批評について何かを書くことは、作品について書くよりも難しい。
作品について何かを書くとき、書くのが批評であれ感想であれ、あるいは“作品についての作品”であっても、ついに対象とする作品そのものに手の触れることはないだろうと書き手は安心して諦めていることができる。
ところが批評について書くことは、たとえ書くのが批評の形式をとらない文章であっても、なぜか対象とする批評と同じ場所で書き始めることになるし、書くことによってそこから遠ざかることになるから、試みが成功か失敗かを判断する材料としての距離があからさまに計測できてしまう。
したがって同人誌「町」2号に掲載されている瀬戸夏子氏と吉岡太朗氏の充実した文章への感想その他を書くことを、それらが「作品」ではないことを理由に賢明にも私は避けて通ろうとしている。前者は私が評論の対象としてもっとも関心と飢えのある歌人を、あえて正面からでなく(歌人が正面と見せようとしている側からでなく)扱っており、後者は私の短歌作品およびこのブログの文章への少なくない言及(思わず無防備な応答を誘われそうになる)を含んでいて、それらは批評との間に私がぶざまな距離を置くことしかできないところを私に想像させる材料となっている。
これらの文章「について」書いて無惨なことになるかわりに、これらの文章「とともに」ひそかに書くことはたぶんできるだろう。無視できない批評への応答として無難であると同時に、無難であるが故の大胆さを確保できるやり方がそれではないかと思う。そういう機会をもっぱら自分自身のためにみつけていきたいと考える。