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喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

消失

2010-05-07 | 雑記
時間かけて長い記事を書いてるあいだに勝手にログアウトさせられてて、ようやく書き上がって記事の投稿ボタンを押すとログインしろっていわれ、ログインしたらせっかく書いた長い記事は跡形もなく消えてる。
という経験がしたい人はgooブログを始めましょう。

Witchenkare vol.1

2010-04-10 | 雑記
Witchenkare(ウィッチンケア)」という創刊されたばかりのリトルプレスに小説を載せていただいてます。
「雨傘は雨の生徒」というタイトルの、以前新潮新人賞の候補になった短編です。
取り扱い店、その他くわしいことは下記のブログにありますのでご確認ください。
ネット購入のできる書店もいくつかあるみたいです。

http://witchenkare.blogspot.com/

栞の不足と読書の停滞

2010-03-24 | 雑記
私の部屋は読みかけの本だらけです。なので栞がすぐに足りなくなります。読みはじめる本よりも、読み終わる本のほうがつねにずっと少ないからです。
読んでいることさえ忘れてしまっている無数の本に、私の手持ちの栞(文庫本についてきたのや、本屋でもらったの)のほとんどが挿まれてしまっている。何年もそのページから移動することもないままに。
いつか万が一続きを読むことがあるにせよ、どうせ内容を忘れてしまっているので最初から読み直さなければなりません。だから栞はもう意味がなく、抜き取って再利用すればいいのです。でもそんなことはできないのです。なぜなら、栞をけして抜き取らないというルールを崩してしまうと、今読んでいる本の栞もうっかり抜き取ってもいいことになってしまう。私の雑なルール感覚ではそうなるのです。それでは安心して読書を中断することができません。だからもう挿んでいる意味のなくなっている栞もそのページから移動してはいけない。絶対に。
そしてまた、読みかけの本はいつか必ず続きを読んで読み終えるのだ、という希望を捨てずにいたいということもあります。そのためのめくるべきページ残量を増やさないためにも、栞はここまでは確実に読んだという記念の場所から動かしてはならないのです。私にとって読書とはそのようなものでもあります。私は読書には向いてないのです。

種火

2010-03-21 | 雑記
休止を撤回したとたん連続更新になっていますが、何か書き続けていないと保てないものが今私の中に発生しているためで、そのために書き続ける場としてしばらくここを使おうと思います。


批評の仕事

2010-03-20 | 雑記
難解な批評といわれるものがあります。私はわかりやすく書かれた批評の価値は疑いませんが、多くの場合、わかりやすさはいわばわかりきったことを書くことで確保されているのも事実です。
われわれの言葉にとってある種のゆがみとして現れてくる文学作品を、ゆがみに寄り添って語れば批評はおのずと難解さを帯びます。いたずらに難解に言い換えているだけの批評と、語ることのそもそもの困難さが難解さとしてあらわれている批評はまるでべつなものです。
後者をさらに日常語へと近づけるサービスが、書き手本人または読者によってなされるのはありがたい。頭の悪い読者である私はそう思います。だが批評はそもそも理解しなければならないものなのでしょうか。もちろん理解できてもいいのだけど、そのうえで、批評が作品から私に手渡そうとしてくるものは、やはり理解することの絶対に不可能なものなのではないか、とも思うのです。
もしかすると批評が私に伝えようとするのは、「ここには理解不能な何かがたしかにある」という、ただそれだけのことではないのでしょうか。

小さな画面

2010-03-20 | 雑記
ビデオでジョン・フォードの「捜索者」を見ました。私はジョン・フォードの映画がよくわからないのですが、最高傑作との声もあるこの作品を見ても、やはりよくわからない作家であるという感想は変わりません。嫌いではないし、見ていて心を揺さぶられる瞬間も何度もあるのですが、瞬間以上の長さにその感情が波及していかないのです。映画のほとんどの時間を平常心で過ごしてしまいます。けして退屈しているわけでもありません。

