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哲学的な何か、あと心の病とか

『人生とは何か、考えるほどにわからない。というのは実は正確ではない。わからないということが、わかるのである。』池田晶子

タイムトラベルは可能か?

2013年11月24日 | 哲学・心の病
相対性理論による時間の伸び縮みを利用すれば、「未来へのタイムトラベル」が原理的には可能になります。

たとえば、「光速に近い速度で運動してもどってくる」という方法、または「ブラックホールなどの重力の強い天体のそばまで行ってもどってくる」という方法です。こういった方法なら、旅行者にとってはわずかな時間しか経っていないのに、地球では長い年月が経っている、といった状況をつくることができます。

実際は、惑星探査機ですら10~20km程度でしかなく、光速(秒速30万km)に近い速度での宇宙旅行は夢のまた夢でしょう。また、ブラックホールも、太陽系外の遠い彼方にしか存在していないようなので、こちらの方法も近い将来の実現はむずかしいでしょう。とはいえ、原理的に未来へのタイムトラベルが可能というのは、夢のある話です。

では、過去へのタイムトラベルはどうでしょうか。実は一般相対性理論によると、特殊な状況の下では、過去へのタイムトラベルも原理的には可能だといいます。

特殊な状況とは、宇宙全体が回転していた場合や、離れた2地点を結ぶ、時空のトンネル「ワームホール」が実在していた場合などです。ただし、実際の宇宙は回転していません。また、ワームホールも理論的に存在が予言されてはいますが、宇宙に実在する証拠はみつかっていません。

しかし、もし原理的にでも、自然界が過去へのタイムトラベルを許しているとしたら、それは大問題です。なぜなら、過去へのタイムトラベルは、過去の歴史を改ざんできる可能性を開いてしまうからです。

タイムトラベラーが過去にもどって自分の祖父を殺してしまったとしましょう。そうするとタイムトラベラーは生まれなくなってしまいます。そうする過去へのタイムトラベルもできないので、祖父が死ぬこともありません。つまり矛盾です(祖父殺しのパラドックス)。

過去へのタイムトラベルは、このようなパラドックスを生みだすため、多くの物理学者は、一般相対性理論をこえた何らかのメカニズムが、過去へのタイムトラベルを禁じているのではないか、と考えているようです。しかし、現代物理学をもってしても、この問題の最終的な解答は得られていません。

by 現代物理学


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ロボットは生命になりうるか?

2013年11月24日 | 哲学・心の病
私は、原理的にはロボットも生命のようになりうるという見方をとるべきだと思います。
ロボットたちが自己複製し、彼ら自身に似た娘ロボットをつくることができるかもしれないし、生きた有機体が進化するのと同じように進化できるかもしれないからです。
もっとも、彼らは、このようなことを気にする必要がないかもしれません。
彼らはすでに、ほかの方法で彼らの遺伝情報を複製することができますから。

フォン・ノイマン以来、人々は自己複製するロボットの可能性を探ってきました。
そして、それが可能であるという主張に対する、核心をつく理性的な反論はないと思います。

私は、ロボットは生命になりうると思います。
そもそも生きている有機体自身が物質でできた存在だと考えるからです。
ただし、原理的には可能でも、非常にむずかしいことかもしれません。
実際上の困難はあることでしょう。

by リチャード・ドーキンス博士


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ギリシア人にとり議論は一種のパーティー

2013年11月19日 | 哲学・心の病
「議論を通じてよりよい結論に至ることができる」と考えていた古代ギリシア人にとって、真理に近づくことができる議論の時間は、人生の至福の時でもありました。
哲学を英語で「フィロソフィ」と言いますが、もともとはギリシア語「フィロソフィア」でソフィアは「知恵」、フィロは「愛する」という意味です。
つまりフィロソフィとは「知識を愛する」という意味の言葉なのです。
日本語では「哲学」と呼んでいますが、本来なら「愛知学」とでも訳すべきなのかもしれません。

知を愛するギリシア人にとって、議論は一種のパーティーでした。
プラトンの有名な著作に『饗宴(きょうえん)』がありますが、原題はシンポジウムの語源になった「シンポシオン」です。
これがまさに饗宴、宴(うたげ)という意味なのです。
ギリシア人は、仲間で集まってただ酒を飲むだけでは満足しませんでした。
そこには議論が不可欠だったのです。

