喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

粛々

2009-03-25 | 雑記
もろもろに加え、おまけに今朝血尿は出るわで、気が散ってかなわない。
何ヶ月か前に一度あって、二度目。だがいずれも、便器に残った赤い跡からそう判断したので、出てるところは見ていない。どちらも大便時。ググるとそういう例はあるらしい。姿勢と力の入り方によって出血するみたい。
もちろんそれは検査して異常がなくて初めて判断できることだが。
ちなみにストレスで血尿は出ないらしいです。
病的なものが今ここに集まってくるのは、半分くらいは何かしら必然で、残り半分はただの偶然なのだろう。
いいほうにも悪いほうにも、やたらと因果をみつけないほうがよかろう。何かが自分の邪魔をしようとしてるなんて思ってはいけない。何かなんてない。
ただ粛々と今ここですべきことをする。
すべきことをしてから、次にすべきことについてあらためて考えればよい。
今朝は「羊たちの沈黙」をひさしぶりに見た。よかった。意外と短い映画、と感じるところがよかった。

マシーン日記

2009-03-20 | 雑記
喉は今日の夕方までには最悪に近い異物感だったが、さっきある芝居の動画を見ていたら劇的といっていいくらい急に緩和した。まだ飲み込んだときの違和感などは感じるけど、何もしていないときにも四六時中締め付けられるようなあの喉の非常なこわばりはなくなった。それだけで全然楽だ。ちょっとほっとする。
とはいえ小説に関しては、基本的に絶望している。けれど本当の絶望は無意識につねに回避してしまっているために、底をついて何もかも手放して楽になる、ということができないでいる。絶望を知らない楽観というものの弱さを思い知る。どこか明るさの残る場所に身をおいて、そこから暗い方ばかり見て絶望のふりをするという欺瞞…。

不調な感じもあり

2009-03-17 | 雑記
おとといくらいから喉に違和感がある。食べ物がずっとひっかかってるような感覚。でも水をがぶ飲みしても咳をしてみても取れない。
何か食べたあとにかすかにそれを感じて、その後一旦は忘れてたのだが、昨日の夜からまた気になり始めてそれからずっと気になっている。
癌などのできものや炎症など、もちろん実際に何か違和感の実体がある場合もあるのだが、自律神経の異常で「ヒステリー球」と呼ばれる同様の症状があるようだ。検索するとものすごくたくさんの症状の質問や経験談が出てくる。

去年は小説の応募締め切り前に腸の具合がずっとおかしくて、投函したとたんあっさり治った、ということがあった。今度はそれが喉に出たのだという気もするが、器質的な異変があるのか純粋に心因性のものかはもちろん検査しないとわからない。しかし検査はけっこう金がかかる。
腸なんかはもともと子供の頃から弱くて、何かと不調になるので本当は定期的に検査したほうがいいのだ。しかし金がないのでそうもいかず、実は最近血便が出てるんじゃないかと気になって検査にいこうと思ってたのだが(その前にまず虫歯を治療した)、尾篭な話なのでくわしくは書かないが、どうも血便はほぼ勘違いだとわかった。なので歯だけで出費は抑えられたと思ったら、今度は喉にきたというわけだ。
虫歯は今削ったあと土台まではできてる状態で、銀歯をのっけたら終わりだと思う。ここまでに七千円くらいかかった。あといくらくらい掛かるのだろう。

気晴らしにと思って何気なく見た「デビルズ・リジェクト~マーダー・ライド・ショー2~」が何だか気の滅入る映画だった。一作目が全然好きになれない感じだったので、もう二度とロブ・ゾンビの映画を見ることはないと思ってたのに、一作目とは全然タイプが違うとか、ニューシネマっぽいとかいう評判が気になって見たらやっぱり駄目だった。まったく惹かれるところがない。単につまらないとかでなく気が滅入る。たぶん物語と演出との関係が私にとって最悪なんだと思う、具体的にはよく判らないが。

…とか書いてるあいだに喉の違和感がみるみる増してきた。なんだか口から今にもキノコでもはえてきそうな感じがする。まさかそんなには精神追い詰められてる気はしないのだが、こんなに急激に発達するできものなど現実には存在しないだろう。不安とストレスはそれなりに自覚があるのものの、今日も全然書かずにぼけーっと一日過ぎようとしてるくらいだし、まだ余裕あるはず。むしろそれがいけないのか。
あと、アレルギーの可能性もあるので、それだったら急激に違和感増大、もありえるかもしれない。いま40円のコーラ飲んでたということは記録として残しておく。

