喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

マッキラー

2009-02-25 | 雑記
「マッキラー」(1972)。ルチオ・フルチの映画としては例外的にストーリーがちゃんとしてる作品、ぐらいの先入観で見たけど、とくにラストでは涙で画面も曇るほど心をはげしく揺さぶられる。とんでもない傑作。救いのない世界に差し込むもっとも絶望的な光。張りぼての顔が削れながら崖を落下していく描写が、間抜けでもまして残酷でもなく(あるいは間抜けで且つ残酷でありつつ)ひたすらやりきれない感動と結びついてしまうとは。


URLメモ。
http://aghi.hp.infoseek.co.jp/V3.htm
http://f16.aaa.livedoor.jp/~aghi/shikei.htm

断片と空白

2009-02-23 | 短歌について
短歌というのは一首で「作品」として十全なものではなく、やはり何か断片のようなものなのだと思う。
つまりその一首をしかるべき文脈の上に乗せることで、初めて機能するというか。現在の短歌が多く連作志向なのは、作者や読者のあいだであらかじめ共有されている文脈(価値観とか人生観とか)が希薄なので、歌という断片をそこに乗せていくことは期待できないということがひとつはあるのだろう(もちろん口語の情報量不足(というか定型とのサイズの合わなさ)、切断力の弱さなども一方では大きいけれど)。だから歌が機能するために必要な文脈を、作品自身が用意しなければならなくなる。それで連作という形式が必要になるのであり、いったん連作という文脈を外すと、いわゆる一首の独立性を保った歌であっても読者側の価値観で(連作的な文脈からいえば)曲げられ、簡単に誤読されるのだと思う。

行間を読む、なんてことを言うけれど、それは行間の空白にわれわれが共有する文脈の支配があるからこそできることに違いない。とくに短歌というのはほとんど行間でできているようなジャンルで、行間の空白が本当の空白(あらかじめそこにうっすらと答えが書き込まれていない)になってしまうと、どう読んでいいのかさっぱり分からないものになる。そのことが短歌をめぐるグループ間(行間の文脈を共有するグループ間)の苛立ち合いや無関心の一因になるのだろう。

最近の斉藤斎藤による膨大な詞書のある連作は、かつて行間の空白を埋めていた透明な文脈の支配が失われたのちに、いわば本当の空白になってしまった行間をかわりに目に見える言葉で埋めている状態だとも考えられる。
それは行間に文脈が今や機能していないにも関わらず、あたかも「正しい行間の文脈」があるかのごとくふるまう横暴な読みを、予め封じるやり方かもしれない。あるいは空白で途方に暮れる読者へのナビゲーションでもあるのか。もちろんどんなに言葉がみっちり書き込まれても行間が消滅することはないが、斉藤の作品にある行間のサイズはもはや短歌のそれではない。短歌の行間は(たとえ連作という一時的な文脈がつくられていたとしても)すでに行間としての機能を失っているという判断がそこには感じられる。

私はここで反対側に行きたいというか、行間が本当に誰も何ひとつ読み取れない空白であることを前提にしつつ、短歌がいびつな断片として意味ならぬ意味を波紋のように広げる空間として、その空白を利用したいという気分がある。そうなるとしかし連作の行間でさえ窮屈すぎるという体感があり、かといって短歌が一首でぽつんと成立できる場所などどこにもあるはずがないと感じる。あるとすれば歌会とか何か短歌が安心して「作品」じゃなくていられる場、だけなんじゃないかと思うのだが、「作品」であることを断念して何かよく見ると無視できない断片のようなものをぽろぽろ落としていけばいい、と思い込めるところにはまだ行かない。やはり「作品」として成立させたい、させる手はないかと思ってしまう。

模倣と作家性

2009-02-21 | 雑記
というわけで歯医者に行ってきた。レントゲン撮ると虫歯は神経に達していたので、削って神経抜いた穴を何回か洗浄したあと、金属の土台をつけてその上に歯をのっけるという説明。四、五回通うことになる。
今は飴みたいな触感のものが仮に穴に詰まっている状態。舌でさわると柔らかいのがちょっと不安。一回目の会計は四千円弱。鎮痛剤としてロキソニンが出た。

