ヨハネによる福音書20章24節から29節までを朗読。
29節に「イエスは彼に言われた、『あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである』」。
イエス様がご復活なさった日の夕方、弟子たちがユダヤ人を恐れて、ひとつの家に引きこもっていました。そこへよみがえった主が現れたのです。このことが19節以下に記されています。そのとき「弟子たちは主を見て喜んだ」とあります。イエス様がまさか生きているとは思わなかった。その日の朝早く女の人たちが墓へ行ったとき、イエス様の亡骸はありませんでした。しかも、実際に空の墓を見たのです。しかし、まだよみがえったと信じられなかったのです。人の常識、人間的に考えると、イエス様がよみがえると信じるのは難しい。そんなことはあるはずがない。いくらなんでも、死んだ人が生き返ることは考えられない。だから、マグダラのマリヤもイエス様の墓にいたとき、墓の番人だと思って「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」と言ったのです。目の前にイエス様を見ていながら、それでもわからなかった。
イエス様の蘇りを信じられないのは当然かもしれません。当然というのはおかしいかもしれませんが、常識や世間一般の考えではあり得ない。だから、このときの弟子たちも、朝早く墓に行ってみたら空っぽだったが、きっと、誰かがどこかへ移したに違いないくらいに思っていた。それで、彼らはただ恐れて、自分たちの不安と恐れの中で縮こまっていたのです。そこへイエス様が現れて、「安かれ」、心配するな、安心しなさいと言って、励ましてくれました。そればかりでなく、御自分の手とわきとを見せて、「十字架にかかったが、よみがえってこのように生きている。幽霊でもなんでもない」と証詞しました。彼らは主を見て喜んで、安心し、力を与えられた。
ところが、24節に「デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった」と。たまたまトマスはどこかへ出かけていたのでしょう。留守だったのです。戻ってきて、弟子たちがみな喜んでいる。イエス様が生きていらっしゃる。よみがえったイエス様にお会いした。25節に「ほかの弟子たちが、彼に『わたしたちは主にお目にかかった』と」。トマスは悔しかったと思います。イエス様が来られるなら、自分もそこにおればよかった。恐らく、つまらないことで出かけて、留守をしていたので、より一層残念だったかもしれません。私たちでもそうです。家族の誰かがいないときに、偶然いただいたケーキを食べたりすると、帰宅した者に「おしかったね。あれおいしかったよ」と、食べ終わったケーキのケースだけを見せて、自慢したがります。それと同じで、弟子たちはトマスに向かって自慢したのです。ところがトマスも負けていません。そう言われてすんなり引き下がるわけにはいかない。じゃ、見たとは言うけれども、それは本当なのかと。傷あとに触ったのか? そう言われたら、弟子たちもちょっと困る。見たのは見たが、触っていない。だから、トマスが「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」と言います。トマスもことの成り行きで、こう言わなければならなかったと思います。「見たと言うが、あなた触ったのか? 」「触ってはいない」「ほらみろ。触っていないのに」ということになる。イエス様がよみがえられて一週間ほどたって、弟子たちが家のうちに戸を閉ざして、ひっそりとしていたとき、「安かれ」と言って、イエス様が入って来られました。そして、トマスに向かって「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい」と。そして「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
これは私たち自身の問題でもあります。私たちは、絶えず、信じるか、信じないかという、狭(はざ)間にいつも立たせられているのです。信じているときもありますし、信じられなくなるときもあります。そうでしょう。普段、信仰生活をしていて、ズーッと右肩上がりで調子よく進むかと言うと、そうはいかない。信じて喜んでいると思ったら、疑いを持って谷底に落ち込みます。浮いたり沈んだりする。まさに、トマスに対してイエス様が、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言われたように、今も私たちに求められているのです。そのときイエス様は、トマスに手を伸ばして、わたしのわきにさし入れてみなさいと言われましたが、もう触る必要はありません。彼は「わが主よ、わが神よ」と答えました。このときトマスは恐らく、イエス様が“やがて、わたしはよみがえるときがくる”とお話になったことを、一瞬にして思い起こしたでしょう。これは主だ!神だ!だからはっきりと「わが主よ、わが神よ」と。イエス様に対してこういう言い方をした箇所は、ほかにはありません。主ということは言いますが、「わが神よ」と、イエス様を神と呼んだのはまさにトマスです。イエス様は、決して御自分を十字架におかかりになるまでの間、一度として「わたしは神だよ」と言われたことはありません。「人の子」という言い方をしました。「神からつかわされたもの」とは言いますが、「わたしが神だ」と言われたことはありません。トマスは「わが神」、私の神ですと告白しました。
これはその当時、破天荒と言いますか、到底考えられない言葉です。ユダヤ教の世界でトマスも生きていたから、人を神とする、偶像を礼拝するのは大きな罪を犯すことになります。だから、ユダヤ人たちはイエス様が神だと言ったという口実で捕らえたのです。しかし、調べたところ、一度としてイエス様は自分を神だと言ったこともなければ、人々から「あなたは神です」と言われたこともありません。ただ、神からつかわされたものとか、神様をわたしのお父さんであると言ったことで、自分を神としたというように非難されたのです。一度として自分を神とはしなかった。だから、ピラトの法廷で調べられたとき、イエス様にはその嫌疑、訴えられている事柄の実態がない。だから、総督ピラトすらも、イエス様に罪を認めることができなかったのです。
そのように、偶像を拝むことが徹底して禁じられた時代に、イエス様を「わが神」と呼ぶのはトマスが本当にイエス様を主である、神であると信じたからです。それに対して29節に、イエス様は「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」と言われました。「わが主よ、わが神よ」と言ったときに、イエス様は神と呼んではいけないとは一言も言わなかった。ペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と言ったとき、イエス様は大変喜びました。そのとき、ペテロは「あなたは神です」とは言わなかったのです。「神の子である」と言ったのです。一方、トマスはイエス様を「あなたはわが神」と告白した。恐らく、イエス様は大変喜ばれたと思います。トマスがその信仰を持ったことはうれしかった。ところが、トマスを褒めませんでした。「あなたはわたしを見たので信じたのか」。あなたは、今わたしを目の前に見て、神であることがわかったのだから、信じたのか? と問われたのです。そして「見ないで信ずる者は、さいわいである」と。
