喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

短歌の一人

2011-05-04 | 鑑賞
護岸ブロックに真直ぐなる広き道は尽き無人の電話ボックス灯る  奥田亡羊


この歌を読んだ私の頭に思い浮かべた映像が、作者が歌のモデルとした場所(が実在するとして)の現実の景色と瓜二つであるということはおそらくありえない。言葉と映像の関係はつねにそうしたすれ違いを含んでいる。もし両者が限りなく一致するケースがあるなら、それは言葉の外で何らかのひそかな(またはあからさまな)やり取りが交わされたことを意味するだろう。この歌は私にそのようなやり取りを持ちかけてくる気配はない。たとえば同じ連作中にある〈ガスタンクを巻きてひとすじ階段の細き影あり月の光に〉という歌などはやや事情が違っており、私はこの文字列を掲出歌のような見知らぬ場所に置き去りにされた心細さとともにたどることはない。どこからとも誰のものともつきとめがたい視線がこの光景のなかから私を見返し、みちびいていると感じるからで、ここでは文字列がガスタンクや階段や影や月光そのものであるような不安な眺めをしいられることはない。それらをひとつの意味の配置にみちびこうとする視線への同調が、私を孤独から救ってしまうのである。
掲出歌であるが、私には電話ボックスの位置がわからない。わからないまま灯り、ゆえにありありと存在している。護岸ブロックと道の位置関係はつかめているつもりだが、読むたびにはじめて来た場所で味わうようなとまどいとともに視線をさまよわせずにいられない。そうしているうちにまるでたった今そこに忽然と存在しはじめたように灯る電話ボックス。あたりが暗闇であったことにさえそのとき気づいたようなこの読む/読まれる「私」を生きているのは誰なのか。それはおそらく一人ではなく、にもかかわらずここにあるのはつねに一人分の場所だけであり、その場所をわれわれは仮に「短歌」と呼んでいるのである。
『[sai]vol.03』より。

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