しかし大物の虫歯がひとつ失われてみると、その他まだいくつもある小物の虫歯が口の中でそれぞれかすかに疼いているのが感じられてくる。気のせいかもしれないが。


「ファンタスティック・プラネット」(ローラン・トポール)という73年のアニメ映画を見た。人物の顔やポーズが諸星大二郎の絵にそっくりで、諸星は絵といくつかのアイデアの点であきらかに本作を参考にしていると思う(諸星のデビューはこの作品の制作年より早いけど、現在の作風が確立するのはたしか74年頃)。実際好きな映画のベストテンのような中に本作を挙げてもいるようだ。もちろん好きな作品だから影響を(少なくとも表面上は)受けるとは限らないし、好きでもない作品から影響を受けることもあるわけだが。
先行する作家の模倣から創作をはじめ、やがてその影響を脱して個性を確立していく…というのはよく聞かれる創作観・作家誕生のストーリーであるが、私はこれは部分的にしか正しくないと思う。強度の高い作家性というのはかなり早い時点からある者にはあって、ない者にはないのであり、模倣の経験は作家性をけしかける刺激や、作家性を目に見えるものにする画材のようなものだと思う。結果、模倣をやめる場合もあるだろうけど、そのまま作家性を具体的にするアイテムとして取り込んでしまう場合もある。何か先行する作家や作品とそっくりな部分を残していても強靭な作家性、というのはありうるし、逆に一見何にも似ていないんだけどひ弱な作家性もあるのだ。

やはり歯から

2009-02-20 | 雑記
最近別な健康不安が出てきたので、虫歯治療は後回しだなと考えた。虫歯はどう悪化しても虫歯でしかないので、不安のほうを先に検査しないといけない。
検査のためには下剤を二リットルくらい飲むらしい。そりゃあ大変そうだなくらいに思っていた。だが大変という以前に、そもそも私は水分をストローで、しかも人肌の温度にしたものしか飲めない(歯に沁みるから)という特殊な状態にあることを、しばらく経ってから急に思い出した。
二リットルをストローで飲み干すのは無理だろうし、下剤の温度も調節できないだろうから、やはり歯を先に治療しなければならないのだ。どんな水分でも沁みない状態にしてからでないと検査すら受けられない。この二つはセットになってしまった。出費が当初の(虫歯だけの)予定より前倒しかつ倍増しそうで困ったものだが、とりあえず保険証が取り上げられてなくてよかった、ということを喜んでおく。

ここで払わないと取り上げられる、というタイミングは自分なりに掴んでいるが、本当にそのタイミングなのかは分からない。まだ取り上げられたことは一度もないからだ。



カナリア(追記あり)

2009-02-16 | 雑記
昨日は塩田明彦「カナリア」を見た。こういう現在の日本でつくられた(公開は2005年くらい)、がゆえに危うさをいろんな意味で含んでもいる傑作を見てしまうと、単に普通に感想を書く言葉すら自分は全然持っていないのだと思い知る。
撫で肩で、睨みつけるような大きな目と弱弱しく笑いかけつつ何か話そうとしている口元をした関西弁の少女・谷村美月が、饒舌だと思ったら寡黙だったり、いたりいなかったりする周りにひろがっていた景色がひたすら頭の中をぐるぐると回っている。
ひとつの映画を見るということは、フィルムの終わりが出口ではないような長いトンネルに入ることでもあるのだと思う。


関連URLメモ。
http://www.shirous.com/canary/topics.html
http://www.mube.jp/pages/critique_20.html
http://bataaji.blog53.fc2.com/blog-entry-183.html


