画竜点睛

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「ジェノサイド」(49)

2015-01-06 | 雑談
以上のことから、純粋知覚に関する理論にまず一つ目の修正を加えなければならないことにわたしたちは気付かされます。今までわたしたちは、あたかも知覚がイマージュの実体から切り離された(不純物を含まない純粋な)イマージュの一部であるかのように、つまり知覚とはわたしたちの身体に対する対象の(現実的ならぬ)可能的作用、あるいは対象に対するわたしたちの身体の(現実的ならぬ)可能的行動であり、対象全体からわたしたちと利害関係のある側面を分離しただけのものであるかのように議論を進めてきました。しかしわたしたちの身体は空間内に位置する数学的な点ではないということ、身体の可能的行動には現実的行動が混入し、浸透しているということ、言い換えれば感情的感覚を伴わない知覚は存在しないということ、これらのことを考慮に入れる必要があります。感情的感覚とは、身体の内部から外界の物体のイマージュに混入しているものです。だからこそ純粋なイマージュを手に入れるために、わたしたちは知覚から真っ先にそれを取り除かなければならなかったのです。ところが心理学者には知覚と感覚との性質の違いや機能の違い――前者は単に可能的作用しか含んでいないのに対して、後者は現実的作用を含んでいるという違い――が目に入らないために、彼らは両者の間に程度の差しか見出すことができません。彼らは、感覚の占める場所が(それが含んでいる不明瞭な努力のために)漠然としかわからないという事実から、すぐさまこれをひろがりのないものと決めつけ、感覚一般を単一の要素と看做して、それらを合成すれば外界のイマージュを得ることができる、という風に考えます。しかし実際には、感情的感覚は知覚を構成する素材ではありません。それは寧ろ知覚に混入する不純物なのです。

わたしたちはまさにこの点において、心理学者が一方で感覚をひろがりのないものと誤って解釈し、他方で知覚を感覚の寄せ集めと誤って解釈する理由を、その根源において捉えることができます。この誤解は後述するように、空間の役割やひろがり(延長)の本性に関する誤った考え方に基づく議論によって徐々に補強されます。ただしそれ以外にも、この誤解はいくつかの事実の間違った解釈に基づいているので、まずそちらから検討することにしましょう。

一つは、身体において感情的感覚が占める場所を特定するためには、文字通り学習が必要だということです。ピンの尖端を当てられた皮膚の一点を幼児が指で正確に示すことができるようになるには、或る程度の時間が必要です。この事実は間違いありません。しかしそこから結論できるのは、ピンが当たっている皮膚の痛みの印象を、腕や手の運動を制御する筋肉感覚の印象と関連付けるには試行錯誤が必要だということに限られます。わたしたちの内的感覚は、外的知覚と同じように異なった様々な種類に分かれています。それらの様々な種類の感覚は知覚の場合と同じように非連続的で、間隙によって隔てられており、学習によってその間隙が埋められていきます。しかしそれは、それぞれの種類の感覚が何らかの規定に基づいて直接的に特定の場所を占め、それに固有の場所のニュアンスを帯びている、ということを否定する根拠には決してなりません。もっとはっきり言えば、感情的感覚がそうした場所のニュアンスを最初から持っていないならば、永遠にそれを持つことはないでしょう。というのも学習によってできることと言えば、せいぜい、現在の感情的感覚に視覚的あるいは触覚的な可能的知覚の観念を結び付け、或る特定の感覚が、同じく特定の視覚的あるいは触覚的イマージュを喚起することができるようその結び付きを身体に覚えさせることくらいしかないからです。したがってこの感情的感覚そのもののうちに、これをそれ以外の同種の感情的感覚から区別し、視覚や聴覚の特定の可能的所与と結び付けることを可能ならしめる何かが存在する筈です。しかしそれは結局、感情的感覚は最初から或る空間的規定を有しているというのと変わらないのではないでしょうか。

もう一つは、手や足を(事故などで)失った人が、失った筈の手足があるかのように錯覚する(幻肢という)現象です(ただしこれについては別に検討する必要があるでしょう)。しかしこの事実から結論できるのは、一度学んだ記憶は残存するということ、また実生活においては、意識に直接与えられているものより記憶機能の与えるものの方がより有益であるがゆえに、後者が前者に取って代わる、ということ以外にはないのではないでしょうか。行動するためには、感情的感覚として経験されているものを視覚や触覚や筋肉感覚の可能的所与に翻訳することが必要不可欠です。一旦この翻訳が出来上がると、確かに原文は色褪せるかも知れませんが、まず原文が存在しなければ、そして感情的感覚が最初からそれ自身の力によって、それに固有の仕方で特定の場所に定着するということがなければ、翻訳がなされることも決してなかったでしょう。

