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久末亮一 (ひさすえ・りょういち)
日本貿易振興機構(JETRO)アジア経済研究所 副主任研究員
学術博士(東京大学)。
香港大学客員研究員、東京大学大学院助教、政策研究大学院大学安全保障・国際問題プログラム研究助手などを経て現職。
著書に『香港「帝国の時代」のゲートウェイ』(名古屋大学出版会)など。
1974年東京都に生まれる。49歳。
1998年成蹊大学経済学部卒業。
2000年東洋英和女学院大学大学院社会科学研究科修士課程修了。
2004年東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。
東京大学大学院総合文化研究科助教、政策研究大学院大学研究助手を経て現在、日本貿易振興機構アジア経済研究所研究員、博士(学術)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
『香港 「帝国の時代」のゲートウェイ』より
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3月末、「アステラス製薬」の日本人社員が、中国当局によって拘束されたことが判明し、在留邦人社会のみならず日本政府
にも衝撃をもたらした。
当該社員は同社の中国関連事業を長年担い、日系企業団体の幹部も務めてきた人物とされるが、中国
の「反スパイ法」(2014年施行)に違反したとの容疑をかけられ、現在も拘束が続いている。
この事件の背景には、明らかに日本政府への牽制という意図がある。
緊張の一途をたどる米中関係のなかで、岸田文雄政権は米国との連携を強め、海洋進出への対処、台湾問題、半導体技術に代表される輸出規制強化などをめぐって、中国に対して比較的強い態度で臨んできた。
一方で、中国は米国主導の「対中包囲網」拡大に神経を尖らせ、そこにくさびを打ち込むことを試みている。
例えば今年に入ってからは、この数年悪化していた豪州との関係改善を図るなどの動きを見せている。
しかし、岸田政権は国内世論や米国
への配慮もあり、従来の政権とは異なって、中国側からの接近を避ける動きを続けてきた。
このため、日本の最大のアキレス腱が過大・依存的な経済関係と、無防備な在留邦人社会にあることを熟知している中国が、その切り札を利用したのが今回の事件である。
すなわち中国は、日本の「対米追随」加速を牽制すると同時に、外交対話のきっかけをこじ開けるため、今回の行為に出たと考えられる。
〇成果なき林外相の訪中
はたせるかな、日本側は事件発覚直後に林芳正外相の訪中を急遽決定し、4月2日には中国外交の司令塔である王毅政治局員や秦剛外相と会談し、また李強首相を「表敬訪問」した。
中国は、林外相の訪問を「日本が対中関係改善を望んでいるサイン」と対内的に宣伝し、また日本側には「虎(米国)の手先にならないという前提条件が、建設的・安定的な両国関係を構築するには必要」と釘を刺した。
さらに中国側の発表では、林外相から「日中協力の促進に尽力し、脱中国化は採らない」との言質を引き出したとされ、得るべき成果をもぎ取った。
一方で日本側と言えば、林外相は秦外相に対して会談冒頭で、邦人拘束に強く抗議した上で早期解放を要求したとされるが、中国側は「法に基づき処理する」と応じたのみで、何らの成果を得られないままとなった。
当然ながら、中国は日本の要求など最初から受け入れるつもりもなく、また邦人を拘束した以上は自らの建前と面子を通す必要があり、今日まで当該社員解放の兆しは一向に見らない。
動きがあるとすれば、6月に財界人を束ねて訪中予定の有力政治家に「土産」をもたせ、これによって日本の政界内「日中友好」派の威力を財界に再認識させるため、再び「駒」として利用する時であろう。
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〇「人質化」のリスクに曝される在留邦人
2014年の「反スパイ法」施行以後、同容疑で拘束された日本人は17人に上る。
しかし、多くはスパイ行為に従事していたと考え難く、またスパイ行為が何を指すのかは中国当局の裁量・判断次第で、その運用はきわめて政治的・恣意的である。
中国という国は、私たちが日本や自由世界で享受しているような、近現代の自由主義理念に基づく法や自由の権利で人身が保証された社会ではない。
したがって在留邦人が、突如として予期しない事由で恣意的に拘束されることは、驚くに値しない。
