昨夜、ひと月余りの激務から解放されて、銀座の鮨屋にてささやかな慰労会となった。
直属の上司「コードネーム0024氏」と部下「下町の素潜り君」に私という面々である。
(このひと月、昼食と夕食は、ほとんどこのメンバーで共にしている・・・)
3人とも野球に明け暮れた少年時代を経験しているため、普段から野球の話題が多い。
乾杯後の常で、このひと月余りの仕事の成果と来月以降の業務展望が話題となったが、
またしても野球の話題に花が咲き、昨夜は、野球マンガやアニメの話で盛り上った。
さて、久しぶりの鮨屋で刺身に酢の物、煮物と、ちょっと贅沢をしたわけだが、
なかでも「まぐろ三昧」という刺身の盛合せには、思わず声をあげてしまった。
当たり前といっちゃあ当たり前なのかもしれないが、美味いのなんのって!!!
大トロなんて脂はのってるし、舌あたりのなめらかさといい、適度な弾力といい、
もう、これはまさに食感という言葉で表現するに足る味わい。
私ら庶民には贅沢極まりない瞬間とも言える
こんなに美味しいものを食していてもいいのだろうか・・・
しばし悦びに浸っていると、ふと「桜桃」が頭をよぎった・・・
そう、
職場やオケ仲間との付き合いでとくに美味しいものを食するとき、
ほとんど反射的に、「桜桃」のことが頭をよぎるのだ。
太宰治の晩年の作品に『桜桃』という短編がある。戦後間もない昭和二十三年の発表。
中学生時代に買い求めた新潮文庫版の「ヴィヨンの妻」に収められている。
「子供より親が大事、と思いたい。」という書き出しは、当時の私にはかなりショックだったが、
そんなことを含めて、この短編で描かれる小説家が強烈な印象となって頭に焼き付いている。
この短編は、話の流れとしては、小説家の家庭の状況と、その妻との夫婦喧嘩が描かれ、
それを機に、執筆道具をもって飲み屋に避難することが描かれている。
(ここでは、小説としての味わいや行間を読み解くことはしない)
そして、その飲み屋でぜいたく品の「桜桃」を口にすることになる。
「桜桃が出た。」
「私の家では、子供たちに、ぜいたくなものを食べさせない。子供たちは、桜桃など、見た事も無いかも知れない。食べさせたら、よろこぶだろう。父が持って帰ったら、よろこぶだろう。蔓を糸でつないで、首にかけると、桜桃は、珊瑚の首飾りのように見えるだろう。」
小説家はそんなことを考える。
「しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種を吐き、食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいにつぶやく言葉は、子供よりも親が大事。」
初めてこれを読み終えた時、とにかく辛くて辛くてやりきれない気持になったものだ。
読みながら頭の中に思い描たイメージが、映画のワンシーンのように、
ぼんやりした映像ではあるが、その印象はかなり鮮明に焼きついている。
状況として、鮨屋のまぐろと『桜桃』の話は次元が違うが、
こんな美味しいものを家族の知らないところで自分だけが食している。
平常ではいられないような気持が胸を突いて、どこかへ逃げ出したくなる。
楽しいひと時、シアワセなひと時に、そんなハッとする瞬間がある。
「桜桃」は、そんな酸っぱい記憶である。
・・・・・気がつくと野球マンガの話で盛り上っている。
まぐろが美味い美味いと、3人で上機嫌になっている。
不思議なものだ。
蛇足ながら・・・
鮨屋を出るとき、店内の壁に張り出している「本日のおすすめ」なんぞをながめていて、
「鮪」という字をなんとなく見つめていると、まぐろは「魚」が「有」ると書くことを再発見。
鮨にしても、刺身にしても、まぐろは代表格である。
漢字の造りの本当の意味は知らないが、魚が有るとは恐れ入った。
直属の上司「コードネーム0024氏」と部下「下町の素潜り君」に私という面々である。
(このひと月、昼食と夕食は、ほとんどこのメンバーで共にしている・・・)
3人とも野球に明け暮れた少年時代を経験しているため、普段から野球の話題が多い。
乾杯後の常で、このひと月余りの仕事の成果と来月以降の業務展望が話題となったが、
またしても野球の話題に花が咲き、昨夜は、野球マンガやアニメの話で盛り上った。
さて、久しぶりの鮨屋で刺身に酢の物、煮物と、ちょっと贅沢をしたわけだが、
なかでも「まぐろ三昧」という刺身の盛合せには、思わず声をあげてしまった。
当たり前といっちゃあ当たり前なのかもしれないが、美味いのなんのって!!!
大トロなんて脂はのってるし、舌あたりのなめらかさといい、適度な弾力といい、
もう、これはまさに食感という言葉で表現するに足る味わい。
私ら庶民には贅沢極まりない瞬間とも言える
こんなに美味しいものを食していてもいいのだろうか・・・
しばし悦びに浸っていると、ふと「桜桃」が頭をよぎった・・・
そう、
職場やオケ仲間との付き合いでとくに美味しいものを食するとき、
ほとんど反射的に、「桜桃」のことが頭をよぎるのだ。
太宰治の晩年の作品に『桜桃』という短編がある。戦後間もない昭和二十三年の発表。
中学生時代に買い求めた新潮文庫版の「ヴィヨンの妻」に収められている。
「子供より親が大事、と思いたい。」という書き出しは、当時の私にはかなりショックだったが、
そんなことを含めて、この短編で描かれる小説家が強烈な印象となって頭に焼き付いている。
この短編は、話の流れとしては、小説家の家庭の状況と、その妻との夫婦喧嘩が描かれ、
それを機に、執筆道具をもって飲み屋に避難することが描かれている。
(ここでは、小説としての味わいや行間を読み解くことはしない)
そして、その飲み屋でぜいたく品の「桜桃」を口にすることになる。
「桜桃が出た。」
「私の家では、子供たちに、ぜいたくなものを食べさせない。子供たちは、桜桃など、見た事も無いかも知れない。食べさせたら、よろこぶだろう。父が持って帰ったら、よろこぶだろう。蔓を糸でつないで、首にかけると、桜桃は、珊瑚の首飾りのように見えるだろう。」
小説家はそんなことを考える。
「しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種を吐き、食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいにつぶやく言葉は、子供よりも親が大事。」
初めてこれを読み終えた時、とにかく辛くて辛くてやりきれない気持になったものだ。
読みながら頭の中に思い描たイメージが、映画のワンシーンのように、
ぼんやりした映像ではあるが、その印象はかなり鮮明に焼きついている。
状況として、鮨屋のまぐろと『桜桃』の話は次元が違うが、
こんな美味しいものを家族の知らないところで自分だけが食している。
平常ではいられないような気持が胸を突いて、どこかへ逃げ出したくなる。
楽しいひと時、シアワセなひと時に、そんなハッとする瞬間がある。
「桜桃」は、そんな酸っぱい記憶である。
・・・・・気がつくと野球マンガの話で盛り上っている。
まぐろが美味い美味いと、3人で上機嫌になっている。
不思議なものだ。
蛇足ながら・・・
鮨屋を出るとき、店内の壁に張り出している「本日のおすすめ」なんぞをながめていて、
「鮪」という字をなんとなく見つめていると、まぐろは「魚」が「有」ると書くことを再発見。
鮨にしても、刺身にしても、まぐろは代表格である。
漢字の造りの本当の意味は知らないが、魚が有るとは恐れ入った。