しかし心理学者は、以上のような常識的な考え方を容易に受け入れようとはしません。彼らの考え方からすれば、知覚が知覚された事物のうちにあるためには事物が知覚することが必要であり、同様に、感覚が神経のうちにあるためには神経が感覚を持つことが必要です。ところが神経は明らかに感覚を持ちません。そこで彼らは、常識が感覚を捉えている場所からそれを引き剥がして遠ざけ、神経以上に感覚が大きく依存しているように見える脳へとそれを近づけます。こうして感覚は、彼らの論理の当然の帰結として脳に置かれることになります。しかしすぐにわかるように、感覚が生じるように見える場所にそれが存在しないとすれば、それ以外の場所にも存在する筈がありませんし、それが神経の中に存在しないとすれば、脳の中にも存在する筈がありません。何故なら(感覚が脳の中にしか存在しないとすれば)それが中枢から末梢に投影されることを説明するために何らかの力を想定することが必要になり、その力を多かれ少なかれ能動性を有する意識に付与しなければならなくなるからです。そういうわけで彼らは一旦脳の中枢に集約した感覚を、勢い今度は脳の外に、ということは空間の外に放逐せざるを得なくなります。こうして全くひろがりを持たない感覚という観念が生まれ、その対極にそうした感覚と何の関係も持たない幾何学的空間、感覚が投影されるための幾何学的空間が措定されます。そしてこのひろがりのない感覚が、どのようにしてひろがりを獲得するのかということや、ひろがりの中に場所を占めるために、その感覚は幾何学的空間の特定の点をどのようにして選ぶのかということを説明するための多大な努力が払われます。しかし彼らの仮説は、ひろがりのないものがどのようにしてひろがりを持つに至るのかということを明確に示すことができないだけでなく、感覚やひろがりや表象をいずれも全く説明不可能なものにしてしまいます。まず諸々の感情的状態について言えば、彼らの仮説ではその一つ一つが絶対的なものとして措定され、それらが意識の中で何故特定の瞬間に現れたり消えたりするのかをわたしたちは理解することができません。次に、感情的感覚から表象へどのように移行するのかということも理解不可能です。何故なら既に述べたように、単一でひろがりのない内的状態をいくら詮索しても、それが空間の特定の場所を選ばなければならない理由など見つかる筈もないからです。そして最後に表象そのものについて言えば、表象もまた絶対的なものとして措定されざるを得ないがゆえに、その起源も目的もわたしたちには知りようがないのです。

逆に表象そのものから出発するならば、すなわち知覚されるイマージュの総体から出発するならば、事の次第は自ずと明らかになります。わたしの知覚は、記憶から切り離された純粋な状態においては、わたしの身体から他の物体へと進むのではありません。それはまず諸々の物体の総体の中にあり、それから徐々に自己を限定して、わたしの身体を中心として採用するのです。この過程でわたしたちは、行動し、外界の作用を感受するという身体の持つ二重の能力、つまりあらゆるイマージュの中で特権的な位置を占めるこのイマージュ(身体)が持つ感覚・運動能力を培います。わたしの身体を知覚の中心に導くのは、まさにこうした身体の(感覚と運動の)経験に他なりません。実際、この(身体の)イマージュは常に表象の中心を占めており、そのため他のイマージュはすべてこのイマージュの周囲に、このイマージュの作用を受けやすい順に配列されます。さらに、他のイマージュに関してはわたしはその表面を知覚するに過ぎないのに対して、この(身体の)イマージュに関してはその内部を、わたしが感情的と呼ぶ感覚によって内側から感じ取っています。つまりイマージュ全体の中には、単に表面において知覚されるだけでなく、その深部において知覚される特別なイマージュ、感覚が占める場所であると同時に行動の源泉でもあるイマージュがあり、この特別なイマージュをわたしはわたしの宇宙の中心として採用し、わたしの人格の物質的基盤にしているのです。

わたしの人格と、わたしの人格が占めている諸々のイマージュとはどういう関係にあるのか、ということを明らかにするに先立って、これまで「純粋知覚」について素描してきた理論を、通常の心理学の分析と対比する形で手短にまとめて置きましょう。

説明をわかりやすくするために、先に例として取り上げた視覚をもう一度例にとって話を進めたいと思います。一般に心理学者が視覚を説明するに際しては、網膜の錐体や桿体が受容した刺激に対応する感覚的要素なるものがまず想定され、次いでそれらの感覚的要素によって視覚的知覚が再構成されます。しかし問題は、網膜は一つではなく二つあるということです。これが第一の問題です。一体どうすればそれぞれ別のものである筈の二つの感覚が融合して、わたしたちが空間内の一点と呼ぶものに対応するただ一つの知覚になることができるのか、この点を説明しなければなりません。

一歩譲って、この問題が解決されたとしましょう。心理学者の仮説では、感覚はひろがりのないものとされています。この感覚が、どのようにしてひろがりを獲得すると言うのでしょうか。ひろがりというものを、感覚を受け容れるために用意された枠組みと考えるにせよ、意識の中で融合することなく共存している感覚が単に同時に並置された結果と捉えるにせよ、いずれの場合においても、ひろがり以外の何か新しい要素や要因が導入されます。そしてこの新しい要素や要因についても、感覚がひろがりと結び付くプロセスについても、それぞれの感覚的要素がどのように空間内の特定の一点を選ぶのかということについても、何一つ説明することができないという事情に変わりはないのです。

