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「介護もトライアスロンも楽しんで」

95歳の母を介護の日々ですが、合間に走って泳いで、バイクにも乗って年数回のトライアスロン大会参加を目標に楽しんでいます。

フグ料理店「玄品」

2021年12月27日 11時47分54秒 | 我家

最近お邪魔させていただく様になったe24さんのブログ「Going my way」ですが、12月20日の記事にとらふぐ専門店「玄品」横浜店さんでお食事を楽しまれたと書かれていました。このお店には数年前に友人と一緒に行ったことがあるのですが、この記事を読んでいたらあることを思い出したのです。

 

もう20年近く前になりますが、このお店の店舗が我が地元大和市の南林間駅傍にあるマンションの1階にオープンしたのです。駅から2分足らず、実家からも3分ほどの距離なのですが、開店当初は高級店がこんな田舎に出来て大丈夫?と思っていて入らずじまいで、また大通りには面しておらず入口はマンションの正面玄関横にある路地を入った先にあるので普段はこのお店の前を通ることはまずありません。なので存在自体をすっかり忘れていたのでした。数年前に横浜店さんに行った時も地元にあることなどすっかり忘れていたくらいです。

 

でe24さんのブログを読んでいたら「あれっ?ひょっとして地元にあるお店と一緒だよね?」と思い出し、ネットで調べて見たら正にそのお店だったのでした。何だなんだこんな近くに良いお店があったじゃないか、となって家族に話をしたところ行ってみたい、となりました。次男はまだフグを食べたことがないとのことでしたから尚更連れて行ってあげよう、となり早速予約をして昨晩家内と3人で行ってきたのです。

 

玄品南林間店

 

 

掘りごたつの席をお願いしていましたが、昨晩は既に予約でいっぱいで通されたのはテーブル席でした。でも隣は最後までずっと空いていましたからかえってこちらの席で良かったのでした。

 

ビールと付きだし(湯引き)

 

注文したのはコース料理「醍醐」e24さんと同じコースです。私も久し振りのフグ料理でしたからどのお料理もとてもとても美味しく楽しく味わって食べることが出来ました。

次男も初めての味に「うまい、うまい」と言って感激しておりました。

 

てっさ ふぐはどの料理も美味いですがてっさは格別。

 

 

唐揚げ

 

ビールを2杯飲んだ後に果肉キウイサワーを頼んでみました。果肉たっぷりでジュースですね。飲み過ぎますのでご注意。

 

てっちり コラーゲンたっぷりでしゃぶしゃぶで食べる部位もあってこれまた美味。

 

雑炊 出汁が利いてるのでとっても美味しいのだ。

 

 

デザートのアイス

 

 

久し振りにのんびり家族で会話を楽しんだ夜でした。毎日の両親の食事の準備や家事雑用、介助・介護でストレスを感じる日々ですが、昨夜はとても良い息抜きとなりました。e24さん、お蔭さまでとても楽しい時間を過ごすことができました。自宅近所で、また家族で楽しめたこと、そのきっかけを下さりありがとうございました。感謝です。

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早起きは三文の徳

2021年08月19日 16時17分00秒 | 我家
夜中2時にトイレで目が醒めました。起床には2時間ほど早いのですが念のためスマホで雨雲情報を見ました。すると4時半ごろには雨が降ってくるとのこと。これでは朝ランはできません。残念ですが今日は昼間走ることにして朝ランは中止にしました。
 
その後3時過ぎには窓に雨が当たる音が聞こえてきました。早めに降ってきたな、と思い起床は5時半ごろで良いかな、なんぞと考えていたのです。そして朝ランをするなら走り出す時間の4時半になってまた目が醒めました。相変わらず雨音がしていました。その後は目が醒めてしまったのでスマホを見ながら時間の経つのを待っていたのですが、5時になると何か外が明るくなってきたなと思い、窓を開けると東の空が朝焼けだったんです。雨はもう降っていませんでした。丁度日の出の時間です。
 
 
 
 
家内も起き出してポストの新聞を取りに外へ出ていました。すると家内からラインに連絡が。
「虹が綺麗だよ」
 
私も外へ出てみると西の空、少し前まで雨を降らせていた雨雲の下に綺麗な虹です。そしてその上にももう一つ薄っすらでしたが二重の虹まで見えました。スマホのカメラでは綺麗に撮れていませんが、実物はとっても綺麗でした。この写真は5時12分に撮ったものです。
 
 
 
今朝は朝ランこそ出来ませんでしたが、早起きしているとたまには良いことがあるのですね。
 
 
 
