愛の輝きとつぶやき

写真、アート(絵画、書、詩)日記

アムステル元市長の言葉(光芒)

2017-05-26 14:55:13 | 真実を知る

アムステル元市長の言葉(光芒)

 最近ビデオを観て、また新しい真実に触れました。

日本人は特に、直近の戦争の真実を知る必要があると思います。

これまでGHQやマスコミ等により洗脳、ねつ造がされてきています。

今こそ真実を知る時です。洗脳から目覚め、自身の力で歩み出す時がきています。

 

このビデオは、平成三年、日本傷痍軍人会代表団がオランダを訪問した時、

市長主催の親善パーティでのエドゥアルト・ヴァン・ティン(Eduard van Thijn)

アムステルダム市長(後の内務大臣)の歓迎挨拶を、憲兵少尉の

シベリア抑留経験者、溝口平二郎(平成9年3月14日逝去)が録画していたのを、

後に、(財)日本国防協会理事の浅井啓之氏が文章に起こし、

平成6(1994)年3月24日作成したのが、下記である。

 

https://youtu.be/Dx-BBg0AgP4?t=12

 

 

 

 


コットンとオーガニックコットン

2017-05-23 13:41:37 | 本物を見分ける目

「コットンとオーガニックコットン」

コットン(木綿)について、知ってるようで詳しく知らない身近な素材について

少し調べてみました。

 

http://lance3.net/chigai/100.jpg

 

 

オーガニックと無添加の違い

 

- 概要 -

オーガニックは主に有機農法や無農薬栽培のことを指す。無添加は、その字の通り防腐剤や着色剤といった添加物、自然界に存在しない合成化合物が加えられていないことをいう。

 

 

- 詳しい解説 -

オーガニック(organic)とは有機的な、生物の、器官の、無農薬の、という広範囲な意味を持つ英単語であるが、日本語でオーガニックという場合は主に有機農法や無農薬栽培のことを指す。
例えば、オーガニックコットンといえば、有機農法で栽培され、加工の際もいっさいの化学処理が行われていないコットンのことで、ベビー服などによく使われている。
2000年に改正された日本農林規格(JAS)によって、農産物やその加工品について有機?やオーガニック?と表記をする場合は、有機JASの審査に合格し、さらには有機JASマークを表示しなければならなくなった。

一方、無添加とは、その字の通り防腐剤や着色剤といった添加物、自然界に存在しない合成化合物が加えられていないことをいう。これらの合成物質の毒性や発がん性が憂慮する人が増えたことで、無添加の商品が作られるようになった。食品の他に、人工着色料や人口香料を使っていない無添加化粧品などがある。

 

 

 

赤ちゃんが使うオムツや、タンポンやナプキンのほとんどには
石油由来成分を使って加工した、漂白されたコットンが使用されているそうです。 

 

コットンの服ができるまでを簡単にアニメで紹介されています。
オーガニックコットンが良いわけも理解できます。

https://www.youtube.com/watch?v=quOLp87psDE

 

身近な素材、石鹸から歯磨き粉などまで漂白されていることをこれまで

甘くみていたなと思います。調べるほどに恐ろしいと感じます。

人間にも動物、自然にも害を与え続けていることに人間はもっと

意識を向け守らなければならないと思います。

 

 