ここが私たち自身の問題でもあります。信仰は、絶えず変化し、動いていくものです。あるとき、ある日を限って、そこで信仰を得たから、後はそのままいくものではありません。たとえば、運転免許証取得すると、実際に運転したことがなくても、ペーパードライバーであっても資格はズーッと続きます。もちろん定期的に更新しますが、その手続きさえしておればいい。信仰はそのようなたぐいのものではありません。何十年か前に洗礼を受けて、イエス様を信じる信仰を与えられたから、免許皆伝、これがあるから大丈夫というものではない。絶えず、「今」というときに、その信仰に立って生きているかどうかが大切なのです。過去、どんな信仰を持っていたかは問題ではありません。
時々そういう方がいます。長年、何十年と信仰生活をしている方で、たまに教会に来られる。「もう少し熱心になって、毎週礼拝に来られたらどうですか」と言いましたら、「はぁ、ちょっと今は忙しくて……」と。「でも毎週礼拝に来られたら幸いだ」と勧めます。すると、「昔は私も熱心だったのですよ。遠い道のりを雨の日も風の日も一日も欠かさず、あのころは私も熱心にがんばっていましたけれどもねー」と言われます。「それで今は? 」「今は、ちょっとほかにいろいろとすることがありまして……、忙しくて」と。その方は必ず昔のことを言われます。「あれもして、こんなこともした、このように私は熱心でした」「で、今は?」と言う。「今はちょっと……」と。ペーパードライバーならいいですが、信仰は今を生きることです。今日、何を信じて生きているか。そこが大切な事です。信じるべき事はただ一つだけです。聖書の御言葉、神様の御言葉を、現実がどうであれ信じることです。
現実の生活で自分の常識だとか、あるいは自分の力、体力、これまでの経験などに基づいて、これならできるとか、これはできないとか、判断します。自分を中心にしながら、自分の目に見えている状態、見えると言うのは形として見えなくても、自分の経験であるとか、能力、学歴だとか、学んできたいろいろな才能(タレント)、そのようなものを含めて、自分でできると思う事の中で生きている。これが見える世界で生きることです。ところが、信仰によって生きる世界は見えないものを信じていく。見えないものとは聖書の御言葉です。約束の御言葉を信じるのです。
イエス様は十字架にかかり、苦難を受けられた後、三日後によみがえると繰り返し語っていました。ところが、弟子たちはイエス様の御言葉を信じていなかった。だから、イエス様がいないと言って失望したのです。失望している間は決して幸せではありません。私たちの幸いは、平凡な日常生活に思い煩いがなくて、喜びと安心があり、望みに輝いていることではないでしょうか。病気で苦しんで、いつも根暗な人生、これこそ私の幸いだと言う人は別ですが、誰でも希望に満ちた人生を送りたいと思っています。だから、神様は私たちを幸せにしようとして、イエス様を送ってくださいました。神様は愛に満ちた約束の言葉を私たちに与えてくださいました。
神様は私たちに、日々、喜びと命に輝いて生きる者であってほしいと願っている。それは私たちが造られた目的だからです。しょぼくれて、眉(み)間にしわを寄せてうつむいて、顔が青白くなって、ため息ばかりついている人生を神様は喜ぶはずがない。それはそうでしょう。ここに花がありますが、この花は命に輝いて上を向いて勢いがいい。これが数日たってご覧なさい、しおれてしまいます。そんな花を眺めてうれしい人はいません。それと同じで、しょぼくれた隣の人を見て元気づいたと言う人はひねくれた人です。不幸な人を見て喜ぶ人は確かにいますが、輝いて望みにあふれて、平安であることが、なにより幸いです。それを私たちに与えようとしてくださっているのが神様です。神様は私たちを幸せにしてあげようと、この愛の手紙(聖書)を与えてくださいました。ところが、神様の御言葉が具体的にどこにどのようになっているのかわからない、見えないので、自分の常識や見えるものによって安心を得よう、見える事で喜ぼうとしてしまう。しかし、現実は見える状態でなかなか喜べない、望みをもてない。力もわいてきません。
今ご自分が置かれている生活の一つ一つをみて、将来に大きな望みを与えるものはありません。悪いものばかりです。今日は健康だけれども、明日はどうなるかわからない。経済的にも、健康的にも、あるいは家庭の中にも、バラ色に輝く、夢を与えてくれるものがありますか? 考えたら、むしろ失望することばかり。だから、できるだけ考えないで生活している。しかし、神様は、そのような中にいる私たちに希望を与えてくださる。御言葉によってです。神様は、約束してくださって、イエス様が私たちの罪のあがないとなってこの世に来てくださったこと、そして十字架に自分の命を捨てて、私たちを愛していること、よみがえったイエス様が主となって、いつも私たちと共にいること。この聖書を読みますと、神様はどんなに熱心になって私たちに愛を注いでくださっているか、証詞されています。
ところが、私たちは、絶えず、目に見える現実の事ばかりを見ていますから、聖書にそうは言っているけれども、私にはちょっと難しい。これはできない、そうなればいいけれども、しかし、ちょっと無理に違いない。「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」と記されている。それを読んで、「ああ、いいな」、でも神様だってできないことがあるかもしれない。あるいは、私がこう願っているけれども、ひょっとして、それは御心でないと拒まれるかもしれない。「神様は、愛するものを懲らしめる」とあるから、私も懲らしめられるに違いない。そのように悪いほうにばかり思いが向きます。これはそもそもの生まれてからの私たちの性質の悪さです。もっと素直になりたいと思います。そのような頑なで、ねじ曲がった性質のゆえに、イエス様は命を捨ててくださったのです。そして、今ここでトマスに対して言われたように「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。ここが絶えず日々戦うべき事です。
テモテへの第一の手紙6章11,12節を朗読。
この12節に「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである」。ここに「信仰の戦いを」と言われています。これはまさに、今トマスがイエス様から求められている「信じる者になること」、これが戦いなのです。現実のいろいろな問題の中に置かれ、失望落胆し、望みを失い、また喜び平安を失います。しかし、そこで神様の約束の言葉に立ち返って、現実はこうだけれども、しかし、あなたはこのように約束していますから、信じますという戦いなのです。これはなかなか手ごわい戦いです。
