喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

とび抜けて顔の青いようこ(2)

2009-12-29 | 連作
キャンディーを穴があくほど転がして舌からスタジアムになればいい


鏡のなかの公園も人だかりしてややうれしくなるときがくるのか


こんな部屋には住人が必要、と言って靴をそろえる背中から欠ける


運命にさからうビュフェに跳び乗れば窓をながれるかげみな帽子


ひとりでは蛇口に蒲公英つめこんで終らせた気でいたんだろうね

批評と距離

2009-12-28 | 短歌について
批評について何かを書くことは、作品について書くよりも難しい。
作品について何かを書くとき、書くのが批評であれ感想であれ、あるいは“作品についての作品”であっても、ついに対象とする作品そのものに手の触れることはないだろうと書き手は安心して諦めていることができる。
ところが批評について書くことは、たとえ書くのが批評の形式をとらない文章であっても、なぜか対象とする批評と同じ場所で書き始めることになるし、書くことによってそこから遠ざかることになるから、試みが成功か失敗かを判断する材料としての距離があからさまに計測できてしまう。
したがって同人誌「町」2号に掲載されている瀬戸夏子氏と吉岡太朗氏の充実した文章への感想その他を書くことを、それらが「作品」ではないことを理由に賢明にも私は避けて通ろうとしている。前者は私が評論の対象としてもっとも関心と飢えのある歌人を、あえて正面からでなく(歌人が正面と見せようとしている側からでなく)扱っており、後者は私の短歌作品およびこのブログの文章への少なくない言及(思わず無防備な応答を誘われそうになる)を含んでいて、それらは批評との間に私がぶざまな距離を置くことしかできないところを私に想像させる材料となっている。
これらの文章「について」書いて無惨なことになるかわりに、これらの文章「とともに」ひそかに書くことはたぶんできるだろう。無視できない批評への応答として無難であると同時に、無難であるが故の大胆さを確保できるやり方がそれではないかと思う。そういう機会をもっぱら自分自身のためにみつけていきたいと考える。

とび抜けて顔の青いようこ(1)

2009-12-25 | 連作

街はあかるい窓が照らす貸自転車のゆがんだ籠いっぱいの蛇口


Tシャツの胸しろく汚して魘されている姉をみんなに見えるように


灰皿のようにつめたい手があればわたしたちであるひつようはない


ヘアブラシに人を撲ったあとのある機嫌はかつて損ねたまんまで


「ようこ。啜るのはやめなさい」声の穴。「ようこ。行きがかりの否定を続けなさい」

復帰

2009-12-23 | 短歌について
しばらく間が空きましたが、パソコンが落雷で故障したためです。
アパートの契約時に入っている火災保険が下りるというので、修理に出し、修理不能で引き取り、数日前より知人からの借り物のパソコンでひさしぶりにネットが開通している。
という状態です。
ネットのない約二ヶ月は、自分のこの数年の生活の荒廃はネット(の常時接続状態)によってもたらされたのだ、ということを今更ですが私に思い出させるものでした。ひまな人間はひまであることの価値をネットに根こそぎにされる。まったく何の意味も価値もない仕事をネットは熟練のわんこそばのそばを入れる係の人みたいに無限に私に与えて続けてくれるからです。



ネット休止中、中島祐介さんの歌集『Starving Stargazer』の読書会に行ってきました。
まさかマイクが回ってくると思わなかったので(司会の加藤治郎さんが、スタッフ以外の全員に回していたと思う)、前日に歌集を読み返しながらとった簡単なメモ書きを家に置いていってしまいました。それまで会場で出されたいろいろな興味深い論点などはその場で咀嚼することはおろか、丸のまま引くことすら私の脳の性能では難しいので、ただこの歌集が「よくわからなかった」ことや「端的に笑える歌があるが、笑っていいのかどうか確信が持てない」「この歌集のペダントリーには悪意でなく善意を感じる」みたいなことをもごもご言っただけでした。
(「わからなかった」歌集が前日の再読とその場の議論で少しわかりかけた、と思える状態だったのですが、わかりかけていることを口にするには、わかりかけているという事実を自分で咀嚼しきれなかった。)
会はとても刺激的なもので私は短歌のこうした会に出るのは(短歌関係の人に会うのも)本当に久しぶりでしたが、行ってよかったです。
しかしあの場で共有されている、歌の読みや議論の前提となっている教養が私は本当に十分の一もないんだなあ、ということもつくづくよくわかった。教養がないことはべつに悲しまないことにしてるのですが、教養のない人間として、教養のある人間を前にどのようにふるまうべきか。という問題にその後しばらく頭を占められたように覚えています。

