喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

空白と切り株

2008-11-28 | 短歌について
私がいわゆる文語の短歌をつくらないのは、文語が私にとって外国語だからです。外国語を勉強して、外国語の詩を読めたりつくったりできるようになるのはいいことだと思うけど、私は勉強が嫌いなのでそれはしないわけです。勉強の必要なことをする、ということにまるでモチベーションが上がらない性質なので、今いる場所からできるだけ急な坂とか階段のない、なだらかな道が選べそうな地形をまずは探すのですね。すると自ずと口語短歌、現在ひろく一般的に使われている日本語で短歌をつくることを選ぶことになる。
でも口語の短歌など読めたものではない、と内心思っている人たちの気持ちはよく分かる気がするのです。私は母国語で詩を書きたいと思いますが、その詩形はそもそも母国語のものではない。その無理というか、ミスマッチがまず前提としてある。伝統に学ぶのは大事なことだと私は人ごとのように信じていますが、しかし口語で短歌をつくる以上その伝統からほとんど何も受け継げないはずだとも思っている。受け継げないことを心底思い知るためにも、本当は伝統を学ぶべきなのでしょう。
それをしないからうっかり伝統に尻の毛くらいは繋がってる気分になって、口語短歌ならぬ口語訳短歌みたいのを恥知らずにもつくってしまうのかもしれない。
口語短歌は、文語からかっぱらってきた(あるいは借りたまま返さない)定型でわれわれの母国語を歪め、その歪みにあらわれる短歌性を発見するというジャンルであるべきです。定型にあらかじめなじむ文語という言葉でなく、つねに定型に過不足する言葉を母国語にする人間として、定型になじまなくてできた隙間から定型そのものとしての空白を覗いたり、定型に間に合わず切断されたドジな日本語の切り株を鑑賞するのがわれわれのとるべき態度です。
口語の短歌は歌えない。つぶやいたり早口になったりどもったり口ごもったり、という姿にわれわれの日本語と、われわれのものではない短歌定型の、不様で噛みあわないセッションを見届けるためのものです。そこに万が一再現不能な奇跡のような瞬間がおとずれてもいいように、この場所は日本語と定型だけを置いてつねに砂漠のように空けておくべきだと思う。

コメントを投稿