三日坊主脱出!

シモネタあり、おやじギャクあり、自虐あり、たまに真面目な話あり

母について

2005年11月12日 19時05分10秒 | 両親
小さい頃、母と一緒にいた記憶があまりありません。
一生懸命思い出してみました。

(1) 日曜日だけは家族中が遅く起きました。
  妹達より一番に起きて、父の布団にもぐりこむのが好きでした。
  母の布団にもぐりこもうとしても、いつも狭くなると断られました。
  私は年齢の割に体が大きかったので、父の布団には私。
  母の布団には妹。そんな感じでした。
(2) 妹達と人形を使いながらプロレスごっこをしていました。
  母が、それを見ていて、もっと女の子らしくファッションショーを
  しなさいと言いました。
  みんな思い思いにハンカチやら折り紙やらで服を作りました。
  3回ファッションショーが開催されて、審査員は母です。
  姉妹が一人ずつ優勝して終わりました。
  母と遊んで楽しかった記憶は、これだけです。
(3) 難しいテストだったんだけど、一人だけ80点を取りました。
  クラス中が、すごーいってびっくりしてました。
  でも、母は、「どうして100点じゃないの?」と言いました。
  「難しいテストでね、みんな50点くらいだったんだよ」と言いました。
  「先生は100点取れると思うから、100点満点のテストをするんだ。
   他の人が何点だろうが100点でなければ仕方がないといいました。」
(4) 何度か、「お願いだから、もっと褒めてほしい」と泣いて頼みました。
  でも、母は、「あっそう。よーくできたわね。すっごいすっごい」
  「これでいいのね?こんなこと言われたくらいで満足なのね?」と
  言いました。
(5) 私が塾でトップの方になると、面接のとき、塾長が母に、
  適当なことを言いました。この塾の期待の星だ。そんなようなことです。
  そんなときだけは、すごく私に優しかったです。
  私だけを見てくれて、私だけに時間を取ってくれて、
  帰りには、ちょっと甘いものでも食べていかない?なんて言ってくれて、
  優しかったです。
(6) 話をしようとすると、「今、夕飯作りで忙しいんだから、後にして」
  と言われました。
  後で聞いてもらったことはありませんでした。
(7) 数学が得意だった私は、友達達に試験勉強を教えてほしいと頼まれました。
  私は、得意げになって放課後、みんなに教えてあげました。
  それを母に言うと、
  「他人のことなんて見てる余裕あるの?自分のことをしっかりしなさい」
  と言われました。
(8) あるスポーツが好きで、地域の大会で上位になりました。
  賞状をもらいました。特に、母が何かを言ったように覚えていません。
  むしろ、受験の邪魔だからやめるように言われてました。
(9) 高校に入ると、別のスポーツをしました。
  合宿も普段の活動もすべて受験の邪魔だからやめるように言われてました。
(10) クラブの先輩はクラブを続けながらも○○大学に入ったんだって
  と言うと、そんな三流に入ったところでどうするのと言われました。
(11) それでもそのスポーツを続けて、なんとかレギュラーになりました。
  夏休みは祖母の家に帰省することになっていた我が家ですが、
  夏休みの練習を休めばレギュラーをはずすと言われたので、
  必死に、練習に行かせてほしいことを頼みました。
  一人で家にいてもいいから練習させてほしいと頼みました。
  祖母が悲しむこと、親として一人では心配で置いていけないこと、
  悲しませたら可哀相だ・・・そう思って諦めました。
  次の大会では、ベンチ入りも許されませんでした。

自分で決めたことなんだから、両親に恨みはありません。
ただ、私が築いてきた世界で大きな犠牲があったって
ことはわかってほしかった。
母には、クラブなんて受験の邪魔という認識だけだったんだろうけど、
私は必死に練習して、苦労して、ようやく掴んだレギュラーだったんです。
私にも私の大事な世界があることをわかってもらいたかった。

他にも怒られた、叱られたという記憶はあるのですが、
遊んだ、楽しかったという記憶はファッションショーのみです。
たぶん、あれは妹が優遇されるわけでもなく、
一人一人が一度だけ母から優勝と言われたのが凄くうれしかったんだと思います。

