とくに書くことがなくても短歌について時々無理に何か考えて日記を書くことにしよう、と思ったので日記を書く。
今年の前半は自転車に関する(あまり関してない)連作的な歌をせっせとつくり続けていたが、しばらくの休止を挟んで今はまったく別の連作(的な歌)が溜まりつつある。前半にやっていたのよりだいぶ過去の自分の作風に戻っていて、それを連作的につくっているという感じ。かつてはそれを連作としてはつくれなかったというか、たぶん一首単位の完成度に(分をわきまえず)こだわり過ぎてたのと、連続してつくられてゆく歌の、その連続性に価値が見出せなかったのだろうと思う。あとはまあ単純に一首ごとにイメージを引きずりつつ微妙にリズムや景色をコントロールしてずらしてゆく(だから並べても単調になりにくい)技術というか知恵が、それなりに行き届くようにはなったのか。
しかし短歌がいくら溜まったところでとくに使い道はない。「そのゲーセンでしか使えないコイン」を溜め込んでいるような虚しさを感じる。歌葉新人賞があったときはコインを賞品に換えるチャンスが年に一度だけあった。そのチャンスを絶たれたことと、連作が際限なくつくり続けられるようになったことは無関係ではない。あらかじめ設定されたゴール(締め切り、三十首、歌集出版という賞品など)に向かってではなく、ひたすら虚しく作り続けることが私の短歌との関わり方としてその後発見されたということだ。
以前ある方に「三十首という尺が(我妻には)合ってないのではないか」と指摘を受けたことがある。三十首でなければ賞品がゲットできたと思ってるわけではない。と断ったうえで思うのだが、この指摘は正しいと今は思う。
一首というミクロな枠でなければあとはもう枠として意識できないようなぼんやりした大枠(連作でいえば終りにさしかかったとき、読者が初めの方を忘れかけているような枠)でしか私は短歌をつくらない方がいいかもしれない。小説で掌篇の書き方がそのまま通用するのは短篇~中篇よりむしろ長篇ではないかと最近思うのだが、それは短歌にも言えることのような気がする。
小説でいう短~中篇サイズが要請する構成意識、をひとまず取っ払ったところで短歌と関わり続けるにあたり、現在の私が身を置く虚しさはふさわしいものではないかと思う。一首の中でぐるぐる循環して永久に終らない、ということと、次の一首が永久に並び続けて際限がない、ということが両立するところでならいくらでも書けるという気が今はする。
書けるというだけで、それが読むに価するか判定するスイッチは切りっぱなしだが。
今年の前半は自転車に関する(あまり関してない)連作的な歌をせっせとつくり続けていたが、しばらくの休止を挟んで今はまったく別の連作(的な歌)が溜まりつつある。前半にやっていたのよりだいぶ過去の自分の作風に戻っていて、それを連作的につくっているという感じ。かつてはそれを連作としてはつくれなかったというか、たぶん一首単位の完成度に(分をわきまえず)こだわり過ぎてたのと、連続してつくられてゆく歌の、その連続性に価値が見出せなかったのだろうと思う。あとはまあ単純に一首ごとにイメージを引きずりつつ微妙にリズムや景色をコントロールしてずらしてゆく(だから並べても単調になりにくい)技術というか知恵が、それなりに行き届くようにはなったのか。
しかし短歌がいくら溜まったところでとくに使い道はない。「そのゲーセンでしか使えないコイン」を溜め込んでいるような虚しさを感じる。歌葉新人賞があったときはコインを賞品に換えるチャンスが年に一度だけあった。そのチャンスを絶たれたことと、連作が際限なくつくり続けられるようになったことは無関係ではない。あらかじめ設定されたゴール(締め切り、三十首、歌集出版という賞品など)に向かってではなく、ひたすら虚しく作り続けることが私の短歌との関わり方としてその後発見されたということだ。
以前ある方に「三十首という尺が(我妻には)合ってないのではないか」と指摘を受けたことがある。三十首でなければ賞品がゲットできたと思ってるわけではない。と断ったうえで思うのだが、この指摘は正しいと今は思う。
一首というミクロな枠でなければあとはもう枠として意識できないようなぼんやりした大枠(連作でいえば終りにさしかかったとき、読者が初めの方を忘れかけているような枠)でしか私は短歌をつくらない方がいいかもしれない。小説で掌篇の書き方がそのまま通用するのは短篇~中篇よりむしろ長篇ではないかと最近思うのだが、それは短歌にも言えることのような気がする。
小説でいう短~中篇サイズが要請する構成意識、をひとまず取っ払ったところで短歌と関わり続けるにあたり、現在の私が身を置く虚しさはふさわしいものではないかと思う。一首の中でぐるぐる循環して永久に終らない、ということと、次の一首が永久に並び続けて際限がない、ということが両立するところでならいくらでも書けるという気が今はする。
書けるというだけで、それが読むに価するか判定するスイッチは切りっぱなしだが。