「足るを知る」の意味

2017-05-16 11:42:28 | 今に生きる

前回に引き続き、馬渕睦夫氏の書籍より一部抜粋させて頂きます。

日本再発見その十四より

タイ国王が国民に呼びかけた「足るを知る」の意味

※「足るを知る」生活にもどろう

タイの国内がバーツ危機で混乱したとき、タイのプミポン国王が国民に

メッセージを発せられたのです。そのメッセージに、私は非常に感心させられました。

国王はこう国民に訴えられました。

「原点を忘れてはいないだろうか」と。

つまり、「タイは農業で発展してきた。だからタイは豊かな国なんだ。

ところがその足下を忘れて欧米の近代化の利点だけ、過剰消費だけを受け入れて

しまったがために、1997年からの混乱を招いたのであろう。

だから私たちは、その『足るを知る』生活というものに戻る必要があるのではないか」

__、プミポン国王はそういうことを強調されたのです。

タイの豊かさの根源であるタイの農業、特に稲作ですが、それをもう一度見直す

必要がある、そういうことを順々と諭されたのです。

私たちは、なかなか「足るを知る」生活というのはできません。しかし、

「足るを知る」生活を忘れると、極端に走ってしまう危険があるのです。

プミポン国王は敬虔な仏教徒であり、タイの国民は、9割5分ぐらいは仏教徒です。

一部イスラム教徒がいますが、ほとんどは仏教徒です。そういう人たちにこの

プミポン国王の言葉は響いたと思います。

国王は、〝中道〝の生活の重要性をおっしゃったのです。

「足るを知る」生活です。これは仏教の教えの基本です。

両極端を避ける。過剰な消費生活、大量消費文化ではなく、

また逆にストイックな生活でもない生き方です。

今の言い方で言えば、グローバリズムと伝統文化の中道の生活をするということです。

その両方を日々の生活態度にどう結びつけていけばよいかを考えよう、

そういう指摘であったと思います。

これはまさに世界が直面している問題です。

そういう意味で私は、プミポン国王が亡くなられたことは非常に残念に思います。

「中道の生活をする」「足るを知る生活をする」ということはむずかしいかもしれません。

この世の中は、あまりにも物質的な欲望が多すぎますからね。

しかし、私たちは日々の生活のなかで、少しでも中道というものを振り返ってみる

時間が必要であろうと思います。

一日のうちの数分でもいいから、そういう「足るを知る」生活というものに

思いを馳せてみるということが必要になってきているのではないでしょうか。

そういう日々のささやかな努力の積み重ねが、やがて大きくわが国を動かしていく

ことになるだろうと私は思っています。

 

(タイ国王のラーマ9世(プミポン国王)は、先般「2016年10月13日)亡くなられました。)

    …………………………………………………………………………………………

 

◎この項目には、他に タイの不景気とエリート階級の反応  と

「欧米流近代化」と「自国の伝統文化」の両立に成功した日本 があります。

 

 

 


「十七条憲法」に記された民主主義の思想

2017-05-11 17:35:39 | 今に生きる

「十七条憲法」に記された民主主義の思想

前回に続いて馬淵睦夫氏の書籍から抜粋しました。

抜粋1:

「十七条憲法」に記された民主主義の思想

日本には、古くから自由も民主主義もあります。それは『古事記』を読めば

わかります。

前著(『和の国・日本の民主主義』)で詳しく述べましたが、日本は世界で

最も古い民主主義国だと思います。日本は古来より「合議制の国」なのです。

高天原の神々も、すべて話し合って物事を決めていました。

民主主義、議会政治の元がここにあるわけです。これが日本の伝統的な

民主主義でなくてなんと言えばよいのでしょう。

高天原以来のこの精神が、十七条憲法に文字化されているのです。

十七条憲法の一条は「和を以て貴しと為し」です。

ちゃんと話し合えと言っているのです。

しかも最後の十七条にも

「必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)うべし」と書いてあります。

つまり、「話し合え」と言っているわけです。話し合えば物事はうまくいくと

言っているのです。だから日本は、世界のなかでも最も民主主義国であったと

言えると思います。

残念ながら、これまで私たちはそういうふうには教えられてきませんでした。

また、そういう発信もしてきませんでした。

しかし、前述したように、すでに日本は議会制民主主義の基礎を

遙か昔から持っていたわけです。

西洋こそ、私たちの価値観に沿うべきだと私は思います。

 

 

櫻田さんは「近代以降、日本の国家路線の基調は、福沢諭吉が『文明』と

呼んだものに連なることにあった。その対外政策上の具体的な表れが、

明治期における日英同盟であり、昭和中期以降の日米同盟であった」とも

書いています。

このような解釈をされているのです。非常に驚きました。

評論家の日下公人さんがよく言っておられますが、これは、「劣位戦」です。

つまり、最初から日本は下に立って対応しているわけです。

こういう対応の仕方を続けていけば、いつまでたっても日本は

真の独立ができません。精神的に独立していかないと、物理的にも

独立できるわけがないのです。

ですから、私たちが今やるべきは「優位戦」なのです。

 

 

私は、櫻田さんを直接存じ上げないので、この文章だけで判断しては

いけないのかもしれません。しかし、「明治以降の日本の国家路線の基調は、

福沢諭吉が『文明』と呼んだものに連なることにあった」という主張には

強い違和感を覚えます。

もしそうであったなら、とっくの昔に日本は植民地になっていたはずです。

なぜ植民地にならなかったのか。そこに明治の先達の苦労があったわけです。

彼らの文明を「そのまま」受け入れなかった、日本の伝統に合うかたちに

つくりかえて受け入れたからこそ、日本は植民地化されなかったのです。

日本という国柄を考える場合、このことが最も重要なことです。

日本は無制限に、無制約に西洋文明を受け入れたわけではありません。

これが日本の国体であり、日本の歴史の神髄なのです。

こういうことが子供たちに教えられていないということこそが大問題なのです。

それが日本人としてのアイデンティティを失う大きな原因になっている、

と私は思います。

 