たとえば、「エロス(愛)とは何か」という設問について一人ひとりが自分の主張を述べ合うのです。
誰かの意見に対して次の人は「いやいや、そうじゃなくて……」と違う意見を述べる。
そうして、誰の意見が最も優れていたかをみんなで判定しながらお酒を飲む。
それが彼らにとっての何よりの娯楽でした。

そこで得た結論は、別にどこかに記録されて「エロスとは〇〇である」と定義が共有されるわけではありません。
一ヵ月後にもう一度「エロスとは何か」という議論をしたときには、みんなまた違うことを言うかもしれないのです。
前回の議論を踏まえて、「前回はここまで議論が煮詰まったから、もう話す余地がないね」という考え方はしませんでした。
その時その時で、また違った主張の材料があれば、議論の内容もまた変わっていく。
もう一度、「エロスとは何か」の議論で楽しめてしまう。
そういうスポーツ的な楽しみを議論の中に見いだしていたのです。


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詩『子は親の鏡』

2013年11月18日 | 哲学・心の病
前回の記事(池田晶子「さて大人はどう答えるか-善悪」)で、
『』で囲んだ文面は、はっきり言って、私は納得することができなかった。
(『』の部分に共感した方がおられたら、私でも納得することができるよう、ご説明して頂きたい。)

そこで、私でも納得することができる「子供に善悪を教える方法」をネットで調べたら、『子は親の鏡』という次の詩に出会った。


詩『子は親の鏡』

けなされて育つと,子どもは,人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと子どもは,乱暴になる
不安な気持ちで育てると,子どもも不安になる
「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
子どもを馬鹿にすると、引っ込みじあんな子になる
親が他人を羨んでばかりいると,子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると,子どもは,「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう
励ましてあげれば,子どもは,自信を持つようになる
広い心で接すれば,キレる子にはならない
誉めてあげれば,子どもは,明るい子に育つ
愛してあげれば,子どもは,人を愛することを学ぶ
認めてあげれば,子どもは,自分が好きになる
見つめてあげれば,子どもは,頑張り屋になる
分かち合うことを教えれば,子どもは,思いやりを学ぶ
親が正直であれば,子どもは,正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば,子どもは,正義感のある子に育つ
やさしく,思いやりを持って育てれば,子どもは,やさしい子に育つ
守ってあげれば,子どもは,強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば,子どもは,この世の中は良いところだと思えるようになる


と、以上がその詩であるが、常識のある大人であれば上記の詩に共感するのではないだろうか。

しかし、その分野のほとんどの専門家は、「性格は、遺伝が50%で、環境が50%」と言っている。
もしそれが正しいとするならば、上記の詩のように素晴らしい育て方をどんなにしても、性格形成への影響は50%ということになり、育て方ではどうにもならない遺伝が、性格形成の50%を担っていることになる。