私自身もそう思いました。病気をしまして、一体こんな病気をしてこれからどうするかなと、不安になりました。そのとき、詩篇の23篇の「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」とのみことばが与えられました。ところが、なかなか「わたしの牧者」、言い換えると、イエス様が私の主となってくださる、羊飼いとなってくださる。それは分かっているのだが、なかなか信じられない。信じられないどころか、自分の置かれた問題の中で、ああなったらどうしようか、次にこうなったら、どうしたらいいだろうかと、心が騒ぐ。実は、どうしたらこうしたらもないのです。「主はわたしの羊飼い」と信じきってしまうならば、主が羊飼いで導いてくださるのだから、それに委ねればいいのですが、委ねきれない。ここが信仰の戦いです。私はその病気の中で呻吟(しんぎん)しながら、そして祈って、祈って、はじめて、「そうでした」と悟る。頭で知っている御言葉が、はじめて自分のものとなってくる。どうにもしようのない現実にぶつかります。まだほかに逃げ道はないだろうか、何かどこかにうまい方法はないだろうか、なんとか避けられないだろうかと、一生懸命に考えた挙句、八方塞がりだと気がつく。お手上げになったとき、初めて「主はわたしの牧者」、そうでした、神様、あなたは主です。もうどうなっても構いません。あなたの手の中にあることですからと、信じる。そこまで戦うのです。でも、それを戦わないことには、永遠の命にあずかることはできません。そこで投げ出して、仕方がない、自暴自棄、自棄(やけ)のやん八(ぱち)、私はしたいことをするわと、グヂャグヂャになってしまったら、いよいよ悪くなります。
そこで本当に戦い抜いて、御言葉に自分を従わせていく。これが「見ないで信じる」ことです。見ないで信じる。まだ結果は見ていないけれども、主が私の牧者となって命を捨ててくださって、「いこいのみぎわに伴われる」と言われます。主の手に握られている自分であることを、確認するのです。普段もそのみことばを知っていますね。口では「感謝しています。主が私の牧者ですから、私の主になってくださって、毎日毎日、神様が導いてくださっていますから感謝です」と言っています。だけれども、それは一般論です。具体的に自分の一つの問題、あるいはのっぴきならない、抜き差しならない事の中に置かれたときに、果たしてそこで、「はい、そうです」と、ピシッと言えるかどうかは、戦わなければ勝ち取っていけないのです。じっとしていてなるわけではありません。心の中で不信と信仰との間を、嵐のように振り回されます。そこで主に立ち返って、主にしがみついて、はじめて心が定まる。思いが御言葉にぴたっと一つになっていく。そうしますと、それまで失望と落胆の闇の中にいても、一瞬にして光が輝いてきます。「そうでした、主よ、あなたが主ですから、もう大丈夫です」と、確信が私たちのうちに湧いてくるのです。御霊が私たちに勝利を与えてくださいます。これが「見ないで信じる者」の幸いです。現実、置かれている事柄や問題に変化はなくても、私たちの思い、心が変わってきます。
しかし、過去の経験はあまり役に立ちません。新しい問題に出会うでしょう。すると、過去もそのような問題の中で悩んで勝利してきたのですが、どういうわけか、今回は前のとは違うと思うのです。だから、悩んでいるとき、「あなた、あの時、あの大変つらい中を、御言葉によって勝ち抜いたではないですか。もう一度思い出してご覧なさい」と言うと、「いいえ、あの時は、まだ若かったからですよ。もう、この年になったら、あのときと同じではありません」と。確かにそうなのだろうと思います。だから、昔、信仰に立って頑張ったから、次に悩みがきたときも大丈夫とは言えません。最初に申し上げたように、信仰は免許皆伝で一回限りのものではなくて、毎日毎日、時々刻々、新しく、新しく、信じるか信じないかが絶えず問われている。毎日、朝から晩までいろいろな問題に出会うとき、神様はいらっしゃるのだろうかと、フッと突風が吹くように不信の思いが心に差してくる。皆さんも普段そう思っているけれども、そう言うと不信仰に思われそうだから、言いません。しかし、みな同じです。横の方を見て、そんなことはなさそう、あの人は信仰一本の人に思われますが、そんなことはありません。いつも、そのような弱さの中に振り回されているのです。しかし、また幸いなのは、その戦いを戦い抜いて勝利を得たときの喜びがある。揺れ動いて眠れない夜を過ごした後に、お手上げになって降参し、神様、どうぞお助けください、御言葉による以外にありませんとなったとき、主の霊が一瞬にして注がれ、闇の中にさっと光が差してきます。もうどうなっても大丈夫、神様がいらっしゃるのだから……と。そこに心がぴたっと合うときがある。それが信仰の戦いのだいご味です。ですから、失望しないで、自分はこんな不信仰な人間で、しょっちゅう疑ってばかりで、トマス以上に、トマスの二倍くらい、三人分のトマスだと失望することがありますが、それは幸いです。自分に失望したところから、主が必ず応えてくださる。その戦いを戦い抜いていく。これがトマスにイエス様が求められたこと、「見ないで信ずる者は、さいわいである」。
ヨシュア記6章1節から5節までを朗読。
イスラエルの民が約束の地カナンを目指してヨルダン川を渡りました。最初に出会ったのがエリコというたいへん堅固な町でした。イスラエルの民は、40年以上荒野の旅をしていますから、軍隊はありません。武器を持っていたわけではない。徒歩の旅ですから、わずかな生活の家財しか持っていない。それでも戦わなければならない。指導者であるヨシュアにはたいへん不安と恐れがあったのです。神様が「行け」と言われて来たけれども、カナンの地には強い国々、王侯が群雄割拠して住んでいる。そこを勝ち取っていかなければならない。このヨシュア記の戦いの記事は、戦争物語ではなくて、実は、私たちの信仰の戦いの証詞です。ヨシュアがカナンの地を獲得していく。言うならば、永遠の命を獲得するために戦うべき信仰の戦いがヨシュア記に記されているのです。
このとき、ヨシュアはエリコの近くに来まして戦いをどう進めようかと、思案しながら、エリコの町を眺めていました。そこへ神の使いがつるぎを持ってヨシュアに向かってきました。ヨシュアは敵か味方か? びっくりした。神の使いは、「わたしは主の軍勢の将として今きたのだ」と。ヨシュアは「わが主は何をしもべに告げようとされるのですか」と問いました。主の軍勢の将は「あなたの足のくつを脱ぎなさい」と言われたのです。このとき、ヨシュアはこれからの戦いに何か作戦を授けてくれると思った。ところが、まず求められたのが「あなたの足のくつを脱ぎなさい」というのです。
私たちの信仰の戦いも現実のいろいろな問題や悩みや、心配なこと不安なことがあります。もうお手上げ、これは仕方がない、これはもう無理、この人は頑固だからどうにもならん。あるいは、この問題は私の手に負えない、これはあきらめようと思っていることがあるでしょう。でも神様は何とおっしゃいますか? 「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」(マルコ10:27)。この言葉を聞いて、瞬時に「そうか、わかった、わかった、神様がやってくださる」と言えるかというと、現実言えません。わかってはいるけれども、それを心から信じるためには戦わなければならない。なんと戦うのか? 自分の中にある不信仰、頑固なエリコの町と戦わなければなりません。王様になっている自分との戦いが信仰の戦いです。自分の中にある頑なな底岩のごとき不信仰と戦うには、自分ではできない。神の軍勢の将を頼まなければならない。ところが、神の軍勢の将が私たちにまず求めることがあります。それは「あなたの足のくつを脱ぎなさい」と。言い換えますと、まず神様の前にへりくだること、お手上げになること、主よ、私には何にもできません、と認めるのです。不信仰な私ですと自分を認めることです。