あの場が私にとってそのようなことを考え始める場となったのは、もちろん、対象となった歌集の性質によるものです。
英語の「短歌」に日本語のルビ(短歌定型に則った)が添えられ、その内容には聖書やアニメなどさまざまな出所をもつ引用が散りばめられている、という歌を多く含んだ歌集です。私は英語がまったく読めず、引用は「これは何かの引用らしいな」と何となく感じた部分に頭の中でカギ括弧をつけながら読む、くらいのずさんな態度で接する読者なので、こうした性質の歌集にちょっとでも感想をいう資格が自分にあると思えなくて、ここでも書こうとして挫折したままだったのですが、前提としている教養の外にいる人間を切り捨てる、切り捨てることで逆に関係が生じるとか、切り捨てるという態度そのものが読み物の一部となっているとか、そういうところがこの歌集(を代表すると看做されている歌群)にはないのだと思います。そこに私は「善意」を感じたということです。
読めない、あるいは努力して読もうという気のない読者への態度、というのがこうしたタイプの作品のひとつの見所なのではと私は思うけど、そこに善意がにじんでいる。この作品における英語の短歌が、英語としてあるいは英詩として不備があることが会場で指摘されたのち、黒瀬珂瀾さんがたしか「この英語は日本語なのだ」と言い、英語圏の人に読まれることを想定していないのだ、というたぶんそれ自体は否定でも肯定でもないニュアンスだったと思うけれど、そういう発言があって、そうかもしれないなと思ったのですが、それでも英語圏の人が目にしたら読めてしまうのだということや、逆に私のような英語の読めない人間、引用元となっている教養をもたない人間など、作品が第一に想定している読者以外の者が手に取った場合の作品の態度として、ただ善意の表情をたたえて読まれることを待っている、作品に対する読み手側の善意(好意的な感想などの意味ではなく、作品が善意をたたえて待っている場所まで読者が足を伸ばしてきてそこで両者が出会えるということ)もまた信じている、という以上のことが読み取れなくて、ここはむしろ「悪意」をあからさまにしてくれたほうが分かりいいな、とつい思ってしまい、それは私が、作品に接するにベストな位置にいないがゆえに、そこから見ても理解できる(ような気になれる)わかりやすい表情を求めてしまうのかもしれず。(悪意は善意と比べて、それも作品の一部であると思えやすい。善意は作品の外にあるように見えるので作品への手がかりには感じにくい、と思う。)

あとこれも「善意」と関係のあることだと思うけど、執拗なまでの韻の踏み方がどちらかというと生まじめさを感じさせ、そうなってもいいはずの狂気を感じさせる方には行っていないと思うのです。そして会場でこの韻を「駄洒落」にたとえる発言もありましたが、「思いついた駄洒落を口にしないことができていない感」のようなものを感じてしまう。駄洒落というのはデタラメな人はあまり言わなくて、真面目な人がおどけようとした時に口にしてしまうものだと思うけど、それに近いものを感じるとということです。「駄洒落」で笑うということは面白いからではなく、くだらなすぎて笑ってしまうということです、それが駄洒落というものだから。そういう意味で笑える歌はこの歌集にはいくつもあると思うけど、そこで私が「これは笑っていいのだ」と思えるためには、作品がナイーヴすぎるところがあり、そのナイーヴさの別名が善意なのかな? と思います。くだらなさを笑う、ためには作品が図太く不敵な面構えをしていないと難しい。



今後このブログでやる予定のことを書きます。
まずは一首評。私が短歌について具体的に語れる単位は一首が限度だと思うので、好きだったり嫌いだったり気になったり何か言いたくなったりする歌を取り上げてそこから何か書きます。
あとは自作自注。「我妻俊樹全短歌」としてやる予定です。短歌は好き勝手に読まれるべきだと思いますが、作者の沈黙が担保にされなくても好き勝手に読まれるべきだ、と思うので、好き勝手な読みによって更新されるべき作者としての「こう書いたつもり」のことや、作者自身としての好き勝手な読みなどを書きます。