昨日「作品の適切な大きさ」について書きましたが、映画は映画館のスクリーンで上映されるのが適切な、あるべき大きさであるのは言うまでもありません。私はほとんどの映画をテレビ画面で見ています。巨大なスクリーンに包み込まれるように見ることと、二時間という時間に包み込まれるように見るという二つのことのうち、前者を欠いているわけです。私がわからないと感じる映画は前者に作品としての重心がある可能性があります。画面が小さくなるということは、どの映画にとっても平等なハンディキャップというわけではないからです。

適切な大きさ

2010-03-20 | 雑記
図書館で借りた石田徹也の画集を見ています。以前ネットでこの画家の絵を見たときはあまり惹かれるところがなかったと思うのですが、あらためて画集で見るといい。この違いはパソコンの画面と紙の印刷物という、絵の置かれた環境の差もあると思うけど、いちばん重要なのは大きさだという気がします。
つまり、以前ネットで見たときは絵が小さくて、私の意識が視界に充てている面積に絵が一度におさまっていたと思うのです。するともともと寓意をつよく感じさせる作風でもあるし、絵が何かを意味する矢印として指し示す(ように見える)方向へ意識が移動してしまい、絵そのものは死角に入り見えなくなっていたのではないでしょうか。この画集に印刷された絵は、私の意識が視界に充てている面積より大きいので、視線が絵の中をさまようことができます。いわば私よりこの絵のほうが大きいのだと無理なく実感している。作品と私の関係が適切なものになっているようです。

gooブログは、記事にタイトルをつけなければ投稿できないところがすごくいやだ(仮)

2010-03-18 | 雑記
ネットで時間をどぶに捨ててる自分を見かけたら即刻死刑にして回らねばいけないのは引き続きですが、日記的なというか、思いついたことを脳の汁でメモする場所としてここはあけとくことにします。(気が迷ってツイッター再開したりしないように。)


自分を内側からコントロールする、というのは幻想に根ざした間違った発想であって、自分というものは他人のように外側からコントロールするべきなのだということの圧倒的な正しさ。少なくとも私のような凡人にとっては。を考える。


あることをするために本当に必要なことは、そのあることをしているあいだだけしか思い出すことができないのである。まるで夢の中でだけ(ここには以前にも何度も来たことがある)と思い出す、目が覚めるとまるで思い出せない町の景色のように。
だから何かをする事前の準備というのは本当は何もすることができなくて、実際に一刻も早くそのことをし始めてしまうしかないのだ。必要なことを思い出すための時間も必要なのだし。
だから事前の準備というのは、実際にし始めてしまうまでの決心のための準備、という以上の意味はなく、実際にし始めたそのことじたいには準備したものは何の恩恵もももたらさないのである。

しばし休止

2010-03-12 | 雑記
しばらく更新を休止します。自作についてなら気軽に書きとばせると思ってたけど、回を重ねると今まで書いてないようなことを書かなきゃとか、変に気取りが出てきて書くのに時間かかってしまう。しかし書いてることは書きとばしレベルをキープ。というまずいサイクルに飲み込まれつつある気がしたので。
ツイッターも休止中ですが、逃避の場を減らしてほんらいやるべきことをやらないとまずい。非常に。

早熟さについて

2010-02-19 | 雑記
早熟であるとはどういうことだろう。早熟だったことのほとんどない私は考える。人が三十才にならないとやれないことを、十五才でやってしまう。たった半分で。彼はまだ生きてもいない十五年をさっさと手に入れてしまう。前借りだ。
十五年後にその十五年を返済していれば、彼は晴れてどこにでもいる三十才になることができる。さらに前借りを重ねる才覚があれば、まるで五十才のような三十才になれるかもしれない。
しかし人生は有限だ。永遠に前借りを続けるわけにいかないばかりか、先取りされる一年の価値はしだいに目減りする。八十才がまるで百才のようだったとして、それはどういうことなのか。はたしてそれは価値か。
十五才の彼が、どのみち三十になればやれただけのことをたまたま早めに披露したのか。三十になってはじめてやれるかどうか検討し始めていいくらいすごいことを、十五の身でやりおおせたかの区別は「十五才がそれをやった」という事実のスキャンダル性に曇らされ、正確に見届けられることはまずない。
だから早熟だった者はあきらめて、早熟であることに耐えるしかない。それはひたすら耐えるべきものだ。浮かれていい理由などまるでないことははっきりしているのだから。

