画竜点睛

素人の手すさびで作ったフォントを紹介するブログです

「ジェノサイド」(7)

2011-11-29 | 雑談
カントは「時間と空間は私たちの感性の形式」だと考えましたが、そもそも空間とはカントのいうような感性の形式なのでしょうか。知覚が対象への行動の可能性を示すものであって、イマージュの総体から身体に利害関係のある作用だけを浮かび上がらせるものであることはすでに述べた通りです。この結果知覚はもともと途切れのない「延長物の連続」に自ずと区画を設け、物質を諸々の物体に分割します。この分割の極まるところ、「任意で無限な分割可能性」が姿を現します。単に考えられるに過ぎないこの「まったく観念的な図式」こそ空間に他ならない、とベルグソンは考えます。知覚が物質を物体に分割するのと並行して、記憶は事物の連続的な流れを感覚的性質に凝縮し、瞬間として固定します。或る瞬間から別の瞬間を区別し、同時に人間とその他諸々の事物の持続を強引に結びつけるための抽象的な媒体が(等質的)時間です。したがってこのような意味での空間と時間は、「事物の性質でもなければ、私たちが事物を認識する能力の本質的な条件でも」ありません。それは知覚と記憶が物質に対して自然に行う分割と固定の働きを抽象的な形で表したものであり、活動の中心と支点を確保するための「行動の図式」なのです。

これらの空間と時間は人間の低次の(生物学的)欲求が描き出したものですから、いわゆる客観的実在でないのはもちろん、カントのいうような感性の形式でもありません。延長と非延長の対立は、運動をこの空間の内に置き、感覚をこの空間の外に置くことによって生じます。しかしもともとこの空間は感覚を分割することから生まれたものだとすれば、空間はむしろ感覚の内にあり、また感覚そのものは現実的運動を凝縮したものだとすれば、運動は空間を支点に行われるのではなく、運動の描いた軌跡が空間となって沈殿していくのだといえます。この知覚と記憶の働きを見落とし、等質的空間と等質的時間をそのまま事物の性質に帰してしまうと、空間は運動に先立つものとなり、ともに分割可能で質を持たないものとなってしまいます。そうなると当然運動と性質のあらゆる関係は廃絶され、感覚は空間から排除されざるを得ません。このような空間と感覚、空間と運動の「自然的順序」の転倒が行われるのは空間を出発点とするのが行動にとっても思考にとっても都合がよく、「表現の便宜と物質的生活の必要」から身を引き剥がさない限りそれと意識されることがないからです。人間の思考に備わっている功利的傾向を払拭するのが容易ではない理由もここにあります。

「私達の生活に何を措いても必要だったのは、物質に対する行動なり態度なりに関する知識である。生活する人間のオルガニスムにとって重要なのは、全世界ではない。極く限られた実用的(プラティック)な世界である。知性はプラティックな世界に処する「工作人(ホモファーベル)」の子だ」(「感想」)。ここで語られている実用的(プラティック)な世界という言葉を、等質的空間という言葉に置き換えても間違いではないでしょう。「量子論は、生活体の生物学的単元よりはるかに微細な物質の物理学的単元の説明を要求され、科学が物質を定義する以前に、人間は物質に対する態度を定義していたという事に、はっきり気附いたのである」(同上)。

感覚と物質の間に「越えがたい障壁」として立ちはだかっていた等質的空間を取り除けば、もともと感覚はひろがりを持ったものであること、物質は「全体として考察すれば意識のようなものであって」、最低限の不可分性、つまり一定の持続を備えていること、それゆえ「知覚および物質というこの二つの言葉は、私たちが行動の先入観ともいうべきものから免れるにつれて、このように互いに歩みよる」ことがわかります。それらは記憶(精神)が「凝縮のために行なう一定の量的次元の選択」(知覚)において結びつき、記憶はこの操作によって物質から区別されるのです。