この問題は棚上げして、実際に視覚的延長が構成されたとしましょう。ではこの視覚的延長は、触覚的延長とは一体どのように結び付くのでしょうか。視覚が空間内に捉えるものはすべて触覚によって確認することができます。それは、まさに対象が視覚と触覚の協力によって構成されたものだからである、とでも言うのでしょうか。あるいは知覚におけるこれら二つの感覚の一致は、知覚される対象が二つの感覚の共同作品であるという事実によって説明される、とでも言うのでしょうか。しかし性質という観点からは、視覚の感覚的要素と触覚との間に共通のものは何も見出すことができない筈です。何故なら両者は全く種類の異なるものだからです。したがって視覚的延長と触覚的延長との照応は、視覚的諸感覚の範疇と触覚的諸感覚の範疇との平行関係によって説明するしかありません。そうなると視覚的諸感覚や聴覚的諸感覚の他に、両者に共通で、それゆえどちらからも独立していなければならないもう一つ別の範疇を想定せざるを得なくなります。さらに言えば、この範疇はわたしたち個人の知覚からも独立しています。何故ならそれはすべての人に同じものとして現れるような世界、そこでは結果が原因によって決定され、すべての現象が法則に従っているような世界、すなわち物質的世界を形作っているからです。こうして心理学者は遂に、わたしたちから独立した客観的範疇、すなわちわたしたちの感覚と区別される物質的世界という仮説に導かれます。

このように検証を進めるにつれ、出発点では単純なものに過ぎなかった仮説が、際限なく増えていく説明不可能な所与で膨れ上がってしまいました。しかし説明不可能な所与が増えたからと言って、わたしたちにとって何か得るものがあったということになるでしょうか。わたしたちから独立した物質的世界という仮説は、感覚相互の不可思議な一致を理解するためには不可欠のものだとしても、この物質的世界についてわたしたちは何も知ることができません。というのも(この仮説においては)物質は飽くまで感覚相互の一致を説明するものに過ぎず、わたしたちが物質に認めるいかなる性質、いかなる感覚も物質に付与するわけにはいかないからです。それゆえ物質は、わたしたちが知っている通りのものでもなければ、わたしたちが知り得るものでもなく、またわたしたちが想像しているようなものでもなければ、想像し得るものでもありません。それはどこまでも神秘的な存在にとどまります。

他方、この仮説ではわたしたち自身の本性、わたしたちの人格の役割と目的もまた同じように謎に包まれたままです。ひろがりのない感覚的要素が空間の中に展開される、という説明だけでは、それがどこに起源を持ち、どのように生まれ、何の役に立つのかさっぱりわからないからです。それらの感覚はそれぞれ絶対的なものとして措定される他はなく、わたしたちにはその起源も目的も理解することができません。そしてわたしたちはめいめいが自らの精神と身体を区別しなければならないのだとすれば(下記参照)、身体についても、精神についても、両者の関係についても、当然のことながら何も知ることができないのです。
(ここは竹内訳と岡部訳では「区別しなければならないとしても」と訳されています。どちらに解釈するにしてもこの一文の意味はよくわかりません)

心理学の仮説が以上のようなものだとすると、わたしたちの仮説の核心はどこにあり、どの点でこの仮説と異なるのでしょうか。わたしたちが出発するのは感情的感覚からではありません。感情的感覚は、何故それが別のものではなく現に見られる通りのものであるのか説明することができないので、それについて議論しても仕方がないからです。わたしたちは感情的感覚から出発するのではなく、行動から出発します。行動とは事物に変化を生じさせる能力であり、意識によって確証される能力、身体のあらゆる機能がそこに集中しているように見える能力です。行動を出発点とすることによって、わたしたちは最初から一挙にひろがりを持つイマージュの総体の中に身を置き、その物質的世界の中に生命の特質である非決定性の中心を認めます。この中心から行動が放たれるためには、他のイマージュからの運動(刺激)あるいは影響が一方で集められ、他方で利用されなければなりません。生物はその最も単純な形態、すなわち等質的(未分化)な状態においても、栄養を摂取して自己自身を維持するのと併行して、この(他のイマージュからの運動あるいは影響を集め、利用するという)機能を既に果たしています。併行して行われるこの二重の働きは、生物の進化とともに二種類の器官に振り分けられます。一つは栄養摂取のための器官であり、これはもう一つの器官を維持する役目を果たします。もう一つは行動するための器官です。行動するための器官は単純なものでは、末梢から末梢へと張り渡された神経要素の連鎖をなしており、一方の端で外的印象を集めるとともに、他方の端で運動を行います。視覚的知覚の例に戻ると、錐体や桿体の役割は専ら刺激を受け取ることであり、そうして受け取られた刺激は実際の行動として発現するか、可能的行動として組織されます。いかなる知覚もそこから生じることはありませんし、神経組織のどこにも意識の中枢は存在しません。知覚は神経組織から生まれるのではなく、神経要素の連鎖やそれを維持する器官、ひいては生命一般を生み出したのと同じ原因から生まれます。知覚は、生物の行動能力、受け取った刺激に後続する運動あるいは行動の非決定性を表すものであり、その尺度となるものです。この非決定性は、既に述べたように、わたしたちの身体を取り巻くイマージュのそれ自身への反射、或いは寧ろ、イマージュの分割という形で現れます。他方、運動を受け取ったり、阻止したり、伝達したりする神経要素の連鎖は、まさにこの非決定性の基盤であると同時に、非決定の度合を表しています。わたしたちの知覚が細かな点に至るまでこれらの神経要素に従い、そのあらゆる変化を逐一表しているように見えるのはそのためです。したがってわたしたちの知覚は、純粋な状態では文字通り事物の一部をなしています。そして本来の意味での感覚はと言えば、それは意識の奥底から自然に湧き出し、勢力を失いながら空間に広がっていくといったものではなく、わたしたちが各自わたしの身体と呼んでいる特殊なイマージュが周辺のイマージュから影響を受けることによって、身体のうちに必然的に生じる変化のことなのです。

