喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

だらしなくのびて

2008-12-17 | 短歌について
短歌の短さは、われわれをどこにも連れて行かない短さだと思う。
その一方で、短歌の長さは、われわれを一見どこかに連れて行こうとしてるかのように見える長さ、でもある。
この微妙な短さまたは長さに揺れ続けることじたいが、短歌という形式とわれわれの関係をつくりだすもののひとつである。
つまり短歌は「どこかへ行けること」と「どこへも行けないこと」の間にある。
言い換えると「どこか」「ここ」の間に短歌はつねに不安定に揺れている。
で、この不安定に揺れることから生じてくる擬似的な空間があり、われわれが自我の置きどころとして使用するのにこの空間は(擬似的なものであるがゆえに)なかなか都合のいいものだったといえるのではないか。

短歌史的なものを踏まえずにいうけど、いわゆる「写生」はこの本来の宙吊り状態から、短歌を「ここ」に固定するための重力を生み出す方法だったと考えられる。
意識を「ここ」に縛り付けることで短歌から「どこか」へのかなわぬ希望を一切摘み取るということだ。あるいは「ただごと歌」もそうかもしれない。短歌ではどこへも行くことはできない。行けもしない場所へただ行くそぶりだけを繰り返すのはいんちきであり、詐欺行為であり、恥ずべきことである。だから短歌はひたすら「ここ」のみに徹するべきだという考え方には圧倒的な正しさがあると私は感じる。こういう正しさで律しなければ短歌はいくらでもだらしなくなり、ここがいやな時は「どこか」、どこも見つからなければ「ここ」と都合よく使いまわされる形式なのではないだろうか。

だけどこの正しさはきわめて不自然なものだとも思う。短歌は、たしかにどこへも行けないものだけど、どこかへ行けそうに見えてならないのもまた短歌形式の本質である。つまり「どこかへ行けそうでどこへも行けない」短歌から、「どこかへ行けそう」という要素を切り捨てるというのはかなりの大手術であり、その結果あらわれてくる「正しい短歌」が感動的なのは、その手術後の姿から、かれの断念したもののあまりの大きさが窺えるからだ。
近代短歌がそもそもこの大手術の結果うまれたものなのだろう。そして手術後の無残な姿への感動は時とともに薄れ、見慣れたものとなる。と同時に、この形式の不気味な生命力はかつて断念した部分を年月のうちにしだいに回復させ、なんとなく手術前の姿に近づけつつもあるようだ。

今では、この中途半端にのびた髪型のような現状の短歌をみな自分に都合よく解釈している。手術を肯定する者はこれこそ手術の成果が今に残す財産だと胸を張り、手術を否定する者はほら見たことか手術前の姿に戻ったではないかとほくそえんでいる。
だが私はべつに言える立場ではないので小声でだが、ここは遠慮がちにこう言いたいような気がする。
「そろそろ床屋に行ったほうがいいのでは…」

いえることは、切っても切ってものびてくる髪の毛や、抜いても抜いても生えてくる雑草はとても不気味だということだ。これを不気味と感じないとしたら、その人は雑草ですべてが覆われてしまった世界を想像したことがないのだろう。
伸びるに任せるにせよ、刈り込むにせよ、この不気味な生命力を直視してそこに飲み込まれることに不安をおぼえること。話はそれからだと思う。

「風通し」増刷といつもの道で

2008-12-01 | 短歌について
「風通し その1」初版が完売して、増刷が決定したそうです。
この機会をお見逃しのないよう。いずれ入手困難になったあかつきには、途方に暮れるあなたに私が手持ちの分をプレミア価格で売りつけて暴利を貪る、ということになりかねませんのでご注意を。

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kaze104@gmail.com
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メールの件名は「風通し購入」とし、

1)お名前
2)ご住所(マンション・アパートの場合は、建物名も)

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折り返し、お支払方法など斉藤斎藤さんよりお知らせが届きます。





私は文学作品に接するとき、「こんな場所も歩けるのか」「こんなところにも道があったのか」と思い知らされたい。思い知ってぎょっとしたいという期待を抱いているのですが、短歌という道はそれを期待するには短すぎる。ではこの道で私は何を見たらいいのか。
「風通し その1」掲載の連作で、そういう意味で私がとくに惹かれたのは石川美南さんと斉藤斎藤さんと永井祐さんの作品です。

短歌は57577の形式という、言ってみればたった一本の同じ道を繰り返し歩くだけのジャンルです。こないだ歩いたとき蕾だった花が今日は咲いてるとか、いつも吠えられる犬がいないけど散歩中かなとか、そういう微細な違いに目を凝らして味わうようなところがある。
それではちょっとどうかというんで、楳図ハウスみたいな家を沿道に並べてみたり、家のドア全部に派手に落書きして回ったりすると、それは逆にかえってそこが同じ道であることの倦怠を深めてしまう気がするのですね。

本誌の石川さんの連作は、このたった一本道の沿道を眺めるのにひどく行き届いた、手の込んだガイドを手渡してくる。普通に外の世界で、使いやすくて面白いと評判になる旅行ガイドが書ける能力があるはずなのに、なぜかこの一本道にこだわる。世の中の需要が何桁も少ない方のガイドを隅々まで充実させるというこの倒錯が、内側にこじあけようとする違う景色。

斉藤さんの作品は、一本道の沿道の家の中のほうを読者に歩かせる。玄関を入ってトイレの窓から道をちらっと見て、掃き出しから裏庭に出て垣根の隙間をくぐって隣家の風呂場に失礼すると、湯船で鼻歌うなる爺さんに会釈して居間で猫撫でながら二階に上がってベランダから道をちらっ見て、となりの屋根に飛び移ったら鍵がかかって入れないのでさらにとなりの家の庭木へ……という道中にちらっと見るたび例の一本道はつねにそこにある。

永井さんの場合は沿道にほとんど何もなくなっている。更地のような土地で見るものがないから足元を見て、道路の白線のかすれとか小石のちらばりに見とれていると、十円を拾う。所持金の百十円と合わせて缶コーヒーが買える。と思って自販機をさがせば、自販機はないのだが遠くにぼんやり山の稜線が見えたり、点のような飛行機が雲をひっぱって空を縦断しているのに気づく。更地のむこうに。

これらは道(短歌というジャンル)と作品との関係について今思いついたたとえ話なので、こういう内容の作品では全然ないのです。
実際にはパンダが脱走して歩き回り、展示されている死体標本を見に出かけ(パンダがではない)、ズボンを欲しがったり(パンダがではない)買ったり(パンダがではない)しています。
このどこにも通じていない道で何を見るのか。私の読み方はおのずとそういう部分に偏ります。どこにも行けないのに道である。この矛盾を作品がどう引き受けているのか。
どこにも行けないことによって、道そのものを提示できるのが短歌なのだろうと私は思うわけです。