。そういうことでピーエルは常にヴェルサイユに出仕する道を選んだ。そしてこれが彼を更なる高みへと押し上げる。
 1700年、再び風雲急を告げる欧州情勢を受け、ピエールの出番はまたやってきた。ルイ14世の信頼厚き将軍はブラバント全体の情勢を探るべくモンスへと派遣され、そのまま1702年には王孫ブルゴーニュ公麾下でフランドル戦線に参加。ヴェルサイユに出仕していたピエールとブルゴーニュ公は知らぬ仲ではなし、覚え目出度く任務に励む。だが敵はイギリス史上最高の名将マールバラ。戦局は常にフランスの劣勢だった。
 それでもピエールは1704年にはナミュールを守り、1705年にはマールバラの芸術的機動により突破されたブラバント防衛線を奪回するべく奮戦した。その年の終わりにルーヴェンから5マイル離れたディーストに拠る敵軍への攻撃を提案。認められると軍を率いて24時間の内に、守備隊の4個歩兵大隊と4個騎兵大隊を打ち破り捕虜を多数手に入れた。
 既に戦略的意義を喪失してしまっていたとはいえ、負け続きの中でのピエールの働きはフランス軍を鼓舞した訳である。
 1706年もブラバント方面でマールバラと対峙し続け、フランス軍の敗北に終わったラミイの戦いでは歩兵隊を指揮した。マールバラとオイゲン公の天才を示したこの戦いで、ピーエルは明らかに引き立て役であった。その屈辱、復仇の念は察して余りある。
 何となればその証拠に、一時的にドイツ戦線へと転出された1707年、ヴィラールの指揮下でシュトルホーヘンにおける同盟軍防衛線突破で目覚ましい働きを示しているからだ。
 1708年にはフランドル軍の最先任中将となり、いずれ来るであろうマールバラとオイゲン公との決戦を待ち望んだ。しかしアウデナールデにおいて、ブルゴーニュ公とヴァンドーム公率いるフランス軍は敗北し、ピエールは再び復仇の機会を逃した。それでも彼はフランドル戦線で戦い続けた。ヘント近郊のフォール・ルージュを攻め落とし、1709年初頭にはヴィラールの命令により海岸方面の戦線を安定させるべくヴァルヌトンを守る同盟軍を打ち破り800名余りの捕虜を捕獲した。
 待ち望んでいた機会はもう、すぐそこにあった。このとき追い詰められたフランスは最後の野戦軍を不敗の名将ヴィラールに托していたからだ。1709年9月11日マルプラケ。不敗と不敗の戦いにおいて、ピエールはフランス軍右翼の歩兵隊を指揮する。
 意地と意地のぶつかり合い。戦いが史上稀に見る激戦となったのは自明と言うところ。近世の戦場において、これほど血が流されるのは7年戦争ではクネールスドルフ、ナポレオン戦争ではワグラムくらい。
 若くして近衛隊長となったピエールも、既に69才の白髪混じりの老将軍。だがそれでもなお、いや、それだからこそ、彼は奮い立った。血で血を洗う前線で彼は部下の先頭に立った。乗馬が撃ち殺されること三度。胸甲を撃たれること二度。負傷し血を流しながら指揮を執るピエールの勇戦はフランス軍人の範である。
 もちろん、彼ばかりではない。フランス軍においては総指揮官ヴィラール元帥も、その直下で左翼の次席指揮官となった僚友アルベルゴッティ中将も、重傷を負って戦線を離脱するほどなのだ。
 同盟軍が押せば、フランス軍が押し返す。戦いは一進一退。勝敗を決めたのはやはり、指揮官たちの負傷だったであろうか。かくて午前9時から6時間に及んだ戦いは午後3時に終わった。
 負傷し戦線から離脱したヴィラールに代わり軍の総指揮を任されていた老元帥ブーフレールは、この時、遂に勝利を諦めた。後衛の騎兵隊に守られ、軍は秩序を保って後退した。フランス軍は敗れた。しかしブーフレールは言う。
「不運がこれほどの栄光を伴ったことはかつてなかったと断言できます」
 そう、オイゲン公とマールバラは勝利した。けれどそれは「ピュロスの勝利」でしかなかった。同盟軍はフランス側の二倍に近い損害を受け、余りの死傷者を前にして、マールバラはもう二度と野戦をすることができなかった。何故ならイギリス政界が、イギリスの国力がそれを許さなかった。
 なるほど、それは戦術的敗北だった。しかし戦略的勝利であったのだ。
 そしてピエールの示した勇気は昇進に値した。彼は1709年9月20日、遂にフランス元帥となった。同盟軍は依然として進撃を続けたが、戦線に復帰したピエールは再びヴィラールの指揮下で同盟軍と戦った。
 マルプラケの戦いは転換点であった。マールバラは遂に1711年の年末に罷免されイギリスは同盟軍から離脱した。
 戦争は終盤にさしかかり、遂に元帥となっていたピエールは、更にその活動を広げた。それが新たな対立を生むのは致し方ないことか。上官ヴィラールは、ピエールら将軍たちからの数多の横やりに「軍の作家たちが無数の計画を宮廷に送る」と苦言を呈するに至る。
 だが、その中にピエールが考えたフランス逆転の糸口があるとなれば話は別だ。サン・カンタン方面においてスヘルデ河(エスコー河)とソンム河を結ぶ防衛線を形成するという彼の案は、全シャンパーニュ地方を危険にさらすものではあったが、ヴィラールに一つの着想を与える。
