哲学的な何か、あと心の病とか

『人生とは何か、考えるほどにわからない。というのは実は正確ではない。わからないということが、わかるのである。』池田晶子

自己評価と他者評価

2013年09月26日 | 哲学・心の病
うつ病の人の自己評価と他者評価を比べてみたら、ほぼ同じ評価であった。

一方、うつ病でない人の自己評価と他者評価を比べてみたら、自己評価の方が他者評価よりも高かった。

この調査が意味するところは、心が健康な人は「軽いそう状態」であるということである。
「軽いうつ状態」であったなら少しはそのことを意識して行動した方が良いとは思うが、心が健康な状態は「軽いそう状態」であることも少しはそのことを意識して行動した方が良いと思う。

冷静なときより少し気分が高揚していると感じたら、このことを思い出していただければ幸いだ。

出生前診断について

2013年09月26日 | 哲学・心の病
ある番組で出生前診断のドキュメンタリーを放送していた。

出生前診断で胎児がダウン症だと診断されたご夫婦は、数日間話し合った結果、苦渋の選択だったと思うが中絶することにした。
その理由は、生まれてくる子供をいつまでも面倒を見ることができないし、負担も大きいとのことだった。

もしも、ダウン症の子供を育てるのが普通の子供と同じ負担で、両親が亡くなった後もきちんと面倒を見てくれる社会であったならば、そのご夫婦はその子を産んだのだろうか?

またネットで調べたら、生まれてくる子供には少なくとも普通の人生を送ってほしいとの思いで、中絶した人もいるらしい。

いずれを選択したにせよ、生むか生まないかの選択をせまられた人は、人の生きる意味をも問われただろう。

そして、私だったらどうするか、深く考えさせられた番組だった。

遺族の気持ちとは?

2013年09月26日 | 哲学・心の病
ある日、友人が入院している祖父をたずねたら、「クリームパンが食べたい」と言われ、一階の売店で買って、彼は祖父に食べさせた。

そして、一口食べ終わったと同時に、静かに息をひきとった。
「クリームパンを食べてから死ねてよかったなぁ」と思いながら、彼はその食べかけのクリームパンをよく見たら、彼の祖父の食べあとは、残念ながらクリームまでとどいていなかった。

祖父がクリームパンを食べずにパンだけを食べて亡くなったことを、友人は今でも後悔している。

共依存とは?

2013年09月26日 | 哲学・心の病
共依存とは、人間関係そのものに依存するという依存症です。

共依存の人は、自分自身を大切にしたり自分自身の問題に向き合うよりも、身近な他人(配偶者、親族、恋人、友人)の問題ばかりに気を向けてその問題の後始末に夢中になります。
身近な人の取らなかった責任を一生懸命代わりにとり、結果、現在の困った状況を本人が決意して解決する必要を与えず、困った状況をそのまま続けるはめになる、ますます困った状況に陥っていく人達のことです。

アルコール依存症やギャンブル依存症、非行や暴力、買い物中毒、仕事中毒、絶えない人間関係のトラブルなどを抱えているため、共依存症の人の「共依存」という問題がクローズ・アップされることは滅多にありません。
けれども、そういった見た目に派手な依存症や問題を抱えている人達の側にかならずといっていいほどいると言われています。

共依存の人達が問題の後始末を一生懸命してくれるので、「困った人達本人」は「困った状況」が「なんだかんだ言ってもなんとかなる」と無意識で感じています。
このため問題を解決せずにほったらかしにし、悪化させます。

ここで誤解しないでいただきたいのは、身近な誰かが何かの依存症にはまっているのは、その本人に問題があるからです。
問題のない人は、依存症にはまりません。
共依存症者と他の依存症者が一緒にいると、2人とも依存症がエスカレートしやすくなりますが、共依存症者が側にいなくても、他の依存症者は依存症にハマっています。
「私が共依存症だから、相手がパチンコ依存症なんじゃないか」というのは間違いです。

共依存症者が側にいなければ、依存症者のエスカレートはゆるやかになるケースが多いと言われています。
それと同じように、依存症者が側にいなければ、共依存症者のエスカレートもゆるやかになります。

日本女性はとくに「我慢して尽くすこと」が美徳だとされているので、共依存者が多いといわれています。
ある程度までは「人間関係の潤滑油」ですが、共依存症者にとってその人生は他人の後始末、後始末、後始末で、他人の責任の代行ばかりで自分のための人生を生きることができません。
自分自身の人生もみじめですし、周囲もみじめなままになってしまいます。