さて、今日は母が髪を切りたいと言ってきたので午前中にイトーヨーカ堂に入っているQBハウスという床屋さんに連れて行き髪切りの付き添いでした。そして帰りがけには食品売り場で昼食と夕食の食材を買いました。たまにはスーパーで買い物をしてもらうのも母には良い刺激になるし気分転換にもります。もっと母を連れ出すことをした方が良いのですが、自分のしたいことが優先になっています。反省しないといけませんね。
 
そして母が髪を切ったので、ついでに午後から髪染めをしてあげました。91歳になっているのでもう白髪頭でも気にしなければ良いのに、と思うのですが本人は白髪頭は嫌なのです。楽しみはもうそれ程多くはないので本人の希望することは何でも叶えてあげられるならそうしてあげることが一番なんでしょう。
 
 
しかしそんなことをしていたら何だかトレーニングをする気分ではなくなってしまいました。それに午後は気温が30度を超えて暑くなってます。なので今日はもう完全休養日にしてここ暫く雨のために出来なかった実家の芝刈りと庭木の剪定など行いました。暑い最中でしたが、やらないといけない作業でしたので片付いて良かったです。
 
 
 
 
緑のネット内は小さな畑を作ったのですが、野菜を作るところまで手が回りません。作りたいという気持ちはあるので今後に期待です。
 
 
 
イトーヨーカ堂に行った時に食品売り場で目に付いて思わず買ってしまったものがありました。広島県の丸徳海苔さんの商品で海藻類加工品となっていますが、まだ開けていないので中身は良く分かりません。右がお好み焼き味で左が瀬戸内レモン味だそうです。
 
今晩友人とライン飲み会をするのでその時のつまみなんです。中身と味の感想などは明日のブログで。
 

 

 

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兄のこと

2021年06月08日 12時34分11秒 | 我家

6月4日に肺がんのため亡くなった兄ですが、今日近親者のみでの葬儀を終えることができました。

 

この兄との思い出はあまり良いことは残っていません。それほど仲の良い兄弟ではありませんでした。2歳の年の差だったのでお互いの結婚後ももっと交流があって良さそうなものなのですが、お互い気が合わなかったのだと思います。

 

いつまでも忘れられない記憶と言えばもう30年近く前のことになりますが、新橋の駅そばの雑居ビルの、何の看板も掲げていない小さな組事務所へ兄の借金を返しに私が一人で行ったことでしょうか。駅に着いてから電話をして場所を聞き、薄暗い階段を上がって行ったことを今でも鮮明に覚えています。部屋の中には机と椅子が2組ずつあったような記憶です。そしてチンピラの二人が居て支払いをし、兄が預けていた運転免許証を返してもらったのでした。

当時私は山手線で一駅隣の浜松町にある会社に勤めていたので仕事の合間に行ってきたのです。この時兄は自殺未遂を起こし一命を取り止め病院のベッドの上でした。

チンピラに「お前の兄さんはどうしようもないやつだが弟はまともな社会人なんだな。」って言われたことも今でもハッキリと覚えています。「あんたに言われても嬉しくもないわ。」と思いましたが、表情一つ変えずに返してもらった運転免許証をスーツのポケットに入れてそそくさと退散してきました。あんな空間に長居は無用です。

 

兄は小さい時からお金の使い方を知らないで育ってしまったのでしょう。母から毎月お小遣いをもらっていましたが、毎回それだけでは足りていなかった様でその都度母が足りない分を渡していたそうです。私は貰った分しか使っておらずこのことは後に成人してから聞いたのでした。

そして兄はその後も金銭にだらしがなく、趣味と言えばパチンコに明け暮れていました。結婚して親と同居生活をした兄夫婦ですが、兄の金銭感覚は破綻していて常に借金を抱えていたのです。年子の娘二人が出来ても家族を顧みることはなく一時は生活費を入れることもしていなかった様です。このため義姉が一生けん命働いて娘二人の学費を捻出していたのでした。

後から聞いた話では娘二人が小学生の時、兄は子供がトイレに行った隙にその子供の貯金箱を壊して中の小遣いまで持ち出していたとのこと。それ以来子供達はトイレに行く際には自分達の貯金箱を抱えてトイレに入っていたそうです。

 

その後も兄の素行は治まらず諸々あって家族4人で実家を離れ別の家に住んでいました。詳しい話は聞いていないのですが、借金の取り立て屋が家に来て子供達がたいそう怖い思いもしたそうです。そしてその後は兄が一人でアパート暮らしをする様にもなってしまいました。義姉はさっさと離婚してしまえば良かったのでしょうが、諸事情あって籍を抜くことはしていませんでした。