ましになること

2009-03-17 | 雑記
私は本を読むのが苦手で、何時間も夢中になって読みふけるということは滅多にない。相当に面白い本であってもすぐに気が散り、ほかの本を手に取ったりネットを見始めたりしてしまう。
だからできるだけ「本を読む以外することがない」に近い状態がほしいのだが、それはたとえば風呂につかりながら読むことだったり、電車など乗り物の中で読んだり、喫茶店やファミレスで読むことだったりするだろう。私にとって今の生活が少しましになった状態、というものを想像するとすれば、これらのことが気軽にできるようになった状態だ。つまり電車はともかく、たとえば週に二、三回ファミレスで払う金の心配はまったくしなくてよくなり、ガス代がもったいないからとシャワーで済ませる必要がなくなった、と思える状態。そういう日がもし来ればちょっとは人生に陽が当たってるという実感がするだろう。
公園で読むという手もあるが、近所の公園は地形的に谷になってることもあって日当たりが悪い。だから天気がいいからといって出かけても、快適に読めるとは限らないところが難点だ。やはり風呂とファミレスのほうがいい。あるいはマクドナルドなどでもいい。ただし家の近所にはファミレスもマクドナルドもない。自転車で通う必要があるが、あいにく自転車はここ十年ばかしパンクしたまま放置してある。たぶんいろいろガタが来ててパンク修理してもすぐには乗れないだろう。自転車も買う必要があるかもしれない。
だが徒歩五分くらいの場所にファミレスがあるのがやはり理想的だ。うちから五分圏内にはくら寿司とすき家がある。どちらも読書には向かない店だ。あとちょっと離れて山田うどん。しかし読書向きの店が近くに全然ないという以外は、なかなか悪くない住環境である。なので金があったらすぐにでもどこか引っ越したい、という気分にはならないのは不幸中の幸いである。

天気と撮影

2009-03-17 | 雑記
小説を書くことはある意味ロケ撮影みたいだ。これだという理想的な天候に出会って撮影が快調に進みだしても、いつまでその天候が続くかわからない。自分の頭が作り出してる天気なのだから自分で自由に操作できる、というものではないのだ。たとえば「いつまでこの天気が続くかわからない」などと不安が兆すこと自体が、天候に直接悪影響をあたえたりする。そういうことは実際のロケ撮影ではありえないことだ。
頭の中の世界で、頭の中の撮影隊による撮影。両者はどちらも自分の一部だから、どちらかの調子が悪くなったときにただ傍観してるわけにいかず、互いに悪影響を受けてしまう。その逆もあるわけだが、とにかくここでは運命の比喩ではなく実際に歯車が回っており、それは微妙に自分の意志に反応しつつそむいてどちら向きにでも回るのだ。
こういうことを日記に書き出すということは、つまりちょっとやばい兆しを感じているということだ。そう書き記すことでその状態が固定する、という可能性もあるが、書くことで形骸化するというほうへの期待をこめて書いてみた。小説というのは書けると思えば書けるし、書けないと思えば書けない。単純にそういうものだとも言えると思う。線路を敷きながら同時に列車を走らせる、ようなこの馬鹿げた作業に必要なのは、何よりも極度の楽観性だろう。

煮詰まる

2009-03-14 | 雑記
小説を書く。書いてるとすぐに煮詰まるので、何本か並行して同時に書く。なかなか先には進まない。書き出し部分だけとりあえず書いてみたものがどんどんたまっていく。いわば先に進まず、横にばかり広がる。
だが並行書きの、気分転換としての効果は上々だ。煮詰まってどうしようもなく価値がなく思えてきた文章を棄て、少し前にやはり煮詰まって絶望して棄てた文章のほうを読み直してみると、そっちが意外といけそうな気がしてきたりする。そのように次々と乗り換えて目先を変え、絶望をかわし、煮詰まりを回避し続けられればいいと思う。

あと私は、書くときはペースメーカーとか手本とかいう意味で何か並行して小説を読んでいたいのだが、そっちでも煮詰まり回避というか、ひとつの小説に引っ張られすぎて(私はじつに引っ張られすぎる)書くものが煮詰まるのを防ぐのに、いくつかの読み心地の異なる(しかし好ましい印象の)小説をとっかえひっかえ同時に読んでいくのがいいとわかった。
その場合、自分の作風とはまったくかけ離れてるけど好きだし軽くて読みやすい、という本を混ぜておくといいと思う。何かこう解毒的な意味あいで。