誰かもご指摘の通り、母も受け入れようとはしませんでしたが、
私も物心ついたときには、母に受け入れてもらおうとは思わなくなっていました。

自分の恥ずかしい姿や哀れな姿を見せたくないのです。
それは、同情されたくないという気持ちと、
心配させたくないという気持ち両方です。

妹には、「お姉さん、我慢していた気持ち、言いたかった気持を、
ちゃんと母に話すべきだよ」と言われますが、
いまだに、言う決心はつきません。

まぁ、そんな急がなくてもいいですよね。

母のことは好きです。
あ、大事なことを忘れていました。
私が病気のときの母は、すごく優しかったです。
ずっと病気でいたいと思うくらいに。
だから、感謝もしているし、愛情も感じます。

なので、母に不満を言うのは躊躇してしまいます。

でも、子供の時代は、そんなこと構わなくていいんですよね。
病気のときは病気のとき、他のときは他のとき。
病気のときも、他のときも、もっと自分を見てほしかった。
それは子供の時代だったら、当然の要求でいいんですよね?

子供が3人もいて、家事に必死だった。
家事に手を抜きませんでしたからね。母は。
だから、子供の話なんてイチイチ聞いてあげる余裕なんてなかった。
だけど、子供の時代だったら、私の話を聞いてほしいと思うのは
仕方がないと思ってもいいんですよね?

子供の時の私は、子供として当然の要求を受け入れてもらえなかった。
子供の時の私は、子供の私自身が築いた世界を認めてもらえなかった。

でも、恨みはない、謝罪してもらいたいわけでもない。
なのに、それを認識することに何の意味があるんでしょ?
これ以降の、私の思考は止まったままです。

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5 コメント

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Unknown (Unknown)
2005-11-12 20:17:15
不思議なことに父親が酷い人でも、

どうにか傷つきながら子供は成長しようと

ふんばり、自分の生きる道や仕事を持とうとしている人が私の周りにはかなりいます。



 怖いことに母親が強弁なタイプの人を持

った人は、傷つき立ち直れず自分を傷つけ

大人になっても泣き続けなかなか

経済的にも自立できる人がいないように私の周りからは見えます。



 特に娘と母親の場合、かなり問題があるように見受けられます。



 私の姑は、相当な人ですが

不思議なことに息子とはうまくかわし合わせることができ、というか、主人がまったく反論をしません。無駄だからと苦笑いしています。

娘(義妹)とは、互いに気にかけながらも

互いに傷つけあい泥仕合になっていたようです。

専門家ではないのでよくわかりませんが

ここに何かがあるのは事実のようです。



 私の場合は母が怒ったことのない人で

父が非常に暴君でした。

何度、癇癪玉を投げつけられたことでしょう。

しかし、父親の存在はあまり「日常」でなく

母親がたまに膝枕して顔の産毛を剃ってくれたことがとても気持ちよかったとか、

乾したばかりのふかふかの布団に

こっそりと「乗ってもいいよ。」と廊下に出しっぱなしにしてくれて気分はハイジだったとか、そういう記憶ばかりが残っています。



 結局、母の涙も怒りの顔も見たことも泣く成長しました。あ・・・、中学生の時の反抗期にとても悲しそうな顔をしていたのは今でも申し訳なかったと記憶にのこっています。



 父の暴君も酷いものでしたし恐怖感も残っているのですが、もうそんなに重要なことでなくなっているのです。今では、たまに家族で集まると、酔ったふりして父を非難したりできるようになりました。



勿論、自分が選んだ道を父に反対されても、堂々と気持ちをいい、頭を下げ父を立てて、それに屈することない自分もできました。

 ぽ~さんとお母様、義妹と姑。まも~さんとお母様、そしてリアルでの友人とおばさん。娘と母とは結構大変な関係なのではないか?と思いました。

 だからなんなんだ?といわれそうですが(笑)せめて自分達の子供には味会わせたくない思いだと強く感じました。



 ちなみに私も家事はとても手抜きで酷いものです。どうすれば楽ができるか?以外に考えていません(笑)。

階段だけは、床を見て昇るものだから綺麗にしておこう。後は、いいや。。

洗うのが面倒なので食器も最低限の器しかそろません。

 コップも後3個!になったら買う。

(次々出されて洗うのが面倒だから)

そんな世界です。

 いかに楽して自分の時間を増やすか。

子供をくすぐる時間を増やすか(オイオイ)

そんな駄目主婦です。

 

 でも私はこのほうがニコニコしていられるのです。だって気楽なんだもん♪って感じで^^;

