喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

連作20首:自転車用迷路集002

2006-12-20 | 連作
 「助からなくちゃ」  我妻俊樹


住む町は時計の広さがあればいいそれくらい痩せた魂になる

傘立てに花束たてて雨宿りしてるあなたも見ている林

天井がみるみる低くなる意味を不思議な罰として見上げつつ

明け方にかみなり雲の運ぶ雨 どうしてここにいたと分かるの

ペダルから浮かせた足で草を蹴る ヒントの多いクイズがすべて

どの野にも飼い主の声するゆえに親猫くるったように遊ぶ

百年で変わる言葉で書くゆえに葉書は届く盗まれもせず

じゃあまたねとは云うけれどまたはない友だちをやめる途中だから

目の赤い酔っ払いたちいいことを口々にいう花粉のように

坂が坂をよこぎっていき戦場の西のはずれにすべてつながる

たっぷり二人分はあるスーツに身を隠す 私は自転車乗りだから

こんな十年見たことないし変わり果てた君に会うのもはじめてだった

蝶が口から出てこない今何時何分、国道何号線かも訊けない

引越しは徒歩でするので長くなるその行列を分かつ朝霧

アパートの番地はさっき聞いたけどメモしたシャツをあげてしまった

手帳からちぎった紙にあて先と切手 ぼくらのしてきたすべて

今日からは意志のひかりの消えた目で見つめる 浴びたように着飾る

バス停の先の日なたに置いてきたワゴンがとりあえずの目的地

帰るだけなのに浮かれておしゃべりが過ぎたと思うけど黙れない

腋の下に挿んだままで玄関を見てきたらただの風 七度二分

渡辺のわたし

2006-12-17 | 鑑賞
こうして連作のことを考え、且つまた自分でも連作をつくりつつ今日ひさしぶりに斉藤斎藤『渡辺のわたし』を読み返してみたら、すごくスムーズに連作として頭に入ってきたので驚きました。
今までは実はけっこう読むのが難しいなと思う歌が多かったのです。一首として独立して引いても面白さが伝わる歌、が必ずしも多いとはいえないところがこの歌集の(私にとって)難しいところで、そのことは斉藤斎藤という人に私が抱いているイメージとはちょっとずれていたわけです。こういう並べ方をしてくるとはまさか思わなかった並べ方、であり、その戸惑いはずっと解消されないまま現在まで来ていた。
それがさっき読んだ時には突然腑に落ちたというか、はじめて「読めた」という気がしました。
この歌集の歌の収まり方はまさに連作であって、連作以外のなにものでもない。歌葉新人賞受賞作の「ちから、ちから」が私のような連作音痴にもわかりやすく作られていたので、そのつもりでほかの連作を読みにいくとたちまち見失う。ということが起きていたのですが、今読んでみると「ちから、ちから」がちょっと親切すぎるというか、一首ごとに効果的に役割を果たしすぎというか、無駄がなさすぎるようにも見えますね。
この「ちから、ちから」と「父とふたりぐらし」という連作との構成が似すぎている、しかも後者は前者より散漫じゃないかという感想が私にはあったのですが、これも今日読んだら作者がやりたかったのはむしろ「父とふたりぐらし」のほうの緩い複雑さなんじゃないかと思えました。「ちから、ちから」は妥協というか、折り合いつけてああなったのではないかと。
なんだかそんな気がしましたです。

それだけの話

2006-12-17 | 短歌について
下の文章、もうちょっと分かりやすくしようと思ってその後ちょくちょく直し入れております。直してもまあ悪文に変わりはないのですが、悪文と語彙不足と無教養がにじみ出てこなければ、そんなの私の文章じゃないね。ということでひとつご容赦を。
連作はあと、三十首のと二十首のがほぼ出来上がってるんですが、あんまり続けてポンポン晒すのも考えものかな。という貞操管理的な気持ちと、いつ逝かれるか分からないPCにしまっとくのはあまりにも危険すぎる、という危機管理的な気持ちとのあいだで揺れております。何かほかのメディアに落としとけばいいだけの話ですけど。

秀歌と連作

2006-12-16 | 短歌について
秀歌、という言葉の意味を(ほかの人たちが使うような意味で)ちゃんと理解しているという自信はまるでないのですが。
もう何年も読み返していない『短歌という爆弾』(穂村弘著)は、私にとっては何をおいても「秀歌っていうのは誰にでもつくろうと思えばつくれるんですよ」というメッセージの書かれた本として記憶に刻まれているのですね。
私はそのメッセージを受け入れることで短歌と関われる身体をつくった、という経緯があるので、たとえほかの人がこの本を読んだ感想にそのことが全然書いてなくても、私にとってそういう本であったことはまったく揺るぎません。

だから秀歌をつくること、に短歌をつくることの価値のトップを持ってくるならば、誰でもコツさえつかめばつくれるものに最上の価値があるジャンル、ということに短歌がなってしまう。しかしそれ以外のものに価値を見出すにも、本当に価値のトップをそっちに移せるかどうかの自信はない。というのが私が短歌に対してとまどい続けている理由の大きなひとつなのだと思います。
『短歌という爆弾』にも、「秀歌は誰にでも作れる」という身も蓋もないことを明かしておきながら無責任にも短歌(秀歌)の価値を信じ続けてみせるようなところがあり、その矛盾した態度が諦観に裏打ちされているというよりは、単に誤魔化しなのではないかと私には思え、あるいは賢明さのようなものとして映ってしまったわけです。この著者は矛盾に当然気づきつつ気づかない振りをしているのだと。