イエス様のところへ、息子の病気を癒してほしいと願ってきたお父さんが、弟子たちがお祈りをしたけれども一向に治らないので、腹を立てて、イエス様のところへ来て、「あなたの弟子たちは、まやかしではないか。お祈りしてくれたけれども全然効かないではないか」と抗議した。そのとき、イエス様は「なんと不信仰な時代だろう」と嘆かれました。そして、「信じる者にはどんなことでもできる」(マルコ9:23)と言われました。「信じないからできないのだよ」と。そのとき、お父さんは、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」と叫びました。私は信じられないけれども、主よ、どうぞ、憐(あわ)れんでくださいと、イエス様にすがった。
「足のくつを脱ぎなさい」というのは、このことです。「神様、あなた以外に私を助けてくださる方はいません、主よ、お手上げです」と、自分の足から靴を脱いで、「どんなことでもします、神様、あなたのおっしゃるとおりにします」と、奴隷、しもべとなってしまうことです。
6節以下に、神様はヨシュアに一つの作戦を与えました。一日一回ずつ、祭司がラッパを持って、契約の箱を担いで、先頭に立ち、その後に軍隊が続く。軍隊といっても志願兵でしょう、プロフェッショナルな軍隊ではありませんから、そういう連中が後をだらだらと続いていく。一日に一回、六日間、エリコの町をぐるっと回りなさい。最後の七日目に七回回ってラッパを吹きなさい。そのとき、遠くの宿営地にいるイスラエルの人たちが歓声を上げなさい。勝利の喜びの歓声を上げなさい。そうしたら、エリコの城壁が崩れ落ちる。後は、勝利を得るだけ、それで勝ったも同然だ。こういう作戦でした。そんなばかな話はない。考えてもみてご覧なさい。いくら、人数が多くて皆がワーッと言ったからといって、その歓声の波動で城壁が崩れるだろうかと思いますね。また、一日一回ぐるっと回って終わりで、そんなので大丈夫かしら。恐らく、もしヨシュアが、足から靴を脱いでいなかったら、鼻でせせら笑ったでしょう。「ははん、その程度で勝てるわけがない」と。ところが、ヨシュアははっきりと足から靴を脱いでいましたから、主の言われることが自分の常識と到底相入れないものであろうと、自分の経験から見たら到底不可能と思えることであっても、従えたのです。それを受け入れたのです。事実その後をお読みになるとわかるように、そのとおりにしたのです。そうすると、一気にエリコの町は崩壊しました。私たちの心にある不信仰の城壁もそうです。神様の前に靴を脱いで、しもべとなって、主の御言葉にお従いするのです。「はい、主よ、信じます」と。そして、神様に従って、踏み出していくとき、具体的に心の不信仰は消えてしまいます。取り除かれて主の力に、御霊の喜びと平安と望みに満たされて、勝利します。喜び、平安といのちに満たされると、目の前の具体的な問題も、神様が全部解決してくださいます。
ローマ人への手紙4章16節から21節までを朗読。
これは信仰の父アブラハムについて記された一節ですが、17節に「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである」とあります。彼は現実にまだ結果を見ていなかった。しかし、神様があなたを多くの国民の父とすると約束なさった。あなたを祝福の基とするとも言われた。神様の約束の言葉を信じたのです。神を信じるというのは、聖書に約束された神様の言葉を信じて、自分の思いや、自分の考えや、自分の計画一切を神様の手に明け渡してしまう。ささげきってしまう。空っぽになってしまうことです。そうすると、神様の力、主の霊が私たちのうちに宿ってくださる。そして、望みと平安と喜びといのちを与えてくださる。アブラハムは自分の現実を見ています。年はとってきた。奥さんも不妊であって、老いてきた。19節に「すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも」とあります。「認めながらも」、現実を見て知っています。しかし、そうであっても、主はこのように約束してくださった。神様はこう言われるから大丈夫ですと信じていく。
私たちの信仰の戦いはそこです。時々刻々、私たちを信仰から引き離そうとして、心に不信の思いがやってきます。トマスのように見なければおれは信じないという思いが心の中にわいてきます。エリコの城のように、頑固に私たちを阻もうとしてくる。そこで私たちは闘わなければなりません。絶えず、足から靴を脱いで、謙そんになって、主に一切をささげて信じ続ける。現実を見ないのではない。見ても聞いてもいい。しかし、それでもなお、主の御言葉に立ち返って信じ続けていく。これ以外にない。
20節に「神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ」と。絶えず信仰に立ち返って、信仰から信仰へと、いよいよ堅く主に信頼していこうではありませんか。今、これはもう無理だ、これはもうあきらめなければ、この人はもう頑固で救われん、この息子はこうだから何とか、ああだからと、そのように決めてかかっていることがあるなら、それは不信仰の業です。そこで足から靴を脱いで、すべてを神様の御手にささげて、しもべとなって神様の約束の御言葉を信じる。「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)と、約束されています。「はい、そうです」と、信じたらいいのです。その言葉を信じていながら、すぐ横のご主人を見たり、子どもを見たりして、あんなのではちょっと無理だわと自分で決めてかかる。そこで戦わなければいけません。「そうです、主よ、この家族を救ってください」と。また、私たちの健康の問題でも、老後の問題であろうと、今置かれている今日という一日を、見えるものにではなくて、信仰によって歩んでいく。神様の約束の御言葉だけに望みを置いていこうではありませんか。そのときに、神様は、私たちに平安を与えて、幸いな者へ変えてくださいます。
初めの「ヨハネによる福音書」20章29節に「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。現実がどうであれ、見えるところがどんな状態であろうと、主に望みを置いて「神には、なんでもできないことはありません」と信頼する。主が何とおっしゃるか、神様はここでどのようなことをしてくださるか。私は駄目だと思う。しかし、神様、どうでしょうかと、いつもそこで、自分ではなくて主の御言葉に望みを置いていく。これが、「見ないで」「信じて」「幸いになる」秘訣です。どうぞ、御言葉のいのちをくみ取って、一つ一つの業の中に主が働いてくださっていることを体験していきたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
