加護亜依と愛し合ってもかまわない私にはその価値があるから 斉藤斎藤
この歌はよく知られているように
桟橋で愛し合ってもかまわないがんこな汚れにザブがあるから 穂村弘
という歌の本歌取りである、と言われています。
二句から三句にかけてが表記も含めそのまま引用され、結句の末尾の「があるから」も同じ位置にみることができる。そして並べてみて気づきましたが、全体の字数もきっちり揃えてあるのですね。
また、これもたぶんよく知られた事実として、掲出歌の下句はまるごとロレアル・パリの広告コピー(「私にはその価値があるから」)の引用です。
つまり一首の中で作者オリジナルの(何らかの引用元を持たない)表現になると見なせる部分は初句の「加護亜依と」のみということになるわけです。
では、初句以外はすべて既成フレーズを組み合わせたこの歌に、「加護亜依」の名(それ自体が見えない括弧付きの、一種の“引用”されてきた有名人の名ではありますが)を持ち出すという一点に作者が表現の力の置き所を絞り込み、この人名の選択に自らの主張を滑り込ませているのかといえば、どうもそうではないようである。
穂村の歌の上句「桟橋で愛し合ってもかまわない」の中に二度あらわれてくる「ai」という音(「愛」「ない」)に促されて、「ai」の音を名前に持つ有名人である加護亜依が、ここに呼び出されているだけのように見えるからです。
穂村の本歌と引き合わせるのにもっともふさわしい「ai」として、多くの「ai」の中から初句に助詞「と」付きで字余りなしで収まるという稀有な「ai」である加護亜依を発見した、という作者の手柄に注目するかぎり、この歌から作者または作中主体による加護亜依という人物への思い入れを読み取ることは困難になるでしょう。このような正確な作業の痕跡が、個人的な思い入れを読み取れるような隙間をあらかじめ作品から奪っているからです。
(ただし、そもそもの本歌における連続する「ai」への注目、および更なる付加によるこの執拗な三つの「ai」のくりかえしを、この歌の作者がやはり二つの「ai」を含む筆名の持ち主であることと結び付け、この符合に何かたとえば精神分析的な解読などを試みることは、もしかしたら可能なのかもしれない。)
さらに、下句に広告コピーを引用するという態度もまた本歌(「がんこな汚れにザブ」は洗剤の広告コピーである)の構造を律儀になぞっているものです。しかもここでは「~があるから」という末尾を穂村の歌と同じくするとともに、きっちり下句の音数にはまり、さらに「watashi」「kachi」という二つの擬「ai」(「a-i」に子音をはさんでいる)さえ含むというこれもまた希有な、本歌と引き合わせるのにもっともふさわしい広告コピーが発見されていることに驚かざるをえません。
洗剤(汚れを落とすもの)に対する化粧品(美しさを上乗せするもの)という取り合わせの鮮やかな対照も含めて、読み取れるのはあくまで作業の正確な遂行ぶりであり、恣意的な引用の陰に息をひそめる主体の気配、のようなものを感じ取れる余地はここにはまるでないのです。
本歌に潜在的に書き込まれていたともいえる、部分の置き換えの可能性の指示を正確に読み取り、ふさわしい“すでにあった”ものの部品を呼び寄せて交換の作業を遂行すること。それは一般に、人が文学や芸術といったものにイメージする作者の姿とはかけ離れているかもしれない。しかし作品とは、このような「正確な作業」ののちにあらわれてくるものだと思うのです。
ここにはたまたま本歌取りという、作業の正確さを測りやすい基盤があったというにすぎない。作品が作品としてすぐれているかどうかの基準は、極論すれば、それがどれだけ「正確」につくられているかという一点にしかないだろうと私は思っています。作品のテーマとか作家性とかいったものは、「正確」であることのバリエーションでしかない。作品にはそれぞれの正しさがあるはずであり、その(およそ作品自身だけに見えている)正しさに対してどれだけ正確であるかが作品に問われる唯一のことです。
そして掲出歌の場合、「正確」さの徹底のために短歌が、このごく短い詩型があけわたされていること。そのひたすらな遂行の場として使い切られているところに生じている批評性を、ひとつの作家性のあらわれとしてわれわれは見届けることになるでしょう。