すなわち、育て方も大切であるが、それと同じくらい、遺伝も大切だということである。


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池田晶子「さて大人はどう答えるか-善悪」

2013年11月18日 | 哲学・心の病
 子供の非行に歯止めがかからないので、文部科学省が慌てている。
 「抽象的にではなく言葉で善悪を教えよ」と、大臣が言ったとか言わないとか。かなりのパニックであることが、この発言からもわかる。抽象的にではなく具体的にしようとすると、「市中引き回しのうえ打ち首」ということになるのだろうか。いずれにせよ、あまり実効がありそうには思えない。
 大人たちがパニックになるのは、実は自分たち自身が、善悪の何であるかを知らないからに他ならない。知らないものは教えようがない。彼らは、自分たち自身の無内容を改めて知り、実はそのことに慌てているのである。
 子供に善悪を教えるにはどうすればいいか。おそらく彼らはとりあえず、「万引きは悪い」「売春は悪い」「人殺しは悪い」と教えるだろう。しかし、もしこれが「教える」ことであるなら、「なんで悪いの」という子供の問いには、答えられなければならない。教えるとは、自分が知っていることを教えることのはずだからである。さて大人はどう答えるか。
 おそらく答えられない。あるいは苦しまぎれに、「悪いものは悪い」「悪いに決まっている」と、答えるかもしれない。それなら子供は言うだろう。「だって大人だってしてるじゃないか」。
 じっさい、警官が泥棒したり、教師が買春したり、お互いにわけなく殺し合ったりしている大人の口から、言えた義理ではあるまい。善悪を教えること自体の偽善を、子供は正しく看破するのである。
 ではどうするか。皆がしているからといって、悪いことが善いことになるわけではない。これを教えなければならないのである。なぜ善いことは善いことで、悪いことは悪いのか。
 ほとんどの人は、善悪とは社会的なものだと思っている。人に迷惑をかけなければ何をやってもいいのだと、実のところは思っている。「自分さえ善ければ善い」という言い方が、端的にそれである。これをもう少し巧みに言うと、「自分に正直に生きたい」となる。自分に正直に買春し、自分に正直に殺人するのも、法律に触れなければ、善いことなのである。
 しかしこれは間違いである。善いということは、社会にとって善いことなのではなく、自分にとって善いということなのである。おそらく、殺人者とて言うだろう。「自分にとって善かったから殺したのだ」と。
 この時の「自分」が問題なのである。普通は人は、自分は自分だ、自分の命は自分のものだと思っている。だから、自分の生きたいように生きてなぜ悪いという理屈になる。
 むろん悪くない。いや正確には、人は自分が善いと思うようにしか生きられない。だからこそ、それを善いとしているその「自分」の何であるかが、問題なのである。
 自分の命は自分のものだ。本当にそうだろうか。誰が自分で命を創ったか。両親ではない。両親の命は誰が創ったか。命は誰が創ったのか。
 よく考えると、命というものは、自分のものではないどころか、誰が創ったのかもわからない、

『おそろしく不思議なものである。言わば、自分が人生を生きているのではなく、その何かがこの自分を生きているといったものである。ひょっとしたら、自分というのは、単に生まれてから死ぬまでのことではないのかもしれない。いったいこれはどういうことなのか。
 こういった感覚、この不思議の感覚に気づかせる以外に、子供に善悪を教えることは不可能である。これは抽象ではない。言葉によってそれを教えるとは、考えさせるということだ。考えて気づいたことだけが、具体的なことなのだ。
 気づいてのち知る善悪は、何がしか「天」とか「自然」とか、そういったものに近いはずだ。人が、個人などという錯覚を信じ、天を忘れるほど、世は乱れるのは当然である。しかしそれも、たかだかここ数百年のことにすぎない。古人たちは知っていたのだ、「天網恢恢疎にして漏らさず」。』

by 池田晶子


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ニコッとタウン、サークル『哲学的な何か、あと……とか』

2013年11月18日 | 哲学・心の病
【ニコッとタウン、サークル『哲学的な何か、あと……とか』の紹介文です】

(※あわせて、私のブログ「重要なお知らせです-改版1」「重要なお知らせです-追記1」も、できれば読んで頂きたいのですが…)

『哲学的な何か、あと……とか』を、常識のある大人たちが集って語り合うサークルです。

(『あと……とか 』とは、ご意見、ご質問、ご相談など『何でも』ということで、ご遠慮なく、お気楽に、掲示板に『何でも』アップして下さい。)

年齢制限があり、30歳以上とさせて頂きます。
ただし、私と交流されている方は、年齢制限がありません。

サークル活動は、臨機応変で進めていきたいと思っております。

「ROM」でも構いませんし、「退会」「再入会」「再退会」…の繰り返しもご自由です。
(このサークルは「自由主義」で、強制的と感じる規則はありません。)

【メンバーの皆さんへ、お願いがあります】
このサークルに参加してほしい方がおられましたら、その方にも、このサークルを紹介して下さりますよう、お願い致します。

【ご注意】
誹謗中傷など、このサークルにふさわしくない「書き込み」は、アップされた方のご承諾を得ずに、削除させて頂きます。


【管理者のご紹介】
哲学、精神医学、心理学、生物学、理論物理学、風俗など、人に関するあらゆることを、日々、哲学的に考えています。
基本的には、文筆家、故、池田晶子さんと同じ考えを持っています。

ご交流している皆さんへ【重要なお知らせです!】

2013年11月18日 | 哲学・心の病
〉ご交流している皆さんへ

【重要なお知らせです!】

お忙しいなか、私のつたないブログを読んで頂き、そして、ブログに大変勉強になる素晴らしいコメントを頂き、言葉にできないほど感謝しております。
それにもかかわらず、私個人の諸事情により、そのコメントにご返事を書かないでいること、言葉にできないほど申し訳なく思っております。