29節に「イエスは彼に言われた、『あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである』」。
イエス様がご復活なさった日の夕方、弟子たちがユダヤ人を恐れて、ひとつの家に引きこもっていました。そこへよみがえった主が現れたのです。このことが19節以下に記されています。そのとき「弟子たちは主を見て喜んだ」とあります。イエス様がまさか生きているとは思わなかった。その日の朝早く女の人たちが墓へ行ったとき、イエス様の亡骸はありませんでした。しかも、実際に空の墓を見たのです。しかし、まだよみがえったと信じられなかったのです。人の常識、人間的に考えると、イエス様がよみがえると信じるのは難しい。そんなことはあるはずがない。いくらなんでも、死んだ人が生き返ることは考えられない。だから、マグダラのマリヤもイエス様の墓にいたとき、墓の番人だと思って「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」と言ったのです。目の前にイエス様を見ていながら、それでもわからなかった。
イエス様の蘇りを信じられないのは当然かもしれません。当然というのはおかしいかもしれませんが、常識や世間一般の考えではあり得ない。だから、このときの弟子たちも、朝早く墓に行ってみたら空っぽだったが、きっと、誰かがどこかへ移したに違いないくらいに思っていた。それで、彼らはただ恐れて、自分たちの不安と恐れの中で縮こまっていたのです。そこへイエス様が現れて、「安かれ」、心配するな、安心しなさいと言って、励ましてくれました。そればかりでなく、御自分の手とわきとを見せて、「十字架にかかったが、よみがえってこのように生きている。幽霊でもなんでもない」と証詞しました。彼らは主を見て喜んで、安心し、力を与えられた。
ところが、24節に「デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった」と。たまたまトマスはどこかへ出かけていたのでしょう。留守だったのです。戻ってきて、弟子たちがみな喜んでいる。イエス様が生きていらっしゃる。よみがえったイエス様にお会いした。25節に「ほかの弟子たちが、彼に『わたしたちは主にお目にかかった』と」。トマスは悔しかったと思います。イエス様が来られるなら、自分もそこにおればよかった。恐らく、つまらないことで出かけて、留守をしていたので、より一層残念だったかもしれません。私たちでもそうです。家族の誰かがいないときに、偶然いただいたケーキを食べたりすると、帰宅した者に「おしかったね。あれおいしかったよ」と、食べ終わったケーキのケースだけを見せて、自慢したがります。それと同じで、弟子たちはトマスに向かって自慢したのです。ところがトマスも負けていません。そう言われてすんなり引き下がるわけにはいかない。じゃ、見たとは言うけれども、それは本当なのかと。傷あとに触ったのか? そう言われたら、弟子たちもちょっと困る。見たのは見たが、触っていない。だから、トマスが「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」と言います。トマスもことの成り行きで、こう言わなければならなかったと思います。「見たと言うが、あなた触ったのか? 」「触ってはいない」「ほらみろ。触っていないのに」ということになる。イエス様がよみがえられて一週間ほどたって、弟子たちが家のうちに戸を閉ざして、ひっそりとしていたとき、「安かれ」と言って、イエス様が入って来られました。そして、トマスに向かって「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい」と。そして「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
これは私たち自身の問題でもあります。私たちは、絶えず、信じるか、信じないかという、狭(はざ)間にいつも立たせられているのです。信じているときもありますし、信じられなくなるときもあります。そうでしょう。普段、信仰生活をしていて、ズーッと右肩上がりで調子よく進むかと言うと、そうはいかない。信じて喜んでいると思ったら、疑いを持って谷底に落ち込みます。浮いたり沈んだりする。まさに、トマスに対してイエス様が、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言われたように、今も私たちに求められているのです。そのときイエス様は、トマスに手を伸ばして、わたしのわきにさし入れてみなさいと言われましたが、もう触る必要はありません。彼は「わが主よ、わが神よ」と答えました。このときトマスは恐らく、イエス様が“やがて、わたしはよみがえるときがくる”とお話になったことを、一瞬にして思い起こしたでしょう。これは主だ!神だ!だからはっきりと「わが主よ、わが神よ」と。イエス様に対してこういう言い方をした箇所は、ほかにはありません。主ということは言いますが、「わが神よ」と、イエス様を神と呼んだのはまさにトマスです。イエス様は、決して御自分を十字架におかかりになるまでの間、一度として「わたしは神だよ」と言われたことはありません。「人の子」という言い方をしました。「神からつかわされたもの」とは言いますが、「わたしが神だ」と言われたことはありません。トマスは「わが神」、私の神ですと告白しました。
これはその当時、破天荒と言いますか、到底考えられない言葉です。ユダヤ教の世界でトマスも生きていたから、人を神とする、偶像を礼拝するのは大きな罪を犯すことになります。だから、ユダヤ人たちはイエス様が神だと言ったという口実で捕らえたのです。しかし、調べたところ、一度としてイエス様は自分を神だと言ったこともなければ、人々から「あなたは神です」と言われたこともありません。ただ、神からつかわされたものとか、神様をわたしのお父さんであると言ったことで、自分を神としたというように非難されたのです。一度として自分を神とはしなかった。だから、ピラトの法廷で調べられたとき、イエス様にはその嫌疑、訴えられている事柄の実態がない。だから、総督ピラトすらも、イエス様に罪を認めることができなかったのです。
そのように、偶像を拝むことが徹底して禁じられた時代に、イエス様を「わが神」と呼ぶのはトマスが本当にイエス様を主である、神であると信じたからです。それに対して29節に、イエス様は「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」と言われました。「わが主よ、わが神よ」と言ったときに、イエス様は神と呼んではいけないとは一言も言わなかった。ペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と言ったとき、イエス様は大変喜びました。そのとき、ペテロは「あなたは神です」とは言わなかったのです。「神の子である」と言ったのです。一方、トマスはイエス様を「あなたはわが神」と告白した。恐らく、イエス様は大変喜ばれたと思います。トマスがその信仰を持ったことはうれしかった。ところが、トマスを褒めませんでした。「あなたはわたしを見たので信じたのか」。あなたは、今わたしを目の前に見て、神であることがわかったのだから、信じたのか? と問われたのです。そして「見ないで信ずる者は、さいわいである」と。
