喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

数字

2011-04-29 | 鑑賞
先月の12日「町」4号の読書会で瀬戸夏子さんの連作について基調発言をすることになっていた。読書会はその頃予定された多くのイベントがそうであるようにやはり中止になってしまったのだけど、当日しゃべろうと思っていた内容はまたべつの機会やかたちで発表することもあるかもしれない。

『「奴隷のリリシズム」(小野十三郎)、ポピュリズム、「奴隷の歓び」(田村隆一)、ドナルドダックがおしりをだして清涼飲料水を飲みほすこと』

このとても長いタイトルに引かれている二つの人名(小野十三郎、田村隆一)はどちらも数字(十三、一)を含む名前であるが、これらの数字をならべかえると「三十一」つまり短歌の音数になるのだという妄想じみた〈発見〉の披露から話をはじめる予定だった。いっけん短歌らしさから距離を置いているような連作のそこかしこに「三十一」的なものを指摘してゆく流れを考えていたのだが、会の前日、つまり三月十一日という奇しくも漢数字が「三十一」を示す日付とともにわれわれの記憶に生々しくよこたわる断絶によって、今ではこの七分間分の拙い作品論の筋道も夢の中で練習した台詞のように淡く輪郭を失ってしまっている。


(持ち時間の七分間が意外に短いと気づいて論旨を絞り込んでいく過程で、最終的に削ってしまっていた草稿の断片を以下に貼っておきます。つまり本来はこっちのほうが日の目を見ないはずだったけど。)







 ねじのない夕方のそらから もう3時 背の高いわたしと背の低いわたし  瀬戸夏子

この「ねじ」はひとつ前の歌の「渦巻き」という語から「渦を巻くもの」として横に渡されてきて、さらに次の歌の「画鋲」に「突き刺すもの」として受け継がれるわけだが、一首の縦方向の流れの中では「背の高いわたしと背の低いわたし」という似姿(ねじとの)を呼び出している。

また「夕方のそらから」と言ったそばから「もう3時」と夕方以前に時間が引き戻されるところにも「ねじ」の上下する動きが写されているし、「3」という字の形は二つのねじ山に少し似ていて、「そらから」とわざと平仮名で書かれることで見出された直前の二つの「ら」の字とも響きあいつつ、下句で二人の「わたし」をみちびきだし、ひいては連作全体におよぶ「二」の反復へと開かれ、またそれに横切られていることを示す。

このように一首がつねに垂直方向と水平方向の力の交差する場所としてあるのがこの作品。だがそもそも短歌にはそういうところがあり、連作は短歌の中にある垂直方向の力(一首という単位そのもの)を抑制し、水平方向の力をけしかけるところがある。水平方向の力とはつまり五音と七音の反復がもたらすもので、同じ音数がもどってくるたびそこに折り畳まれるように一首は横にのびていくし、横に並ぶ歌どうしの五音と五音、七音と七音はひびきあう。しかしこの作品は一首の中の五音・七音のかたちを曖昧にしていながら、モチーフの網目をつくることで水平方向への動き、意識をあらわしている。