たぶん秀歌をめぐるこの袋小路を脱する鍵は、連作論だと思うんですよね。
それは秀歌のようには連作は、すぐれた連作にするための絶対的なマニュアルが示せないと思うからです。だから秀歌を求める人々が同じひとつの袋小路に大挙押しかけるようには、連作にいどむ人々は自然とは一箇所に集まることはなく、それぞれてんでバラバラの方向に迷うことになるだろう、と期待できるわけです。
穂村氏が歌葉新人賞の選考委員として、いわゆる秀歌性の基準からは外れたところで斉藤斎藤氏や宇都宮敦氏の作品を評価してきたことも、半ば無意識にかもしれないけど(というのは、そう明言されていた記憶がないからだけど)彼らの作品の連作性にあたらしい価値を見出した結果ではないかと思えるところが私にはあります。

秀歌をどうバランスよく並べるかというのではなく、また、物語を短歌のかたちに切り分けて語るのでもない連作のあり方があって、そのとき個々の歌を連作に束ねる何かが磁場のようにその場所に働いていて、歌を読むときに同時にその何かも読むということ。
(それは明らかにそこにあって働いているのに、正確には誰にもこれだと指し示せないものでなければならない。もちろん何かがありそうなだけの単なる思わせぶりでもいけない。)
秀歌の袋小路の外で連作を読むとはそういうことだと思うのです。

一首の秀歌性を追求し、確実に誰もが一定の成果を努力すれば手にすることができる短歌の「稽古事」としての側面となじまないこの方向は、極言すれば連作単体ですらなく(歌集単体でもない)その背後に横たわる作家性に最大の価値を置くものだと思います。
もちろん歌人論なんて昔から普通にあるだろうけど、一首評と歌人論のあいだにあるべき連作論が抜かされてたのではないか。そこを抜かすことで秀歌性と作家性という矛盾するはずの価値が曖昧に並存させられてたんじゃないか、というのが私が頭の中だけで思いついた仮説です。
連作論って厄介だと思うけど、そこを面倒がらずにきちんとやらないと、短歌における作家性とは何かが語れないと思う。
もし全体がこっち(連作論)に進めば短歌人口は確実に減ると思うけど、稽古事じゃなく文学としてやるなら、こっちしか道はない気がしますね。

つづく(かどうかは分からない)。

保険

2006-12-15 | 短歌について
短歌は恋愛を題材というかテーマに扱うことが多いけど、それは少ない字数の中で(一首が終ってしまう前に)すばやく読者の関心を惹かなければならないから、あらかじめ読者の関心が高いものが選ばれているということなのでしょう。一年中、そして場合によっては一生発情し続けている動物である人間は、恋愛の話が始まるとたちまち身を乗り出してくるものだ、という人間観にもとづいて短歌には恋愛の歌があふれるのだと思う。作者の側にじっさい恋愛の歌の数の多さほど恋愛への関心が高いわけではなく、恋愛を詠うのがたぶん作品を流通させるための保険なんですね。短歌のかたちの、短い割には長すぎるような独特な短さは、そういう保険を必要だと多くの人(作者でさえ)が感じるくらいにはやはり難解なものなのだと思う。

自転車用迷路集

2006-12-10 | 短歌について
というタイトルで、連作のβ版のようなものを順次載せていこうかと思います。
時間を置いて眺めたあとで、直したり入れ替えたりもありうるかも、という含みでβ版ということにしておきますが、現時点ではこれでいちおう完成品のつもりです。
「自転車用迷路集」という大枠の中に個々の独立しつつ通底した連作が次々おさまってゆく、というのをイメージしてますが、イメージどおりになるかどうかは分かりません。ならないかも。

連作20首:自転車用迷路集001

2006-12-10 | 連作
 「いらないものあげる」  我妻俊樹


坂ばかり 私は錆びた自転車が好きだと君に思われている

トンネルを騒がしくする一団のいちばん前をゆくしゃぼん玉

猿ぐつわされてる猿の横顔を(写真はイメージです)愛してる

三分間写真に朝まで閉じ込めておくために買ってきた生野菜

消えたまま襖を映す大きすぎるテレビいらない あげる いるなら

自転車はどこに捨てても何度でも帰ってくると母が云うから

階段をのぼっていたら歯車で回りはじめる ような気がした

首都高を台車が進むサングラスはずしたことがない歌手揺れて

本当は百年前から待っていたバスだから乗れただけかもしれない

遺伝子はなにも見てない窓の外ながれる屋根も浮く雨雲も

顔のない(あるべき場所に椅子のある)男が目の前に立っている

「ごめんね人間はもう終ったんだ そう云うぼくも間にあわなかった」

若者が食べる花しか咲かせないつぼみを鳥たちが食べてしまう

夜道から帰ってくると快速に飛び込むひとの気持ちに近い

屋根裏がよくないことを考えているのでぼくも汗ばんでいた

Tシャツがはためくほどの南風吹く あればだがお金をわたす

振ればまた点くいつのまに消えている懐中電灯が壁に吐く環

壁紙が剥がれかけてる 人生を棄てる夢から誰かが覚めて

君を妊婦にしておくのはなんか惜しいね そんなこと別に思ってない

あのことで文句があって玄関で待ってたけれど空き家だった