ここが私たち自身の問題でもあります。信仰は、絶えず変化し、動いていくものです。あるとき、ある日を限って、そこで信仰を得たから、後はそのままいくものではありません。たとえば、運転免許証取得すると、実際に運転したことがなくても、ペーパードライバーであっても資格はズーッと続きます。もちろん定期的に更新しますが、その手続きさえしておればいい。信仰はそのようなたぐいのものではありません。何十年か前に洗礼を受けて、イエス様を信じる信仰を与えられたから、免許皆伝、これがあるから大丈夫というものではない。絶えず、「今」というときに、その信仰に立って生きているかどうかが大切なのです。過去、どんな信仰を持っていたかは問題ではありません。
時々そういう方がいます。長年、何十年と信仰生活をしている方で、たまに教会に来られる。「もう少し熱心になって、毎週礼拝に来られたらどうですか」と言いましたら、「はぁ、ちょっと今は忙しくて……」と。「でも毎週礼拝に来られたら幸いだ」と勧めます。すると、「昔は私も熱心だったのですよ。遠い道のりを雨の日も風の日も一日も欠かさず、あのころは私も熱心にがんばっていましたけれどもねー」と言われます。「それで今は? 」「今は、ちょっとほかにいろいろとすることがありまして……、忙しくて」と。その方は必ず昔のことを言われます。「あれもして、こんなこともした、このように私は熱心でした」「で、今は?」と言う。「今はちょっと……」と。ペーパードライバーならいいですが、信仰は今を生きることです。今日、何を信じて生きているか。そこが大切な事です。信じるべき事はただ一つだけです。聖書の御言葉、神様の御言葉を、現実がどうであれ信じることです。
現実の生活で自分の常識だとか、あるいは自分の力、体力、これまでの経験などに基づいて、これならできるとか、これはできないとか、判断します。自分を中心にしながら、自分の目に見えている状態、見えると言うのは形として見えなくても、自分の経験であるとか、能力、学歴だとか、学んできたいろいろな才能(タレント)、そのようなものを含めて、自分でできると思う事の中で生きている。これが見える世界で生きることです。ところが、信仰によって生きる世界は見えないものを信じていく。見えないものとは聖書の御言葉です。約束の御言葉を信じるのです。
イエス様は十字架にかかり、苦難を受けられた後、三日後によみがえると繰り返し語っていました。ところが、弟子たちはイエス様の御言葉を信じていなかった。だから、イエス様がいないと言って失望したのです。失望している間は決して幸せではありません。私たちの幸いは、平凡な日常生活に思い煩いがなくて、喜びと安心があり、望みに輝いていることではないでしょうか。病気で苦しんで、いつも根暗な人生、これこそ私の幸いだと言う人は別ですが、誰でも希望に満ちた人生を送りたいと思っています。だから、神様は私たちを幸せにしようとして、イエス様を送ってくださいました。神様は愛に満ちた約束の言葉を私たちに与えてくださいました。
神様は私たちに、日々、喜びと命に輝いて生きる者であってほしいと願っている。それは私たちが造られた目的だからです。しょぼくれて、眉(み)間にしわを寄せてうつむいて、顔が青白くなって、ため息ばかりついている人生を神様は喜ぶはずがない。それはそうでしょう。ここに花がありますが、この花は命に輝いて上を向いて勢いがいい。これが数日たってご覧なさい、しおれてしまいます。そんな花を眺めてうれしい人はいません。それと同じで、しょぼくれた隣の人を見て元気づいたと言う人はひねくれた人です。不幸な人を見て喜ぶ人は確かにいますが、輝いて望みにあふれて、平安であることが、なにより幸いです。それを私たちに与えようとしてくださっているのが神様です。神様は私たちを幸せにしてあげようと、この愛の手紙(聖書)を与えてくださいました。ところが、神様の御言葉が具体的にどこにどのようになっているのかわからない、見えないので、自分の常識や見えるものによって安心を得よう、見える事で喜ぼうとしてしまう。しかし、現実は見える状態でなかなか喜べない、望みをもてない。力もわいてきません。
今ご自分が置かれている生活の一つ一つをみて、将来に大きな望みを与えるものはありません。悪いものばかりです。今日は健康だけれども、明日はどうなるかわからない。経済的にも、健康的にも、あるいは家庭の中にも、バラ色に輝く、夢を与えてくれるものがありますか? 考えたら、むしろ失望することばかり。だから、できるだけ考えないで生活している。しかし、神様は、そのような中にいる私たちに希望を与えてくださる。御言葉によってです。神様は、約束してくださって、イエス様が私たちの罪のあがないとなってこの世に来てくださったこと、そして十字架に自分の命を捨てて、私たちを愛していること、よみがえったイエス様が主となって、いつも私たちと共にいること。この聖書を読みますと、神様はどんなに熱心になって私たちに愛を注いでくださっているか、証詞されています。
ところが、私たちは、絶えず、目に見える現実の事ばかりを見ていますから、聖書にそうは言っているけれども、私にはちょっと難しい。これはできない、そうなればいいけれども、しかし、ちょっと無理に違いない。「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」と記されている。それを読んで、「ああ、いいな」、でも神様だってできないことがあるかもしれない。あるいは、私がこう願っているけれども、ひょっとして、それは御心でないと拒まれるかもしれない。「神様は、愛するものを懲らしめる」とあるから、私も懲らしめられるに違いない。そのように悪いほうにばかり思いが向きます。これはそもそもの生まれてからの私たちの性質の悪さです。もっと素直になりたいと思います。そのような頑なで、ねじ曲がった性質のゆえに、イエス様は命を捨ててくださったのです。そして、今ここでトマスに対して言われたように「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。ここが絶えず日々戦うべき事です。
テモテへの第一の手紙6章11,12節を朗読。
この12節に「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである」。ここに「信仰の戦いを」と言われています。これはまさに、今トマスがイエス様から求められている「信じる者になること」、これが戦いなのです。現実のいろいろな問題の中に置かれ、失望落胆し、望みを失い、また喜び平安を失います。しかし、そこで神様の約束の言葉に立ち返って、現実はこうだけれども、しかし、あなたはこのように約束していますから、信じますという戦いなのです。これはなかなか手ごわい戦いです。
