愛の輝きとつぶやき

写真、アート(絵画、書、詩)日記

「人は自ら内在する神の光を閉ざしている」

2016-09-28 20:23:33 | 二元性から一元性へ

「人は自ら内在する神の光を閉ざしている」

ほとんどの人は、自分の存在がすべてと思っている自我意識は、

実は魂のほんの小さな部分だと言えます。

「魂が永遠不滅のものである」と人から教えてもらったり

本で読んだりしても、自分自身の体験に根差した十分な智慧が

伴っていなければ、エゴを主体とした自我意識が永遠不滅なのだと

勘違いしてしまうこともあります。

あるいは、自我意識は死んだら肉体と共に何も無くなると思っている

人も多く存在します。

悟りを開いた師が、人々を息子と呼んだり、ムスに息という漢字を

当てはめたのは、

「神の息吹(生命エネルギー)から創られた子」、つまり神が

この世界に送りこんだ分霊だからです。

だから大霊である神がこの宇宙を創造したように、

分霊である私たちも自我意識によって極度に制限されていますが、

大霊である神(創造神)の創造力を秘めているのです。


多くの人は、自らの内側の神が光を放っているのに、

目を閉ざして見ようとしません。

ヨハネの福音書第十四章十七節には次のように表現されています。

「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることが

できません。世はその方を見もせず、知りもしないからです」


古代インドの聖典「バガヴァッド・ギーター」の中では、

人を十個の穴の開いた陶器の入れ物に喩えています。

この入れ物の中には、神の光が輝いていますが、陶器ごと

分厚い布で覆われていて外側からは光の存在は全くわかりません。

布を取り除けば、十の穴から光が見え、さらに陶器を割ってしまえば、

一つの輝く光だけが残るという話です。

覆われた厚い布は、自我による執着を表わしています。

 

日光東照宮の神馬をつなぐ神厩舎に「見ざる・言わざる・聞かざる」

の三猿の有名な彫刻があります。

その八枚の図は、猿の一生という絵巻の形式を通して、

人が地球に生まれてからの、霊的に発達するまでの経過を

示唆しています。

ここに登場する三猿が目を隠し、口を隠し、耳を隠しているのは、

現象界に埋没し自我意識に阻まれて、実在の世界が見えない、

正しいことが言えない、聞こえない、ことを示しています。

また、この図には同時に、

「悪い物を見ない、言わない、聞かない」という霊的進化のための

心得も示しています。

これと同様な暗喩的表現は世界各地に見られます。

ただ観光に行って楽しむだけでもよいのですが、そこから何を

学ぶかの意識次第で進化の度合いが違ってきます。

 

自我意識の暗闇の中にいても、自分の内側を探求する意志があれば

必ず光が見えてきます。




「透明な心」

2016-09-25 18:30:10 | 今に生きる

「透明な心」

素の心の透明さは私たちの本質。

透明な心は、素直、清き、明るき心です。

素肌が健全でなければ、その上に何を塗りたくっても余計に

醜くなっていくばかり。

私たちはこれまで、余計な思考や思い込みという偏見を、

観念として身にまとってきました。

至福からは遠ざかるような思考を疑いもせず、延々と続けてきました。

どんなに自由、平和、幸福を追い求めても、

エゴからくる思考の視点や個人的な解釈をしても

至福から遠ざかるばかり。

私たちは様々なテクニックや技法や知識情報を収集しようと

奮闘してきました。

外の情報に縛られ、あれもこれも身につけても心は満たされない

のではないですか。

至福は、すぐそこにあるのにそれを感じる能力がマヒしている

のではないですか。

本来あった透明な心が濁っていることに気づけば、

すぐにそれをそぎ落とすことが賢明です。

全ての思考や信念を見つけて、そぎ落とすことにより、

そのあとに真の美が出てきます。真善美への感性が戻ってきます。

弥栄の心が出てきます。

そぎ落とすとは、心身の禊ぎ、浄化です。

人生の日常を空気のように透明な視点を持つことで

見えてくるものがあります。

人生の本質である愛が観えてくるのです。

至福への道が透けて観えてくるのです。

個人的な思考の観点から離れて、全体愛の観点から生きていくと

気持ちが軽くなり透明な心に近づいていることを感じます。

思考ではなく、感性で生きていく時代に入っています。

 

 

 

 

 

 

 

 


「人間は内在する神です」

2016-09-17 14:07:23 | 今に生きる

「人間は内在する神です」

すべての存在は、エネルギーの深い領域で密接に絡み合っています。

もしこの絡み合った実在の魂の領域における神を「何かわからないもの」

「何か自分とはかけ離れた偉大なもの」だと誤認してしまう時、

二元性に意識の焦点がある人は、神を被造物からはかけ離れた特別な

人格的存在として妄想してしまう傾向にあります。

 

物質界の言葉で、神の性質をそれぞれ神格化し、断片化して理解するという

ことは世界中の宗教で行われてきています。

もちろん神は無形であり有形でもあり、イエス大師や釈迦大師のように

キリスト意識を持った人格的存在が現象界に顕現することもあるわけですが、

どこまで神という定義を当てはめるかによって、各人の神の認識も変化すると

思います。

 

