短歌の短さは、われわれをどこにも連れて行かない短さだと思う。
その一方で、短歌の長さは、われわれを一見どこかに連れて行こうとしてるかのように見える長さ、でもある。
この微妙な短さまたは長さに揺れ続けることじたいが、短歌という形式とわれわれの関係をつくりだすもののひとつである。
つまり短歌は「どこかへ行けること」と「どこへも行けないこと」の間にある。
言い換えると「どこか」「ここ」の間に短歌はつねに不安定に揺れている。
で、この不安定に揺れることから生じてくる擬似的な空間があり、われわれが自我の置きどころとして使用するのにこの空間は(擬似的なものであるがゆえに)なかなか都合のいいものだったといえるのではないか。
短歌史的なものを踏まえずにいうけど、いわゆる「写生」はこの本来の宙吊り状態から、短歌を「ここ」に固定するための重力を生み出す方法だったと考えられる。
意識を「ここ」に縛り付けることで短歌から「どこか」へのかなわぬ希望を一切摘み取るということだ。あるいは「ただごと歌」もそうかもしれない。短歌ではどこへも行くことはできない。行けもしない場所へただ行くそぶりだけを繰り返すのはいんちきであり、詐欺行為であり、恥ずべきことである。だから短歌はひたすら「ここ」のみに徹するべきだという考え方には圧倒的な正しさがあると私は感じる。こういう正しさで律しなければ短歌はいくらでもだらしなくなり、ここがいやな時は「どこか」、どこも見つからなければ「ここ」と都合よく使いまわされる形式なのではないだろうか。
だけどこの正しさはきわめて不自然なものだとも思う。短歌は、たしかにどこへも行けないものだけど、どこかへ行けそうに見えてならないのもまた短歌形式の本質である。つまり「どこかへ行けそうでどこへも行けない」短歌から、「どこかへ行けそう」という要素を切り捨てるというのはかなりの大手術であり、その結果あらわれてくる「正しい短歌」が感動的なのは、その手術後の姿から、かれの断念したもののあまりの大きさが窺えるからだ。
近代短歌がそもそもこの大手術の結果うまれたものなのだろう。そして手術後の無残な姿への感動は時とともに薄れ、見慣れたものとなる。と同時に、この形式の不気味な生命力はかつて断念した部分を年月のうちにしだいに回復させ、なんとなく手術前の姿に近づけつつもあるようだ。
今では、この中途半端にのびた髪型のような現状の短歌をみな自分に都合よく解釈している。手術を肯定する者はこれこそ手術の成果が今に残す財産だと胸を張り、手術を否定する者はほら見たことか手術前の姿に戻ったではないかとほくそえんでいる。
だが私はべつに言える立場ではないので小声でだが、ここは遠慮がちにこう言いたいような気がする。
「そろそろ床屋に行ったほうがいいのでは…」
いえることは、切っても切ってものびてくる髪の毛や、抜いても抜いても生えてくる雑草はとても不気味だということだ。これを不気味と感じないとしたら、その人は雑草ですべてが覆われてしまった世界を想像したことがないのだろう。
伸びるに任せるにせよ、刈り込むにせよ、この不気味な生命力を直視してそこに飲み込まれることに不安をおぼえること。話はそれからだと思う。
その一方で、短歌の長さは、われわれを一見どこかに連れて行こうとしてるかのように見える長さ、でもある。
この微妙な短さまたは長さに揺れ続けることじたいが、短歌という形式とわれわれの関係をつくりだすもののひとつである。
つまり短歌は「どこかへ行けること」と「どこへも行けないこと」の間にある。
言い換えると「どこか」「ここ」の間に短歌はつねに不安定に揺れている。
で、この不安定に揺れることから生じてくる擬似的な空間があり、われわれが自我の置きどころとして使用するのにこの空間は(擬似的なものであるがゆえに)なかなか都合のいいものだったといえるのではないか。
短歌史的なものを踏まえずにいうけど、いわゆる「写生」はこの本来の宙吊り状態から、短歌を「ここ」に固定するための重力を生み出す方法だったと考えられる。
意識を「ここ」に縛り付けることで短歌から「どこか」へのかなわぬ希望を一切摘み取るということだ。あるいは「ただごと歌」もそうかもしれない。短歌ではどこへも行くことはできない。行けもしない場所へただ行くそぶりだけを繰り返すのはいんちきであり、詐欺行為であり、恥ずべきことである。だから短歌はひたすら「ここ」のみに徹するべきだという考え方には圧倒的な正しさがあると私は感じる。こういう正しさで律しなければ短歌はいくらでもだらしなくなり、ここがいやな時は「どこか」、どこも見つからなければ「ここ」と都合よく使いまわされる形式なのではないだろうか。
だけどこの正しさはきわめて不自然なものだとも思う。短歌は、たしかにどこへも行けないものだけど、どこかへ行けそうに見えてならないのもまた短歌形式の本質である。つまり「どこかへ行けそうでどこへも行けない」短歌から、「どこかへ行けそう」という要素を切り捨てるというのはかなりの大手術であり、その結果あらわれてくる「正しい短歌」が感動的なのは、その手術後の姿から、かれの断念したもののあまりの大きさが窺えるからだ。
近代短歌がそもそもこの大手術の結果うまれたものなのだろう。そして手術後の無残な姿への感動は時とともに薄れ、見慣れたものとなる。と同時に、この形式の不気味な生命力はかつて断念した部分を年月のうちにしだいに回復させ、なんとなく手術前の姿に近づけつつもあるようだ。
今では、この中途半端にのびた髪型のような現状の短歌をみな自分に都合よく解釈している。手術を肯定する者はこれこそ手術の成果が今に残す財産だと胸を張り、手術を否定する者はほら見たことか手術前の姿に戻ったではないかとほくそえんでいる。
だが私はべつに言える立場ではないので小声でだが、ここは遠慮がちにこう言いたいような気がする。
「そろそろ床屋に行ったほうがいいのでは…」
いえることは、切っても切ってものびてくる髪の毛や、抜いても抜いても生えてくる雑草はとても不気味だということだ。これを不気味と感じないとしたら、その人は雑草ですべてが覆われてしまった世界を想像したことがないのだろう。
伸びるに任せるにせよ、刈り込むにせよ、この不気味な生命力を直視してそこに飲み込まれることに不安をおぼえること。話はそれからだと思う。