忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

エッフェル塔前にて笑顔でポーズ!自民党女性局のフランス研修にSNSで疑問や批判の声「水害…

2023年07月31日 | 随感随筆




実家などにはまだアルバムがあったりする。写真を撮ってカメラ屋にフイルムを渡し、金を払って現像してもらう。受け取りに行くと「できてますよ」と封筒をもらい、家族や友人なんかと一緒に一枚一枚、なんやかんや言いながら見て、アルバムに整理していくのが楽しかった。古いアルバムの中に、隠れて想い出がいっぱいなのは「H2O」でなくても知っていた。

「焼き回し」という言葉も使わなくなった。写真を見ながら、あ、これちょうだい、となれば「焼き回して」渡すこともあったわけだ。いまなら数秒、スマホで送れるが、少し前までは、そういうコミュニケーションがあった。思えば良い時代だった。

運動会や修学旅行、なんでもいいが、学校のイベントなどで「写真担当」の教師や生徒が写真を撮りまくる。それを現像したものが壁に貼り出されると、すべての写真に番号が振ってあって、自分がほしい写真があれば、番号を書いて「焼き回し」を依頼するというのも恒例だった。たしか一枚何十円とか、金もとられたと思う。親も来たりして、我が子が写り込んでいる写真を逃すまいと必死で探していたものだ。

例えば、校内の球技大会でラグビーをやる。すると、豪快に決勝トライを決めている私の写真などがあれば、全校の女子生徒はみんな欲しいに決まっている(自己愛性パーソナル障害)。しかしながら、その番号を堂々と焼き回してもらうのも乙女心からすれば恥ずかしい。だから友人の男子に依頼したりする「昭和・青春あるある」も微笑ましいものだった。ちなみになんだったか忘れたが、私の「餅つきの写真(大きく真ん中で写っていた)」を焼き回したのは我がオカンだけであった。そもそも私は決勝トライもしていなかった。少年はそうして現実を知るのである。

また、そういう写真の中には「面白写真」もあって、コケる瞬間とか、変顔になっているなども人気があった。あまりに面白すぎると、とくに交友がなくても「念のために」焼き回しを依頼する場合さえあった。あと、シンプルに絶景だったり、貴重な瞬間だったりするのも全員が焼き回してもらったはずだ。それは共有の「想い出」としてアルバムに残されるべきものだった。

そして進学したり、就職したり、成長しておっさんになっていく。幼少期を一緒に過ごしていない人らとの交友関係、人間関係が構築されていく。親しくなって、さらに親密になると古いアルバムを開くときがある。子供の頃の写真、誰だか忘れてしまった修学旅行時の変顔の写真などを見て笑うなどという、親密になっていなければ拷問に近い時間を共有する。いや、親密になっていても、写真の中学生を指さしながら「これはオモチャン、これはウッシン、これはヘープリ、こっちはエンピン。下唇に鉛筆の芯が刺さっているんだ。刺したのはキブだったかな。ここには写ってないけど」などと不可解な渾名の友人を紹介されても相手は困惑する他ないから気をつけたい。

最近のSNSなどでの投稿はちょっと違うのだろう。自分で「みてみてー」と聞こえてきそうな写真、画像がメインになる。もちろん、今も同じく「想い出に残す」という意味合いもある。アルバムに残すか、サーバーに残すかの差異だけだが、こうなってくると「面白写真」なども意図的に、作為的に残すこともする。プロフィール画像なるものなら、それはもう盛るか、ネタに走るか、キャラを立てるか、偽造するまでのモノがあふれる。

また、私の書斎には妻の写真が十数枚、ちゃんと大きくしたモノが貼ってある。旅行先やらなにやらで私が撮ったものだ。その膨大な数の「嫁の写真」からお気に入りの、つまり、可愛く取れているものを貼っているわけだが、結婚してそろそろ30年、未だに増え続けている。妻は私の配偶者であるが、私は妻のファンでもあるから、自室にポスターを貼る感覚だと思ってくれていい。異論は認めない。

しかし、だ。この写真らを私がSNSで投稿して「みてみてー」すれば、そこには少なからず賛同する声や「幸せそうで何より」みたいな毒にも薬にもならんコメントなどと共に、読むに堪えない罵詈雑言が書き込まれるだろう。何も知らない我妻は、何も知らない、誰かも知らない人らから、言われるはずもなかった悪口を叩かれるリスクがある。また、それを読んで憤った私が「我が愛する妻になんという悪罵。即、謝罪して削除しないなら法的措置だ」とやれば、どれほどのアレなのかは説明の必要もない。阿呆丸出しだ。


そういう観点から記事を読むと、自民党女性局の議員らが如何に客観性を失っているか、世間のことを知らないか、いま、そんなモノをSNSであげたら、どういう反応があるかも考えず、能天気にはしゃいでおいて、批判されたら「旅費は政党交付金と私費で出してます」くらいの中途半端な反論をすればどういうことになるのかも想像せずに叩かれている。女性局だけの中で回せばいいのに、日々の暮らしに必死な世間様に「みてみてー」するからこうなる。紛うこと無き自業自得だ。岸田政権のトドメになればいい。

普通の感覚なら、こういう事例を見たとき「なんでこんなことするのか」と不思議に思う。牛丼屋で紅しょうがを直接、自分の使用していた箸で喰ったおっさんらも「ウケると思った」などという知性の反対側にいた。これらはみな同じようなもので「面白いと思った」が動機であり、言い訳としては「拡散させる気はなかった」であった。しかしながら、世間と湯呑を舐めた小僧も含め、みんな痛い目に遭った。刑事罰を問われ多額の賠償金を請求されることにもなった。調子に乗った阿呆が叱られて、人生の半分くらい棒に振る様は哀れでもあるが、それは要するに「なんで、こうなる、と思わなかったのか」と呆れるからだ。

そして同時に「なぜ、その場にいた人は止めなかったのか」や「SNSにはあげるなよ」とアドバイスしてくれる人すらいなかった、という不遇な環境にも同情するからだ。つまり「一緒に古いアルバム」を開くレベルの交友関係がなかった。いまだけ、そのときだけ、その場だけ、の関係性しかなかった。だから阿呆な行為を世界に晒した。



「自己愛性パーソナル障害」における「自覚なき場合」の正論での説得は危険である。外部からの影響は受け付けない。「自分は特別」「自分は有能」「自分は貴重」で頭が埋まっている相手に客観論は対策にもならないし改善の見込みもない。他人なら「逆らわずに距離を取る」など専守防衛、こちらの自己防衛を優先させるべきである。また、症状の改善には「本人の自覚」と「改善する意思」が必須。これらがない場合は変化しないのも常識だ。

有権者、それも党員含む国民から「なにやってるんだ」と言われて謝罪するでもなし。開き直って「税金で旅行したわけじゃありません」で済むかどうかの判断もつかない。たぶん、落選しても自覚はない。せめて次、選ばないようにする他ない。





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