槍と銃剣

近世西洋軍事と日々の戯言&宇宙とか色々

近世騎兵戦術の発展

2010年01月30日 10時16分23秒 | 大北方戦争+軍事史
ということで騎兵熱が高まったので、思いの丈を文章にしてみた。

 16世紀、ホイールロック式の短銃が一般化したことを受け、騎兵戦術はその形態を変更せざるを得なく なった。短銃を装備した騎兵は、従来まで騎兵の花形であった装甲槍騎兵に対して優位を獲得したのである。これは槍が敵騎兵を攻撃し得る至近距離において、取り回しに難のある槍よりも短銃の方がその威力 を発したことによる。短銃の射程距離は短く、至近でなければ狙ったところに当たらなかったが、それでも槍の届く距離においては、絶大な威力を発揮した。更に装甲の継ぎ目や馬を狙うことも発見され、重長な鎧が無効化されることとなった。これらにより短銃騎兵は、最終的に装甲槍騎兵を戦場から駆逐することに成功した。
 しかし、対騎兵戦に優れる一方で、短銃騎兵は歩兵に対する攻撃力を失っていた。槍を持たない彼らは 、地面に立つ歩兵を攻撃する手段としてカラコールと呼ばれる、縦深を深く取った陣形で各列が入れ替わり射 撃しては後退するという射撃戦術をとったからである。これは、明らかに、騎兵にとって効率の悪い攻撃方法 であった。そこで、装甲槍騎兵の時代、騎兵の最強国として名高かったフランスはアンリ大王の治世下、短銃騎兵に装甲槍騎兵のような突撃戦術を融合することを試みた。
 これは、敵に近付き射程距離内に入ると射撃を行い、抜剣して敵陣に突撃するという戦術である。この戦術は、対歩兵戦における騎兵の攻撃力の復活を意味した。
 また、この戦術は、対騎兵戦においても優位を獲得した。かつては至近距離で2~6挺の短銃を持つ騎兵が敵の騎兵の至近距離にまで接近して射撃を行い、乱戦に持ち込んで、装甲槍騎兵を撃破したが、これには 短銃を持ち変えるという無防備な作業が必要とされた。しかしこの時の敵は重たく取り回しの利かない槍 を武器としていたため、その欠点は致命的にならなかった。一方、突撃戦術は短銃から剣に持ち変える瞬間を除いて、攻撃を連続的に行うことが出来た。また剣は槍に較べて取り回しが利き、乱戦時、短銃の銃床で対応するしかなかった純粋な短銃騎兵は苦境に追い込まれた。更にまた、射撃の後に突撃を行うため 、敵により接近して射撃を行うことがより強調され、それが実施された。純粋な短銃騎兵においても、同様のことが強調されたが、近接しすぎたときの不安が先に勝ち、なかなか上手く実施できなかった。このため 、最初の射撃戦においても、その後の近接戦においても、この抜剣騎兵は優位に立つことが出来た。
 この戦術が大々的に有名になるのはスウェーデン王グスタヴ2世・アドルフによる勝利によってである。彼 の騎兵は貧弱であり、資金の不足にもたたられ短銃も少なかった。そのため彼は、縦列を少なくし、射撃戦術ではなく、射撃後、剣を抜いての突撃戦術を多用した。もっとも彼の敵、帝国軍騎兵指揮官パッペンハイ ムもすでに射撃した後に突撃するという同様の戦術を実施するようになっており、伝説に言われているほど、 グスタヴの騎兵が活躍したわけではなかった。
 最終的にこの戦術は3列程度の横隊を組んで並足あるいは速歩トロットで前進し、短銃あるいはカービンの射程距離まで近付いた後、一斉射撃を行い抜剣して突撃すると言う戦術となった。この方式はフランスや オーストリアなどで採用された。しかしこの方式は、純粋な短銃騎兵に比べれば遙かに突撃力を確保して いたにもかかわらず、射撃のために前進を停止せざるを得ず、突撃のモーメンタムの多くを犠牲にしていた。 火力信奉者らはこの方式を突撃力と火力の融合としてある程度評価していたが、突撃力信奉者は、これを生ぬ るいと感じていた。その結果、射撃を行わずに直ちに抜剣突撃する戦術が生まれた。
 この方式の利点は、突撃の威力を最大限発揮できることにあった。射撃時、そしてその後の抜剣時において 騎兵はどうしても速度をゆるめるか、あるいは停止しなければならなかったが、始めから剣を抜いているこの 騎兵は、速度をゆるめることなく突撃を行うことが可能だった。
 おそらく、この種の突撃騎兵を広めたのはテュレンヌ元帥であった。彼はしばしば騎兵に射撃を許さず突撃させ、成功を収めている。そして、彼の部下であったマールバラ公とスウェーデン貴族によってこの方式の突撃騎兵が、イングランドとスウェーデンにもたらされた。特にスウェーデンに関して補足しておくと、グスタ ヴ2世・アドルフが短銃の不足により射撃なしの突撃を行ったことはあったが、それは定着化せずその場 しのぎで終わっていたと現在では思われている。そのため純粋な抜剣突撃は、テュレンヌの下で働いていたス ウェーデン貴族がスコーネ戦争時に実施するまでスウェーデン騎兵の基本戦術ではなかった。
 テュレンヌの撒いた種は十八世紀初めの二つの戦争で、大きな華を咲かせた。スペイン継承戦争ではマールバラが、大北方戦争ではカール12世がそれぞれ純粋な抜剣騎兵突撃を実施し、フランス・ドイツ諸侯・ポーラ ンド・ロシアといった依然として短銃による射撃を行った後に突撃を行う騎兵あるいは旧来型の槍騎兵など、これまでの騎兵をことごとく撃破したのである。
 もっともマールバラとカール12世の騎兵とではその突撃方法は大きく異なった。両騎兵ともに突撃時の射撃 が禁じられていたことまでは同一であったが、それ以外の方式は全くの正反対であった。


疲れたので終わる。読み返してないので間違い多数かもしれない。
まぁいいか。

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1 コメント

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Unknown ()
2020-04-22 10:41:29
近世騎兵語るのにフサリアの文字なし
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