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喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

足の踏み場、象の墓場

2012-12-27 | 既発表
かたちととのえながらゆうべの足音を靴にかさねてゆく雨通り


投げ上げた穴あき帽子! おめでとうの云える機械にふかく囲まれ


生まれてから一度もきみが終バスに乗ったことのない話をしよう


いいえわたしはホテルではなく牢屋です 赤いのは眼できみをみている


聞こえてるつもりのクラウン人形を洗ってた夢の中で唄って


砂の吹く中央通りにバスがなくだらりと腕にまきつけたバッグ


眉を順路のようにならべて三分間写真のように生まれ変わるよ


月光はわたしたちにとどく頃にはすりきれて泥棒になってる


勇気ある安コーヒーの迷路からとびだせホース! 散らかしながら


中里さんの塗り替えてくれたアパートに百年住むこの夕暮れから




(初出『朝日新聞』2011年4月26日夕刊「あるきだす言葉たち」)

物語と短歌の間に

2012-11-16 | 既発表
 第一歌集『砂の降る教室』から八年、石川美南の美しい双児のような歌集『裏島』『離れ島』が刊行された。
『裏島』はストーリー性の高い連作として編まれた作品を中心に、『離れ島』は連作的な文脈から比較的自由な作品を中心に纏められている。前者を代表する作品が「大熊猫夜間歩行」であり、後者は「物語集」にその極限のかたちを現してみせる。この両極をそれぞれ抱える二つの「島」の上に石川美南は同時にいる。

  手品師の右手から出た万国旗がしづかに還りゆく左手よ 『裏島』
  捨ててきた左の腕が地を這つて雨の夜ドアをノックする話 『離れ島』

 石川美南は物語作家である。石川の連作にみられるのは歌人としての歌の構成意識ではない、あるいはそれを軽々と超えたものだ。また石川の一首は今ここを語る言葉が、つねにここにないどこかを語る最初の一行になろうと身を震わせている。そこであくまで二行目への踏み出しをこらえることで物語作家は歌人に踏み留まっている。連作で二行目三行目があとに続くかに見えたら、それは物語のありえたかもしれない別の一行目が語り直されているのである。
 物語の二行目をこらえる石川は当然ながら、作品に自閉した王国を築き上げることはない。物語作家が短歌とともに手に入れた武器である文語や旧かなは、彼女にとって物語の領土を現実から守る城塞ではなく、あくまでここにはない世界への異和と親和をさびしくつたえるためにある。

  壁や床くまなく水びたしにして湯浴みを終ふる夕暮れの王 『離れ島』
  口移しで分け与へたし王国のさみしい領土浅き領海

 この「王国」のさびしさは短歌という「島」の地形が物語にもたらすものだが、それは自画像を描こうとすれば「夕暮王」になってしまう指をもつ者のさびしさを裏側からなぞったものともいえるだろう。歌人と物語作家はコインの裏表のように一体でありながらすれ違っており、石川美南を名乗る存在は二人いる。〈二冊の第二歌集〉の刊行もそれを裏付けているし、「猛暑とサッカー」(『裏島』)の奇妙にすれ違う祖父と孫にこの〈二人〉の影を見ることも可能かもしれないが、詞書が歌と拮抗し、すれ違い、そして感動的な連繋さえみせる「大熊猫夜間歩行」こそ〈二人の石川美南〉を目に確かめるに絶好の大作といえよう。

  縞模様(はた檻模様)描かれゐる路面を今宵しげしげと踏む 『裏島』
  月がビルに隠されたなら遺憾なく発揮せよ迷子の才能を
  夏の夜のわれらうつくし目の下に隈をたたへてほほ笑みあへば

 現実のパンダ(リンリン)の死を踏まえ、死者であり動物であるという二重の意味で言葉から隔てられたこの存在の想像上の脱走を描く連作は、歌も詞書もそれぞれ言葉である自らを恥じるかのように禁欲的である。詞書は動物との間に目撃証言や監視カメラの映像といった間接性を挟み続けようとするし、歌は詞書に示される脱走劇にさらに隠喩的な距離を保つことをやめない。それはまるで、脱走した動物の道行きと交差する一点に明滅しただけの、ゆきずりの者の物語の一行目が歌としてならんだかのようだ。
 だからこそこの禁欲が破れる瞬間は感動的である。連作の掉尾の一首において、言葉はついに物語のためらい続けた本当の〈最初の一行〉を、その後の余白にむけて置き手紙のようにそっと差し出すことになるだろう。
 短歌連作でストーリーを語るという方法のひとつの極限を示す「大熊猫~」に対し、物語が短歌定型に凝縮されて姿を消した空間を集めたかのような「物語集」にはもはや一行目としてさえ「話」そのものは姿をみせることがない。