このような「一定の量的次元の選択」が行われる理由について、ベルグソンは次のような仮説を述べています(「思想と動くもの」緒論・注)。「われわれの知覚が要素的諸事象の特定度の凝縮にとどまるのは、まさに、物質をこの決定論の型にはめ、周囲の諸現象にはたらきかける手がかりとなる継起的規則性を諸事象から得んがためではないか、と考えられるのである。より一般的には、事物の持続の凝縮によって生物の活動は事物の支柱となる必然性によりかかることになり、また必然性と釣り合うことになるのではないか、と考えられるのである」。

ちなみにこの注の前段では「不確定性」について言及されており、不確定性が問題になる場合でも物理的決定論を云々し得るし、またそうしなければならない、と述べています。「なぜならば、この物理的事実は枉げることのできない決定論に従うものとして知覚されるのであり、われわれが自分を自由であると感ずるときに遂行する行為から根本的に区別されるからである」。この発言は自由と必然の対比という文脈からなされたもので、科学ないし物理学の発展を否定するものではもちろんありません。この点に関してはまだ確たることが言える段階ではなく、そのためベルグソンも注の中で言及するにとどめたのでしょう。

「受けた作用にたいして反応するのに、その作用と寸分たがわないリズムで同じ持続の中に続いていく反作用をもってすること、現在、それも絶えず再開する現在の中にあること、これが物質の基本法則だ。ここにこそ必然性が成り立つのである」。プランクの発見によってこの基本法則が崩れたのは間違いないにしても、人間の持続と事物の持続の隔たりはあまりにも大きく、実際上物質の持続を必然性と看做しても何ら差し支えない筈です。逆に自由が成り立つとすれば、それは記憶によって過去を保持することができ、受けた作用に対して異なった持続のリズムの反作用を返すことのできるような能力によって表されることになるでしょう。単に過去を反復するだけの存在(物質)と「理性的で反省的な行動の能力」を持った存在の間には無数の段階があり、「自由のすべての程度」が存在します。しかし自由は、必然性とは無関係に、必然性から隔離された状態で達成されるのではありません。というのも記憶(精神)は原理上潜在的なものであり、それ自体としては無力(心理学においては無力という言葉と無意識という言葉は同義語だとベルグソンは述べています)なものだからです。一方「この自然(注=物質)は、中和化され、したがって潜伏している意識、たまたま発現しようにも相殺して、あらわれようとするとたんに互いに他を絶滅するような意識であるとみなすこと」が可能です。個別的意識の最初の働き(知覚)がこれらの全体から利害関係のある作用を抽出することにあるとすれば、「それはみずからの形式を精神に負うことをたしかに証示するとしても、素材は自然に負うている」のです。有機体の進化とともに神経系が複雑化し、神経系の複雑化は生物に行動の不確定と活動範囲の増大をもたらします。空間における活動範囲の増大が意味しているのは実は「物質の任意の多数の瞬間」を支配すること、つまり物質の持続のリズムから解放されることであり、これによってはじめて必然性の網の目をくぐり抜けることが可能となります。「このようして、自由は、時間と空間のいずれにおいてこれを考えるにせよ、つねに必然の内にその深い根をおろし、これと緊密にからみ合って組織されている。精神はその栄養源である知覚を物質から借り、その自由を刻印した運動の姿で物質に返すのである」(「物質と記憶」結語)。

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さて、数ヶ月にわたって書いてきたこの文章ですが、目的地に向かって歩いているつもりが見ず知らずの土地に迷い込んでしまったかのごとく、当初の目論見とは全く違ったものになってしまいました。ここからはもともと書くつもりでいたこと、書く機会を逸したことに触れておくことにします。

