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死去、小野清子さん(85歳=女性平均寿命86歳-1年)大田区池上スポーツクラブ創設、骨折入院中にコロナ感染し急変 

2021-03-18 18:05:22 | 連絡
★85歳「女性平均寿命86歳=健康寿命74歳+要介護期間12年」‐1年>
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2021/03/18 17:18 【首藤正徳】
1964年東京五輪の体操女子団体の銅メダリストで、元参議院議員で国家公安委員長などを務めた小野清子さん
<小野 清子(おの きよこ、1936年2月4日 - 2021年3月13日、85歳没)は、日本の体操選手、政治家。勲等は旭日大綬章。旧姓は大泉。
参議院議員(3期)、環境政務次官(第2次海部改造内閣)、社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)理事長、国家公安委員会委員長(第69・70代)、内閣府特命担当大臣(青少年育成及び少子化対策担当、食品安全担当)、参議院予算委員長、独立行政法人日本スポーツ振興センター理事長、笹川スポーツ財団理事長などを歴任した。
生い立ち[編集]
宮城県岩沼市に生まれ、その後秋田県秋田市に移る。幼少時、病弱だったため体操を始めた。
1952年の国民体育大会で後の夫となる同じ秋田県出身で4学年上の体操選手の小野喬と知り合った[1]。師弟として、喬の指導を受けるうちに互いに恋が芽生え、東京教育大学(現・筑波大学)体育学部を卒業後の1958年に結婚した[1]。
体操選手として[編集]
慶應義塾大学体育研究所に勤務しながら体操の技能を磨いた清子は1960年のローマオリンピック(24歳)、1964年の東京オリンピック(28歳)と夫婦そろって連続出場(夫の喬は1952年ヘルシンキオリンピック、1956年メルボルンオリンピックから4大会連続出場)した。特に東京大会では1男1女の2児の母として出場し、赤の長袖レオタードに白のエレガンスシューズ姿で演技をこなし、体操競技で団体銅メダルを得た。夫との間には息子2人、娘3人がいる[1]。
体操選手を引退後は中央教育審議会委員など、各種審議会委員を務めてスポーツを通じた青少年教育に従事。
が13日に死去した。85歳だった。新型コロナウイルスに感染して治療中だった。体操男子五輪金メダリストの小野喬さん
<小野 喬(おの たかし、1931年(昭和6年)7月26日 - 89歳)は、体操競技の元オリンピック選手で、元鹿屋体育大学教授。秋田県能代市生まれ。現役時代は「鬼に金棒、小野に鉄棒」と呼ばれたことで知られる。全日本体操競技選手権の個人総合で7回の優勝を誇り、オリンピックでも4大会連続で出場し[1]、金メダル5つ、銀メダル4つ、銅メダル4つを獲得した。
旧制能代中学校から東京教育大学、慶應義塾大学卒。
東京教育大学では久保田正躬と学生寮で相部屋だった[2]。同大学1年の時に高校教師だった父親を亡くす[2]。同大学3年の時に1952年ヘルシンキオリンピックに出場し跳馬で体操競技では日本初となる銅メダルを獲得。1956年メルボルンオリンピックの鉄棒でひねり飛び越しを成功させ体操競技で日本人最初の金メダリストとなった[2]。
慶應義塾大学卒業と同時に東洋レーヨン(現・東レ)に入社する。滋賀工場勤務を経て東京本社勤務。社業を終えた後に母校の体育館で練習を続けながらの競技生活を送る[3][4]。
1960年ローマオリンピックでは初の団体総合優勝に貢献、鉄棒で連覇のほかに跳馬でも金メダルを獲得し、日本の男子体操黄金時代の礎を築いた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%96%AC
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と夫婦で60ローマ、64年東京と五輪2大会連続出場。2児の母として臨んだ東京大会で体操女子日本史上唯一のメダルを獲得した。86年の参院選に自民党から出馬してメダリスト初の国会議員となり『サッカーくじ法』成立にも尽力した
