喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

短歌は出口ではない 3

2010-02-13 | 短歌は出口ではない
加護亜依と愛し合ってもかまわない私にはその価値があるから  斉藤斎藤


この歌はよく知られているように

桟橋で愛し合ってもかまわないがんこな汚れにザブがあるから  穂村弘

という歌の本歌取りである、と言われています。
二句から三句にかけてが表記も含めそのまま引用され、結句の末尾の「があるから」も同じ位置にみることができる。そして並べてみて気づきましたが、全体の字数もきっちり揃えてあるのですね。
また、これもたぶんよく知られた事実として、掲出歌の下句はまるごとロレアル・パリの広告コピー(「私にはその価値があるから」)の引用です。
つまり一首の中で作者オリジナルの(何らかの引用元を持たない)表現になると見なせる部分は初句の「加護亜依と」のみということになるわけです。

では、初句以外はすべて既成フレーズを組み合わせたこの歌に、「加護亜依」の名(それ自体が見えない括弧付きの、一種の“引用”されてきた有名人の名ではありますが)を持ち出すという一点に作者が表現の力の置き所を絞り込み、この人名の選択に自らの主張を滑り込ませているのかといえば、どうもそうではないようである。

穂村の歌の上句「桟橋で愛し合ってもかまわない」の中に二度あらわれてくる「ai」という音(「愛」「ない」)に促されて、「ai」の音を名前に持つ有名人である加護亜依が、ここに呼び出されているだけのように見えるからです。

穂村の本歌と引き合わせるのにもっともふさわしい「ai」として、多くの「ai」の中から初句に助詞「と」付きで字余りなしで収まるという稀有な「ai」である加護亜依を発見した、という作者の手柄に注目するかぎり、この歌から作者または作中主体による加護亜依という人物への思い入れを読み取ることは困難になるでしょう。このような正確な作業の痕跡が、個人的な思い入れを読み取れるような隙間をあらかじめ作品から奪っているからです。

(ただし、そもそもの本歌における連続する「ai」への注目、および更なる付加によるこの執拗な三つの「ai」のくりかえしを、この歌の作者がやはり二つの「ai」を含む筆名の持ち主であることと結び付け、この符合に何かたとえば精神分析的な解読などを試みることは、もしかしたら可能なのかもしれない。)

さらに、下句に広告コピーを引用するという態度もまた本歌(「がんこな汚れにザブ」は洗剤の広告コピーである)の構造を律儀になぞっているものです。しかもここでは「~があるから」という末尾を穂村の歌と同じくするとともに、きっちり下句の音数にはまり、さらに「watashi」「kachi」という二つの擬「ai」(「a-i」に子音をはさんでいる)さえ含むというこれもまた希有な、本歌と引き合わせるのにもっともふさわしい広告コピーが発見されていることに驚かざるをえません。
洗剤(汚れを落とすもの)に対する化粧品(美しさを上乗せするもの)という取り合わせの鮮やかな対照も含めて、読み取れるのはあくまで作業の正確な遂行ぶりであり、恣意的な引用の陰に息をひそめる主体の気配、のようなものを感じ取れる余地はここにはまるでないのです。

本歌に潜在的に書き込まれていたともいえる、部分の置き換えの可能性の指示を正確に読み取り、ふさわしい“すでにあった”ものの部品を呼び寄せて交換の作業を遂行すること。それは一般に、人が文学や芸術といったものにイメージする作者の姿とはかけ離れているかもしれない。しかし作品とは、このような「正確な作業」ののちにあらわれてくるものだと思うのです。
ここにはたまたま本歌取りという、作業の正確さを測りやすい基盤があったというにすぎない。作品が作品としてすぐれているかどうかの基準は、極論すれば、それがどれだけ「正確」につくられているかという一点にしかないだろうと私は思っています。作品のテーマとか作家性とかいったものは、「正確」であることのバリエーションでしかない。作品にはそれぞれの正しさがあるはずであり、その(およそ作品自身だけに見えている)正しさに対してどれだけ正確であるかが作品に問われる唯一のことです。

そして掲出歌の場合、「正確」さの徹底のために短歌が、このごく短い詩型があけわたされていること。そのひたすらな遂行の場として使い切られているところに生じている批評性を、ひとつの作家性のあらわれとしてわれわれは見届けることになるでしょう。

短歌は出口ではない 2

2010-01-30 | 短歌は出口ではない
革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ  塚本邦雄


あらかじめお断りすれば私は歌を象徴とか寓意とかのほうでは基本、読めません。あるいは読みません。
うっかり読めたり確信犯的に読む場合もあるかもしれないがそれは例外で、つまり象徴とか寓意で読むというのは歌を俯瞰して全体を一度に視界に収める、のみならず、その一首が矢印として何か歌の外にあるものを指しているらしい、と、その何かまでを視界に収めようという志向であると思いますが、そういう読み方以外で読もうとするということです。