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「ジェノサイド」にはアキリと呼ばれたりヌースと呼ばれたりする存在(進化した次世代の人類)が登場します。ヌースについてはまず「GIFT」というソフトウェアによってその存在が暗示され、次いでこの存在に遭遇した人物によって外見上の特徴が語られます。最後に一人の科学者の未来予測の中で想像し得る精神的特質が示されますが、それによるとこの超人類は人間をはるかに凌駕した知性を持ち、「第四次元の理解、複雑な全体をとっさに把握すること、第六感の獲得、無限に発達した道徳意識の保有、特に我々の悟性には不可解な精神的特質の所有」といったことが能力の具体例として列挙されます。

また人類の進化の可能性については、600万年前に同じ祖先から枝分かれしたチンパンジーと人類のうち、チンパンジーは600万年前からほとんど姿を変えていないのに対し、人類の方は枝分かれを繰り返しながら「少なくとも二十種類以上の」人類種を生み出してきたという事実、人類だけが進化の歩みを速めているように見えるという事実から、進化はいつ起こっても不思議ではないとする説が提示されます。これを裏付けるものとして分子生物学における発見や研究成果が示され、人間の進化に関わると思われるいくつかの遺伝子が紹介されています。そして「およそ二十万年前に地上に出現した現生人類」が19万年の間原始的な生活に甘んじていたにもかかわらず、1万年前に突如として文明を築き始めた不自然な事実も、DNA変異による脳の進化によって説明がつくのではないかという驚くべき仮説が語られます。この仮説が正しいとすると、進化は遠い未来の夢物語ではなく、人類はすでに進化を一度経験しているということになります。

さらに物語の後半では、現生人類と共存していた原人やネアンデルタール人が絶滅したのは進化から取り残されたのではなく、現生人類によって滅ぼされたのだといういささかショッキングな見解が老科学者の口から語られます。その証拠に、ネアンデルタール人の脳の容積は現生人類より大きく、知性的に現生人類と同等の能力を有していたとも考えられます。しかも遺跡から発掘されたネアンデルタール人の骨の多くに暴力を受けた跡があり、「調理」された痕跡が見られるそうです。そう考えるとこの見解は満更根拠のないものでもなく、人類の歴史を振り返ると十分な説得力を持っているようにも思えます。

以上のような見解が学問的にどの程度の妥当性を持つものなのか、人類が進化する可能性は本当にあるのかどうか、僕にはわかりませんし、それを問題にするつもりもありません。しかしもし仮に実際に進化が起こった場合、次世代の人類は一体どのようなものになるのでしょうか。

「ジェノサイド」では「発達した頭部」といった肢体上の特徴やGIFTを苦もなく開発したといった設定などから伺えるように、基本的に限りなく知性の発達した存在として描かれています。僕自身は未来の人類がどんなものか考えたことがあるわけでもなければ、したがって何ら明確な展望を持っているわけでもありません。ただこうして物語の中で一つの類型を示されてつらつら考えているうちに、現生人類はすでに十分知性的に発達しているんじゃなかろうかという考えがうたかたのように浮かんできたのです。もっともこの考えには確たる根拠があるわけではなく、以下に述べることも単なる夢想以上の意味を持ちません。

そもそも未来を予測すること、それも創造そのものである生命の進化を予見するというのは一種の背理を含んでいるといえます。予見可能なものならばそれは進化とはいえないからです。「可能と現実」の中で、ベルグソンは以下のような例を挙げています。

第一次世界大戦中、ある人(おそらく雑誌の記者かそれに類した人)がベルグソンを訪ねてきて、文学の将来をどう考えますか、といった内容の質問をします。ベルグソンが困惑しながら(そしておそらく辟易しながら)そのようなことは考えたことがないと答えると、その人物はなおも次のように質問を重ねます。「少なくとも、何か可能な方向をお認めになりませんか? こまかな点は予見できないとしても、哲学者である先生には、少なくとも全体の観念といったものはおありのことと思います。たとえば今後の大きな劇作を、どうお考えになりますか?」これに対して「それがわかっていれば人が書く前に自分で書きますよ」と答えたときの相手の唖然とした顔が忘れられない、とベルグソンはそのときの思い出を綴っています。

