「人は自ら内在する神の光を閉ざしている」
ほとんどの人は、自分の存在がすべてと思っている自我意識は、
実は魂のほんの小さな部分だと言えます。
「魂が永遠不滅のものである」と人から教えてもらったり
本で読んだりしても、自分自身の体験に根差した十分な智慧が
伴っていなければ、エゴを主体とした自我意識が永遠不滅なのだと
勘違いしてしまうこともあります。
あるいは、自我意識は死んだら肉体と共に何も無くなると思っている
人も多く存在します。
悟りを開いた師が、人々を息子と呼んだり、ムスに息という漢字を
当てはめたのは、
「神の息吹(生命エネルギー)から創られた子」、つまり神が
この世界に送りこんだ分霊だからです。
だから大霊である神がこの宇宙を創造したように、
分霊である私たちも自我意識によって極度に制限されていますが、
大霊である神(創造神)の創造力を秘めているのです。
多くの人は、自らの内側の神が光を放っているのに、
目を閉ざして見ようとしません。
ヨハネの福音書第十四章十七節には次のように表現されています。
「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることが
できません。世はその方を見もせず、知りもしないからです」
古代インドの聖典「バガヴァッド・ギーター」の中では、
人を十個の穴の開いた陶器の入れ物に喩えています。
この入れ物の中には、神の光が輝いていますが、陶器ごと
分厚い布で覆われていて外側からは光の存在は全くわかりません。
布を取り除けば、十の穴から光が見え、さらに陶器を割ってしまえば、
一つの輝く光だけが残るという話です。
覆われた厚い布は、自我による執着を表わしています。
日光東照宮の神馬をつなぐ神厩舎に「見ざる・言わざる・聞かざる」
の三猿の有名な彫刻があります。
その八枚の図は、猿の一生という絵巻の形式を通して、
人が地球に生まれてからの、霊的に発達するまでの経過を
示唆しています。
ここに登場する三猿が目を隠し、口を隠し、耳を隠しているのは、
現象界に埋没し自我意識に阻まれて、実在の世界が見えない、
正しいことが言えない、聞こえない、ことを示しています。
また、この図には同時に、
「悪い物を見ない、言わない、聞かない」という霊的進化のための
心得も示しています。
これと同様な暗喩的表現は世界各地に見られます。
ただ観光に行って楽しむだけでもよいのですが、そこから何を
学ぶかの意識次第で進化の度合いが違ってきます。
自我意識の暗闇の中にいても、自分の内側を探求する意志があれば
必ず光が見えてきます。