愛の輝きとつぶやき

写真、アート(絵画、書、詩)日記

「明治維新とは何だったのか」

2018-05-24 21:18:49 | 日本の文化

「明治維新とは何だったのか」

正しい歴史を知りたくて、種々の本を読んでいますが、そのなかで

気になったタイトルと内容に魅かれました。私の忘備録のようなものとして、

一部前後しますが抜粋して順次ご紹介させて頂きます。

「美(うま)し国」日本の底力  著者:加瀬英明 馬淵睦夫 

  発行:ビジネス社  第1版発行 2017年10月1日

 

はじめに の途中より抜粋

   *  *  *

 私は、近代日本を作った江戸時代に魅せられてきた。日本の力は国民の徳性がきわめて高いことから発しているが、残念ながら明治に入ってから取り組んできた文明開化によって、私たちの心は蝕まれてきた。現在、いまだに文明開化が進んでいる。

私は「宗教は民芸品だ」と説いてきた。それぞれ民芸品を見れば、作った人々の性格が分かるから、宗教や神話は民族性を知るために、格好の手がかりとなる。

結局のところ、日本の力は「日本人らしさ」しかない。

日本は江戸時代の260余年にわたって鎖国を行ったために、国民が外の世界と往き交うことがなかったことから、きわめて独特な文化を培うようになった。キリスト教やイスラム教が、外へ向かって拡がろうとする力によって駆られてきたのと違って、神道は内に籠る信仰であるから、鎖国に適っていた。

ところが、外界と接触する機会がなかったために、日本と外国を比較することができなかった。日本国民は自分の姿を映して見る鏡を、持っていなかった人に似ていた。

私たちは外国の社会や文化と較べることによって、自国について学ぶことができる。

外国を知らなければ、自国の魅力に気付くことができない。

馬淵大使は、世界諸国の文化と歴史に、通暁されている。まさに、日本外交界の至宝だ。

今回の対談は、DHCテレビで行われた。私にとって、新しい知識と見方を学び、いっそう明徹な眼をもって日本と世界を眺め、明日へ向かって活力を増すことができた。

本書を読者にお届けするにあたって、ビジネス社に感謝したい。 

        平成二九年八月               加瀬英明  

 

 

第五章 明治維新150年目の岐路に立つ日本

 

明治維新とは何だったのか

加瀬 前の章でも触れましたが、150年目の節目を迎える明治維新とは何だったのか。

これを考えることが明日の日本を考える大きなヒントになると思います。

そもそも明治維新は、『御一新』(ごいっしん)と呼ばれました。繰り返しになりますが、僕は基本的に明治維新などなかったほうが良かったと思う派です。これは西洋の、言ってみれば泥棒国家群が日本に押し寄せてきたので、日本の独立を守るために」どうしてもやらざるを得なかった出来事にすぎません。

2016年に伊勢志摩で行われた先進7か国サミット、通称G7。あれが初めて日本で行われたのは1976年、大平正芳内閣時代で、外務大臣は園田直さんでした。僕は園田外相の顧問をやっていて、赤坂の迎賓館で大平総理が真ん中に座り、他の首脳が並んで記念撮影するのを脇から見ていました。そのとき「ああ、日本というのは偉い国だ。有色人種の中で日本だけが、先進7カ国の仲間入りをしている」と思ったと同時に、ハッと思わされたことがあるんです。

前章でも述べたように、明治維新は日本の政治的な独立を守るため、次いで経済的な独立を守るため、そして、三つ目の目的が文化的な独立を守るために行わざるを得なかったわけです。

ところが、結局のところ、日本だけが先進国の仲間入りをできたのは、物真似がうまかったからにすぎないのではと思ったのです。それで突然、みじめな気分になったことを覚えています。

明治維新により、いわゆる「文明開化」を迎えたとされていますが、実はそれ以前の日本の文明・文化というのも、とても素晴らしいものだったのです。島崎藤村の『夜明け前』という有名な小説で、明治以前の時代は暗くて、明治以降は明るい時代になったと描かれていますが、実はそうではありません。

ところが「文明開花」という名称からも、いかにも日本史上初めて明るい世の中がやってきたとでもいうような、おかしなイメージが定着してしまったのです。

そこでここでは、明治維新というのは一体何だったのか、そして150年間、我々は何をやってきたのか、ということを考えたいと思います。

 

馬渕 私が思いましたのは、まだ150年しか経っていないのかということです。確かに先生が独得の皮肉を込めておっしゃったように、猿真似が上手いということは確かにそうでしょう。

然しながら、日本は表向きは文明開花といって西洋に従ったようなふりをして、実はした。ですが、そういう状況にある我々が今の世に感じていることと、明治の人たちが感じたこととは、どこか似ているんじゃないかと思うですね。

 

 

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これからは地球維新の時代に入っているといわれ、明治維新の比ではないと聞かされていました。