お金のひみつ@Twitter

2009-07-29 | 雑記
ざっと計算したら上半期の収入が計23万くらいだった。11:30 PM Jul 16th

いくらなんでも30万くらいはほんとはあると思うけど、それでも家賃はらったら月8000円しか残らない。おかしい。11:40 PM Jul 16th

電話も携帯も電気もガスも水道も止まってないし、ごはんも食べてるし病院も行ってる。それでキャッシングの残高が11000円。11:43 PM Jul 16th

お金って不思議だなあ。11:45 PM Jul 16th

たとえば銀行に10万円預けると、私は預けてるだけで当然自分の10万円だと思う。でも銀行も借りてる間は自分の10万円だと思って人に貸すし、借りた人も自分の10万円だと思って使う。そのように関わった人の数だけお金は幻想的に倍増してゆく。11:51 PM Jul 16th

あとお金というのは出し入れによる移動によって残像が発生し、実際の額面よりも体感金額は多くなる。11:53 PM Jul 16th

@********* 働くとお金がもうかる、というのは資本主義のつく嘘ですね。税金とはべつのしくみで儲かっただけさっぴかれる感じがします。11:59 PM Jul 16th

@********** 働かない生活を続けると、お金の動きがすごくゆっくりになります。するとゼノンのパラドックスみたいに「アキレスが亀を追い抜けない」みたいな光景が出現します。私がいるのはその世界です。12:07 AM Jul 17th webで

とてもゆっくり通過してゆくようになったお金は、私の視界にあるあいだにさまざまな仕事をしていきます。私はただそれを見守る。辛抱づよく見守り、むやみに手を出さないのがコツです。12:14 AM Jul 17th

まともに働いていると、お金のゆっくりした動きを体が追い抜いてしまうので、体の行く先々で新しいお金が必要になる。12:20 AM Jul 17th

そうやって本来一人の人間がかかわる何倍ものお金が必要になり、ますます働かなきゃいけないという悪循環。でもこれが社会のエネルギーなんだと思う。12:26 AM Jul 17th

働かないと長い目でみたらもちろん赤字だけど、お金の動きがゆっくりだから、たとえば借金しても返済までの体感時間をどんどん引き延ばせる。と考えるとなかなか危険なんで働いたほうがいいと思います。12:34 AM Jul 17th

@********** 動かして他人と共有したお金は社会のエネルギーになるけど、個人においては必ず目減りするんだと思います。べつに株で損したとかなくても、肝心なときに手元になかったりする。12:46 AM Jul 17th

この社会で実際に一人あたり使えるお金は、額面上の所得格差と比べてずっと差が小さいはず。金持ちになるほど、そのお金は社会化していて実際には自由に使うことができない。なんか資本主義のことがわかってきた気がする!12:49 AM Jul 17th

@********** たとえば完全に幻影の入り込めない物々交換とかになったら、私みたいなのが寄生する余地はなくなりますね。幻影だからこそ世の中の隙をついて現金化なんてこともできる。ふつうそこではしないだろ、という不意をついた現金化。1:16 AM Jul 17th webで

プリカの一部は死蔵化されるためにつくってるようなもんだろうけど、貧乏人はそれをきっちり無駄なく使う。それも寄生の一種と思う。1:24 AM Jul 17th



http://twitter.com/gatuma

透明さの断念

2009-07-10 | 雑記
批評の言葉が透明さを目指すのはそもそも間違いなのだと思う。批評は作品に対して根っからの異物であるはずだろう。
当然のこととして、批評どうしがある具体的な作品について合意を取り付けることもありえない話になる。批評が互いにその噛みあわなさを確かめる場所たりうることが作品の条件であり、作品をそのような場所として目覚めさせられることが批評の条件なのである。