日本神話に出てくる天照大御神も霊的太陽を神格化したものです。

世界中の神々も、すべて大元の概念は一緒ですが、社会的背景や

言語的背景を反映して様々なバリエーションが出てきました。

神の定義を一般的には、「宇宙全体に遍満する最も精妙で完全、

真善美を備えた純粋意識であり、すべての至福・真理・智慧・光をもたらす源」

といわれています。

 

すべての波動領域を含む無限エネルギーである創造主から発せられた想念が、

波動の周波数を下げていくに従って、各波動領域において多種多様な世界を

形成します。最も周波数の低い二元性のこの物質界に至る過程において、

「陰(火)の性質」と「陽(水)の性質」という概念が生まれてきました。

創造主の周波数の無限に高い状態から発し、その振動数を変化させることで

火と水は表現されたものです。

火は神のエネルギーを縦方向にあらわす周波数に伝え、

水はそのエネルギーを横方向の各周波数に広げていきます。

火は穢れを焼き祓い、水はその焼かれた灰燼の穢れを流す役割を持ちます。

 

この陰陽の順序とバランスが保たれることで、この世界が安定し秩序立って

存在できることになります。

現在はそのバランスが大きく崩れ、地球的にも危機的状態になっています。

 

私たちは内在する神を預かった身体なのです。

その体をないがしろにして、暴飲暴食をし、様々なイジメをしています。

穢れたままの状態に気づいていません。

人間の身体は、人が高次の意識を取り戻すための大切な魂の乗り物なのです。

 

最近はたくさんの人が日本中の神社仏閣やパワースポット等を訪れます。

御賽銭を投げ入れ御願い事をしています。

投げ入れてはいけない池にも小銭があります。

踏み入れてはいけない山にも入り、磐や樹木に触り、パワーを貰ったといって

良かった、良かったといって喜んで帰って行きます。

 

間違った考えや方法がまかり通って、外の神や場所に救いや癒しを求めて

いる人が多いです。

私たち自身が内在する神のための生きた神社なのです。

私たち自身に神が内在しているのですから、その叡智と真理を学び

自らの体験を通して真のエネルギーと愛を理解していくことではないでしょうか。

 

 

 

 


「小さな悪の重さを知る」

2016-09-14 22:22:54 | 今に生きる

「小さな悪の重さを知る」

小さな悪=不正の積み重ねはバカにならない。

「小さな悪」はやめにくく、「ちょっとぐらいなら大丈夫」という感覚が

どんどん麻痺していく。やがて大きな悪に育っていく。

何年もそうしてきたがバレなかったという思い上がりは恐ろしい。

ここ数年は、領収書の偽造、不正使用等が明るみになってきた。

不正が明るみに出て、公の面前で誤っている姿をよく見る。

これまで親として、社会人として、常識人として生きて来た人間の仮面は、

自我が執着した醜い姿を晒している。

これから増々、個人も企業人も、隠してきた悪=不正が暴き出されていく

時代に入っている。

隠されているものが明るい陽の元に炙り出される。


積り積もった小さな悪は、やがて大きな悪として災いがもたらされる。

心の苦しみが浮彫りにされていく。

 

悪をあの世に持ち越さないためには、この世限りの修正がききますから、

どう償いをすればいいかは、自身の心が知っています。

 

だから、常に正しい考え方、正しい行い、正しい努力が大切で

身の丈に合った生活が大切です。




「真の瞑想とは!?」

2016-09-12 18:36:39 | 今に生きる

「真の瞑想とは!?」

釈尊は、原始仏典『ダンマパダ』の中で説明しています。

何事にも執着しないという、コノ世を離れた視点を持つご自分の心境を

説明しています。

この項で釈尊がはっきりと明言していることは、

「どんなに瞑想を極めてもムダ」としています。

瞑想をしようと座る時点で、すでに目的のための瞑想であり、

何らかの執着をすでに持っているといいます。

ましてや瞑想を指導すると称する先生に金銭を払い、わざわざ出向いて

座りに行く時点で、「瞑想のため」という執着にハマっています。

 

釈尊は自分の心の良心を汚している間は、何をしてもダメだと言っています。

コノ世の喜怒哀楽といういろいろな欲望に満ちた中に住みながらも、

「嫌な」執着を持たないことが大切だということです。

 

真の瞑想とは、自分の日常生活の中にあるということです。

日々の生活の中で、一生懸命目の前の仕事をしている「最中」が、

すでに瞑想状態ということです。

そのために道元さんも、座禅の時間以上に日常生活の「作務」を重視した

伝統があります。

神道では、中今(なかいま)と言う、永遠に継続する中の「今」しか見ないという

示唆があります。

瞑想などしなくても、大自然と共にある日々の感謝を捧げる「行為」を

継続する中で、究極の悟りを得るわけです。

 

日常の生活行為の中で自分が教えてくれるのですから、

人里離れて一人住んで瞑想し悟ることは百パーセントないということです。

 

かくいう私も、興味心から過去に一回だけ金銭を払い瞑想なるものを

経験したことがありました。また、数冊の瞑想本を買い、読んで見て

実践しようとしましたが続かなかったことがありました。

著書ごとに瞑想のやり方が違っていたこともその理由でありましたが、

執着心がいっぱいだったことを後で知ることになりました。

今では日々の生活の喜怒哀楽の中で逃げずに思いっ切り努力して、

素直に、感謝と愛を持って生きていくことの大切さを実感している旅の途中です。