忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

猪木氏死去国会に響いた「元気ですか!」「心臓に悪い」と注意も

2022年10月03日 | 忘憂之物





いまから36年前、当時中学3年生だった私は、いまから配達せねばならない「ディリースポーツ」を電柱の陰に隠れながら広げていた。私は小学校5年生の終盤から新聞配達のアルバイトをしていたのだ。完全に違法だが事実だ。時効も成立している。昭和の緩い時代だ。許せ。

忘れもしない。その日は1986年6月18日水曜日。その前日となる17日、愛知県では「アントニオ猪木VSアンドレ・ザ・ジャイアント」の試合が行われていた。IWGPリーグ戦だ。しかし「ワールドプロレスリング」の放送は金曜日。当時はネットもない。どこも配信サービスもやらないから、スポーツ新聞の「速報」に頼るしかない。

心躍りながら紙面をめくると写真と共に「結果」があった。見出しが目に入った瞬間、私の体は電撃を浴びた。「シビれる」という感覚だと思う。おそらく数秒間、私はタイヤホイルに「産経新聞」とマジックで書かれた自転車にまたがったまま動けなかった。一生忘れないレベルの強烈な衝撃を受けていた。まるで「延髄斬り」を喰らったようだった。ちなみに喰らったことはない。

私がこの世に生を受ける5年前、我がオカンが日本武道館での「生・ビートルズ」のライブで失禁したという面白エピソードを思い出した。オカンは一緒に行った友達も全員が失禁したと話を盛っていたが、まさにいま、その我が子が電柱の横で15歳にもなって失禁しそうになっているのであった。たぶん、ちょっとは出ていた。ちなみに51歳になった今、いつも少し出ている。病院には行く。

ところで猪木は当時、不倫がバレて丸坊主にしていた。古舘が「戦う修行僧」とか「男のケジメ」とか実況していた頃だ。開き直って坊主頭にしてからの猪木はなぜか調子が良く、体のキレも抜群に見えた。その愛知県大会から2日後になるIWGPの決勝で、ディックマードック相手に何年かぶりのジャーマンスープレックスも繰り出してもいた。つまり、その頃の私が常に興奮状態であったことは言うまでもない。もうクラスメイトと「ジャーマンスープレックスの練習台」の区別もつかなくなっていた。言葉巧みに砂場などに誘い出してはジャーマンの精度を確認していた。所属していた柔道部では「明らかに柔道にない技」で部員が悲鳴を上げていた。一日中、プロレスのこと、猪木のことを考えている状態だった。

18日の水曜日。私は期待した。もしかすると、もしかするかもしれない。全プロレスラーで唯一、誰からもピンフォールもされず、ましてやギブアップして負けるなど想像もできなかった「大巨人」相手ながら、いまの猪木ならもしかすると、やってくれるかもしれない。

しかしながら、期待感は徐々に不安感へと変容する。「やれなかったら」という不安ではない。もし、本当に達成してしまったら、いったい、私はどうなってしまうのだろうと怖くなってもいたのだ。ストレスだ。ちょっとお腹も痛くなっていたかもしれない。

そもそもアンドレ・ザ・ジャイアントはギネスに載っていた。まさに伝説の大巨人だった。稼ぐ金は王貞治と長嶋茂雄を足しても届かない高給取りだ、と書いてあった。また今現在、長州力の「すべらない話」で語られる通り、アンドレの仰天エピソードは山盛りあった。昭和の「最強外人レスラー」の中でもトップだったと言って大過ない。身長2メートル23センチ、体重250キロは頭から離れない。事実、私は何度か「生アンドレ」を試合会場で観たことがあるが、特筆すべきは「へそ」だった。子供頭がすっぽり入るサイズだ。ナンか住んでいる可能性もある。

そんな昭和のレジェンド、世界の大巨人を相手に、我が青春のアントニオ猪木がやってくれるかもしれない。私は1983年のIWGP第1回決勝戦、蔵前国技館以来の眠れぬ夜を過ごしてもいた。当時の我が家は文化住宅の二間で「自分のお部屋」などないが、いつも私が陣取るスペース、ブラウン管テレビの真上にはアントニオ猪木のポスターが貼ってあった。