そして一昨年の6月に脳梗塞で倒れた時も市内のサラ金に借金が残っていてその返済をしてきたのも私です。

 

妻と娘二人がいる兄でしたが、私が両親の他に彼の面倒まで見なくてはならなかったのは兄家族がそれを拒んだからに他なりません。「そりゃそうですね。」と兄が脳梗塞で入院した当時私としても納得せざるを得なかったのでした。「こんな男を誰が面倒看てやるものか!」

引き取り手がない以上弟の私が面倒看るしかありません。なので何で俺が、と言う気持ちは捨てて面倒を看てきました。健康診断後の再検査で肺がんが見つかり昭和大学横浜市北部病院に入院した際も兄は抗がん剤と放射線治療をすれば直ぐに出てこれるぐらいにしか考えていなかった様です。ノー天気な兄でもありました。

その後肺に水が溜まり再入院し、ステージ4と宣告されたのでした。彼はその時どの様な気持ちで先生の話を聞いていたのでしょうか?自分の今まで歩んできた人生を振り返ったりはしなかったのでしょうか?

そして兄には人生の最終章が何でこうなったかという事を通院の際の往復の車の中で懇々と説教もしたのです。兄は毎回黙って聞いていましたが、心には何も響いていない様でした。義姉やその家族がどれ程の辛い思いをし続けてきたのか、その報いを今受けているのだとも伝えたのですが、彼は沈黙を守っていたのです。

 

私は好き好んで介護をしている訳ではないことは兄にハッキリ伝えました。誰も面倒を看てくれない状況の中、弟という立場上の義務感だけだと言うことを伝えてもあったのです。兄は心の中でどの様な葛藤があったのか私に言うこともなく、私もそれを聞きだす努力もしませんでした。

 

脳梗塞と肺がんという二つの重い疾病を患ってしまった兄に対して普通の感覚であればもう少し優しく接して当然なのでしょうが、私にそれは出来ませんでした。突き放してもいました。毎日の洗濯や食事の世話、排泄の処理、通院の付き添い、半身麻痺のために日常生活で出来ないことがとても多かったのでその都度の介助など必要なことは全てきちんと行ってきましたが、心の寄り添いと言う面での介助・介護は出来ませんでした。

 

ここまで書いてきて、生活環境のバックグラウンドをもっと詳しく説明しないと理解し得ない所が多々あると思いますが、諸事情によりそこらへんの事は省かせていただきました。

 

 

兄が肺がんで入院中に、兄が万一亡くなった時に葬儀に出るのかどうかを義姉とその子供達2人に聞いたことがありました。応えは揃ってそれも即答で「出ません。」と言う言葉でした。流石に私もビックリしましたが、それ程辛い思いと兄に対する大きな不満を抱えていたんだろうと実感させられたリアクションでした。

しかし実際に亡くなってみていざ葬儀となった時には、義姉が喪主を務めてくれることになり3人揃って参列してくれたのでした。

 

兄は最後まで私に心を開いてはくれませんでした。私も説教したり怒ったりばかりでしたから重い口が尚更開くことがなかったのでしょう。私の一方的な思いからの文章で、本人が反論ができないことは不公平なブログのページになりましたが、義姉が葬儀社に安置されている兄に線香をあげに行った日、彼女がお棺に入っている兄の顔を見るなり「何の苦労もなく安らかな顔で眠っている様ね。」とポツンと言った言葉が印象的でした。きっと兄は彼なりに自分の世界で落ち着いた平常心のままの最後だったのかも知れません。

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兄逝く

2021年06月05日 17時59分58秒 | 我家

先月28日(金)にホスピスに入居した兄ですが、その後容態が日ごとに悪化し、昨日昼過ぎに息を引き取りました。

 

 

 

昨日の朝、兄の携帯に電話をして食料補給のために消費したゼリーなどの量を確認しようと思っていたのですが、折り返しの電話がないので施設へ電話をして取り次いでもらったりしていました。もうその時は自分で携帯電話を操作する力もなくなっていたようで、看護師の方に携帯電話の操作をしてもらったそうです。

 

その時はほんの少しの会話ができて、私は10時半ごろに施設へ行きました。かなり苦し気な様子で痰が絡んで取れないとのことで看護師に吸引してもらったりもしていたのです。11時に担当の先生が来て診察をしていただき、その後先生より今日の夕方から痛み止めにモルヒネを使うことの説明と、「数日のことになるので面会したい人には来てもらって下さい。」との話もありました。そして施設の方からは「こんな時で申しわけないですが、そろそろ葬儀社のことも考えておいて下さい」との話もありました。その時はまだ数日の猶予があるものだと思い、一旦自宅に戻ったのです。