そのとき演じられる対立はあくまで非対称なものである。作品を挟んできれいに対称をなす対立など、批評どうしが取り付ける合意と同じように本来ありえないものだ。そして具体的な作品をあいだに挟むことなしには非対称な対立すら不可能なはずである。
そのありえないはずのことが実現しているとき、批評は自らを異物として自覚するための作品を欠いているのである。交わされる言葉は互いにその透明さを信じる者たちによって発せられ、その実それぞれが自らの顔の映った表面を向こう側の景色と信じ込んでいるのだ。
もとより不透明さによって語り、不透明さとして言葉を交わす気であればそのようなことが起こるはずもないのだ。

透明さを断念することに失敗した言葉がいずれ“キーワード”化するのである。
“キーワード”はそれを誰が使用しても同じドアを開くことができる、という幻想とともにある。そのドアからどんな作品にも(本当に作品であれば)侵入できないことだけは確かであるが、批評になり損ねた言葉は容易に作品以外のものへの侵入を喜びもするし、それを作品だと思い込むそぶりさえ見せるだろう。
そのとき発動している厚顔な善意に対し、作品も批評もひたすら無力なままである。

読書その他のメモ@Twitter

2009-06-25 | 雑記
ワダチ(松本零士)読了。各回おわりのポエムみたいのがすごくいい。あのポエムみたいのをぶつぶつ呟く空間として四畳半とか屋台とか、パンツとかトリとネコとかタムシがどこまでもついてくる。5:31 PM May 31st webで
すごく内面的な話なのに、主人公が傷つけられたシーンでも全然「感情移入しろ!」ていうコマがないのがいいなあ。そういうとこがセカイ系と違うのかなあ。5:37 PM May 31st webで
四畳半と大宇宙がじかに繋がるとこはセカイ系的ともいえそうだけど。5:39 PM May 31st webで
作家がひたすら主観的に無反省にポエム的なものをたれながしていい空間、というのを作品のなかに確保するのは大事なことだなあ。5:50 PM May 31st webで
無反省なポエム的つぶやきはわりきれない矛盾をはらむのでイイ。6:11 PM May 31st webで
B39-II。吉村萬壱の小説ではじめていいと思った。9:08 PM May 31st webで
ホトトギスが鳴いた。吉村萬壱『ヤイトスエッド』読了。「B39-II」と「鹿の目」がよかった。4:46 AM Jun 2nd webで
サボテン・ブラザーズ。超苦手なタイプの映画で気が滅入る。3:26 PM Jun 2nd webで
最初の数分で、もう泣く準備して見るつもりだったのがなぜこんな凶悪な気分に。3:43 PM Jun 2nd webで
アンデルセンは詩人だねえ。比喩がいっぱい。8:39 PM Jun 3rd webで
視覚的に再現不能な描写、って詩だなあと思う。まあ詩のことはよくわからんのだが。8:40 PM Jun 3rd webで
小説の描写は、視覚的な再現性に過剰にこだわることで時空がゆがむとこがあるけど、8:43 PM Jun 3rd webで
言葉のうえだけの論理で描写を成立させてしまい、視覚的にありえないものを呼び起こすという描写もあって、そういうのを詩的描写ということにしとく。8:45 PM Jun 3rd webで
描写を切り詰めて、少ない言葉でぱっと対象の本質をつかんでみせる、みたいなやり方がもともとあって、8:55 PM Jun 3rd webで
そこから描写の対象を消してしまうということかな。何もないけど脳が読みにいってしまう感じ。8:57 PM Jun 3rd webで
くだりかかってたとこを「新・明日に向って撃て!」みて持ち直す。リチャード・レスターのマンネリにはなんか癒される。9:22 PM Jun 3rd webで
向井豊昭『怪道をゆく』読み中。3:42 PM Jun 5th webで
寺山修司の話し方について、あれは青森なまりじゃなく「アクセント一つない」「青森のアクセントを捨てようとして、東京のアクセントまで捨ててしまった寺山」とあるけど、3:42 PM Jun 5th webで
あの平板な感じは韓国語をベースにしてんじゃないかなとおもったなんとなく。3:44 PM Jun 5th webで
Wikipediaにこんなこと書いてある。「寺山の競馬の出会いは1956年。ネフローゼで入院中でのことで、同室の韓国人から賭博とともにそれを学んだ。」http://bit.ly/kzGrR3:47 PM Jun 5th webで
青森なまりを消すために韓国語をつかったんでわという仮説。3:51 PM Jun 5th webで
サンダーボール作戦。007はマクガフィンだけでできてる映画。12:42 AM Jun 9th webで
オードリー・ローズ。こんな重い映画だったのか…。くだけ散るガラスとともにおとずれるやりきれない救い。
THX-1138/ジョージ・ルーカス。仮面つけたポリス(ロボットという設定)がかっこよかった。4:27 PM Jun 12th webで
