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記録として、残したい記事

2014-04-12 | 諸行無常…let it be





清志郎さん 生前書き記した「小説(?)」自宅から見つかる


スポニチ記事より

派手なメークとファッションであふれ出る感情のまま歌い続けた忌野清志郎さん(86年8月、日比谷野音)=(C)有賀幹夫


 不世出のロックシンガー忌野清志郎さん(享年58)の5回目の命日を来月2日に控え、生前に書き残していたノートが東京都内の自宅から見つかった。


そこには、記憶にない実母への思いが書かれてあり、「ぼくに会って下さい」と実父に懇願する手紙の草稿もあった。

清志郎さんは自分の歌が発売中止になろうとも歌い続けた。

彼の歌はなぜ今も愛され、そもそも人はなぜ歌うのか。その答えが、このノートにあった。

清志郎さんのノートの内容をまとめた私小説「ネズミに捧ぐ詩」






 ノートの表紙には、筆で「ネズミに捧(ささ)ぐ詩」と書いてある。

その下にボールペンで「88年1月23日~」とあるが、「次のアルバムのため」という一文や冒頭の数ページが、上から筆で黒く塗りつぶされており、ノートの趣旨を途中で変えたことがうかがえる。清志郎さんに何があったのか。

 その理由を解くカギはノート中盤に出てくる。「前略」のタイトルで始まる手紙の草稿だ。

 「新井弘様 ぼくは今、小説(?)を書いています。

RCのツアーで忙しい毎日ですが、書かずにはいられないのです。

歌ではとてもいい表せそうもないので、稚拙な文章なのですが、とにかく書き始めました。(中略)近いうちに会って下さい。いろいろな話をうかがいたいのです。人生は忙しくて、あまり時間がありませんが、時間を作ります。

ぼくに会って下さい。清志」

 新アルバムのための制作ノートが、途中から詩や日記による私小説の下書きに変わったのだ。

それにしても「歌ではとても言い表せそうにないもの」とは何なのか。どうしても会いたい「新井弘」とは一体誰なのか。

 当時の清志郎さんのスケジュール帳を見てみると、ノートをつけ始めて1カ月後の2月25日に「父急死」とある。

ノートには、翌日のラジオ番組出演中に父親の死を知った衝撃と、その数日後に親戚のおばさんが「うちに置いとくより清志ちゃんが持ってるほうがずっと価値があるよ」と3冊のアルバムを持ってきたことが記されている。

 そのアルバムには「本当の母親」の写真や手紙、短歌などがあり、昭和30年(1955年)の新聞紙でのりづけされていた、ただし書きがあった。

 「清志と毅のために保存して置く 30年9月 新井弘」






 清志郎さんは3歳の時に実母の富貴子さん(享年33)と死別している。実父は清志郎さんの実弟だけを引き取り、清志郎さんは富貴子さんの姉夫婦の養子となったのだ。

 育ててくれた父母が実の両親ではないと聞かされたのは、継母が86年に他界した時。継父から「俺は本当の父親ではない」と告げられたとされる。

その継父も2年後に亡くなり、育ての両親を失ったのをきっかけに、筆を執ったのだ。

 おばさんが持ってきてくれたアルバムには、初めて見る実母の写真があった。

ノートには「HAPPY」と題し、その時の抑えきれない喜びようが残されている。

 「わーい、ぼくのお母さんて こんなに可愛い顔してたんだぜ こんなに可愛い顔して 歩いたり、笑ったり、手紙を書いたり 歌ったり 泣いたりしてたんだね」

 「37年近く生きてきて とにかく初めての気持ちなんだ とっても幸福な気持ち だけど、涙がどんどん出てきちゃうのさ 気がつくと、ぼくの目に涙があふれてる 涙が流れ落ちるんだ その可愛い顔が見えなくなっちゃうんだ」

 清志郎さんは、富貴子さんの笑顔の写真を服のポケットに入れて持ち歩いた。


ノートには「いつも恋人といっしょだ」とあり、実母を「彼女」と呼んでいる。それは自分を産んでくれた人への特別な思いだけではない。

幼い頃から自分が「そのへんの奴(やつ)らとは決定的に違う」と感じていたことや、なぜ歌わずにはいられないのかといった根源的な謎を全て晴らしてくれたからだ。おばさんの興味深い証言がノートに残されている。

 「お前の本当のお母さんはね(中略)30過ぎても、当時の人が着こなせないような、赤や緑の服を平気で着ちゃうような人でね…。いつもおもしろい事を言って、みんなを笑わせてね、歌が好きで、とても上手だった。

そうそうレコードもあるんだよ。死ぬ少し前に録音してね、死んでからレコード盤にしたんだよ」

 清志郎さん、そのものだったのだ。

 清志郎さんが「ぼくに会って下さい」と懇願した相手は、実父である。

 「新井弘様」宛てに実際に手紙を出したかは分からない。

ただ、清志郎さんが06年7月に喉頭がんの闘病生活に入ってから父子2人で温泉旅行などに出掛けている。

そして昨年、他界した。

 ノートをつけた88年の末、RCサクセションはアルバム「コブラの悩み」を発表。

収録曲「からすの赤ちゃん」は、富貴子さんがSP盤レコードに吹き込んでいた歌だった。そして翌年発表した「デイ・ドリーム・ビリーバー」の♪もう今は彼女はどこにもいない――という歌いだしは、富貴子さんのことである。

 人はなぜ歌うのか。

清志郎さんのノートには「お客さんがジーンときて ホロリとするようないい歌とやらを歌うよりも 普段思ってることや考えてるアイデアを歌いたい」とある。反体制、反原発などラジカルなイメージがあるが、自分が心奪われたことや疑問に思ったことを、あふれ出る感情のまま素直に歌い続けただけだった。

 ノートに書いてみても、歌にしてみても、どうも言い表せそうにないから手紙にもしたけど、やっぱり伝えきれないから、きょうもあしたも歌っていた。そんな人だった。

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