そして今回のように、在留邦人が中国側の駆け引き材料として「駒」にされる事態は、今後も容易に起こりうる。
実際に過去数年間には、中国と豪州やカナダの外交関係が悪化するなかで、豪州人やカナダ人(市民権保有者を含む)が中国法に違反したとして拘束されるケースが相次いだ。
したがって、地政学的環境の変化と日中関係の現実を考えれば、在留邦人が恣意的に拘束されるリスクは、実は容易に想像できたのである。
日本の資本・技術が必要とされた時代を生き、あるいは中国の経済発展と共に社会も自由化していると錯覚し、あるいは日中友好を無邪気に信じる企業や人ほど、変容した新しい日中関係を理解できないまま、恣意的拘束に遭うリスクは自らに無関係と錯覚している。
しかし、もはや中国は日本を格下の存在としか見ていない。
コロナ禍や地政学的不安で後退した直接投資のつなぎとめ・拡大に配慮すべきところ、製薬会社社員を拘束して日系企業に不安をもたらすリスクを平然と冒したことは、その証左である。
中国からすれば、日本経済は自国とのデカップリングが到底不可能で、牙を剥いても恐れるに足らず、自らの要求を聞き入れさせることができる弱輩に過ぎない、と見なしているのである。
〇誰も助けてはくれない
ある日突然として、何をしたのかも分からないまま拘束され、徒刑に処される。
このような事態が突然として身に降りかかってくることは、中国在留邦人や旅行者にとって、今やまったく他人事ではない。
しかし、このあからさまなカントリー・リスクがあるにもかかわらず、私利を求めて中国進出した者が、いざとなれば「邦人保護は政府の責任」などと言い出すのは、もはや甘えが過ぎるというものである。
日本の企業や人々の多くは、「発展する中国」の雰囲気に呑まれ、最も基本的なことを忘却していた。
それは中国という国が、日本や自由世界では当然であるはずの自由や法治の保証など皆無に等しい「異質な体制」の国であり、そのような環境に身体や資産を置くことは、重大なリスクを伴うという認識である。
だが、その抜き難いカントリー・リスクを受容してまで中国で活動するのか否かは、もはや当該企業・人の判断であり、これを全面制止する権利は、皮肉なことに自由社会にある日本政府にはない。
しかしこの結果、虎穴に入って虎児を得ようとし、逆に虎に喰われる者を助ける必要は、もはや日本の政府・国民にはない。
もっとも実際、現在の日中の力関係では、日本政府にできることも無いに等しい。建前として「日本人の生命・財産の保護」がある以上、邦人の早期解放要求という空文言は唱えるが、これはいわゆる「遺憾砲」と揶揄されるものと同様に何の効果もない。
これが日本国・日本人の置かれた今日の現実であり、もはや「誰も助けてはくれない」のである。
〇有事になればいつでも中国の手中に
約16兆円強(2021年末時点)にも上る対中投資残高、10万人以上もの在留邦人は、もはや日本の安全保障にとって直接的なリスクである。
仮に台湾有事や米中関係の悪化といった事態、さらには日中間の直接的な利害衝突が発生すれば、中国は随意にこれらのヒト・モノ・カネを「敵性」として拘束・接収できる。
一方で、日本側は在留邦人や日系資産を盾に取られれば、政府は「国民の生命・財産の保護」を建前とする上、財界や世論の圧力に抗することも難しく、大局的判断の足かせとなる。中国はこの日本の弱い立場を見透かし、揺さぶりをかけるであろう。
言い換えれば今日、緊張感なき対中投資・交流を継続・拡大することは、無自覚に日本の安全保障を損ねているといっても過言でない。
このように言われることは、一部の企業や人々には心外であろう。
しかし、もはや変化した国際環境と日中関係のなかでは、これが新たな現実である。
そして将来の危機に直面したとしても、もはや日本政府は彼らを救える術を持っていないのである。
「自らの身は自ら考えて守る」しかない。
私たちは今一度、中国という幻想や甘言に惑わされることなく、その政治・社会の異質性という重大なカントリー・リスク、そして根本的な地政学的変化という現実を、緊張感をもって再認識しなければならない。
そして、過大・依存的な日中経済という「惰性的な常識」の陥穽から脱し、対中進出・交流について根本的再考・英断をすべき時期に直面しているのである。
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※本文内容は筆者の私見に基づくものであり、所属組織の見解を示すものではありません。