掲出歌。絵としてはとくに問題なくわかりやすい歌です。
「革命歌作詞家」なる肩書きというか職業、の人物に「凭(よ)りかかられて」、「すこしづつ液化してゆくピアノ」。と、ひとまずそのままに無理なく取ることができる。
ピアノが「すこしづつ液化してゆく」ところにやや脳で絵にしにくさがあり、その分だけ“言葉の世界のできごと”感があるけど、いったんほぼ一首丸ごとイメージに変換し終えたのちに、そのイメージをみなで共有し、「革命歌作詞家」は何を意味しているか。「ビアノ」は「液化」は何を、といった議論に続けやすいタイプの作品ですね。

そのように読後を活気づかせることも作品の力だと思いますが、作品の力は作品そのものではない。作品の力で語らされることは、作品を語ることとはちょっと違うのではないかというのは、短歌にかぎらず文学作品を語る言葉におぼえがちな疑問です。
イメージによって適度に作品から遠ざけられてしまう前の、むきだしの文字のつらなりに読み手があらためて出会い直せば、たとえば、この歌には何て<カ>の音が多いんだろうかといった、誰の目にもあきらかでありつつとくに意味のなさそうなことが気になってくる。


カクメイカ/サクシカニヨリ/カカラレテ//スコシヅツエキカ/シテユクピアノ
カ   カ    カ    カカ            カ


計六つの<カ>音があります。結句以外すべての句に<カ>がみられ、初句と三句にはそれぞれ二つもあらわれています。
四句の<カ>は字余りの八音目かつ句跨がりの途中なので、四句というより下句の中心にあるとみることもできる。一首を上句と下句で分けるなら、<カ>音の出現には上句に五つ、下句に一つだけという偏りがあることも気になります。
いずれにせよこの歌を読むということは、うるさいほど頻出する<カ>音を一首の中に聞き取り続けることであり、音の次元で起きているそのことが、意味としての一首の読みに何も働きかけないなどとは考えられないし、その逆もまた然りです。


革命歌/作詞家に凭り/かかられて//すこしづつ液化/してゆくピアノ
カ カ   カ    カカ           カ


ここに意味を呼び戻してみます。
大雑把にいって上句は人物、下句はピアノに焦点化しているということができますね。人物とその「凭りかか」る動作にまだ見ぬ対象があることまでを示す上句と、その対象であったピアノとピアノに起きている現象だけが描かれている下句。
この“人物からピアノへ”という焦点の移動と、前述した上下句間の<カ>の数の格差を重ねあわせたとき浮かび上がるのは、「革命歌作詞家」と肩書きに三つも<カ>音を備えた上句の主役たる人物が、凭れかかったピアノとその領分である下句へ、みずから豊富に持つその<カ>音とともに「液化」(この語が<カ>音を備えているのもいうまでもない)という影響をもたらしつつある、という一首の光景です。

いいかえれば、彼がなぜ「革命歌作詞家」という見慣れぬ奇妙な肩書きでなければならなかったのか。そしてなぜピアノに「凭りかか」らねばならず、受けとめたピアノのほうはなぜ「液化」しなければならなかったのかといった理由のうち、少なくともその一部は、上に示した一首の意味と音の連係する光景があきらかにしています。
つまり、「革命歌作詞家」「凭りかか」「液化」はそれぞれ<カ>の音をふくむゆえにこの場に招かれる権利を得たのであり、「革命歌作詞家」が歌の外に何を指すのかといった議論は、そもそも<カ>音を豊富に含む肩書きにほかにどのようなものがありえたか(いくらでもありえたとも、これしかなかったともいいうるでしょう)、といった文字列=歌に寄り添った想像力によってすかさず制限されなければならないでしょう。

くり返される音がほかでもない<カ>なのは、もちろんこの作品が短歌つまり歌=<カ>であるからです。
短歌=<カ>が自らの分身として「革命歌」をここに呼び寄せ、同時にその語にふくまれる二つの<カ>と出会ったことをこの<カ>にあふれた歌の起源の物語として捏造してみるのは、“作者の意図”という証明不能の起源を遠慮がちに捏造することとくらべても、それほどいかがわしいことではないと思います。

短歌は出口ではない 1

2010-01-21 | 短歌は出口ではない
一首評というか鑑賞というか、短歌を一首引用してそれを読んで何だかんだと書くのをやっていきます。「短歌は出口ではない」というタイトルに意味があるとしたら文字通りの意味です。短歌は出口ではない。
短歌を読むことは、日本語を読むことにほぼ含まれていますが、短歌を通して私の中に入ってくる日本語は、独特の変形を被っている。短歌になってしまった日本語、を読むということの意味を、私に考えられる範囲で考えてみたいと思います。