あかないドアから振り返る

2011-04-22 | 鑑賞
僕たちは海に花火に驚いて手のひらですぐ楽器を作る  堂園昌彦


たとえばこの「楽器」とは何かを正確にべつの言葉で言い当てることができるとすれば、読み手は豊かな迂回をへて唯一の出口にたどりつくというミステリ読者的な快楽を一首から受け取ることができる。そのとき一首は一首の長さ以上のものとして経験され、そのありえない長さにわれわれが身をまかせ十分迷うための条件として、“唯一の出口”が存在することへの信頼が必要なのかもしれない。
そのうえで仮に「(手のひらで作る)楽器」に「拍手」を代入して読むのが正解であるとすれば、どうにも埋めがたい隙間が「(手のひらで作る)楽器」と「拍手」とのあいだに生じてはならないはずだし、もしそんな隙間が感じ取れるとしたら「拍手」は正解の候補からしりぞけられ、隙間なく空白を埋めるべつの言葉が存在するはずだという態度で読み手は一首をにらみつけることになる。それらしい言葉をみつけてあてがっては、そこにまたあらたな隙間を発見するという経験に失望や苛立ちをおぼえるという話にもなるだろうが、われわれは必ずしもミステリ読者的な読み手ではなく、短歌はその快楽のありかを正確に定義づけられるジャンルではないだろう。
いっけんミステリ的な体裁をもつともいえる掲出歌にも、その出口と見紛えたにせのドアの開かないところから一首を振り返る快楽のあることをわれわれは知っている。このカタルシスには遠いかすかな快楽がおとずれているとき、われわれはまたかすかな不安とともにあるのだ。
『pool vol.7』より。

煮えたコーヒー親指で舐めながらおまえ

2011-04-13 | 我妻俊樹全短歌
煮えたコーヒー親指で舐めながらおまえまぐれに素晴しい晩年になる  我妻俊樹


最近、といってもここ二年くらいにはなるけど、定型にきっちり収めると(たとえ句跨がりなどあっても)言葉が定型に負けるというか、負けることで結局短歌がそこにあることが見えなくなってしまう、定型ごと埋もれてしまうという感覚がもともとあったとは思うけど、なんとなく強くなってる。例外はもちろんあるけど無視して話を進めると、これはいちおう口語短歌の問題であって、口語は句ごとにエッジが立たないからなんとなく一行の詩というだけに見え、すると31音では微妙に字数も足りなく感じる、ということかと思う。つまり句にあたる単位にエッジをきかせるには五音や七音では足りず、意味的にも31音からこぼれようとする場合、全体に88888をいちおうの上限とする40音マックスを意識した形になるとそれはそれで単調で、いろいろ足したり引いたりまたがったりで崩していってひとつのかたちに収まる、ということを潜在的にやっていきなり即詠で変な形が出てくる、ということがあってそれを私は最近よいこととして受け入れている、ということかもしれない。あえてまったく整理せずに書いてみたが。
この歌はけっこう気に入っている。即詠とはまず作者がいきなり語りかけられる言葉であるように思う。
題詠blog2010、お題「まぐれ」。

彼女は、ばね秤に浅く腰かけ

2011-04-10 | 我妻俊樹全短歌
彼女は、ばね秤に浅く腰かけ針をゆらして本を読んでる  我妻俊樹


「ばね秤」に浅く腰かける、というたぶんほとんどの人が実際に経験したことのない、私もないけど、なぜかその感覚をありありと体で思い浮かべることのできる行為を語っているわけです。で、その感覚を韻律にうつしとりたい、韻律と言葉の関係として経験し直したい、という気持ちが少なくとも上句にはあらわれているんではなかろうか。題詠blog2010、お題「秤」より。

機嫌よく生き延びながらじゃあまたね

2011-04-09 | 我妻俊樹全短歌
機嫌よく生き延びながらじゃあまたねあれは夜寒をわたる狐火  我妻俊樹


はたしてこの歌はあかるいのか暗いのか。このあいだ、自分の歌の中から何か明るくて前向きなところのある歌をさがそうとしたとき、これはあかるいんではないかと思った数少ない歌のひとつがこれだった。だからこれは自分ではあかるい歌のような気がしている。あかるいと暗いにきれいに分けられない歌をもともとつくってるつもりだった(たいして意識はしてないが)けど、明るさと暗さが入りまじることで生まれる明るさ、みたいなものを感じさせる歌も思いのほか少ないようだ、と思ったのだった。そういう歌こそがいい歌なのだ、と考えているわけでは(今のような世の中の状態にあってさえ)全然ないが、いったん意識してしまった偏りは是正する方向につとめるよりほかないであろう。少なくとも、この偏りこそが個性なのだ、というかたちで意識に固定してはろくなことにならない気がする。
題詠blog2010、お題「狐」より。