Flesh & Blood

2009-03-10 | 雑記
書かなくてはいけない時期。だから世界がぴかぴかして見える汁をしばらく脳から絶やせない。
それには映画を見続けることが、できることの中で一番効果的だと思う。昨日は鈴木清順「春婦伝」、ルイ・マル「ビバ!マリア」、エリック・ロメール「獅子座」今日はジム・ジャームッシュ「コーヒー&シガレッツ」、ポール・ヴァーホーヴェン「グレート・ウォリアーズ 欲望の剣」。
「グレート・ウォリアーズ 欲望の剣」(1985)は真性の変態映画でありながら(あるいは、であるがゆえに)生命への愛にあふれた何だかものすごい傑作。「獅子座」(1959)はぱっくり口のあいた靴をひもで縛って履き続ける無一文の男(働かない)が非常に身につまされた。私も“獅子座”であるどころか、この男と誕生日が同じ日(八月二日)だったし…。

走らない車だと気づく

2009-03-09 | 雑記
いま何か大事な夢を見てた気がするのだが思い出せない。私は夢をひとつのストーリーとして憶えていることが皆無といっていいくらいないが、それはストーリーのはっきりしない散漫な夢ばかり見るからなのか、生来の記憶力の悪さがここにも出てるということなのか、どっちなのだろう。
二つは同じことのような気もする。夢というのはそもそも自分の脳が作り出すのだから、私は出来事をストーリー化して把握するのが苦手な頭であり、だから記憶力が悪いのでもあるし、またストーリーにならない散漫な夢も見るのだろう。そして私が小説でいわゆるストーリーが書けないことにもそれは繋がってくるし、短歌で構成のある連作がつくれないことも同じところから来てると思う。かといってひたすら細部に淫するタイプではなく、変に全体を把握しようとする癖があるのが厄介だ。

演劇への嫉妬

2009-03-08 | 雑記
私は嫉妬心がもともとあまりないほうで、とくに最近はもう何を見ても心の嫉妬の針がぴくりとも触れない、といっていいくらい気持ちが平穏というか嫉妬不感症になってる。だけど演劇だけはなぜか見ると非常に嫉妬をかきたてられ、自分がその舞台をただ観てる側にいるしかない、その場で行われてることの人々の輪の外にいるしかないということに何だか胸苦しい気分になるということをさっき芝居のほうの(映画じゃないほうの)「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」を某動画で見てたら急に思い出した。嫉妬心の不足は私が社会の底辺で心安らかに生きられるための資質で、あるいは身につけた知恵かもしれないけど、つまりであるがゆえに底辺にいっぱなしな大きな理由のひとつだということも考えた。演劇の、時間と空間に縛られる感じを小説から多すぎる自由を削減するための擬態として借りられないかという下心で観てみたら、思いがけないことに気づかされたという次第。

2009-03-06 | 雑記
アンナ・カヴァン『氷』読了。何かうまくいえないよさのある小説だと思う。こういう抽象的というか、比喩に流れがちでユーモアのない文章は本来好みじゃないけど、それが美的なほうには向かわず、何か朦朧とした霧のような中に神経症的なオブセッションが影のようにつねに感じられるところがいいと思った。掴みどころのない言葉が、美的な効果よりも実際掴みどころのないものを掴もうとすることにこだわることでそうなっているというか。
カフカの名を挙げる評をよく見るし、実際読んでいてあちこちに影響も感じるけど、カフカよりずっと想像力の丈が個人的なところもいい。それがつまり神経症、つまりカフカが統合失調症的であるのに対しての神経症的な作家ということかもしれない。何か普遍的な危機の暗喩としてではなくあくまで個人的な強迫観念をなぞっているように読めるし、そのこだわりがもたらす作品の“狭さ”を隠そうとせず、“狭さ”によってある種都合よく物語世界が歪められている感じもいい。そのあたりは作風が似てるわけでもないフィリップ・K・ディックとの共通性も感じる。私は個人の顔がその世界の地形として裏から浮き上がってくるような作品にだけ惹かれるのかもしれない。私小説が読みたいのではなく、構築されたフィクションの景色や人物がすべて作家の分身であるような、つまり悪夢のような小説だけが読みたいのだと思う。
妄想パートから現実パートに(あるいはその逆も)とくに断りもなく戻る語り方がけっこう無造作に見えるところもいい。無造作であることは繊細であることと矛盾しない。むしろ繊細さを欠いた作家ほどこういう部分で言い訳めいた細工を凝らしがちだと思う。
結末部分にただよう一抹の“甘さ”もけして甘美さではなく、ただ一個の飴玉がもたらす限りのものとして諦めたように提示されている。けれどその“甘さ”はこの世界に見出された唯一の救いであり、言い換えれば飴玉一個の救いしかここにはもう残されていないのだということが、美的な酔いとは無縁な、ひたすら覚醒した残り少ない言葉で示されている。