そこで、その解決案として、私のニコタ・マイページの下部で公開している参加サークル「哲学的な何か、あと……とか」(現在の管理人は私)に、これからは、私のブログを掲載し、ご参加メンバーの皆さんで、コメントのご交流をして頂きたいと思っています。
つまり、私がご返事を書かせて頂くかわりに、他の方にご返事をお書き頂きたいと思っています。

そして、ご参加メンバーの皆さんもサークルの掲示板に、ご自分のブログなど(ご質問、ご相談など、何でも結構です)をご掲載して頂いても構いません。

とりあえずは、以上の通りに行わせて頂き、その経過を見ながら、臨機応変に対応させて頂きたいと思っています。

以上、よろしくお願い致します。


※上記のサークルの設定は、現在、「今すぐ参加可能」(管理人の許可は不要)、「掲示板・参加者などは、メンバーのみに公開」(メンバー以外には非公開)になっております。


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池田晶子「死ねば楽になれるのか-再び自殺」

2013年11月16日 | 哲学・心の病
 じっさい、死んで楽になる保証など、どこにもないのである。
 自殺する人は、死ねば楽になる、死んで楽になりたい、その一心で自殺するわけだが、死んで楽になる保証など、どこにもないのである。ちょっと考えればすぐわかるはずなのだが、とにかく生きているのが苦しいものだから、「生きているのが苦しい」の裏返しは、「死ねば楽になる」であると、短絡してしまうのであろう。
 この短絡が起こるもうひとつの大きな理由がある。先に死んだ人は、死んだことで、楽になったように見えるからである。つまり、もう生きていないから、生きなくてもすんでいるから、楽になったように見えるのである。しかし、ここでもむろん、我々は立ち止まることができる。
 なるほで、死んだ人は生きなくてすむから、楽になったように、生きている我々には見える。しかし、死んだ人自身が本当に楽になっているかどうか、じつは知れたものではない。そんなことは、我々にはわからない。ひょっとしたら、死ぬということは、とくに自ら死ぬということは、生きていることよりも苦しいことであったとしたら、どうする。
 「死んだ人自身」なんてものはない。死ぬということは自分が無になるということなのだと、こう考えることもできる。無になるということが、すなわち、楽になるということなのだと。
 しかし、無が楽であるとは、どういうことなのだろうか。無とは、文字通り無なのだから、そこには苦しいも楽しいもないはずである。そんなものは、なんにもないはずである。ゆえに、無になることが楽になることだと言っている人は、無になることが楽になることだと言っているのでは、じつはない。正確には、生きていることの苦しみが無になること、それが楽になることだと言っていることになる。
 けれども、ここでもなお我々は立ち止まることができる。つまり、この理屈によれば、死んで無になれば、生きていることの苦しみがなくなって楽になったと思っている自分もまた、ないはずだということである。楽になったと思っている自分がないのだから、楽になるということも、当然、ない。要するに、生きていることの苦しみが無になることが楽になることだというのは、あくまでも、生きている自分がそう思っているだけだということである。ということは、死ねば楽になるなんてことは、やっぱり、ないということである。
 えい、うるさいわ、理屈なんぞはどうでもいいわ。とにかく自分はこの苦しみから逃れたいのだ、死んですべてを無にしたいのだ。かくして人は、自問自答の堂々巡りの末に、衝動的に死ぬのであろう。
 ああ、しかし、うるさいようだけれども、それでもなお我々は考えられるのである。いやここでこそ、せめて死ぬ前に一度くらいは、まともにものを考えてみていいのである。なるほど、すべてを無にしたい。しかし、無なんてものは、はたして存在するものであろうか。無は、存在するのであろうか。
 なんとまあおかしいじゃないの。無は、存在しないから、無なのであろう。無が存在したら、それは無ではないであろう。なんで死んですべてを無にするなんて芸当が、我々には可能なものであろうか。
 じっさい、こんな理屈は、考える必要すらないのである。在るものは在り、無いものは無いなんて理屈は、理屈ですらないのである。理屈以前のたんなる事実、犬が西向きゃ尾は東、みたいなもんである。なあんだ、というようなもんなのである。
 とはいえ、だいたいにおいて、当たり前なことほど人は気づかないものである。当たり前なことほど、難しい理屈に聞こえるものである。けれども、上のような理屈が、そんなふうに聞こえ、めんどくさくて死ぬ気がなくなったというのなら、それはそれで、無用の用というものであろう。