追記。
上記一番目のURLは元「カナリア」公式サイトなんだけどTOPページはなくなっているみたい(上記URLからコンテンツは読める)。そこにある監督インタビューを読んで思ったのは、映画というのは監督が演出意図とか主題とかを饒舌に語っても、それが観客の観かたを束縛するものではないのだということ。それはおもに映画が実在する物や景色や人間を撮影することで世界に“開かれている”ことへの信頼が、作り手にも受け手にも共有されているからだろう。
短歌などは(おもに短さによって)そういう意味での信頼がきわめて成立しづらいに違いないが、作歌意図とか主題や解釈を作者自身がためらいなく全部語ってしまっても、読者はそれに堂々と反論できるようなものになればいいなと思う。

日本春歌考

2009-02-14 | 雑記
今日は朝、小津安二郎の「母を恋はずや」を見た。フィルムの最初と最後の巻が欠けているので、その部分は字幕であらすじを説明していた。これは勿論やむをえずそうしているわけだが、使えるやり方だと思った。小説で、書きたい場面だけをくわしく書いて前後をあらすじで挟んでしまうということに使えそう。物語として成立するには不十分なものを強引に成立させるやり方として。
夕方、大島渚の「日本春歌考」。それ自体は魅力的とはいえないむき出しの言葉の世界に正直きついなと思いつつ、いいとこ探しな気分で観ていたが、残り三十分ちょいくらいで突然離陸。それからはひたすら映画。傑作。小山明子と荒木一郎が歩くシーンほか、終盤何度も鳥肌が立った。

歪みの肯定

2009-02-11 | 雑記
世界の歪みを肯定していること。作品が作品である条件は一言でいうとそれだと思う。
もちろん世の中にある作品(を名乗るもの)の大半は歪みを是正しようとしたり、もっとひどいことに歪みなど初めからないような顔をして、人々をその錯覚に巻き込んで安心させるためにつくられている。

けれどそうした憂鬱に思える現実もまた作品が肯定すべき世界の歪みの一部である。
作品は、それらを真っ向から否定する身振りをとる時でさえ、どこかで最後には肯定している。

題詠2009

2009-02-10 | 短歌について
題詠blogに今年も参加しています。
今年はこのブログからです。半ドアという名前は思いつきでとくに意味はありません。
以前参加してて最近名前を見ない方が多いですけど。参加しましょうよ皆さん。
とくに私のように自分のない人にはうってつけだと思います題詠が。

短くて詩のようなもの

2009-02-08 | 短歌について
どこかにバファリンか今治水一年分が当たる懸賞はないでしょうか。


私は詩のことがよくわからないのだが、短歌というのは短い詩のようなものだとは何となく思っている。ちょっとそれを詩だと言い張るには必ず何かが不足する短さ(理由は短さだけじゃないけどおもに短さ)、だと思うのだけど、でも短歌が「歌」だとはやっぱり思えないという消去法もあってのどちらかというと詩、という判断である。
現代詩に私が苦手意識をもつ理由の一つは現代詩がどれも長すぎるように感じるからで、できれば見開き二ページ以内、本当は一ページで収まるくらいの長さだったらもっと読みたくなるのにと思う。ページをどんどんめくって詩の続きを読む、というのは凡人にはハードだと思う。ついつい早く終わらないかなと考えてしまう。短歌は逆に短すぎるのだが、この短さがルールなんだからと早々に諦めてしまえるために、世の中の映画の上映時間やマンガの連載期間などをついつい長くしてしまう力の影響から短歌だけは断ち切られていられるのだろう。やはり短いものは何か物足りない、十分ではない、欠けている、と作り手側も受け手側もみんな感じているのであって、それは小説ならみな長編ばかり読みたがって短編は不人気、ということであり、私たちは短いものがあまり好きではないのだ。
だがこの「私たち」には私は入っていない。私はなるべくなら何でも短いほうがいいと思う。もちろんみっしり充実してゆがんだ短さであることが望ましいが。

画家の玉野大介さんのサイトにはたくさんの作品がアップされていてそれらすべてに詩のような短いテキストが添えられている。このテキストが私が詩に望む理想的な長さ、というか短さであるばかりか、どの絵についたテキストも一つ残らずすごくいいので、私が何か言語的な刺激が今すぐ脳にほしい、と思ったときに読みにいくサイトの筆頭的なひとつです。
あと、絵とセットになっていることもいいんだと思います。詩は短くて絵とセットになっていることが望ましい、と私は感じているかもしれない。短歌もそのようなものであるべきだと、本当は感じているのかもしれません。