 「発車時刻を五分ほど過ぎてをりますが」車掌は語る悲恋の話 『離れ島』
  わたしなら必ず書いた、芳一よおまへの耳にぴつたりの話 
  諦めたそばから文字の色褪せて今はすつかり読めない話

 ここで歌が示すのは「話」の手前に架かる橋のみ、つまり物語の本文以前の表題か粗筋に似た言葉である。始まる前に終えることが短歌の物語に対する最大の敬意の示し方だと知る歌人が、ついにその一行目からも撤退したこれらの歌は、しかしほかのどの作品よりも濃厚に物語的である。短歌と物語の間で石川美南の世界は誠実にねじれ続ける。



(初出『歌壇』2011年12月号)

よだれ人形

2012-02-22 | 既発表
みどり児もけむりを吐いて眠るのでまぶたの下は汽車なのだろう


口に出せばおまえを呼んだことになるつつじヶ丘に文字なす傷は


鰐というリングネームの女から真っ赤な屋根裏を貢がれる


ブルーシートに「瀬戸内海」とペンで書け恋人よ 毛玉まみれの肩よ


バス停を並ぶものだと気づくのはいずれ人ばかりではあるまい




(初出『NHK短歌』2011年4月号)

クビレと摩擦

2009-08-11 | 既発表
 秀歌という言葉はわからない。だから使わないというより、好きに使ってしまおうと思う言葉である。
 なので秀歌というが、短歌にはいわゆる稽古事としての側面がある。つまり短歌は他人から習えるものであり、習った成果が目に見えて確認できると信じられているジャンルである。この「目に見える成果」の延長にあるものが秀歌だと思う。
 それを遠いと思うか近いと感じるかはともかく、地続きであることだけは信じられている場所に秀歌はある。詩才の多寡といった個別の事情はひとまず脇に置き、どうやらあの辺りにあるようだと漠然と誰もが平等に指差しあえる見通しのいい高みにそれはある。
 べつに月謝を集めるために吹聴される嘘というわけではなく、たしかにそういう側面(誰でも秀歌がつくれる…かもしれない)が短歌にはあるのだろう。

 ところで私がかつてある本を読むことで受けとり、受けとることで短歌の実作へ頼もしい橋を架けられたと思うメッセージもまた「秀歌は誰にでもつくれるのです」というものだ。
 その本とは『短歌という爆弾』(穂村弘著)である。右記のような意味に取れる文章があの本にあったかというと、なかったと記憶する。読み返してみるとやはりなかったので、行間というか、余白からというべきか、要するに書かれていないことを勝手に読みとった可能性が高いが、私がこの本を読んで強い印象を受けたのはたとえば次のような箇所である。


 短歌が人を感動させるために必要な要素のうちで、大きなものが二つあると思う。それは共感と驚異である。共感とはシンパシーの感覚。「そういうことってある」「その気持ちわかる」と読者に思わせる力である。
(中略)
 ここで短歌に不可欠なもうひとつの要素である驚異について考える必要がある。共感=シンパシーの感覚に対して、驚異=ワンダーの感覚とは、「いままでみたこともない」「なんて不思議なんだ」という驚きを読者に与えるものである。



 この引用部分のあとに「砂時計のクビレ」というあの卓抜な譬えが登場する。ささやかな驚異の要素が導入されることで、いかに一首の共感性が高まるかということが、疑問の余地のない正確な具体例とともに示されていたのは周知の通りである。