by 池田晶子


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池田晶子「死は現実にはあり得ない-自殺」

2013年11月14日 | 哲学・心の病
 年間の自殺者は3万人を超える。交通事故死者よりずっと多い。とくに最近は中高年の自殺が増えている。
 ネット心中の場合は、あれを心中と言うべきなのか、みんなでなんとなく気分にまかせて、といった趣きだが、こちらはおそらくそうではない。おそらく、一人で深く思い詰めて、しかし最後まで周囲を気遣って、という人が多いと思われる。
 人間は自殺する唯一の生物である。以前にも述べたけれども、それは、人間が観念としての死をもつからである。観念としての死とは、要するに、現実の死ではないところの死である。しかし、現実の死、つまり自分が現実に死ぬ時には、自分が現実に死ぬのだから、自分が現実に死ぬのではない時の死は、すべて観念としての死である。ということは、生きている限り、人間にとっての死は、すべて観念だということである。死は現実にはあり得ないという、驚くべき当たり前のことである。
 当たり前、よく考えると確かにこの通りなのだが、当たり前のことほど人は考えないものだから、多くの人はこの当たり前に気づかないまま、一生を終えることになる。それが、他人事ながら、もったいないと言えばもったいないような感じがする。
 自殺する人は、どうして自殺するのだろうか。
 絶望して、追い詰められて、他にもどうしようもなくなって、つまり、もうそれ以上生きていたくなくなって、人は自殺するのである。観念であるところの死は、通常は、恐怖されて避けられる対象となるが、この場合は、求められ、欲せられる対象となる。しかし、考えられていない死が、恐怖の対象であるという点は、おそらく変わっていない。ゆえに、この時、死は欲せられながら恐怖されるわけである。恐怖されながら、欲せられるわけである。これはものすごい葛藤であるはずだ。やはり他人事ながら、この葛藤を想像すると、それだけで気の毒な感じになる。
 で、この葛藤を超越するために、自殺する人はどうするかというと、衝動に身をまかせるのである。発作的に死ぬのである。たぶんそうだと思う。何がどうあれとにかくもう生きていたくはないのだ。ただその思いだけで、エイヤッと跳ぶのである。
 ところで、再び冷静に考えてみたい。人が、「生きていたくない」つまり「死にたい」と思うということは、死ねば、生きなくてすむと思うからである。死ねば、死ねると思うからである。しかし、これは本当なのだろうか。
 なるほど、生きなくてすむためには、自分を殺すしか方法はない。自分を殺すということは、自分を無くするということである。自殺する人は、自分を無くすることを欲して、つまり無を欲して、自殺するのである。しかし、死ぬということは、無になるということで、本当にいいのだろうか。
 なるほで、死んだ人はいなくなって、無になったように、生きている我々には思える。けれども、死んだ人は死んで無になったと本当に思っているのなら、なんで我々は墓参りなどするものだろうか。なんで心の中で語りかけたりするものだろうか。これは、死んだ人は無になったとはじつは誰も思ってはいないことの、まぎれもない証左であろう。
 だからと言って、これは、死後にもなお何かがあるという話とも、ちょっと違う。死後を云々する人とて、生きている人なのだから、そんなのが本当なのかどうかわからないのは道理である。唯一確かに言えるのは、以下の恐るべき当たり前、すなわち、無なんてものは、無いから無である、このことだけなのである。
 その意味で、自殺は逃げであるというのは、まったく正しい。我々は、生きることからは逃げられても、無くならないということから逃げられるものではない。そのことをどこかで知っている我々は、それを指して、「後生が悪い」と、正しく言ってきたのである。