外的知覚に関するわたしたちの理論を図式的に要約すると、以上のようになります。これは純粋知覚理論と呼ぶことができるでしょう。この理論が正しいとすると、知覚におけるわたしたちの意識の役割は考え得る限りただ一つしかありません。それは、次々に生起する一連の瞬間的なヴィジョン、わたしたちに属していると言うより寧ろ事物に属している瞬間的なヴィジョンを、記憶の連続的な糸によって繋ぎ合わせることです。外的知覚においてわたしたちの意識がとりわけこうした役割を担っていることは、生物の定義そのものからもア・プリオリに推論することができます。何故なら生物の目的が、刺激を受け取り、これを予見不可能な反作用に変換することにあるのだとすれば、反作用の選択が出鱈目に行われる筈がなく、この選択は疑いもなく過去の経験に基づいて行われ、また刺激が反作用に変換されるに際しては、現在と類似した状況が残し得た記憶が参照される筈だからです。為される行為が不確定(自由)な行為ならぬ単なる気紛れな行為とならないためには、知覚されたイマージュの記憶が必要不可欠なのです。あるいはこう考えることもできるかも知れません。わたしたちが未来に働きかけるためには、それと等しく対応する過去への視野を持たなければなりません。行動という推進力によって、わたしたちは前方(未来)に推し進められると同時に後方に空隙が生まれ、そこに記憶(過去)が雪崩れ込んでくるのだ、と。それゆえ記憶機能とは、わたしたちの意志の非決定の、認識の領域における反響と言うことができるでしょう。――しかし記憶の働きは、こうした表面的な考察から想像されるよりもはるかに遠く、深いところにまで及んでいます。そういうわけで、ここでわたしたちは記憶機能を知覚に再統合し、それによってわたしたちの理論の行き過ぎた点を修正するとともに、意識と事物、身体と精神との接点をより正確に規定しなければなりません。

まず言えることは、記憶機能を認めるならば、つまり過去のイマージュが保存されることを認めるならば、それらのイマージュはわたしたちの現在の知覚に絶えず混入し、それに取って代わることさえある、ということです。何故ならわたしたちが過去のイマージュを保存するのは、ひとえにそれを(これからくる)現在(未来)に役立てるためだからです。過去のイマージュは現在の経験を過去の経験で絶えず補い、これを豊かにします。そして過去の経験は際限なく増大していくので、遂には現在の経験を覆い尽くし、呑み込むに至ります。そうして開花した外的知覚の土壌である直接的直観、言わば瞬間的な直観(純粋知覚)は、わたしたちの記憶機能がそれに付け加えるものに比べれば取るに足らないものに過ぎません。現在の知覚に類似した過去の直観の記憶は、直観そのものより有益であるがゆえに、言い換えると、直観の記憶はわたしたちの記憶の中で後続する一連の出来事すべてに結び付いており、わたしたちの進むべき道をよりよく照らし出してくれるがゆえに、直接的直観はこれに取って代わられます。つまり直接的直観は事実上――これについては後で論証しますが――単に記憶を呼び起こし、記憶を具現して活動的なものに、すなわち現実的なものにする役割を専ら果たしているのです。知覚と知覚される対象との一致は、事実上のものというより理論上のものであると述べた理由はここにあります。知覚とは事実上、想起のきっかけに過ぎないということ、わたしたちは実在性の度合いを、実際には有用性の度合いで測っているということ、そして最後に、実在そのものと真に一致している直接的直観を、現実の単なる記号にしてしまう方がわたしたちにとっては都合が良いということ、(知覚を理解するためには)これらの事情を念頭に置かなければなりません。ここでわたしたちは、知覚というものを、わたしたち自身の奥底から引き出されたひろがりのない感覚が外界に投影され、空間に展開されたものだと考える人々の誤りを発見します。完成された知覚が、わたしたち個人に属しているイマージュ、外在化された(つまり、思い出された)イマージュで満たされているという事実を彼らは難なく証明してみせます。ただその一方で彼らは、知覚には非人格的基盤があり、そこでは知覚と知覚される対象とが一致しているという理論的側面、そしてこの基盤は外界そのものであるという側面を見落としているのです。

心理学から形而上学にまで及び、そして身体や精神に関する認識を覆い隠してしまう重大な錯誤の根源にあるのは、純粋知覚と記憶との間に本性の違いを認めず、程度の違いしか認めないという誤った認識です。わたしたちの知覚には記憶が浸透しているのは事実ですが、逆に記憶は、後で示すように、何らかの知覚に嵌め込まれ、その肉体を借りない限り現在のうちに蘇ることはできません。したがって知覚と記憶というこの二つの働きは、常にお互いの中に入り込み、一種の浸透現象によってそれぞれの内容の一部を交換し合っています。心理学者に課せられた使命は、両者を分離し、それぞれを本来の純粋な状態に戻すことでしょう。そうすれば心理学や、また恐らく形而上学が提起してきた数々の難問も解明されるに違いありません。ところが実際には、未だかつてそういった試みがなされたことはありません。心理学者は、純粋知覚と純粋記憶が様々に異なる割合で混ざり合っているこの混合状態を単一の状態と考えます。そのため彼らは純粋記憶や純粋知覚の存在に気付くことすらなく、ただ一種類の現象、それら二つの相のどちらが優勢であるかに応じて、或るときは記憶と呼ばれ、或るときは知覚と呼ばれるただ一種類の現象しか認識することができません。それゆえにまた、彼らは知覚と記憶の間に程度の違いしか認めることができず、本性の違いを認めることができないのです。この誤った認識は、いずれ詳しく述べるように、まず記憶の理論を根本的に歪めてしまいます。何故なら記憶が知覚の弱まったものに過ぎないとすれば、過去と現在を区別する本質的な相違がどこにあるのかわからず、再認の現象や、再認に限らず無意識のメカニズム全般を理解する道が閉ざされてしまうからです。また記憶が知覚の弱まったものに過ぎないということは、逆に言えば知覚は記憶が強まったもの以外の何物でもないということでもあります。そうなると知覚は、記憶と同じように、一つの内的状態、わたしたちの人格の単なる一つの変化として扱われることになり、知覚本来の基本的な、そして純粋知覚を構成する働き、すなわちわたしたちが事物のうちに一挙に身を置く働きは見落とされてしまいます。このような誤った認識、心理学において記憶のメカニズムの説明を不可能にしてしまう認識が、形而上学においては、物質に関する観念論的、あるいは実在論的な考え方に深く染み込んでいるのです。

