喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

曖昧さとシンメトリー

2011-06-07 | 鑑賞
王国は滅びたあとがきれいだねきみの衣服を脱がせてこする  平岡直子


上句が下句のことを言っている、下句のことを比喩的に言っているのだという読みに誘われるのだが、下句は上句といかにも短歌らしく釣り合うには、その具体性を意味として目鼻がそろうようフレームに収めてはいないように見える。
たとえば「きみ」の汚れてしまった衣服を脱がせて、その汚れを落とすべく水で濡らしてこすっているのだ、とこの光景を納得するには、「こする」対象が「きみ」本体である可能性を下句の措辞は手放していない。あるいはテーブルや床に何らかの液体をこぼしてしまった後始末をするものがとっさに周囲に見あたらず、「きみ」に命じて「衣服を脱がせ」た可能性がゼロだという証拠もどこにもないだろう。これらの読みの優先順位は上句との関係をどう読むかで変動するだろうし、下句の誘惑的な曖昧さというべき措辞はこれら以外の読みの可能性にもなお開かれたままである。いずれを採るかでここにいる二人の関係性は微妙に、あるいは極端に変化することになるはずだが、「脱がせてこする」という性行為になじみの深い動詞を二つ畳み掛けた歌の表情は、あくまでその性行為的な印象を通過してから一首を読み取ることを要求しているようであり、「話はそれからだ」とわれわれの前に視界を覆うように立ちふさがっているかのようである。

三句目「きれいだね」に四句目が「きみの」とつづくとき、この「き」の音の接近の印象を残したまま五句目の「こする」にいたることで、読み手は初句にあった「王国」の「こ」の音を思い出すことになる。「滅びた」「脱がせて」という上下句の喩的関係のキーとなるそれぞれの動詞をはさんで、「き」の音と「こ」の音がシンメトリックに配置された歌の最初の文字が「王」というシンメトリックな漢字であるというこの一首の“美しさ”にも、われわれはすでにかすかに気づいていたはずなのである。
曖昧さを定型がじかに支えるような貧しさと無縁であることが、この歌を意味と無意味のあいだに危なげなく立たせる力となっている。曖昧さを帯びた言葉をひそかに裏から支えるこうしたたくらみは目には見えないかもしれないが、たしかにわれわれの耳には聞こえていたし、瞳の表面に筆先のように触れてもいたのである。
短歌とは定型でも定型にととのえられた言葉でもなく、それらの間にあるもの、ありえない方向に構造化された隙間のことなのではないか。
『早稲田短歌 40号』より。