 

そして用事を片付けたり市内の葬儀社の情報をパソコンで見てA社に決めて状況を説明し、「その時にはよろしくお願いします。」と言って電話を切ったのです。そしてその直ぐ後に施設から電話が入りました。

 

「呼吸が何時止まってもおかしくないので至急来てください。そして面会の制限はなくなりましたので来れる方は一緒にどうぞ。」とのこと。

昼食を食べる時間もなくそのまま雨の中再び施設へ車を飛ばしました。父は認知症が進んでいるので事態を把握できていません。母は狭心症だったり、親族の葬儀中に何度か倒れたりして精神的に弱い人のため臨終の場にいることが出来ません。このため一人で施設へ。

 

1時過ぎには到着しましたが、その時には既に呼吸は止まっていました。看護師さんから「先程最後の一呼吸がありました。」とのことで死亡診断のために担当の先生が2時半過ぎにこちらに来るのでそれまで待っていて下さい、とのこと。

 

酸素吸入器は先生が来るまで外せないそうです。兄の口は少し開いた状態のままで、また目も少し薄目になっていました。顔を触っても手を握ってももう冷たくなっていました。胸に手を当てても心臓は動いていません。先週の金曜日に入居したばかりで、今週の月曜日には朝携帯電話で「サンドイッチが食べたいから買って持ってきてくれ。」と言っていた兄でしたが、4日後には帰らぬ人となりました。

 

抗がん剤と放射線治療の甲斐もなく他の臓器にも転移していてその後は坂道を転げる様に容態が悪化し、日一日と体力が削り取られていったのでしょう。兄はここまで良く頑張ったと思います。安らかに眠って欲しいと思い、両の瞼を閉じ、開いたままの口を閉じてもらうため、看護時さんの手も借りて頭を高くし顎を押さえて動かぬようにタオル2本で固定したりもしました。

 

2時半過ぎに先生が来る前には入居の際に持ち込んだ衣類や日用品、そしてTVにポータブルトイレなど全ての荷物を車に詰め込む作業も終えました。ここで数か月は最後の生活を送ると思っていたのにまさか1週間とは、といつまでも同じことが頭に浮かんできます。

 

そして先生が来られ死亡診断をしてくれました。午後2時45分永眠。

 

その後葬儀社へ電話。先方もあまりの急な話にビックリしていましたが、夕方4時に車を手配してくれるとのことでそれまでは施設の方が兄の身体を綺麗に拭いてくれたり髭を剃ってくれたりと身支度をしてくれ、その後は兄と二人だけで最後の別れの時間を過ごせました。

 

施設を離れる際にスタッフの方から「急なことでしたが、1週間前までご自宅で面倒を看てこれたと言うことですよ。」と労いの言葉を頂けたことが私にとってとても慰めになり嬉しい言葉でもありました。兄のことについては別の機会にまた改めて書くことになると思いますが、私なりにやれることはやり切ったと思っています。

因みに葬儀は後日身内だけで執り行うことになりました。

 

 

また昨日はこの施設でビックリな出来事もあったのです。死亡確認にこられた先生は午前中の先生とは別の方でしたが、驚いたことにこの先生私の心臓ペースメーカー植え込み手術をしてくださった私の主治医の先生だったんです。現在は3ヶ月毎に外来でお会いしているのですが、お互い顔を見てビックリして声を上げてしまいました。聞けば去年暮から従来の外来は週1回だけでその他の日は終末期医療の現場に転身したとのこと。奥様を癌で亡くされたそうでそんな経験からの転身なんだそうです。まさか兄の臨終の現場でお会いする様なことになるとは予想も出来ないことです。これも不思議な縁なんでしょうね。

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家族忘年会

2020年12月27日 19時18分00秒 | 我家
今日はアルバイトがお休みなのでしっかり走ろうと思っていましたが、長男夫婦が午前中から遊びに来ることになっていたのでした。ウッカリ忘れていました。

午前中は一緒に近所の食品スーパーに買い出しに行って、その後は自宅で次男も呼んでのランチ家族忘年会。

マスク会食は難しいですね。食べ終わってもマスクせずにそのままお喋りに花が咲いてしまいました。

午後は地元のイトーヨーカ堂へ寄ってその後は長男夫婦を車で送って行ったりで結局トレーニングの時間は取れませんでした。

その分楽しい家族忘年会が出来たことの方が幸せと言うことですね。




自宅の庭の黒鉄黐(くろがねもち)の実

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