まず実在論に関して言えば、自然現象の不変的秩序は、わたしたちの知覚とは別の原因、その原因がどこまでも認識不可能なものであるか、形而上学的体系を構築する(それは多かれ少なかれ恣意的なものにならざるを得ないにせよ)ことによって認識可能なものであるかは別にして、ともかく知覚とは別の原因によって成立している、と実在論者は考えます。次に観念論に関して言えば、実在論とは反対に、知覚されるものが実在のすべてであって、自然現象の不変的秩序は、現実の知覚とは別に、可能的知覚を表現する記号に過ぎない、と観念論者は考えます。しかし実在論も観念論も、知覚とは「真実の幻覚」(下記参照)であり、主体の外に投影された主観的状態であると考える点で同じなのです。ただ一方(観念論)が、この主観的状態が実在を構成する、と考えるのに対して、他方(実在論)はこの主観的状態が実在と結び付く、と考える点で二つの学説は異なっているに過ぎません。
(テーヌの言葉。要するに知覚とは「幻覚」であるが、幻覚は幻覚でも偽りの幻覚ではなく、真実の幻覚であるという考え方。具体的に言えば「外的事物と合致している幻覚」ということになるでしょうか)

この錯覚は、認識論全般にかかわるもう一つ別の錯覚を含んでいます。既に述べたように、物質界を構成しているのは、そのあらゆる部分が運動によって相互に作用し、反作用している諸々の物体、もしくはイマージュです。そしてわたしたちの純粋知覚を構成しているのは、これらのイマージュの只中において素描される予備的行動です。したがってわたしたちの知覚の現実性は、その活動性、つまり知覚を引き継ぐ(身体の)運動に根拠を持つのであって、強度の増大に根拠を持つのではありません。過去は観念でしかないのに対して、現在は観念・運動的なのです。ところが、この点を人々は例外なく見逃してしまいます。それは何故かと言えば、知覚が一種の観照と看做され、純粋に思弁を目的としたもの、何やら利害を離れた公平無私の認識を目指しているものと考えられているからです。知覚を行動から切り離し、現実との接触をすべて断ち切っても、知覚は説明不可能で無用なものになることはない、とでも言うかのように。しかしこれによって、知覚と記憶との相違はすべて見落とされることになります。過去は本質的に最早作用しないものであって、過去のこの特性を見落としてしまえば、それを現在、すなわち現に作用しているものと現実的に区別することはできなくなるからです。そうなると知覚と記憶との間には単なる程度の違いしか存在しないことになり、知覚においても記憶においても、主体は自己の外に一歩も出ることはできなくなってしまいます。反対に、知覚にその本来の性格を取り戻しましょう。つまり純粋知覚のうちに生まれつつある行動の体系を認め、それが(外部の)実在に深く根を下ろしていることを認めましょう。そうすれば知覚は記憶から根本的に区別され、事物の実在は最早構成されたり再構成されたりするものではなく、それに触れたりその中に入り込むことができるもの、体験することができるものとなるでしょう。これによって、実在論と観念論との間で議論が戦わされている問題は果てしのない形而上学的論争の種となる代わりに、直観によって一挙に解決されるものとなるに違いありません。