この歌はよく知られているように
桟橋で愛し合ってもかまわないがんこな汚れにザブがあるから 穂村弘
という歌の本歌取りである、と言われています。
二句から三句にかけてが表記も含めそのまま引用され、結句の末尾の「があるから」も同じ位置にみることができる。そして並べてみて気づきましたが、全体の字数もきっちり揃えてあるのですね。
また、これもたぶんよく知られた事実として、掲出歌の下句はまるごとロレアル・パリの広告コピー(「私にはその価値があるから」)の引用です。
つまり一首の中で作者オリジナルの(何らかの引用元を持たない)表現になると見なせる部分は初句の「加護亜依と」のみということになるわけです。
では、初句以外はすべて既成フレーズを組み合わせたこの歌に、「加護亜依」の名(それ自体が見えない括弧付きの、一種の“引用”されてきた有名人の名ではありますが)を持ち出すという一点に作者が表現の力の置き所を絞り込み、この人名の選択に自らの主張を滑り込ませているのかといえば、どうもそうではないようである。
穂村の歌の上句「桟橋で愛し合ってもかまわない」の中に二度あらわれてくる「ai」という音(「愛」「ない」)に促されて、「ai」の音を名前に持つ有名人である加護亜依が、ここに呼び出されているだけのように見えるからです。
穂村の本歌と引き合わせるのにもっともふさわしい「ai」として、多くの「ai」の中から初句に助詞「と」付きで字余りなしで収まるという稀有な「ai」である加護亜依を発見した、という作者の手柄に注目するかぎり、この歌から作者または作中主体による加護亜依という人物への思い入れを読み取ることは困難になるでしょう。このような正確な作業の痕跡が、個人的な思い入れを読み取れるような隙間をあらかじめ作品から奪っているからです。
(ただし、そもそもの本歌における連続する「ai」への注目、および更なる付加によるこの執拗な三つの「ai」のくりかえしを、この歌の作者がやはり二つの「ai」を含む筆名の持ち主であることと結び付け、この符合に何かたとえば精神分析的な解読などを試みることは、もしかしたら可能なのかもしれない。)
さらに、下句に広告コピーを引用するという態度もまた本歌(「がんこな汚れにザブ」は洗剤の広告コピーである)の構造を律儀になぞっているものです。しかもここでは「~があるから」という末尾を穂村の歌と同じくするとともに、きっちり下句の音数にはまり、さらに「watashi」「kachi」という二つの擬「ai」(「a-i」に子音をはさんでいる)さえ含むというこれもまた希有な、本歌と引き合わせるのにもっともふさわしい広告コピーが発見されていることに驚かざるをえません。
洗剤(汚れを落とすもの)に対する化粧品(美しさを上乗せするもの)という取り合わせの鮮やかな対照も含めて、読み取れるのはあくまで作業の正確な遂行ぶりであり、恣意的な引用の陰に息をひそめる主体の気配、のようなものを感じ取れる余地はここにはまるでないのです。
本歌に潜在的に書き込まれていたともいえる、部分の置き換えの可能性の指示を正確に読み取り、ふさわしい“すでにあった”ものの部品を呼び寄せて交換の作業を遂行すること。それは一般に、人が文学や芸術といったものにイメージする作者の姿とはかけ離れているかもしれない。しかし作品とは、このような「正確な作業」ののちにあらわれてくるものだと思うのです。
ここにはたまたま本歌取りという、作業の正確さを測りやすい基盤があったというにすぎない。作品が作品としてすぐれているかどうかの基準は、極論すれば、それがどれだけ「正確」につくられているかという一点にしかないだろうと私は思っています。作品のテーマとか作家性とかいったものは、「正確」であることのバリエーションでしかない。作品にはそれぞれの正しさがあるはずであり、その(およそ作品自身だけに見えている)正しさに対してどれだけ正確であるかが作品に問われる唯一のことです。
そして掲出歌の場合、「正確」さの徹底のために短歌が、このごく短い詩型があけわたされていること。そのひたすらな遂行の場として使い切られているところに生じている批評性を、ひとつの作家性のあらわれとしてわれわれは見届けることになるでしょう。