一般的な明治維新のことは知っていましたが、数々の書籍や映画等の断片的な物語のようで、実はよく分かっていないのではと思います。

文明開化の写真や絵画に出てくる、鹿鳴館で洋風な衣装で踊っている図は何と滑稽な姿だと以前から感じていました。今と同じ過渡期だったのでしょうか。

 


        鹿鳴館

 Rokumeikan.jpg

情報
完成 1883年7月7日
閉館 1940年
収容人員 2,000人
客席数 1階(食堂・談話室・書籍室)2階(舞踏室)
設備 バービリヤード
用途 外交舞踏会
運営 宮内省・宗秩寮・内匠寮(明治23年 - )
所在地

東京府麹町区山下町薩摩藩邸跡地

(現・東京都千代田区内幸町1-1[1])
位置 北緯35度40分19秒


 鹿鳴館における舞踏会を描いた浮世絵

 

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[フリー画] 井上安治 「鹿鳴館」

 


鎌倉八幡宮へ

2018-04-11 17:43:14 | 日本の文化

鎌倉八幡宮へ行ってきました。

参拝がメインでしたが、神苑ぼたん庭園へも行ってきました。

そして、明治天皇ゆかりの地が整備されていることを初めて知りました。

鎌倉はあまりに歴史が濃厚なので、一般的なことしか知ろうとしません

でしたが、ちょっと勉強になりました。

今日は強風の中でしたが良い日でした。

 

 

◎大イチョウも、小イチョウも頑張って新芽を出していました。



      

  


神苑ぼたん園 別の世界へ来たようでした。


       





明治天皇ゆかりの地が整備 されていました。

拝殿横にあります

       


そこで、調べてみました。

 

明治天皇ゆかりの地を整備 八幡宮と市民団体共同で

文化

大臣山の山上にある石碑(左)と記念式典の様子(提供:鎌倉明治会)
大臣山の山上にある石碑(左)と記念式典の様子(提供:鎌倉明治会)
 1873年、陸軍の野外演習が鎌倉で行われ、明治天皇が鶴岡八幡宮の裏山・大臣山からその様子を視察した。同山上には1928年、記念の石碑が建てられたが周辺整備は行き届いておらず、この史実を知る人は少ない。そこで同宮と市民団体がこのほど、共同で手すりや階段などを整備した。関係者は「後世に歴史を伝えていきたい」と話す。

 大臣山は1873年4月15日、明治天皇が初めて陸軍野外演習を視察した場所で、現在は鶴岡八幡宮(吉田茂穗宮司)が管理している。演習は大雨が降るなか行われ、明治天皇はその後、同宮を参拝したとされる。

 山上にはそれを記念した「明治天皇閲兵の処」と書かれた石碑が1928年11月、鶴岡八幡宮奉賛会や帝国在郷軍人会鎌倉町分会、同鎌倉郡連合分会によって設置された。

 しかし、その周辺や山道は手入れが行き届いておらず、史実も埋もれようとしていた。

創立50年を記念

 そこで、同宮と共同で石碑周辺の整備を行ったのが1965年に設立され、今年50周年を迎えた市民団体「鎌倉明治会」だ。

 同会は記念事業として山道に手すりや階段などを設置したほか、入口には参拝者用に、歴史や同団体の説明などが記された案内板を立てた。

 山上への道が急なため、一般公開はされていないものの、関係者は「日本で初めての天覧演習が鎌倉で行われた事実や明治の歴史が埋もれないよう、これからも後世に語り継いでいきたい」と話した。
 
 
 
 
明治天皇鎌倉御野立所(鶴岡八幡宮)
軍事遺物

明治6年4月15日に我国初めての陸軍攻防演習が鎌倉で行われた。

明治天皇は4月14日に鎌倉に行幸し、鶴岡八幡宮裏の大臣山から閲兵したが、

この事績を記した記念碑。
山頂には「明治天皇閲兵之處」の碑、山頂へ続く階段脇には

「明治天皇鎌倉御野立所」の碑、その傍には由来碑が建てらている。
所在:鶴岡八幡宮(鎌倉市)


本殿の左手、山頂に続く階段脇に設置された碑。

階段から山頂までは神域のため立ち入り禁止であり、

この碑にも近づくことはできない。

 

        

 

 

 

 

 

 

 

 
 

鎌倉手帳(寺社散策)より


            ~武門の神~ 

 鶴岡八幡宮は、鎌倉幕府滅亡後も「武門の神」として足利氏、後北条氏、

豊臣氏、徳川氏に崇敬された。

 越後の虎と呼ばれた長尾景虎(上杉謙信)は、1561年(永禄4年)、関東管領上杉憲政(山内上杉家)から上杉の家督と関東管領職を相続し、鶴岡八幡宮で拝賀式を行っている。

上杉謙信
     上杉謙信

 

 

 