私自身もそう思いました。病気をしまして、一体こんな病気をしてこれからどうするかなと、不安になりました。そのとき、詩篇の23篇の「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」とのみことばが与えられました。ところが、なかなか「わたしの牧者」、言い換えると、イエス様が私の主となってくださる、羊飼いとなってくださる。それは分かっているのだが、なかなか信じられない。信じられないどころか、自分の置かれた問題の中で、ああなったらどうしようか、次にこうなったら、どうしたらいいだろうかと、心が騒ぐ。実は、どうしたらこうしたらもないのです。「主はわたしの羊飼い」と信じきってしまうならば、主が羊飼いで導いてくださるのだから、それに委ねればいいのですが、委ねきれない。ここが信仰の戦いです。私はその病気の中で呻吟(しんぎん)しながら、そして祈って、祈って、はじめて、「そうでした」と悟る。頭で知っている御言葉が、はじめて自分のものとなってくる。どうにもしようのない現実にぶつかります。まだほかに逃げ道はないだろうか、何かどこかにうまい方法はないだろうか、なんとか避けられないだろうかと、一生懸命に考えた挙句、八方塞がりだと気がつく。お手上げになったとき、初めて「主はわたしの牧者」、そうでした、神様、あなたは主です。もうどうなっても構いません。あなたの手の中にあることですからと、信じる。そこまで戦うのです。でも、それを戦わないことには、永遠の命にあずかることはできません。そこで投げ出して、仕方がない、自暴自棄、自棄(やけ)のやん八(ぱち)、私はしたいことをするわと、グヂャグヂャになってしまったら、いよいよ悪くなります。
そこで本当に戦い抜いて、御言葉に自分を従わせていく。これが「見ないで信じる」ことです。見ないで信じる。まだ結果は見ていないけれども、主が私の牧者となって命を捨ててくださって、「いこいのみぎわに伴われる」と言われます。主の手に握られている自分であることを、確認するのです。普段もそのみことばを知っていますね。口では「感謝しています。主が私の牧者ですから、私の主になってくださって、毎日毎日、神様が導いてくださっていますから感謝です」と言っています。だけれども、それは一般論です。具体的に自分の一つの問題、あるいはのっぴきならない、抜き差しならない事の中に置かれたときに、果たしてそこで、「はい、そうです」と、ピシッと言えるかどうかは、戦わなければ勝ち取っていけないのです。じっとしていてなるわけではありません。心の中で不信と信仰との間を、嵐のように振り回されます。そこで主に立ち返って、主にしがみついて、はじめて心が定まる。思いが御言葉にぴたっと一つになっていく。そうしますと、それまで失望と落胆の闇の中にいても、一瞬にして光が輝いてきます。「そうでした、主よ、あなたが主ですから、もう大丈夫です」と、確信が私たちのうちに湧いてくるのです。御霊が私たちに勝利を与えてくださいます。これが「見ないで信じる者」の幸いです。現実、置かれている事柄や問題に変化はなくても、私たちの思い、心が変わってきます。
しかし、過去の経験はあまり役に立ちません。新しい問題に出会うでしょう。すると、過去もそのような問題の中で悩んで勝利してきたのですが、どういうわけか、今回は前のとは違うと思うのです。だから、悩んでいるとき、「あなた、あの時、あの大変つらい中を、御言葉によって勝ち抜いたではないですか。もう一度思い出してご覧なさい」と言うと、「いいえ、あの時は、まだ若かったからですよ。もう、この年になったら、あのときと同じではありません」と。確かにそうなのだろうと思います。だから、昔、信仰に立って頑張ったから、次に悩みがきたときも大丈夫とは言えません。最初に申し上げたように、信仰は免許皆伝で一回限りのものではなくて、毎日毎日、時々刻々、新しく、新しく、信じるか信じないかが絶えず問われている。毎日、朝から晩までいろいろな問題に出会うとき、神様はいらっしゃるのだろうかと、フッと突風が吹くように不信の思いが心に差してくる。皆さんも普段そう思っているけれども、そう言うと不信仰に思われそうだから、言いません。しかし、みな同じです。横の方を見て、そんなことはなさそう、あの人は信仰一本の人に思われますが、そんなことはありません。いつも、そのような弱さの中に振り回されているのです。しかし、また幸いなのは、その戦いを戦い抜いて勝利を得たときの喜びがある。揺れ動いて眠れない夜を過ごした後に、お手上げになって降参し、神様、どうぞお助けください、御言葉による以外にありませんとなったとき、主の霊が一瞬にして注がれ、闇の中にさっと光が差してきます。もうどうなっても大丈夫、神様がいらっしゃるのだから……と。そこに心がぴたっと合うときがある。それが信仰の戦いのだいご味です。ですから、失望しないで、自分はこんな不信仰な人間で、しょっちゅう疑ってばかりで、トマス以上に、トマスの二倍くらい、三人分のトマスだと失望することがありますが、それは幸いです。自分に失望したところから、主が必ず応えてくださる。その戦いを戦い抜いていく。これがトマスにイエス様が求められたこと、「見ないで信ずる者は、さいわいである」。
ヨシュア記6章1節から5節までを朗読。
イスラエルの民が約束の地カナンを目指してヨルダン川を渡りました。最初に出会ったのがエリコというたいへん堅固な町でした。イスラエルの民は、40年以上荒野の旅をしていますから、軍隊はありません。武器を持っていたわけではない。徒歩の旅ですから、わずかな生活の家財しか持っていない。それでも戦わなければならない。指導者であるヨシュアにはたいへん不安と恐れがあったのです。神様が「行け」と言われて来たけれども、カナンの地には強い国々、王侯が群雄割拠して住んでいる。そこを勝ち取っていかなければならない。このヨシュア記の戦いの記事は、戦争物語ではなくて、実は、私たちの信仰の戦いの証詞です。ヨシュアがカナンの地を獲得していく。言うならば、永遠の命を獲得するために戦うべき信仰の戦いがヨシュア記に記されているのです。
このとき、ヨシュアはエリコの近くに来まして戦いをどう進めようかと、思案しながら、エリコの町を眺めていました。そこへ神の使いがつるぎを持ってヨシュアに向かってきました。ヨシュアは敵か味方か? びっくりした。神の使いは、「わたしは主の軍勢の将として今きたのだ」と。ヨシュアは「わが主は何をしもべに告げようとされるのですか」と問いました。主の軍勢の将は「あなたの足のくつを脱ぎなさい」と言われたのです。このとき、ヨシュアはこれからの戦いに何か作戦を授けてくれると思った。ところが、まず求められたのが「あなたの足のくつを脱ぎなさい」というのです。
私たちの信仰の戦いも現実のいろいろな問題や悩みや、心配なこと不安なことがあります。もうお手上げ、これは仕方がない、これはもう無理、この人は頑固だからどうにもならん。あるいは、この問題は私の手に負えない、これはあきらめようと思っていることがあるでしょう。でも神様は何とおっしゃいますか? 「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」(マルコ10:27)。この言葉を聞いて、瞬時に「そうか、わかった、わかった、神様がやってくださる」と言えるかというと、現実言えません。わかってはいるけれども、それを心から信じるためには戦わなければならない。なんと戦うのか? 自分の中にある不信仰、頑固なエリコの町と戦わなければなりません。王様になっている自分との戦いが信仰の戦いです。自分の中にある頑なな底岩のごとき不信仰と戦うには、自分ではできない。神の軍勢の将を頼まなければならない。ところが、神の軍勢の将が私たちにまず求めることがあります。それは「あなたの足のくつを脱ぎなさい」と。言い換えますと、まず神様の前にへりくだること、お手上げになること、主よ、私には何にもできません、と認めるのです。不信仰な私ですと自分を認めることです。