さらに、これによってわたしたちは、物質を精神によって構成されたもの、あるいは再構成されたものとしか考えない実在論と観念論との間で、どのような立場を取るべきかも明確に判断することができます。わたしたちの仮説では、知覚の主観性は主に記憶機能がそこに介入することによって成立しています。逆に言えば、わたしたちの意識を特徴付けている持続の特有なリズムから物質の感覚的諸性質を引き離すことさえできれば、この感覚的諸性質そのものを物質それ自体において、外から認識するのではなく、内側から認識することができる、と言うことができます。実際、わたしたちの純粋知覚がどれだけ時間的に短いものであると想定するにせよ、或る一定の持続の厚みを持つものである以上、次々に生起するわたしたちの知覚(瞬間的なヴィジョン)は、これまで想定してきたように事物自身の瞬間ではなく、(事実上は)わたしたちの意識に属する瞬間なのです。わたしたちは先に、外的知覚における意識の理論上の役割は、現実の瞬間的なヴィジョンを記憶の連続的な糸によって繋ぎ合わせることだと述べました。しかし実際には、わたしたちにとって(数学的な点という意味での)瞬間なるものは決して存在しません。わたしたちが「瞬間」と呼んでいるものの中には、既にわたしたちの記憶機能、したがってまた意識の働きが入り込んでおり、この記憶機能が、わたしたちの「瞬間」が内包する無数の事物の瞬間、言い換えると、わたしたちの「瞬間」は(理論上)無限に分割可能であるがゆえに無限に存在し得る事物の瞬間を相互に浸透させ、相対的に単純な一つの直観のうちに捉えているのです。では最も厳格な実在論が想定するような物質と、わたしたちが物質について持つ知覚との相違は厳密に言ってどこにあるのでしょうか。わたしたちの知覚は宇宙を生き生きとした一連の絵画(これは「創造的進化」では「映画」と表現されることになります)として見せてくれますが、それらは非連続的(継起ではなく同時性であるという意味でしょう)なものです。現在の知覚からは、その後に来る知覚を導き出すことはできません。何故なら感覚的諸性質の全体の中には、それらが変化することによってどんな新しい性質を帯びるかを予見させてくれるものは何もないからです。これに対して、一般に実在論が想定する物質は、或る瞬間から次の瞬間に、数学的に演繹されるような仕方で進展します。確かに科学的実在論は、このような物質と知覚との間に何の接点も見つけ出すことができません。それは、科学的実在論が物質を等質的変化として空間に展開する一方で、知覚をひろがりのない感覚として意識のうちに閉じ込めてしまうからです。しかしわたしたちの仮説に従うならば、知覚と物質がどのように区別され、どのように一致するかは容易く理解できます。わたしたちが瞬間毎に感受している宇宙の知覚の異質性は、これらの知覚の各々が、或る一定の持続の厚みを持ち、そこで展開されていること、すなわち記憶の働きによって莫大な数の振動がそこで凝縮されていること、それらの振動は継起的であるにもかかわらず、凝縮されることでわたしたちには一体のものに見える(流星の軌道が一条の光線に見えるように)ことから生じます。この不可分の時間の厚みを観念的に分割し、そこに好きなだけの数の瞬間を区別すれば、つまり記憶機能をすべて取り除けば、知覚から物質に、あるいは主体から客体に移行する(「創造的進化」で「反転」と表現されているのはこのことだと思われます)ことができるでしょう。ひろがりを持つわたしたちの感覚が、そうして多くの瞬間に分割されればされるほど物質はますます等質的なものとなり、実在論者の言う等質的振動の体系と完全に一致しないまでも、限りなくそれに近づいていくでしょう。一方に知覚し得ない(等質的)運動とその媒質である空間を措定し、他方にひろがりのない感覚とその媒質である意識を措定する必要は全くありません。寧ろ逆に、主体と客体は、出発点ではひろがりのある知覚において結合しています(下記参照)。知覚の主観的側面は記憶機能によって(無数の振動が)凝縮されるところに成立し、他方、物質の客観的実在性は、この知覚そのものが数多くの継起的な振動に解体されるところに成立します。少なくとも、わたしたちが本書の最終章(第四章)において引き出そうとしている結論は以上のようなものです。主体と客体、そして両者の区別と結合に関する問題は、空間との関係においてではなく、時間との関係において提起されなければなりません。
(これが実在論と観念論の「中間」、事物と表象の「中間」という言葉の意味でしょう)

わたしたちが「純粋知覚」と「純粋記憶」を区別することには、さらにもう一つ別の思惑もあります。それは、片や純粋知覚が物質本来の性質を教えてくれることによって、わたしたちに実在論と観念論の中間の立場を取らせてくれるとすれば、片や純粋記憶は、精神と呼ばれるものへの展望を開くことによって、唯物論と唯心論という別の二つの学説の論争に決着をつけてくれるのではないか、ということです。このあと第二章と第三章において、わたしたちはまさにこの記憶の問題を主題として取り上げます。というのも記憶の問題においてこそ、わたしたちの仮説を言わば実験的に検証することができるからです。

まず純粋知覚に関するわたしたちの結論をまとめると、次のように言うことができるでしょう。物質には現に知覚されている以上のものがあるが、それと異なるものがあるのではない、と(下記参照)。意識的な知覚は、確かに物質全体に及ぶことはありません。何故なら知覚とは、それが意識的なものである限り、物質の中からわたしたちの様々な欲求にかかわりのある部分を分離、あるいは「識別」することだからです。しかし物質のこの知覚と物質そのものとの間には、程度の違いがあるだけで、性質の違いはありません。純粋知覚と物質との関係は、部分と全体の関係です。つまり物質は、わたしたちがそれに認めている力と別種の力を働かせることはない、ということです。物質は神秘的な能力を持っておらず、それを隠し持ってもいません。具体的な例、わたしたちにとって最もかかわりのある例を挙げれば、例えば神経組織は、特定の色や抵抗や凝集力などの性質を持つ物質の塊です。それは多分まだ知られていない物理的特性を持つでしょうが、飽くまで物理的特性を持つに過ぎません。したがって神経系が、運動を受け取り、阻止し、伝達する役割以外の役割を果たすことはないのです。
(物質をイマージュと同一視できるのはこのためである、とドゥルーズは述べています。「物質には潜在性も隠された力もない。われわれが物質を《イマージュ》と同一視できるのはこのためである。おそらく、物質には、物質についてわれわれが作るイマージュ以上のものがありうる。しかし、別の性質を持った別のものは存在しえない。また別のテクストでベルクソンはバークリが物体と観念とを同一視したことを賞賛している」(「ベルクソンの哲学」第二章)。この「別のテクスト」とは「哲学的直観」のことですが、「第七版への序言」でも、バークリーが、物質の第二性質は第一性質と同程度の実在性を持つことを明らかにした点をベルグソンが評価しているのは既に見られた通りです。この点では観念論の立場(物質を表象と同一視するのが観念論の立場です)を取らざるを得ない、という内容の文章が「要約と結論」にも見られます)