自民党関係者によると小野さんは1月中旬に自宅で転倒して骨折。入院治療中に新型コロナウイルスに感染した。その後、感染症指定医療機関で治療を受け、1度は回復したものの、容体が急変して13日に亡くなった。コロナ禍のためすでに葬儀は近親者のみ執り行われ、お別れの会等も予定していない。弔問、香典、供花も辞退している。
『ママさんアスリート』の先駆けだった。58年に東京教育大(現筑波大)の先輩で4歳上の喬さんと結婚。夫婦そろって出場した60年ローマ五輪の翌年に長女が生まれ、63年には長男を出産。小野さんは引退するつもりだったが「東京でメダルを」と周囲に説得され、64年東京五輪は2児の母として出場した。
当時、子供を預ける施設は少なく、秋田から上京した母に1歳の長男の面倒を見てもらったが、3歳の長女は練習場へ連れていくことが多かった。00年の本紙の取材で小野さんは「跳び箱の最上段を逆さにして、その中で遊ばせていました」と振り返っていた。そんな苦労も銅メダルの発奮材料になったようだ。
引退後は夫と二人三脚で、日本の民間スポーツクラブ第一号となる「池上スポーツ普及クラブ」
<池上スポーツクラブ 〒146-0082 東京都大田区池上1-32-12 朗子会館4Fは、「鬼に金棒 小野に鉄棒」と言われた小野喬氏(東京オリンピック・体操男子団体金)と妻の清子氏(同・女子団体銅)が、スポーツの一般普及を目的に、民間スポーツクラブ第一号として1965年に設立しました。また、ソウル五輪代表の小西裕之選手や、モスクワ五輪代表の北川淳一選手が育った場所でもあります。現在も、体操競技選手育成とともに、総合スポーツを通して、健全な精神と肉体を養うことを目的に活動を続けています。池上スポーツクラブ – 体験練習・質問など、お気軽にお問い合わせ下さい。
https://ikegamisc.com/
を東京都大田区に創設。学校体育以外での青少年の体づくりと、スポーツの普及が目的だった。幼児から成人、選手育成まで目的に応じたコースを設置。88年ソウル五輪代表の小西裕之ら日本代表選手も輩出した。
86年7月、スポーツ施設の充実と改善を目指して参院選に自民党から出馬。五輪メダリスト初の国会議員として国家公安委員長など要職を歴任。特に98年の『サッカーくじ法』の成立に尽力した。totoの本場イタリアを喬氏と自費で視察。日本では反対の声も根強かったが「スポーツ振興の財源になる」と粘り強く訴えた。
16年には国際オリンピック委員会(IOC)から五輪運動の発展に寄与したとして『五輪オーダー(功労章)』が授与された。2度目の東京五輪について小野さんは14年に本紙にこう語った。「“被災地のため”なんておこがましい。磨いた技術を試合でしっかりと出す。その結果、いい成績が残せれば被災地に元気が届くかもしれない。最高の努力が恩返しになるの」。そのコメントにスポーツの本質が凝縮されていた。【首藤正徳】
〇「男性平均寿命80歳=健康寿命72歳+要介護期間8年」、「女性平均寿命86歳=健康寿命74歳+要介護期間12年」。厚生労働省は2018/3/9、介護を受けたり寝たきりになったりせず日常生活を送れる期間を示す「健康寿命」が、2016年は男性72.14歳、女性74.79歳だったと公表した。前回(13年時点)と比べ男性が0.95歳、女性は0.58歳延びた。
平均寿命と健康寿命の差は、介護などが必要となる期間。この差を縮める「ピンピンコロリの生活=要介護期間0年=にする」ことが社会保障費の抑制につながる。16年の平均寿命と健康寿命の差は男性8.84年、女性12.35年。13年と比べると男性0.18年、女性0.05年改善した。研究班の代表を務める辻一郎・東北大教授(公衆衛生学)は「要介護の大きな原因となる脳血管疾患の患者が、生活習慣の改善で減っている」と指摘。「高齢者の社会参加の場が広がっていることも健康寿命の延びにつながっている」とみている。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO27899950Z00C18A3CR0000/



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