333と57577

2009-03-06 | 短歌について
たった今変な夢、というか妙に疲れる夢を見ていた。
財布から小銭を出して、そこから三百三十三円を誰かに払おうとしている。ところがいったん数えて取り除けた硬貨がよく見ると、百円玉のつもりが十円玉だったり、十円玉が五円玉だったりして微妙に足りなくなってる。それでまた財布をさらうのだが、銀色に見えた硬貨がテーブルに置いたとたん銅色になったりして、何度数えてもちっとも金額が定まらない。最初財布を覗いたときは百円玉が五枚以上まじっているように見えたのに、最後にはどう数えても二枚しか見当たらなくなっていた。

金額へのせこいこだわりは実生活の経済状態を単に反映しているにすぎない。払おうとしていた相手は弟のようだが、ほかの誰かも混じっていた気がする。夢の中ではよく複数の知人が混じったような人が出てくるが、それは自分にとって意味的に重なる部分をもった人たちが、その重なった部分でひとつのキャラクターとなって登場するからだろう。それは人だけでなく場所でもそうだ。記憶というのはたしか意味的な重複部分を省略して圧縮かけて保存されてるはずなので、夢の中ではそれら記憶の解凍が十分に行われないということかもしれない。
つまり夢というのは保存用に圧縮のかかった情報の倉庫を、そのままひとつの世界としてじかに体験することだとも考えられる。普通は解凍してこっち側に取り出すことでよみがえらせる記憶を、圧縮された状態のまま自分の方があっち側へ行って直接体験するというわけ。

そのつもりがなかったが、なんか短歌の話っぽくなってきたので意識的にそっちへ持っていってみる。つまりこういうのはどうか。短歌的に圧縮のかかった言葉を解凍してこちら側で鑑賞するのではなく、圧縮のかかった状態のまま読み手があちら側へ行ってそのままの言葉のかたまりを体験する。ある種の短歌はそのように夢のアナロジーで考えることができるように思う。つまり短歌が一種の記憶の保管庫だとすれば、覚醒している読者がそこから記憶を回復させて取り出すのではなく、読者の方から夢を見るように向こうに降りていって保管庫という環境そのものを体験する。そもそも圧縮→解凍といってもいったん短歌にされてしまった以上、元の状態(というものが仮にあるとして)が十全に再現されることはありえないはずで、つまり詩といっても文学といってもいいと思うけど、そういうものになってしまった言葉は何らかの致命的な損傷があって回復不能なものだと思う。それが正しく回復されると信じられるのは、作品の外で共有される解凍キーをやりとりするグループが(おおっぴらにであれ、ひそかにであれ)成立してる時だけではなかろうか。

穂村弘ベスト5

2009-03-03 | 短歌について
今日は雪が降るらしい。積もるかもとも。夕方から歯医者なのだが…。

かじかんだ手をさすりながら、洗濯の合間に穂村弘の歌ペスト5を選んでみた。

A・Sは誰のイニシャルAsは砒素A・Sは誰のイニシャル   穂村弘
秋になれば秋が好きよと爪先でしずかにト音記号を描く
あ かぶと虫まっぷたつ と思ったら飛びたっただけ 夏の真ん中
島のタクシードライバー敬礼の手首におんなものの腕時計
いくたびか生まれ変わってあの夏のウェイトレスとして巡り遭う

四首目は記憶で書いるのでいろいろ微妙に間違ってると思います。『ラインマーカーズ』に入ってないんだなこの歌。
リズムと意味(や表記)の関係がぎくしゃくした歌が多いのは最近の私の嗜好とも重なるけど、このベスト5は数年前に選んでても変わらないと思う。
私は穂村さんは原則塚本邦雄というよりずっと寺山修司に近いと思っているけど、このあたりは中ではかなり塚本っぽい方の歌ではないかなあ、と書き出してみてから思った。



(四首目訂正しました。「タクシー・ドライバー」→「タクシードライバー」、「女物」→「おんなもの」。音的には正確だったのが自分の記憶力を考えると驚異。3/7)