砂浜に二人で埋めた飛行機の折れた翼を忘れないでね  俵万智


 この歌の「飛行機の折れた翼」の部分が「砂時計のクビレ」の一例として挙げられている。つまり貝殻や指輪などいかにも砂に埋めそうな(と我々が想像しがちな)ものではなく、一読ぎょっとするような「飛行機の折れた翼」がここに持ち込まれることで、西瓜に塩が振られたように逆に一首は読者の共感を強く喚起するというわけだ。
 私はこの箇所を読むことで目から鱗が落ちた。このくだりだけでも『短歌という爆弾』は秀歌に価値のトップを置く短歌のマニュアルとして、まれに見る高い実用性を備えているといえるだろう。個人的な実感をいえば「クビレ」論を受け入れた前後で短歌偏差値が約二十は上昇した気がするし、とにかくその効き目はてき面で、かえって短歌に対するとまどいや疑念が生じたほどである。
 似たような身も蓋もなさは、どんな表現ジャンルの技術論のうちにもあると思う。だが短歌の場合は単純に文字数が少なく、57577というフォルムが予め与えられているので、作者の自由の幅が少ないという事情がある。短歌一首のサイズは、身も蓋もなさを受け止めたあとにつくり手が態勢を立て直すには、容積があまりに小さい。「秀歌は誰にでもつくれる」という甘い実感を押しのけて、何かほかのことを考え始める余裕が果たしてあるのか。

 秀歌に短歌の価値のトップを置くとすれば、短歌は誰もがその気になれば手の届く(と思わせることに成功している)ものに最上の価値があるジャンル、ということになってしまう。
 たとえばネット上を見わたせば、読むことで一定の満足を得られ場合によっては秀歌と呼ばれるかもしれない短歌作品はいくらでも探すことができる。だがそれらの多くは、読む者をどこか意気阻喪させるものだ。とんでもないものを読んだ、と良くも悪くも思わされる歌と較べたら、普通にいい歌というのがこの世にはあまりに多すぎるのではないか。それはつくっているのではなく、つくらされているのであり、読者は単にいい歌と感じるスイッチを押されたからそう感じたのである。
 秀歌をめぐるこの頭打ちの感じというか、袋小路を抜け出る鍵は何かというと、連作論だと思う。
 それは一首の歌のようには連作は、すぐれた連作にするための効率的なマニュアルが示せないからだ。秀歌を求める人々が同じひとつの袋小路に押しかけるのとは違い、連作は人をてんでバラバラの方向に迷わせることが期待できる。誰でも努力によって一定の成果が約束されている、短歌の稽古事としての性質となじまないこの事態においては、作品への作家性の刻印が最大の問題となる。いいかえれば作家のいないところに連作は成り立たないのだ。
 つまり連作は、作家がそこを通過した痕跡のようなものを読みとるものであり、ここでいう作家とは歌人としてあらかじめ佇まいを想像される存在ではない。素性の分からない、誰も実際には見たことのない何者かがそこに頭をぶつけたり、手でまさぐったり、膝をついたり唾を吐いたり足を滑らせたりしながら通り抜けていった、その連続する痕跡を読んでいくことが連作を読むことなのである。

 そうではない連作があることは知っているが、そうではない連作は秀歌性を温存する性質のもので、ここでは区別する。
「砂時計のクビレ」をつくるような操作が絶大な効果を発揮するのは短歌に定型があるためであり、定型が額縁となって効果を引き立て、また定型というフレームを利用して効果が計算できるためである。秀歌性を温存するタイプの(つまり私がここで可能性を見ない)連作は、いわば連作全体をひとつのフレームと見做し、その中での効果を逆算して配置されたものだといえるだろう。
 それは秀歌の成立条件を連作の面積にまで拡大したものに過ぎないので、そうではない連作について考えたいと思う。具体的には斉藤斎藤の連作作品を取り上げたい。


元禄寿司従業員控室入口に「会議中」の紙 ぼくもまぜて  斉藤斎藤
母さんがふとんを叩く「母さんがふとんを叩くと感じるのですね」
わたし、踊る。わたし、配る。わたし、これからすべての質問にいいえで答える。