 死なんとする人、待たれよ、しばし。

by 池田晶子


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野矢茂樹「批判に対して……」

2013年11月12日 | 哲学・心の病
自分が言ったことが批判されていく。
で、その批判に対して、何か誠実に応対していく。
誠実に応対して、自分の考えを修正し、訂正し、またパワーアップしていくというようなことを本当に数えきれないぐらい、うんざりするぐらいやっていかなければダメなんだろうなと。
(中略)
批判されて、批判しても、傷つかない。
そういう場が必要なんだと思う。
それはあまり、世間的にはやりにくいことで、大学(ニコタ by ?)の中っていうのは、やりやすい場所だと思うんですよ。
(中略)
さあ、ここは批判してごらんというようなことをお互いにやりあえる。
大学のときに(ニコタで by ?)そういうのを存分にやっておかなくちゃ、やっぱりいけないと思うな。

by 野矢茂樹


私のつたないブログへも、ご批判がございましたら、ご遠慮なくお書き下さりますようお願い致します。

なぜならば、極端な言い方を致しますと、ご賛同よりもご批判の方が、私には見えなかった視点からのご意見を得ることができ、大変勉強になると思いますので。

但し、こう見えましても私は打たれ弱いところがありますので、お手柔らかにお願い致します。


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以前、ブログに書きました「カミングアウト」は、変身願望(かな?私にもよくわかりません)による言動で、いわゆる「ジョーク」でございます。


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人間は時間の逆転を観測できない!

2013年11月10日 | 哲学・心の病
スティーヴン・ホーキングは、宇宙の時間が逆転する可能性を述べた上で、そのような現象を人間は観測できないとした。

人間が宇宙を観測する時、それは人間の脳に記憶として蓄積されるが、時間が逆転すれば記憶は失われていくので、観測は不可能になる。

よって、時間が過去から未来へと進むのは、人間がそのような時間の流れる宇宙しか観測できないからとした。


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私たちは何かしらの麻薬の常習者か?

2013年11月10日 | 哲学・心の病
たしかに宗教は麻薬である。
だが、もし人がその麻薬を拒否し、軽蔑できるとすれば、それはその人がすでに別の麻薬の安定した常習者、であるからにすぎないのである。

by 永井均「ルサンチマンの哲学」


仮に、永井均氏が何かしらの宗教の信者としたら、彼は麻薬の常習者となる。
また、仮に、無宗教の信者だとしても、彼は何かしらの麻薬の常習者となる。

ということは、彼が言っている上記の「宗教、うんぬん」は、何かしらの麻薬の常習者が言っていることとなり、「何かしらの麻薬の常習者」とは、何の疑いもない「何かしらの信者」ということになる。
(ただし、彼のご意見を正しいとするならば、だが。)

と、彼は言っているのだ。

つまり私たちは、何の洗脳も受けずに客観的に考えることができず、何の洗脳も受けずに客観的に正しいと言うことができないことになる。

と、彼は言っているのだ。


と、ここまでこの記事を読んで下さったあなたは、彼の主観的ご意見の信者ですか?


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池田晶子「子供を産もうとしたことがない」

2013年11月10日 | 哲学・心の病
私は、子供を産もうとしたことがない。
ところがこれが、世に言う「ノー・キッズ」の思想とは根本的に違うものらしいということにも次第に気づいた。
私には、産む産まないについての選択肢というものが、はじめから、ない。
念頭をかすめたことさえも、ない。
つまり、あれとこれとをハカリにかけて勘案したうえに手にした決意ではなくて、私の思考のストックには、「自分の子供」という観念がそもそも存在していなかったのだ。

産んで産んで、また産んで、と続いてゆく人類の生の連鎖の無自覚さを、どこかで厭わしく思っているのだろう。
産む産まないは自ら意思したつもりでも、自らが存在したことは自ら意思したわけではない。
自ら意思して存在したわけではない生命に「価値」などない。
創生の意図を知ることができるのでなければ!

by 池田晶子「無自覚のまま生きられない私」


子供を産むということに対しては、実は私も池田晶子さんと同じ感覚を持っている。

但し、彼女が言っている『自ら意思して存在したわけではない生命に「価値」などない。創生の意図を知ることができるのでなければ!』には、私は同意できないし、そう言い切っている彼女に怒りさえも感じる。

が、その一方で、彼女がときおり行っている「問題提起」なのかもしれないと私は思っているが、その真意は私にはわからない。


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曽野綾子『人間にとって成熟とは何か』

2013年11月09日 | 哲学・心の病
曽野綾子さんの『人間にとって成熟とは何か』が売れていると、ある番組で紹介していたが、なぜ売れているのかその理由は私にはわからないが、彼女が言っていることに、私は共感するところがある。
その一部を紹介すると、「正しいことだけをして生きることはできない」「全てのことに善と悪の両面がある」「いいばかりの人もいなければ……」である。