メトロポリスのアンドロイド+石森章太郎(ロボット刑事とか)と言う感じ(ポリスが)。4:29 PM Jun 12th webで
ブラックジャック読む。「殺しがやってくる」の回、事故を起こしたピノコを“手術”するBJ。筐体をあけて脳や臓器をむきだしにされるグロテスクなピノコにも手塚の趣味のよさ(反語じゃなく文字通り)は発揮されてるけど、ぎょっとするのは下腹部。8:20 AM Jun 14th webで
幼児のかたちをしたピノコが「奥さん」を気取るたび読者の頭をかすめる疑問に、手塚はちゃんとひとつの答えを示している。つまりピノコはセックスできる体につくられていた。8:26 AM Jun 14th webで
BJ、ピノコの出る回はみんないいな。今さらだけどピノコいい。
医学知識が支えてるリアリティとはべつのリアリティの柱がピノコにはあって、前者のリアリティと地続きなこっち側のもろもろの面での矛盾をあっち側から無効にしてくる!(うまくいえてない)5:54 PM Jun 20th webで
ピノコのリアリティ=人間のかたちをしたものには人間と同じように魂が宿る、というオカルト的な実感。5:55 PM Jun 20th webで
かたちどころか、中身まで人間から詰め替えられてるんだから、それが動いたり喋ったリするのも当然、というリアリティ。5:59 PM Jun 20th webで
医学的リアリティ=劇画的リアリティ、オカルト的リアリティ=マンガ的リアリティというのはどうか? そうゆう二つの柱。6:11 PM Jun 20th webで
ピノコ自身にもその二つは共棲してて、パカッとふたを外すとリアルな脳味噌や内臓が露出して描かれもする。マンガの下から劇画があらわれる。6:17 PM Jun 20th webで
ということはつまり、ピノコがオカルト的(マンガ的)リアリティの代表として作品のリアリティのバランスをとってるんじゃなくて、ピノコ自身がオカルト(マンガ)/医学(劇画)という二つのリアリティが共存したBJとゆうマンガの象徴的なキャラクターなのです!6:25 PM Jun 20th webで
千年女優。今敏はなんか途中で飽きるな。2:16 PM Jun 22nd webで
フレーム乗り越えものはすごい好きなんだけど、ずっとそれで押されると飽きる。乗り越えのバリエーションがいくら抱負でも乗り越えってだけだと単調だから。2:18 PM Jun 22nd webで
回想シーンに現在の人物が介入する、ていうのは先例だと「絞殺魔」とか「ドグラ・マグラ」とか。回想と現在を分けるフレームはそもそも単に映画の約束事だから、そんなものは元々ないんだとも言える。2:25 PM Jun 22nd webで
だから映画が一方的に(観客との)約束を破って登場人物にフレームを乗り越えさせることには、何も障害はないけど、約束がくずれて語りに混乱が起きるわけでそこがおもしろいというしくみ。2:28 PM Jun 22nd webで
でもその混乱もずっと続くと見慣れてしまうし、もともと約束があっての約束破りだから、破れてしまった約束を何度も破ってみせるのはもうジャンル(の約束事の強固さ)へのもたれかかりというか甘えみたいのがにじみ出てきてよくないと思う。2:34 PM Jun 22nd webで
でもフレームを越えたり崩れるときのめまい、みたいなのはやっぱり私は偏愛つうくらい好きかも。ディックなんかはフレームがあからさまに越えたり崩れることはそんななくて、つねにぐらぐらしてるところがいいんだな。あれは技法っていうよりもっと人格とか文章の病気みたいなもんだと思う。2:41 PM Jun 22nd webで
千年女優でアニメならではのうまくいってたとこは、映画(虚構)と現実の間のフレーム越えの所。実写だとそもそもが「現実」と似すぎてるので、映画内の虚構(映画)と現実を分ける約束のこととか、よけいなことがいろいろ目についてしまうと思う。2:45 PM Jun 22nd webで
アニメはもう現実とは別個のリアリティを前提に見てるので、作品内での「映画」と「現実」が見分けのつかない状態で呈示された上で、事後的に「これは現実でした」「映画でした」とひっくり返されていっても違和感がない。2:48 PM Jun 22nd webで
ただそのアニメ的なリアリティの、デフォルメされかげんというのがこういうタイプの作品では単調さにつながるという気がする。実写ならよけいな情報が多くてすっきりフレーム越えられない分、そのよけいな情報が思わぬ見どころになるから。2:54 PM Jun 22nd webで
ディックが開けっ放しの蛇口みたいに小説書いてたときにダダ漏れになってた私生活の悩みとか頭の中のもろもろが、ディックをディック好きの作家が真似るときに技法化するようなものとは一線を画してる。3:02 PM Jun 22nd webで
ディックの書き方には町の中でカメラを回してるようなところが含まれてたんだと思う。3:04 PM Jun 22nd webで