 いずれも歌集『渡辺のわたし』から引いた。斉藤の作品には、見方によってはクビレのない寸胴の歌ばかりが並んでいるようにも見える。寸胴とはいわぬまでもいわゆる理想的なスタイルとしてのクビレをそこに認めることは難しい。だから秀歌的な価値観からすればどこから読みにいくべきか迷ったり、まるで理解できないという感想を抱いても不思議ではない。部分的にその諧謔やメタ視点の冴えに共感を示してはみたものの、総体としては実はよく分からないという向きも多いのではと思う。
 私も『渡辺のわたし』を読んだときいささか困惑をおぼえ、最近までその困惑はつづいていた。歌葉新人賞受賞作品として先に読んでいた連作「ちから、ちから」の印象とのあいだに微妙に距離を感じたからで、そう感じた理由が今になってはよくわかる。
 つまり「ちから、ちから」は個々の歌はいわゆる秀歌志向が希薄なのだが、連作の構成に一種のクビレが仕組まれており、秀歌的な価値観からの読みを許すのである。歌の配置が、結末から逆算したようなフレーム感のあるドラマを生じさせていたのだ。
 モチーフや構成に似たところのある「父とふたりぐらし」(『渡辺のわたし』所収)と較べるとよくわかるが、後者は前者にみられた全体から部分への逆算の操作が最小限にしか感じられない。それを私は構成の散漫さであり欠点と見做していた。今は逆に前者に新人賞応募作らしい妥協というか、折り合いの付け方のようなものを感じる。
 もちろん『渡辺のわたし』は「父とふたりぐらし」のほうの読み方によって読まれるべき歌集である。すると「素性の分からない、誰も見たことのない何者かがそこに頭をぶつけたり、手でまさぐったり、膝をついたり唾を吐いたり足を滑らせたりしながら通り抜けていった、その痕跡」が、明視することのできない肌ざわりのようなものとしてたしかに読む者の触覚に浮かび上がってくる。「ちから、ちから」では構成のクビレがもたらすカタルシスにより見えにくくなっていたものが、ここでは一首ごとの微妙な肌ざわりの違いとして感知でき、この肌ざわりこそ、得体の知れぬ誰も直接目にすることのできない異物としての作家が、連作をたしかに通過していったことを証明する摩擦の痕跡である。

 作家という異物が連作を通過した痕跡として発見されるのが作家性であり、そこでは短歌定型は歌人の顔の目鼻の位置を特定するためのフレームとしてはもはや機能していない。
 顔にかぎらず手も足も、毛髪も乳房も臍も性器も連作中を通過した摩擦の痕として粉々に残されているばかりで、作品からひとりの歌人のまったきシルエットを復元できる望みはあらかじめ絶たれているのだ。
 作業の場を歌集という規模にまで広げても同じことである。定型が視線の絶対的な折り返し点であることをやめてただの通過点に変わったとき、それが一首の歌であることや、一篇の連作であること、一冊の歌集であること、一人の歌人であることの完結性にこだわることにあまり意味はなくなっている。それらすべてを単なる通過点とする、それらのどこにも捕まえておくことのできない作家性の運動の気配のみが、読者の全身の皮膚を使用して読まれるべき価値をもつのだ。

 斉藤斎藤の新人賞受賞時に選考委員だった穂村弘が、倫理性というキーワードで斉藤を語ったことはきわめて示唆的である。この倫理性こそ斉藤における作家性の別名だろう。
 私の理解では、大雑把にいって倫理とは個人が選び取りみずからを律する規範であり、そのため他人や集団、みずからも属する集団などともとしばしば衝突する。よく似た言葉である道徳は共同体側のものであり、人々にそれを守るか守らないかを選ぶ自由はなく、道徳を無視する者は自動的に共同体から排除される。道徳はしばしば個人を外側から抑圧するが、同時にそれは共同体の成員の無意識のうちの総意を反映してもいる。
 つまり道徳と倫理は似て非なるものだ。以上のように単語の使い分けにこだわるなら、定型のフレーム(とそれを入れ子状に飲み込む連作、歌集、歌人という単位)を道徳的な枠組みとして絶対視するのが秀歌的価値観の態度ということになる。フレームの内側にとどまり続ける者は身に不自由をしいられるかわりに、フレームによってひとしく一定の価値を与えられそれを保証されるだろう。
 それに対し斉藤斎藤は、あくまで道徳の枠で折り返すことなくフレームをずんずん通過していく倫理的な作家性として見いだされることになる。その誰とも共有されない倫理性の徹底こそが連作的なものである。
 秀歌的価値観と連作的価値観の比較が、こうして道徳と倫理の対立の図式に読みかえられたとき、後者の推進は短歌の道徳性への批判というかたちをとり始めることになる。単に斉藤斎藤が倫理的な歌人であるといった話にとどまらず、秀歌的な価値観から身をそらせる者はおのずと倫理性を帯びてこずにはいない。そしてかれらはもれなく連作の短歌作者であるはずなのだ。


(初出『かばん』2007年6月号)

未定

2006-04-12 | 既発表
スキップをしてたとわかる足跡が残されて駅に線路はそそぐ


二階から裸足のすねが垂れているブランコ乗りの頓死のように


とっくりの首からバネがゆれている 鳴らない電話に出て歌いだす


東京タワーを映す鏡にあらわれて口紅を引きなおすくちびる


町が町を呑みこむかたちした線をそうとは知らず歩き続けた



(初出:ポプラビーチ「日々短歌」2006年2月)