そして、夫も子供もそんな私のほうが

「おばかさんだ・・・。」といいながら楽なようです。

 ぽ~さんも充分がんばったのだし

ご主人と居心地のよい居場所を作って楽してください。

 

 きっと頭が悪いのでも、

精神がおかしいのでもないのだろうと思います。

納得がいかないと前に進めず、止まってしまうんだろうと思います。

 

 時間が解決してくれる。



 そんなこともあります。

私と父がそうだったように。



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Unknown (通り過ぎろ!?の女)
2005-11-12 20:21:39
時々、書き忘れますが↑は私です。失礼しました。それから度重なる誤字脱字もごめんなさい。急いで打つので酷いものです。雑な性格まるだしですね。
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Unknown (まも~)
2005-11-12 22:49:41
通り過ぎろ!?の女さんの言うことは当たってるかもしれない^^;私の周りにも、母親との確執がある人は多いけど、父親との確執がある人はあまりいないですね。

私も幼い頃減らず口を叩く子で、よく父に殴られたり外に放り出されたり箸を投げつけられたり、倉庫に閉じ込められたりして、一時期は「お父さんは怖い」と怯えていましたが、今は何故かなんとも思っていないし、父のことはとても尊敬しています。

ところが、母の些細な一言は今でも胸に突き刺さっています。十分優しく接してくれた、と感じているはずなのに、当時太っていた容姿のことや、決して明るい子ではなかった私を非難する言葉ばかり覚えているのです。

思春期の頃、突然わけもなく母を軽蔑し、憎くなったことがありました。

「エディプスコンプレックスってやつかしら・・・」と最近まで思ってたんですが「母親恐怖」(メトロフォビア)に近いかもしれないなあーと、ここを読んで思いました。↓

http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/kokoro/onna/news/20051104org00m100027000c.html

母親のようになりたくないという思いは最近まで強かったですね。夫に依存しきって何もできなくなるような女になりたくない、私は強くなるんだ、と思っていました。今はそこまで気負うこともなくなりましたが。

同性だからこそ許せない部分があるのでしょうね。父親と息子に同じことがあるのかどうかはわかりませんが。



>女性にとっての夫は、父親の代理ではなく、実は母親の代理である。

だからこそ「本当の私をわかってくれる人が欲しい。受け入れてくれる人が欲しい」とあんなにも強く乞うのかと合点がいきました。



心理学的な定義を持ち出して論議したいというわけではないのですが、正体のない不安の理由を知るには良いかなと^^;

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Unknown (まも~)
2005-11-12 23:05:24
そして、ぽ~さんの「母親も一生懸命自分たちを育ててくれたんだし、恨みをぶつけることは出来ない」という気持ちはよくわかる。

病気の時は優しい、いい成績をとったときは優しいというのは「条件付の愛」なんだよね。

それを覚えているから、もっと頑張ろう、頑張ろうとしたのかもしれないね。



ただ、妹さんたちにもお母さんのことを話してなかったのはビックリしました。

やっぱり、同じ母親から生まれて育てられた姉妹だから、一番心を許して話すことが出来るんじゃないかなあ。私も妹達と母のことを話し合うことで随分と救われました。

私も母に自分の気持ちを話そうとはもう思ってない。「私の子育ては間違ってなかった」と胸を張る母には「本当にそう思う?」と突っ込みたくなるけどw

過去を認識して、今まで押し殺していた「あの時私は本当は辛かったんだ」という感情を出すことで、スッキリするんじゃないかなー。

子供が泣き喚いたらスッキリするのと同じで。



前に書いた「距離をとる」というのは物理的な距離というより「心の距離」かな。

物理的に離れてしまえば自然と心の距離も遠くなるものだけど。

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Unknown (ぽ~☆)
2005-11-13 14:28:05
実は私はファザコンの部分があるんです。

父は母よりも全然ダメ人間だったのですが、

短気、酒、借金、精神的にも弱かったです。

しかし、父のことはなぜかずっと好きなんですよ。

だから、父のような男性を求めてるんだと思っていたのですが、

実は、父のような男性に母の役割をしてもらいたかったんですね・・。



変なプライドを捨てて、妹達と相談しあうようにします。

妹達はほんと大きくなっていました。



母は今でもトンチンカンなことを言ってます。

主人に「どうも季節の変わり目で不安定になってるようなの」

なんて電話してきたそうです。

季節の変わり目じゃないよ、

大人への変わり目なんだよ(笑
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