喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

コインは溜まる

2007-10-30 | 短歌について
とくに書くことがなくても短歌について時々無理に何か考えて日記を書くことにしよう、と思ったので日記を書く。
今年の前半は自転車に関する(あまり関してない)連作的な歌をせっせとつくり続けていたが、しばらくの休止を挟んで今はまったく別の連作(的な歌)が溜まりつつある。前半にやっていたのよりだいぶ過去の自分の作風に戻っていて、それを連作的につくっているという感じ。かつてはそれを連作としてはつくれなかったというか、たぶん一首単位の完成度に(分をわきまえず)こだわり過ぎてたのと、連続してつくられてゆく歌の、その連続性に価値が見出せなかったのだろうと思う。あとはまあ単純に一首ごとにイメージを引きずりつつ微妙にリズムや景色をコントロールしてずらしてゆく(だから並べても単調になりにくい)技術というか知恵が、それなりに行き届くようにはなったのか。

しかし短歌がいくら溜まったところでとくに使い道はない。「そのゲーセンでしか使えないコイン」を溜め込んでいるような虚しさを感じる。歌葉新人賞があったときはコインを賞品に換えるチャンスが年に一度だけあった。そのチャンスを絶たれたことと、連作が際限なくつくり続けられるようになったことは無関係ではない。あらかじめ設定されたゴール(締め切り、三十首、歌集出版という賞品など)に向かってではなく、ひたすら虚しく作り続けることが私の短歌との関わり方としてその後発見されたということだ。

以前ある方に「三十首という尺が(我妻には)合ってないのではないか」と指摘を受けたことがある。三十首でなければ賞品がゲットできたと思ってるわけではない。と断ったうえで思うのだが、この指摘は正しいと今は思う。
一首というミクロな枠でなければあとはもう枠として意識できないようなぼんやりした大枠(連作でいえば終りにさしかかったとき、読者が初めの方を忘れかけているような枠)でしか私は短歌をつくらない方がいいかもしれない。小説で掌篇の書き方がそのまま通用するのは短篇~中篇よりむしろ長篇ではないかと最近思うのだが、それは短歌にも言えることのような気がする。
小説でいう短~中篇サイズが要請する構成意識、をひとまず取っ払ったところで短歌と関わり続けるにあたり、現在の私が身を置く虚しさはふさわしいものではないかと思う。一首の中でぐるぐる循環して永久に終らない、ということと、次の一首が永久に並び続けて際限がない、ということが両立するところでならいくらでも書けるという気が今はする。
書けるというだけで、それが読むに価するか判定するスイッチは切りっぱなしだが。

無責任

2007-10-13 | 短歌について
このところ短歌はほとんどつくってないけど、つくってた最後の方はずっと連作仕様になってて、すると私の歌の味といえなくもない素っ頓狂な部分はかなり抑えられた出来になるわけです。定型の枠を信頼して預けちゃって後は知らないよっ、ということはせず、一連の流れの中でいずれ責任はとっていきますから。私を信じてください。という態度でつくるということなんですね、私にとって連作をつくるとは。だから責任取れなくなりそうなことは初めから言わない、ということになる。定型それじたいの枠以外の枠を信じることによって、連作は可能になるんじゃないか、と思ったわけです。つまりそれが短歌における倫理ってやつですね。
だけど短歌をしばらく離れていた目でそういう一連の自分の歌を見ると、何か今ひとつピンと来ないなあ、ずいぶん地味だよなあという気がしてしまう。もっとこう、破れかぶれなところがないと、短歌なんて存在する価値ないんじゃないの。連作がどうこういうのなんて、あくまでその先の話じゃない? という気分が今は優勢になってきていますが、たぶん短歌をつくることを再開したらまた変わってしまうのだろう。良くも悪くも。


それから短歌関連の話題なんでリンクしておきますが
http://d.hatena.ne.jp/ggippss/20071011/p1
私のもう一個のブログの方の記事です。
記事中にリンクしてる(というかほとんどリンクしかないけど)過去の日記はなかなか我ながら面白いなあ、と思いました。ああいうことが今も書けるなら、短歌のブログをこうして分けて隔離する必要はないんだけど。
それからあの人はどうも私のこと好きなんじゃないか、という気がしたんですがどうでしょう。

短歌ヴァーサス

2007-10-02 | 短歌について
もうすぐ本屋に並ぶと思われる「短歌ヴァーサス」第11号に、連作十首を寄稿しております。「ペダルは回るよ」という題です。ちなみにクランクではなくペダルです。
まだ少ししか読んでませんが、すごく読むところありますよ。そしてこの号で休刊です。この先はないんです。