喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

人生と短歌

2007-12-01 | 短歌について
赤の他人の人生などどうでもいいし、そもそも人生という単位というか考え方自体どうでもいいものだとも言えるが、それ以上に短歌でうたわれる(作者の)人生というものは単にどうでもいいだけでなく、なにか積極的にうんざりさせられるものがある。
人間が生きているというだけで人生なのではなく、人生にはまさにこれが人生だなという構図の切り取り方があるのであって、それを短歌というフレームが担っている状態というのがあり、しばしば見事に担ってしまいもする。そのとき生じる豊かさのようなもの、を保証するために短歌が果たしている貧しい役割にうんざりする。
短歌はだいたい一人分の横顔とかうしろ姿と、そのすぐそばにいる家族とか恋人とか友人の体の一部やシルエット、職場などを想像できるくらいの背景の一部、というようにじつにほどよく人生を暗示する情報が盛り込めるサイズである。人生と短歌は何かの罠かと思うくらい相性がいい。そこがアマチュア文芸としての短歌の強みであって、人生というのは自分を主人公に潜在的に誰でも語れる物語なので、それを適度な技術習得でもっともらしく見せてくれる短歌は、適度な人々が適度に満足感を得られる形式である。
さらに作者にちょっとした過剰、ちょっとした欠落があればその適度さにほどよい刺激を加えることもできる。
互いに家の窓を覗かせあうような制度化された覗き(露出)趣味の場にとって、そうしたほどよい刺激は大層よろこばれる。
家とか人生という単位への忠誠さえどこかで表明しておけば安心してもらえる。短歌は共感をあてにしなければ読めないものなのだろう。ほとんどそれは絶望的なまでに。