短歌と無関係な日々が過ぎている。
短歌と無関係でいるときに考えること、の記録として日記を書いておくことに。
私が作り手ではなく読者として短歌にかかわる時の態度はだいたい一貫してて、「短歌のほうからこっちに近づいてこないかぎり、こっちから短歌に近づく気はない」というものですね。
べつに読者としての私に媚びてくれ、という意味ではなく、サークル内の約束事などにこちらから合わせて読みにいく気はしないから、その外にいても目に入ってくるものしか見ようと思わないし、目に入った結果おもしろいとかすごいとか何だこれとか気を惹かれたときだけ、目を近づけてみる。ということですね。
とくにファンとかマニアとかではない一般の読者、が取る態度ということでしょうか。ただし読む対象として小説だけでなく短歌もいちおう勘定に入れてある、というところで。金銭的に余裕がないせいもありますが、あったとしてもたぶん熱心に短歌というジャンルの全体像を追う読み方はしてないと思う。これは純粋に読者としてじゃなく作り手の視点が入ってくるけど、現代に短歌をやるということのどこか根本的なそもそもの無理、というものがあって、口語短歌においてその無理のきわみのようなものが出現すると思うのだけど、無理を無理と見せないような気圧をサークル内でつくりあげてそこで短歌を大事に守る、というのではなく、かといってサークル向けのパフォーマンスとして外部に向かって自爆してみせる、という出し物もイヤだなあと思い、というようなことを考えていくと、結局たまたま57577のかたちになった日本語、として変なものをめざしてコツコツつくってみるしかないのか、と視点は読者の視点にすっかり帰ってこなくなってしまいましたが。
短歌の読者、という視点をどこにみつけたらいいかわからない、ということがやはりあるのかもしれないなあ、と思った。作り手の目で読まずに短歌を読む、ということが私は一度もできたためしがないのかもしれない。
「田園に死す」だって実際に読んだというより見つけた、見い出した、眺めた、という感覚が正しいわけだし。ほとんど読む必要がないところがあれは凄いと思ったわけですからね。だから短歌は読まれる必要もなく存在するところに価値がある、と私は思ってるのかもしれず、そう考えると私が今つくってるような短歌は簡単に読めすぎてまるで見当違いな方向(読者としての私が見ている方向とは見当違い)を見ていることになるのだが、それでいいのか?