イエス様のところへ、息子の病気を癒してほしいと願ってきたお父さんが、弟子たちがお祈りをしたけれども一向に治らないので、腹を立てて、イエス様のところへ来て、「あなたの弟子たちは、まやかしではないか。お祈りしてくれたけれども全然効かないではないか」と抗議した。そのとき、イエス様は「なんと不信仰な時代だろう」と嘆かれました。そして、「信じる者にはどんなことでもできる」(マルコ9:23)と言われました。「信じないからできないのだよ」と。そのとき、お父さんは、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」と叫びました。私は信じられないけれども、主よ、どうぞ、憐(あわ)れんでくださいと、イエス様にすがった。
「足のくつを脱ぎなさい」というのは、このことです。「神様、あなた以外に私を助けてくださる方はいません、主よ、お手上げです」と、自分の足から靴を脱いで、「どんなことでもします、神様、あなたのおっしゃるとおりにします」と、奴隷、しもべとなってしまうことです。
6節以下に、神様はヨシュアに一つの作戦を与えました。一日一回ずつ、祭司がラッパを持って、契約の箱を担いで、先頭に立ち、その後に軍隊が続く。軍隊といっても志願兵でしょう、プロフェッショナルな軍隊ではありませんから、そういう連中が後をだらだらと続いていく。一日に一回、六日間、エリコの町をぐるっと回りなさい。最後の七日目に七回回ってラッパを吹きなさい。そのとき、遠くの宿営地にいるイスラエルの人たちが歓声を上げなさい。勝利の喜びの歓声を上げなさい。そうしたら、エリコの城壁が崩れ落ちる。後は、勝利を得るだけ、それで勝ったも同然だ。こういう作戦でした。そんなばかな話はない。考えてもみてご覧なさい。いくら、人数が多くて皆がワーッと言ったからといって、その歓声の波動で城壁が崩れるだろうかと思いますね。また、一日一回ぐるっと回って終わりで、そんなので大丈夫かしら。恐らく、もしヨシュアが、足から靴を脱いでいなかったら、鼻でせせら笑ったでしょう。「ははん、その程度で勝てるわけがない」と。ところが、ヨシュアははっきりと足から靴を脱いでいましたから、主の言われることが自分の常識と到底相入れないものであろうと、自分の経験から見たら到底不可能と思えることであっても、従えたのです。それを受け入れたのです。事実その後をお読みになるとわかるように、そのとおりにしたのです。そうすると、一気にエリコの町は崩壊しました。私たちの心にある不信仰の城壁もそうです。神様の前に靴を脱いで、しもべとなって、主の御言葉にお従いするのです。「はい、主よ、信じます」と。そして、神様に従って、踏み出していくとき、具体的に心の不信仰は消えてしまいます。取り除かれて主の力に、御霊の喜びと平安と望みに満たされて、勝利します。喜び、平安といのちに満たされると、目の前の具体的な問題も、神様が全部解決してくださいます。
ローマ人への手紙4章16節から21節までを朗読。
これは信仰の父アブラハムについて記された一節ですが、17節に「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである」とあります。彼は現実にまだ結果を見ていなかった。しかし、神様があなたを多くの国民の父とすると約束なさった。あなたを祝福の基とするとも言われた。神様の約束の言葉を信じたのです。神を信じるというのは、聖書に約束された神様の言葉を信じて、自分の思いや、自分の考えや、自分の計画一切を神様の手に明け渡してしまう。ささげきってしまう。空っぽになってしまうことです。そうすると、神様の力、主の霊が私たちのうちに宿ってくださる。そして、望みと平安と喜びといのちを与えてくださる。アブラハムは自分の現実を見ています。年はとってきた。奥さんも不妊であって、老いてきた。19節に「すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも」とあります。「認めながらも」、現実を見て知っています。しかし、そうであっても、主はこのように約束してくださった。神様はこう言われるから大丈夫ですと信じていく。
私たちの信仰の戦いはそこです。時々刻々、私たちを信仰から引き離そうとして、心に不信の思いがやってきます。トマスのように見なければおれは信じないという思いが心の中にわいてきます。エリコの城のように、頑固に私たちを阻もうとしてくる。そこで私たちは闘わなければなりません。絶えず、足から靴を脱いで、謙そんになって、主に一切をささげて信じ続ける。現実を見ないのではない。見ても聞いてもいい。しかし、それでもなお、主の御言葉に立ち返って信じ続けていく。これ以外にない。
20節に「神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ」と。絶えず信仰に立ち返って、信仰から信仰へと、いよいよ堅く主に信頼していこうではありませんか。今、これはもう無理だ、これはもうあきらめなければ、この人はもう頑固で救われん、この息子はこうだから何とか、ああだからと、そのように決めてかかっていることがあるなら、それは不信仰の業です。そこで足から靴を脱いで、すべてを神様の御手にささげて、しもべとなって神様の約束の御言葉を信じる。「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)と、約束されています。「はい、そうです」と、信じたらいいのです。その言葉を信じていながら、すぐ横のご主人を見たり、子どもを見たりして、あんなのではちょっと無理だわと自分で決めてかかる。そこで戦わなければいけません。「そうです、主よ、この家族を救ってください」と。また、私たちの健康の問題でも、老後の問題であろうと、今置かれている今日という一日を、見えるものにではなくて、信仰によって歩んでいく。神様の約束の御言葉だけに望みを置いていこうではありませんか。そのときに、神様は、私たちに平安を与えて、幸いな者へ変えてくださいます。
初めの「ヨハネによる福音書」20章29節に「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。現実がどうであれ、見えるところがどんな状態であろうと、主に望みを置いて「神には、なんでもできないことはありません」と信頼する。主が何とおっしゃるか、神様はここでどのようなことをしてくださるか。私は駄目だと思う。しかし、神様、どうでしょうかと、いつもそこで、自分ではなくて主の御言葉に望みを置いていく。これが、「見ないで」「信じて」「幸いになる」秘訣です。どうぞ、御言葉のいのちをくみ取って、一つ一つの業の中に主が働いてくださっていることを体験していきたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。