いや、ここは強調しておきたいのだが、それは巷に溢れるような、いわゆる「猪木ポスター」ではない。デビュー当時の山吹色のパンツを履いてポージングする猪木のポスターである。背景は控室だった。どうやって入手したのかは完全に失念したが、私はそのポスターを自宅以外で確認したことがない。ネットで検索してもなかった。もしかするとレアものかもしれない。ネットで売ったら何十万円とかになったどうしようと思い、家探ししようかと思ったが、もう、40年以上前のことだ。実家だった文化住宅も駐車場になった。

眠れぬ夜、私は消したテレビの前で正座して猪木の目を見て過ごしたものだ。朝になると近所を走った。それから筋トレをした。夜もやった。3つほど離れた駅の公園まで走って、筋トレをしてキックミットを蹴った。ツレのひとりが付き合ってくれていた。

パセリ、にんじん、セロリ、にんにく、にらを大量にみじん切りにする。それを納豆9パックと混ぜ合わせて炊飯器のご飯を全部食べる。「プロレス大全集」に書かれている「猪木の大好物」はオレンジと納豆だが、この「特製納豆どんぶり」は猪木が選手時代に10杯喰わされた、というものだ。私は10杯も喰えないから、代わりにゆで卵を5個、キャベツの千切りを半玉分ほどマヨネーズで喰うようにしていた。朝飯だ。オカンには手間かけて申し訳なかったが、とにかくでかくなりたかった。プロレスラーを目指していた。新日本プロレスに入門したかったのである。

いつしか大人になり、腹も出てきて、小難しいことを言うようになり、仕事が面白くなる。猪木はプロレスラーを引退して、政治家になったり、タレント活動したり、プロレス団体を運営したりしていた。私は「政治家・アントニオ猪木」「タレント・アントニオ猪木」にまったく興味がなかった。仕事の関係のイベントで「猪木来てますよ」と言われても、あ、そう、と行かなかった。パチスロ機になった際も展示会など、あちこち顔を出していた頃だが、私はとくに並んでビンタもらったり、写真撮ったりには興味を示さなかった。

「猪木信者」を自負する私を知る者は不思議だったと思うが、私自身も意外に感じていた。

たぶん、私が愛したのは「プロレスラー・アントニオ猪木」だった。

リアルの私を知る者は思い浮かぶと思うが、私のお気に入りは「赤のタオル」だ。いつも首に巻いている。自宅にはいろんな大きさのものが何本もある。認知症のおばあさんが描いた私の似顔絵には、真っ赤なクレヨンで首周りにタオルが描かれていた。一緒に仕事をした人も思い浮かぶだろうが、私の勝負ネクタイは「赤」だった。「燃える闘魂」の色だ。

いまのプロレスも頑張っている。面白くないわけでもない。ただ、猪木はいない。

アントニオ猪木というレスラーは単純に強い、というだけではない。筋肉を鍛える、ということだけでもない。技を磨く、というのも違う。カリスマとかスター性だけでもない。

およそすべての意味合いで「闘う」ということを表現していたように思う。それこそが魅力の根源あったのではないか、といま、思う。だから猪木は辛そうな顔も痛そうな顔も隠さなかった。見事な「やられっぷり」だった。外人レスラーにボディスラムで叩きつけられると背中を反らせて声も上げた。テレビ画面を通じてもダメージが伝わった。

不細工な勝ち方もあった。暴動が起こるレベルの無様もあった。心配になるほどの「受け」もあった。引退間際のベイダーによる反り投げ、投げっぱなしは、観ている私も心臓が止まるほどヒヤリとした。ベイダー、もう止めてくれ、加減してくれ、と心の中で懇願した。

「闘う」ということによる恐怖、痛み、危険。「猪木が壊される」と思うほど、誤魔化しの効かないリアルな「受け」。そしてキレイに勝つだけではない「勝利」の意味。まさに「プロレスの美学」だった。

私の青春におけるヒーローはアントニオ猪木だった。最後の最後まで難敵、難病と闘い続け、ダメージを隠さず、やはり、最後は「ギリギリの勝利」をみせてくれた。


ありがとう。アントニオ猪木。

私は一生、プロレスラー・アントニオ猪木のファンです。

心より、ご冥福を祈ります。




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