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[韓国旅行/巨済] 巨済に残っている日本の史跡
こんにちは、ブルーボーイです。久しぶりに韓国巨済に関する情報をお伝えしていこうと思うんですが今回は、日本と少し関わりある巨済の歴史を見つけたのでご紹介したいと思います^^
東郷平八郎提督
巨済市長木面松真浦里の後方の山に日露戦争当時日本海軍司令官だった東郷平八郎の自筆を陰刻した日露戦争の戦勝前記念碑があります。
東郷平八郎提督は、日本史を輝かした100人の人物の中で8位に入る人物で日露戦争当時ロシアのバルチック艦隊を撃沈させ日本では軍神とされる英雄だが普段は、韓国の李舜臣将軍を尊敬していたといいます。
日露戦争戦勝記念碑
高さ 160cm、 幅60cmの花崗岩で作られたこの戦勝碑は、 1932年、松真浦に住んでいた日本人によって1905年日本軍がロシアのバルチック艦隊 37隻を釜山沖合で撃沈させたことを記念して立てられました。終戦後に韓国海軍司令部によって撤去され現在は、巨済市庁に保管されています。
吹島
巨済市沙等面倉湖里にある50坪余の規模の岩島で元々は、3000坪余になる人のいる島でしたが日本軍占領の時に住民を強制移住させた後、松真浦で吹島を目標に砲弾練習を実施した結果、面積が減ってしまったそうです。吹島には高さ4.5mの記念塔がありこれは、1905年にロシアと日本の海戦を回考するために立てられました。
吹島記念碑
1935年8月17日に鎭海海軍要港司令部が主導して釜山竹本組が製作しました。その内容は、1905年日露戦争でロシア東洋艦隊マカロフの艦隊 37隻と3千人の兵士を東郷平八郎の日本海軍が攻撃して全滅させ勝利したことを記録したもので正面には"吹島記念"、横には"海軍中将小林清三郎"、裏には "吹島回顧"と彫刻されていて現在に至るまで原型そのままで保存されています。ニュー巨済クルーズ海洋観光(株)で運営する美男クルーズに乗れば船上から吹島を見ることができます。
松真浦城跡
巨済市長木面松真浦里に1593年に日本軍たちが積んだお城で山城の周りは、420m、高さ3m、幅3.2mになります。城の中には元々樓閣があったが崩れてしまい瓦の破片が発見されました。規模から見てかなり大きい城だったと推測されています。
長門浦城跡
巨済市北の長木湾入口の丘の頂上にある長門浦城も松真浦城同様に日本軍が積んだお城で城の周り710m、城壁の高さ3.5mあります。城壁は、大部分が毀損され城郭の周辺には木と茂みが生い茂っていて確かな構造と姿は把握しにくいです。今は、やっと城壁の基壇部だけ残されており辺りには瓦のかけらがたくさん散らばっています。
只心島砲陣地・弾薬庫
巨済市一運面の只心島は、1930年代に日本軍がこの島の住民たちを強制的に追放して日本軍1個中隊(赤旗)を駐屯させ北東アジア戦争の戦略的要塞地にしました。砲陣地4箇所と弾薬庫3箇所、サーチライト保管所が原型そのままの形で残っています。只心島は、島全体が樹齢数百年超えるツバキの森になっており、奇岩絶壁と調和した美しい海が一つになった美しい島です。天気の良い日にはこの島から対馬も見えるそうです。
文禄の役当時最初の戦勝地及び最大の敗戦地
文禄の役当時、李舜臣将軍の出戦戦力は、30戦30勝に及びました。すべての戦いで100戦全勝を収め、その中で一番最初の戦勝地となったのがこの玉浦大捷址であり東郷平八郎司令官は、李舜臣を海の神と呼んだ。漆川梁海戦地は、元均が率いた戦いで最初の敗戦地であり最大の被害をこうむった場所として現在、60%の工程で2013年度に開放予定の公園を作っています。
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