怪道をゆく

2009-06-07 | 雑記
向井豊昭『怪道をゆく』。読みながら連想したのは藤枝静男。藤枝静男の小説を一度マンガ化してからもう一回ノベライズし直したような小説、といえばいいだろうか。マンガ化のところを蛭子能収の絵で想像したのは、この作者の最初の単行本(『BARABARA』1999年)の表紙(蛭子のイラスト)に引きずられているかもしれない。藤枝にも多少あるような文体の文学臭がまったくなく、ひどく簡潔で平熱の文章(意識して狙った無骨さというのでさえない)。執拗な描写も詩的なテンションの高さもないのに、語られるのは非現実的な光景で、それをあっさり受け入れてしまえるのは文体の地声とのぶれのなさのせいか。個人的に今もっとも信頼できる、拠り所になる文章がここにあると感じた。小説の内容について語るのは苦手なので触れないが、表題作では短歌が重要なモチーフになっていることだけ書いておく。作者は1933年生まれで昨年死去。この本は昨年出版された。

小説の訛り

2009-05-29 | 雑記
誰もが知るように、小説というのは日本語で書かれていても本当は日本語ではないものだ。Aという作家の書いた小説は日本語Aローカルな言葉で書かれている。だから日本語が読めるだけでは読めない。
エンタメはこうした作家ごとの訛りを最小限に抑える方向で書かれる。つまり作家ごとの訛りに慣れるというハードルが下げられ、あるいは作家の訛りそのものを読むという要素が縮小され、標準語に近い言葉で書かれる。ただしジャンルや読み手のサークルで共有される訛りというものがあり、ミステリ訛りや幻想文学訛りやラノベ訛りなど。その共有された訛りをいったん受け入れるとジャンルやサークル内の作家がまとめて読めるようになる。このように外部と壁で隔てられつつ内部に膨らむような単位はマニア的な心性と相性がよく、だからマニアはジャンル小説に多く集まるのだといえる。
しかし純文学にも純文学訛りというのが当然存在する。純文学というのはジャンル小説に対する「その他全部」のことのはずだが、実際にはそうはなっていないことによってかろうじて商品化もでき、ジャンル訛りがあることによってかろうじて読まれているというべきだろう。純文学がもっと全然誰にも読まれず、すっかり忘れ去られる時がきてはじめて「その他全部」として作家ごとの互いにまるで通じない訛りが肯定される場になるかもしれない。場はその時はもうないかもしれないが、純文学という「ジャンル」が下手に生きていることが現状では障害になっている部分もあると思う。純文学(訛り)さえ持たない小説は存在しない(=小説ではない)ことにされてしまうということだ。