歯痛など

2009-02-08 | 雑記
最近たびたび痛んでいた虫歯が、なぜだか昨日から急激に悪化した。歯痛がぐんと伸びてくると目玉を貫いてこめかみに達してくる。だが歯医者へ行く金はないのでアスピリンでごまかす。アスピリンも歯医者ほどじゃないが高いからなるべく飲まずに我慢する。
ものを食べると特に痛くなる気がするので、食が細って食費が抑えられついでにダイエットにもなればいい。そしたら虫歯をいまいましく思う気持ちが軽減するかもしれない。
保坂和志『カンバセイション・ピース』を少し読む。二年以上前に買って、最近また少しずつ読むのを再開した。私の読書はそんなのばっかりだ。
小説書かないといけない。脳味噌のすぐ近くでずきずきいってるという状態は物書くのにどういう影響を与えるのか。なんかエネルギー源にはなりそう。私は気が散りやすい性格だから、ここは虫歯という「ひとつのものに気が散っている」状態っていうのはそれはもうほとんど「集中してる」のと同じなのでは? というこの錯覚を利用したい。ブンガクというのはそういうもの(ひとつのものに気が散っている状態)だ、って気もしないでもない。

ディア・ハンターとか

2009-02-05 | 雑記
短歌と関係ないことも書くことにします。
短歌のことはミクシィとか、メインのブログとかでは原則何も書かないことにしてるんだけど、それは短歌に興味のない人に短歌の話を普通にしても全然通じないだけでなく、心によくない距離が生じる(つまり引かれる)という実感があるからですが、べつに逆はありじゃないかと急に気づいたので。
つまり誰にしてもいい話なら短歌のブログでしてもいいのです。

ミクシィの日記というのは完全に誰に読まれてるか分かる(し、コントロールも出来る)ものであって、それはそれゆえの気安さもあるんですが、いったん息苦しく感じ出すとこんなに息苦しいものはないともいえる。そこにいくと毎日同じ人たちがいる職場みたいなものなので。
それがブログになると、ほとんどどこの誰が読んでるかなんてわからない。でも長くやっているとそれなりの数の人に読まれていることは何となくわかってきて、それは顔の区別がない影のかたまりのようなものとして把握してるわけです。で、これはこれで何かべつの圧迫感ようなものがあります。
その点ここは短歌専用のブログだと断っているので、そもそも読む可能性のある母集団がかなり狭く限られてくるわけです。短歌ってだけでかなり狭い世界だし、それもあってネットでも短歌周辺はかなり匿名度が低いですよね。具体的に誰が読んでるかは分からないけど、何となくそのあたりの人たちのうちの誰かが読んでいるのだろう、くらいの見当のつけ方が可能になる。それは上記二通りの息苦しさや圧迫感とくらべると相対的に気楽な感じがする、と思ったのでした。こういう実感はあるうちに利用したい。

昨日は図書館で借りた「ディア・ハンター」(マイケル・チミノ)のDVDを見た。
1978年の映画で、ヴェトナム戦争の話です。
三時間あるかなり長い映画なんだけど、ある「現実」の手触りとか気配みたいなものを劇的なかたちでなく伝えるには、これくらい尺がいるということなのかと思った。
もちろん劇的な部分はあるんだけど、その劇的なものがいきわたって薄まって解消するぐらいのところまで、描写を引き伸ばしていく感じ。ちょっと飽きるというか、もういいよってくらい、もうそれはわかってるからという描写を単調に続けていく。そういう何でもない描写が映画として実は豊かだとかいうこともおそらく別になくて、でもそこがかえって「現実」の手触りが顔を出してくる素地になってるのかなという気がしました。
やりきれない、空虚な気分になる映画というのは私は好きですね。