ところで、あらゆる種類の唯物論はこれと反対の主張をする点にその本質があります。というのも唯物論は、物質的要素の働きのみによって、意識と、意識のすべての機能が生み出されると考えるからです。唯物論はここから必然的に、知覚されている物質の性質そのもの、すなわち、感覚的な、したがって現に感じられている性質とは、知覚作用における脳内の現象に随伴する燐光のごときものであるという結論に至ります。物質が意識の基本的現象を生み出し得るとすれば、同様に、より高度な、さらには最高度の知的現象さえ生み出すことができる、というのが唯物論の考え方です。それゆえ唯物論は自らの仮説の当然の帰結として、感覚的性質を完全に相対的なものと看做します。デモクリトスによって明確に提示されたこの(感覚的性質は完全に相対的なものであるという)仮説の出現が、古代の唯物論の出現とほぼ時を同じくしているのは理由のないことではありません。

ところがどういう錯覚によるものか、唯心論は、奇妙なことにこの点で常に唯物論と同じ道を歩んできたのです。唯心論は、物質から奪えば奪うほど精神を豊かにすることができると信じ込み、知覚において物質が示す様々な性質を容赦なく物質から剥ぎ取った結果、それらの性質はすべて主観的な仮象に過ぎないということになってしまいます。唯心論がこうして、余りにもしばしば物質を神秘的なものにしてしまったために、わたしたちは最早物質に関してはその空虚な仮象しか認識することができず、結果的に、却って物質は諸々の現象は無論のこと、思考さえ生み出すことができるということになってしまったのです。

実を言えば、唯物論を論破する方法が一つ、それもただ一つだけ存在します。それは、物質が現前する通りに存在していることを明らかにすることです。これによって、物質からあらゆる潜在性やあらゆる隠れた力が取り除かれると同時に、精神の諸現象には独立した実在性が与えられることになるでしょう。しかしそのためには、唯物論者と唯心論者が揃って物質から剥奪してしまった諸々の性質、唯心論者から精神の表象と看做され、唯物論者から延長の偶然的な外見と看做されている諸々の性質を、物質に残して置かなければなりません。

これ(性質を物質に残して置くこと)はまさに物質に対する常識の態度であり、またそれゆえに常識は精神の存在を信じるのです(下記参照)。哲学はここで、常識の立場を採用すべきだとわたしたちは考えます。ただしその場合、一つだけ修正を加えなければなりません。実際には、知覚は記憶と不可分であって、記憶機能が過去を現在に挿入し、持続の多くの瞬間をただ一つの直観のうちに凝縮しています。この記憶の二重の働きによって、理論上わたしたちは物質を物質そのものにおいて知覚している、と考えて差し支えないにもかかわらず、事実上はわたしたちのうちで知覚している、という事情を考慮する必要があるのです。
(この文章は「意識に直接与えられているものについての試論」の次の文章と比較できるのではないでしょうか。「以上のことから結局、それがどんなに逆説的なものに見えようと、次のような結論、すなわち外的諸現象の間に数学的な内属の関係を仮定すれば、当然の、あるいは少なくとも否定できない帰結として、人間の自由に対する信念も(常識の内に自ずと)生まれる、という結論が導き出されます」)

記憶の問題が極めて重要な意味を持つ理由はここにあります。知覚に主観的性格を与えているのは主に記憶の働きであるとすると、物質に関する哲学が真っ先にすべきことは、記憶機能がもたらしたものを知覚から取り除くことだとわたしたちは述べました。今やこう付言しなければなりません。純粋知覚が物質のすべて、あるいは少なくともその本質的な部分の認識をわたしたちにもたらし、他方、それ以外のものは記憶機能が物質に付け加えるのだとすれば、記憶機能は原理上、物質から完全に独立した能力でなければならない。精神が一つの実在であるなら、したがって記憶の現象においてこそわたしたちは精神と経験的に接触することができるであろうし、同時に、純粋記憶を脳の機能から引き出そうとするあらゆる試みが全く意味のないものであることを分析によって明らかにすることができるに違いない、と。