 即ち、この方面において戦線を形成すると見せかけて、オイゲン公の裏をかく。ただ残念なことに、ヴィラールはピエールにこの計画を告げなかった。
 そして、大逆転が始まる。
 この時、フランスは敗北の縁にあった。マールバラとオイゲン公は1711年に、戦力劣るヴィラールの懸命な術策にも関わらず、フランス国防の要、絶対防衛線を突破していた。翌1712年、マールバラが罷免された後もオイゲン公は着々とパリに迫る。
 絶対防衛線は既にブシャンを落とされたことによって大穴が開けられていた。防衛線は二つに割られ、スヘルデ河とサンブル河の間の平原には同盟軍が雪崩を打って殺到。補給線がトゥルネーからマルシエンヌ、そして側面をブシャンに守られたドゥナンを通り結ばれる。
 後一歩、後一歩でパリだった。オイゲン公は突出部を堅固にするべく、東方のル・ケノワを攻囲、これを7月4日に占領した。
 残るは南方にあるサンブル河河畔のランドルシー。ここさえ落とせば、突出部の東と南の防衛は万全となり、後顧の憂いなくスヘルデ河とソンム河を越えてパリへと進撃できる。オイゲンは当に戦争勝利に王手をかけていた。
 しかしこれこそが、ヴィラールの待っていた瞬間であり、ピエールの戦略案に着想を得た逆転のときだった。
 1712年7月23日午後6時、ピエールは幕僚らと伴にヴィラールの本営を訪れる。ヴィラールはランドルシーを直接救うべく、サンブル河を越える方針を示す。だがその夜、敵も味方もランドルシーへの進撃を信じる中、ピエールはヴィラールからの転進命令を受け取る。
 如何なる思いを持って、この命令を受けたのかは最早定かでない。そして、それは些細なことだった。
 ピエールは次席指揮官として軍を素早くまとめると、北へと転進した。敵前線を右手に望み、側撃の恐怖も夜間という困難にも負けずフランス軍は見事な行軍をやってのけた。
 7月24日朝、フランス軍はスヘルデ河を渡河。マルシエンヌとドゥナンの連絡線を断つと、そのまま旋回し、北方よりオイゲン軍の兵站を左右するドゥナンへと突撃した。
 時刻は午後1時。同盟軍はドゥナンの守備隊とマルシエンヌからの援軍を用いてフランス軍を挟撃しようとしたが、ピエールはもとよりヴィラールすらも先頭に立った突進は同盟軍を一蹴した。
 戦いは僅か2時間足らずで終わった。ドゥナンはフランス軍の手に落ち、同盟軍の突出部は分断された。オイゲンに残された道は退却だけだった。
 ランドルシーは救われ、ピエールらフランス軍は更にドゥエーへと進撃し、オイゲン公の策源を壊滅させた。奪われていたル・ケノワもブシャンも、フランスの手に帰した。
 こうして1710年から着々と整えられていたマールバラとオイゲンの勝利への道は、僅か3ヶ月のうちに消え去ったのである。
 正しく、ナポレオンが評したように、ドゥナンがフランスを救った。そして苦難の11年間を経て、遂にフランス勝利の日々が来た。ライン方面へと進んだヴィラールはオイゲン公を相手に連戦連勝。一路オーストリアへと迫る。
 残念なことに、ピエールはその間、ブラバント方面に留まった。だがしかし、彼の功績は比類無いものであった。ラシュタットで講和が締結されて戦争が終わったとき、ピーエルはフランス軍元帥として栄光を掴んでいた。
 彼の晩年はこうして輝かしいものとなった。1716年から1720年の期間においてはブルターニュ総督。1721年6月16日にはルイ15世の摂政団の一員となり、その年の10月ラングドック地方総督に就任。1724年2月2日、ルイ15世によって騎士勲章指揮官位を授与されるに及ぶ。
 従兄弟シャルルは大デュマによって一代の英雄となったが、現実には一介の武人に終わった。そして物語の中ですら、待ち望んだ元帥杖を手にした直後に世を去った。だがピエールは違う。
 若き日に憧れた従兄弟をいつの間にやら追い抜いて、彼こそが、夢を抱いてガスコーニュの田舎から上京し、仲間と上司に恵まれ、戦乱の中で元帥杖を手にフランスを救う、物語のような人生を駆け抜けた。
 モンテスキュー元帥と後に言われる。だが、三銃士、ダルタニャンの物語を愛するならば、こう言うべきだろう。
 もう一人のダルタニャン、ピエール・ダルタニャン元帥と。

[家族]
 ジャンヌ・ペドルーと結婚するも彼女は子が出来ぬまま1699年2月16日に死去。その後、エリザベート・エルミート・イエヴィルと1700年に結婚。息子ルイを1701年1月6日に授かる。彼は1717年2月に歩兵大佐となるがその年の7月5日に天然痘で死去。娘のカトリーヌ・シャルロッテ・ドゥ・モンテスキューは2才で死去した。

[墓所]
 ル・プレシ=ピケにある彼の城館で1725年8月12日に死去。8月14日に城館近くの教区教会、聖マグダラのマリア教会に埋葬された。墓碑銘は「いと高き強き君主、ピエール・ドゥ・モンテスキュー閣下。ダルタニャン伯爵にしてフランス元帥、国王軍指揮官、摂政団顧問、アラスの都市総督兼要塞総督、国王陛下の騎士勲章指揮官位保持者。ル・プレシ=ピケの城館にて1725年8月12日に逝去。享年85才と6ヶ月。足下に眠る」

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