理想も大事ではあるが、常識のある大人であれば現実の世界では、密かに悪いことが行われていることはわかっていて当然だ。
今、ちまたで騒がれている「食材の偽装」もしかりであり、私に言わせれば、何をいまさらだ。
「脱税をしていない会社はない」は、私が大学生のときに聞いた叔父の言葉である。

そして、売春も悪とされているが、現実には「必要悪」として密かに行われている。
例えば、〇ープランドでは法的に認められている性的なサービスを提供しているが、現実には売春(本番)が行われており、警察は見て見ぬふりをしている。
その一例として警察は、売春が行われていないかどうか調査する前に、いつ調べに入るか事前に店側に知らせ、店側は事前に売春の証拠となるものを他の場所に隠すと、吉原で働いていた女性から聞いたことがある。

また、〇風俗で働いているある女性は、私たちは婦女暴行を未然に防ぐことに貢献していると私に言ったが、「必要悪」とされている売春が、本当に彼女の言っている通りなのか私は調べてみた。
韓国の2011年の「犯罪白書」によれば、過去10年間の強姦および性暴力(強制わいせつ)の件数は、
2001年 10,446
2002年 9,435
2003年 10,365
2004年 11,105
2005年 11,757
2006年 13,573
2007年 13,634
2008年 15,094
2009年 16,156
2010年 19,939
で、2005年までは9千~1万1千件前後だったが、2006年以降は急増し、2010年は2万件近くになっている。

日本の2011年の「犯罪白書」によれば、
2001年 11,554
2002年 11,833
2003年 12,501
2004年 11,360
2005年 10,827
2006年 10,274
2007年 9,034
2008年 8,593
2009年 8,090
2010年 8,316
で、2003年が1万2千5百件で最も多く、それ以降は減少しているが、2007年に大きく減少している。

そして、韓国で強姦および性暴力が増えた原因は、2004年、韓国政府が売春特別法を制定し、売春一掃作戦に乗り出したからではないかと、私は思う。
ソウル在住のある韓国人男性によると、「ミアリやチヨンヤンニといった有名売春街は摘発され、今や壊滅状態」だそうで、韓国で売春ができなくなった女性たちは日本やアメリカなどの外国で、売春を行っている。

その一方で、日本で強姦および性暴力が減少した原因は、手軽に〇風俗のサービスを提供してもらえる〇リヘル(地域や女性によっては売春(本番)あり)が十数年前から徐々に増えたことと、韓国からの売春婦の流入が増えたからではないかと、私は思う。


と、私はここまでこの記事を書いて、開高健氏の「何かを手に入れたら、何かを失う」という言葉を思い出し、あることを思った。

それは、現実を見すぎた私は、大事な何かを失ったのではないかと……。


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『続・悩む力』

2013年10月31日 | 哲学・心の病
姜尚中氏のベストセラーの続編『続・悩む力』に、次のことが書かれている。

『結論を先取りすると、人生に何らかの意味を見出せるかどうかは、その人が心から信じられるものをもてるかどうかという一点にかかわってきます。
「悪」に魅せられてそれに手を染めることも人生の意味だとは言いたくはありませんが、個人や集団に実害が及ばないなら、差し当たり何でもいいのです。
恋人でも、友でも、子供でも、妻でも、神でも、仕事でも。
というのも、何かを信じるということは、信じる対象に自分を投げ出すことであり、それを肯定して受け入れることだからです。
それができたときにはじめて、自分のなかで起きていた堂々めぐりの輪のようなものがブツリと切れて、意味が発生してくるのです。』

彼は、「信じる対象に自分を投げ出せば、生きる意味が発生する」と言っているが、私は彼が言っていることに賛同することはできない。
なぜなら、産まれて直ぐに亡くなる子には生きる意味はないのか?
また、一生、意識がなく寝たっきりの重度障害者には生きる意味はないのか?

私は、すべての人に生きる意味が発生する「生きる意味」でなければ、すべての人が納得するという普遍性のものにはなりえないと思う。
そして、私が求めている「生きる意味」は、そういうものである。


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