今述べたことを、もっとはっきりした形で言い換えてみましょう。わたしたちの考えでは、物質は隠れた能力、わたしたちには知り得ない能力を何ら秘めておらず、本質的に純粋知覚と一致しています。このことから、一般に生命体、とりわけ神経系は運動の通路に過ぎず、刺激として受け取られ、伝達されたこの運動は、反射的な、もしくは意志的な行動として発現する、と結論することができます。それは取りも直さず、表象を生み出す特性を脳に付与するのは見当違いである、ということに他なりません。ところで、記憶の現象においてこそ最も具体的な形で精神を捉えることができる、とわたしたちが考えるのとは対照的に、一部の浅薄な心理学は、記憶の現象を脳の機能のみによって引き出そうとします。それはまさに、記憶の現象が意識と物質の接点(であることから、そう考えるのが自然)だからであり、唯物論に反対する人達でさえ、脳を記憶の容器のごとく扱うことに何の不都合も感じていないからです。これに対して、脳のメカニズムは記憶機能のごく一部に過ぎず、記憶機能の原因というより寧ろ結果であること、物質は記憶においても運動(行動)を媒介するものであって、認識の基盤ではないことを実証することができれば、(精神が一つの実在であるという)わたしたちの主張は最も形勢不利と思われる(記憶という)事例において証明されたことになり、精神を独立した実在と看做す必要が生じてくるでしょう。そしてまた、それによって精神と呼ばれるものの本性や、精神と物質の相互作用の可能性も、恐らく部分的ではあるにせよ明らかになるに違いありません。何故ならこの種の証明は否定するだけでは十分ではなく、記憶機能ではないものを示した後は、それが何であるかを探究しないわけにはいかないからです。身体に、行動を準備するという唯一の機能を付与した後は、では何故記憶機能が身体と結び付いているように見えるのか、身体の損傷は、どのように記憶に影響を及ぼすのか、記憶機能は、いかなる意味で脳の状態に依存しているのかを探究しなければなりません。さらにこの探究は、記憶機能の心理学的メカニズムとともに、このメカニズムと結び付いた様々な精神の活動についてもきっと示唆を与えてくれる筈です。そして実際にわたしたちの仮説によって純粋に心理学的な諸問題に少しでも照明を当てることができれば、逆にその分わたしたちの仮説の方もより確実で揺るぎのないものとなるでしょう。

しかしわたしたちにとって、記憶の問題がいかに重要な問題であるかを示すためには、わたしたちの考えをさらに第三の形で述べなければなりません。純粋知覚に関する分析から導き出されるのは、言わば方向の異なる二つの命題、一つは心理学を越えて精神生理学に向かう命題であり、もう一つは形而上学に向かう命題です。この二つの命題は心理学を越えるものであるがゆえに、どちらも直接的に検証できるものではありません。第一の命題は、知覚における脳の役割に関するもの、脳は行動のための道具であって、表象のための道具ではないというものです。わたしたちは、この命題を事実によって直接証明することはできませんでした。というのも純粋知覚は仮定により、現前する対象の一部をなす一方で、その対象はわたしたちの知覚器官や神経中枢に作用しており、したがって外見だけ見れば、わたしたちの知覚はあたかも脳の状態から生まれ、次いでその知覚とは全く異なる対象に投影されるかのように見えるからです。つまり外的知覚に関しては、わたしたちが反対している主張も、わたしたちの主張も同じ結論に至るため、どちらの説明がよりわかりやすいか、ということは判断できても、どちらが正しいかということを経験的に判断することはできないからです。これに対して、記憶機能を経験に基づいて研究すれば、両者のどちらが正しいかを判断することができるに違いない、とわたしたちは考えます。純粋記憶は仮定により、不在の対象の表象です。仮に知覚が脳内の何らかの活動に必要十分な条件を有するなら、対象が不在の場合でも、この活動が或る程度同じように繰り返されれば、知覚を再生することができる筈でしょう。もしそうであれば、記憶は脳の働きによってすべて説明することができる、ということになります。反対に、脳のメカニズムは何らかの仕方で記憶を条件付けはするものの、その存続を保証するものでは決してないこと、知覚が想起されるに際しては、脳のメカニズムは表象より寧ろ行動にかかわっていることが証明されれば、知覚においても脳の役割はやはりそれに類したもの(表象より行動にかかわるもの)であり、脳は現前する対象に対して、単にわたしたちの行動の有効性を保証しているに過ぎないと推論することができるでしょう。第一の命題は、こうして証明されたことになります。――もう一つは第二の、どちらかと言えば形而上学に属する命題、すなわち、純粋知覚においてわたしたちは文字通りわたしたちの外部に身を置いており、その際、直接的直観において対象の実在に触れている、という命題です。これについても、経験に基づく検証をすることはできませんでした。何故なら対象の実在性が直観によって知覚されたものであるか、それとも理性によって構成されたものであるか、実際上、区別しようがないからです。しかしここでもまた、記憶機能を研究することによって、この二つの仮説のどちらが正しいかを判断できる筈です。後者の(理性による構成という)仮説においては、知覚と記憶はどちらも表象である点で同じ種類の現象と看做されているのですから、両者の間には強度の違い、より一般的に言えば、程度の違いしかあり得ません。これに対して、知覚と記憶との間には、単なる程度の違いではなく、根本的な性質の違いがあることが証明されれば、知覚には、記憶には決してないもの、すなわち直観的に捉えられた(客観的)実在性がある、という仮説の方がより確からしいということになるでしょう。このように記憶の問題は、検証不可能に見える二つの仮説、心理学を無限に越えているように見える第二の形而上学的仮説さえ心理学的検証に導いてくれる点で、特別な意味を持つ問題なのです。

わたしたちが進むべき道は、これですべて示されました。次章において、わたしたちはまず、一般に記憶機能を生理学的に説明するために援用される、通常の心理学や異常心理学の様々な症例記録を検討します。この検討は、どうしても微に入り細を穿つものとならざるを得ません。さもないと無意味なものに堕する危険があるからです。わたしたちは事実にできる限り肉薄してその輪郭を明瞭にし、記憶の働きにおいて身体の役割がどこから始まり、どこで終わるかを見定めなければなりません。それによってわたしたちの仮説の確証が得られれば、さらに前進して精神の基本的な働きをそれ自体において考察し、精神と物質の関係についてこの章で素描した理論を完成させたいと思います。

(つづく)

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