文学の未来を予想するといったことと、たとえば天体の軌道を予測するといったことが異なる範疇に属することは、おそらく誰にでも漠然と想像のつくことでしょう。意識と生命の存在しない世界においては、少なくとも理論的には「宇宙の任意の未来的状態」を前もって計算することが可能です。しかしこの世界に意識と生命が組み込まれるや否や、「任意の未来的状態」を予測することには無理があると本能的に感じるからです。

ところが世界の非決定性や自由を唱える人たちも具体的に進化や創造行為を思い描く段になると、「可能的なるものは現実より少なく、またそれゆえに諸事物の可能性は実在性に先立」ち、「実現される以前に思惟されうる」という思考に無意識のうちに陥ってしまいます。その結果進化はプログラムの実現と同義語となり、非決定性は「諸可能の間の競争」という意味に、自由は「諸可能の間での選択」という意味に置き換えられます。そして最初区別されていた「予想」と「予測」は混同され、未来は日蝕や月蝕並みに予測可能なものとされてしまうのです。

可能性という言葉はこうして「観念という形式であらかじめ存在すること」と解され、知らず知らずのうちに肯定的・積極的意味を帯びて非決定性や自由を構成する要素とされてしまいます。しかしそれは進化の過程を合理的に説明もしていなければ、進化の新しさを捉えてもいません。

可能性が現実に先立つものではないとすると、それは一体いつ形作られるのでしょうか。過去ではなく、当然未来でもありません。それは現実と「同時に」形作られるのです。ただし可能性は一旦形作られるとすぐさま過去に投射され、実在は過去のいかなるときにも「可能だった」と思い込まれます。「それゆえ可能的なるものとは過去に映った現在の幻影」といえます。実在は過去のいかなるときにも可能だったということが真なら、「明日の過去となるべき今の現在のうちには、明日の像がすでにふくまれている」はずだと思い込まれてしまいます。それは鏡(過去)に映った自分の姿(現在)を見て、鏡の後ろからは自分の後ろ姿(未来)が見えると錯覚するようなものです。

人間そのものと鏡に映った人間の像を同一視することはできないように、可能的なものは進化について何事も証言しません。むしろ早晩それは進化が予見可能なものだという結論に導いていくのです。

進化の予見不能な新しさが常に見過ごされ、すでに出来上がったものによって出来つつあるものを再構築しようとする根強い傾向から逃れられないのは、人間が「多少ともプラトン主義者であって、存在は十全かつ完全なるものとして、諸イデアの不動なる体系のうちに決定的に与えられている、と考えていたからである」とベルグソンは述べています。世界はイデアが「減少もしくは堕落」したものであり、もたらされた堕落の原因の一切は時間に帰せられます。近代になると「諸現象の原型の役割を果たす諸イデアの永遠性」は(科学の)「諸法則」の永遠性に場所を譲りますが、どちらの場合も時間は永遠を損なうものと看做される点に変わりはないのです。

同様な理由によって、宇宙の生成について語られる場合も「全ては一度に決定的な仕方で与えられた」(「創造的進化」第三章)ものと看做されます。「創造が語られるにせよ、創造されない物質が置かれるにせよ」、問題とされるのは常に宇宙全体で、「真に働いている持続は存在せず、絶対的なものは――物質であれ精神であれ――、具体的な時間、われわれが自分の存在の生地そのものと感じている時間の中に場所を持つことはできない」とされるのです。しかし持続の存在しないところで、果たして進化や創造は可能なのでしょうか。全体を語ることは結局可能的なものを語ることではないのでしょうか。

以上のような考察から、創造という観念は増大という観念に近づき、「おそらく宇宙は、諸々の新しい世界を付け加えることによって、無際限に増大している」のではないか、とベルグソンは推測します。

(つづく)

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