喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

短歌は横に狭い

2011-08-07 | 短歌について
更新しないと表示される広告、が出てるので何か書く。
短歌は縦に長いのではない。横に狭いのではないか。ということを以前ツイッターに書いた。
シネスコの画面は映画館で見ると横に広いが、テレビ画面で見ると横にはそれ以上広げられないので、その分上下のマスクされる面積が増えて、縦方向がつぶれた画面になる。つまりシネスコはテレビで見ると横方向が広いのではなく、縦方向が狭いのである。
それと同じようなことが、短歌にはいえるのではないか。
俳句や川柳は31音の短歌とくらべると17音しかないので、そのぶん縦に短い(縦書きを前提として)といっけん言えそうである。だがそうではなく、それらは横方向に広いのではないか。
つまり短歌や俳句を読むときわれわれは、テレビ画面のようなものをそこに当てはめて読んでいるのではないだろうか。その画面の中では、字数(音数)が増えて全体が長くなるほど、その長さを画面とぴったり合わせるために、相対的に横方向の幅が狭くなるのである。

いつものように調べもせず勘だけでものを言うが、たぶん和歌的な修辞だとか前衛短歌的な技法は短歌の「狭さ」を克服または隠蔽するためのものであり、アララギ的な写実やいわゆるただごと歌は短歌の「狭さ」に殉じようとするものではないかと思う。
ごくおおざっぱにいって前者は短歌の複数性(五音と七音が反復することや、上下句からなることを起源とする)を重視するし、後者は単数性を重視するといえるだろう。短歌を内部で切断して横に並べることで狭さにあらがおうというのが前者のやり方である。

ただ、こういう見取り図はあくまで文語が前提のもので、口語短歌は切断したはずがつながっていたり、つながっているはずがどこか切れてるように見えたりと、単数性/複数性がきれいに分けられないところがある。はたして口語短歌は文語とくらべて広いのか狭いのか。口語短歌の場合は、何かそもそも画面の比喩で語るのがふさわしくないような気もするのだが。