神宮の博物館【神宮徴古館】

2018-01-04 14:39:28 | 日本の文化

神宮の博物館【神宮徴古館】

伊勢神宮の博物館へいってきました。平成29年12月20日、神宮各々ご参拝のあと、時間がゆったりあったので行ってきました。もちろん「倭姫宮」へ御参拝のあと道を隔てた、神宮博物館も空いていました。神宮美術館→神宮農業館→神宮徴古館→中央広場、いこいの広場の順に散策しました。

とくに神宮徴古館(じんぐうちょうこかん)の建物と展示物には心を奪われました。日本の古い歴史が連綿と継承されていること、日本人の技などの伝統を真のあたりにしました。日本とは、日本人とは…といろいろ思いが廻りました。

もっと早くくれば良かった。

 

神宮徴古館・神宮農業館について

伊勢の神宮では年間1500回を越えるお祭りが行われています。神宮徴古館では、
神宮のお祭りに関する資料や御装束神宝、農業館では、自給自足の伝統を守る神饌や農林水産関係の資料を展示。
通常の参拝だけではうかがい知ることのできない神宮の精神文化を体感していただけます。 

 

【神宮徴古館】・・・式年遷宮で撤下された神宮の御神宝装束をはじめ、日本最高の技術で奉製された美術工芸品や国重要文化財の考古、歴史資料などを展示する総合博物館。ルネッサンス様式を取り入れた歴史博物館、レンガ造二階建。国の登録有形文化財。

【神宮農業館】・・・「自然の産物がいかに役立つか」をテーマにした日本最古の産業博物館。設計者片山東熊による徴古館、農業館の建物は平成10年に国の登録有形文化財に。      

 

遷宮後に撤下された御装束神宝は、かつては埋納または焼納されていましたが、現在では技術伝承のために保存し、式年遷宮の意義を紹介するためにその一部を公開しています。

※御装束神宝は収蔵品ではないため、展示風景のみ掲載しております。

 

         

 

 

 

博物館一体は、倭姫文化の森ー倉田山逍遥ーと呼ばれ、眩しい梢の光、苑内の多彩な植栽が楽しめます。

 

 

 

 

 

木々もこれから新年を迎えるにあたって、引き締まった輝きに満ちて観えました。

写真も以前よりは沢山撮りたいと思わなくなりました。

その場の空気、風、思い、感覚を大切にしたいと思っています。


 

 

 


「立春」

2017-02-03 20:20:43 | 日本の文化

「立春」

初春 旧暦正月節気 新暦2月4日頃

「立春」は二十四節気の春の初めです。

旧暦の太陰暦では一月・二月・三月、二十四節気(旧暦の太陽暦)では

「立春」から「立夏」の前日までの約90日が「春」です。

春とはいえ、実際の気候ではこの日あたりが一年で一番気温の低い時期です。

なぜ厳寒の日が春のスタートになるのでしょうか?

それは、古代中国の陰陽五行思想に「陽極まって陰に転じ、陰極まって陽に

転ず」という考え方があり、「寒さ(陰)も極まると暖かさ(陽)に転じる」とされ

たためです。

旧暦でひと月の始まりを、真っ暗な闇夜の新月の日にしたのと同じ発想で、

これから満ちてゆく日を始まりとしたのでしょう。

立春の早朝、禅寺(でんでら)や檀家(だんか)では厄除けのために

家の入口に「立春大吉」と書いた紙を貼る習慣があるそうです。

この文字は、縦書きすると表裏・左右対称になることから、

出入口を探す魔物の混乱を誘い、侵入を防ぐ効果があると言い伝えられて

います。「今年一年を良い年にする」という思いを込めて、筆をとる。

その幸せを願う行動こそが、「大吉」を招くことを昔の人は知っていたのかも

しれません。

今年の立春から、「立春大吉」を手書きしてみませんか?

 

   関東の出雲さん、出雲大社相模分祠でのみ正月期間限定頒布しております幸福の縁起物、立春大吉縁起      

    

         

 

 

 


2017年の干支は酉年(トリ年)

2017-01-01 15:12:42 | 日本の文化

 2017年の干支は酉年(トリ年)=丁酉(ひのと・とり)

 ・十干が「丁(ひのと)」 ・十二支が「酉(とり)」

  酉年は革命の年とも言われています。

 ・過去には歴史的な大火や大噴火も発生

「酉」はニワトリの事を指しています。

白い小国鶏 

伊勢神宮へ行くと、鶏が放し飼いされている光景をよく見かけます。

古来から鶏は「霊鶏」すなわち神の使いとされております。

 

 

伊藤若冲
伊藤若冲
若冲居士像 相国寺[1]
生誕 (1716-03-01) 1716年3月1日
日本の旗 日本山城国
死没 (1800-10-27) 1800年10月27日(満84歳没)
国籍 日本の旗 日本
著名な実績 花鳥画

 『梅樹神鶏図』-木版画-伊藤若冲

伊藤若冲『梅樹神鶏図』
 
 
『豆花双鶏図』-木版画掛け軸-伊藤若冲

『豆花双鶏図』

 

仙人掌群鶏図(西福寺)