抜粋2:

産経新聞の「正論」欄(2016年6月27日、29日)に掲載されたお二人の論文を

見ながらこのテーマについてお話したいと思います。

ひとつは評論家の宮家邦彦さんの論文、もうひとつは東洋学園大学教授の

櫻田淳さんの論文です。

お二人の論文に共通するのは、一言で言えば「日本はグローバリズムの方針を

貫くべきだ」ということです。そして、国際主義は理性だと言っています。

「「理性主義」が立派な態度だとするお二人には見落としているものがあります。

それは、理性主義は左翼思想であるということです。

グローバリズムというのもいわばアタマで考えたひとつの理性的な

イデオロギーに過ぎないのですから、これも左翼思想であるのは当然です。

つまり、このように「保守の人が左翼思想を擁護している」というのが、

今のわが国の言論界の状況なのです。

 

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馬淵睦夫氏は、理性的な発言をしている人には気をつけろ と言っておられます。

私たちは理性的側面と感情的な側面の両方を持っている存在です。

この2つのバランスをどうとるかが個人の生き方にかかわりますし、

日本国全体の問題でもあります。

 

 

 


「ものの道理」

2017-05-09 17:27:48 | 言葉と心

「ものの道理」

「ものの道理」について、馬渕睦夫氏(元駐ウクライナ大使)が最近発売された著書

のなかで、「舛添都知事の私的流用問題」の騒動に焦点をあてて「日本とは何か」

について下記のように述べておられます。

抜粋:

私は、この「ものの道理」というのが、私たち日本人を覆っている隠れた道徳律、

憲法のようなものだと思います。「憲法」という言い方は少し御幣がありそうですので、

「国体」と言い直しましょう。

そういう隠れた国体が今回も裏で働いていたように思います。

例えば、一流ホテル宿泊について質問を受けたときに、あのような答え方ではなく、

「都知事が泊まる場合には、どうしてもそうせざるを得ない事情があるのです」と

丁寧に話し、説明すればよかったのです。でも、あのときは最初から

「その質問はおかしい」という答え方でした。そういうことが積み重なっていくと、

後戻りがきかないところまで追い詰められてしまうのです。

道理に違反するということは、じつは「憲法九条違反」です。そう言うと、皆さんはすぐに

昭和憲法(日本国憲法)の九条を思い出されると思いますが、

私が九条と申し上げたのは、

聖徳太子の「十七条憲法」の九条のことです。

そこには何て書いてあるか。少しご説明しましょう。

「九に曰く、信(まこと)はこれ義の本(もと)なり」とあります。

「信(まこと)」、これは人の道の根本だと。そして次に、「事毎(ことごと)に信あれ」、

つまり、何事をなすにあたっても、真心をもってすべきであると書かれています。

これが、十七条憲法の九条です。

聖徳太子は、「何事をなすにあたっても、真心をもってすべきである」と

言っているのです。

これは、私たちの腑にストンと落ちる言い方ではないでしょうか。

私たちは毎日、真心をもって行動しているかどうかわかりません。しかし、

私たちは何かをするときには、真心を持ってやるべきだ、あるいはそうするのが

望ましいことだということをなんとなく感じているのだと思います。

結局、21世紀に生きる私たちも、じつは604年にできた十七条憲法の枠内で

生きているようなものだということをあらためて感じます。

 

十七条憲法には、他にも面白いことが書いてあります。

七条は「役人の品格」についてです。

「七に曰く、人各(おのおの)任あり」、つまり「ひとそれぞれに任務がある」という

ことです。

次に「掌る(つかさど)ること宜(よろ)しく濫(みだ)れざるべし」とあります。

わかりますね、職務に関しては乱脈にならないようにせよということです。

それから「剋(よ)く念(おも)いて聖(ひじり)と作(な)る」と続きます。

よく道理に心がけるならば聖者のようになるということです。

わが国においては、すでに7世紀の昔からこういうことが文章になって

残っているのです。

これは「十七条憲法」というかたちで出ましたが、じつはすっと何千年も昔から

わが国の道徳律であったのです。

『古事記』の時代、高天原の昔からあった、日本人を縛る(律する)、私たちの心にある

道徳律が確かにあった――。それを集大成したのが、

十七条憲法であったとも言えるのです。

そして、その精神は21世紀の今に至るまで生き続けています。

私たちも知らず識らずのうちに、この憲法の大枠のなかで生活をし、

仕事に精を出しているということではないかと思います。

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         「グローバリズムの終焉」「日本再発見」講座Ⅱ  著者: 馬淵睦夫まぶちむつお

          発行 kkベストセラーズ