いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(189)「あなたの答えは?」

2014年05月05日 | 聖書からのメッセージ
マタイによる福音書16章13節から20節までを朗読。

 16節「シモン・ペテロが答えて言った、『あなたこそ、生ける神の子キリストです』」。
 イエス様はピリポ・カイザリヤという地方へ弟子たちと共に出かけました。そのときにイエス様は弟子たちに質問されたのです。「人々は人の子をだれと言っているか」。「人の子」とは、イエス様ご自身のことですから「わたしのことをどういうものだと言っているか」と尋ねられたのです。弟子たちはそれぞれが「エレミヤ」「預言者のひとり」あるいは「バプテスマのヨハネだ」と、いろいろな世間のうわさ、人々が言っていることを伝えました。そのとき、イエス様は15節に「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。世間一般の伝聞、聞き知った事柄を伝えましたが、それに対してイエス様は「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」と、「あなたがたは」と目の前の彼らに問われたのです。

ここで教えられることですが、信仰とは、まず、世間がこう言っているとか、みんながこう言っているとか、あるいはこのような話になっている、キリスト教はこうだとか、イエス様はこのような方だと聞き知った、教会ではこのように言われているし、先生もそのように言うから、きっとそうに違いないと思う。大抵の場合は、そのような理解をしています。ところが、ここでイエス様が求めているのは、そのような大雑把な、みんながそう信じているから、その中にいて信じているような気になる。しかし、そのような思いでは不十分というべきか、あるいはそれは信仰ではない……。ここでイエス様が「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」と、これがイエス様の求めていることではないかと思います。目の前の弟子たちを見て「あなたがたはわたしをだれと言うか」と問われます。

私たちも同じです。教会に長年来て、各集会に励んでいると、聞いて蓄える知識は多くなるし、また自分なりにお祈りもする、聖書も読む、自分も信仰があるのではないか、信仰が出来たなと思うかもしれません。しかし、大切なのはそのような知識、あるいは聞いて知っていることではなくて、イエス様をどのような方と信じ、信頼しているか、しかも「ほかの人」ではないのです。「私が」ということです。それに対してシモン・ペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答えました。イエス様は神の御子、神ご自身であり、また遣わされた御子、イエス・キリスト、救世主でいらっしゃる。私を救ってくださる御方ですと信じる。もちろん信じて、具体的に「イエス様こそが救い主だ」と体験するのは、今この時点では不十分でした。正解といいますか、100点満点の回答はしたのですが、それが具体的に身に付くには、まだそこから大変な戦いがありました。
ご存じのように、彼はイエス様が十字架におかかりになられる前、「私はあんな人は知らない」と3度も拒みます。そしてイエス様を裏切ったペテロとまで言われる。では、ペテロはそれでおしまいになったかと言うと、そうではない。神様は憐(あわ)れんでくださって、そこから神の御霊に、聖霊に満たされることになり、ペンテコステの出来事を通して、見えないけれども今も生きていらっしゃるイエス様に従う生涯へと変えられました。それからも、彼はその生涯を通して死に至るまで、様々な戦いの中に置かれます。といって、彼が信仰一本でまっすぐに右肩上がりと言いますか、何一つ間違いなく進んだかと言うと、そうでもありません。彼は殊に長年のユダヤ人の伝統、あるいはその宗教的な環境の中で生きてきましたから、イエス様の信仰になかなかいかなかったことがよく分かります。その戦いがわずかながらですが、使徒行伝に書かれています。信仰が揺れるのです。ユダヤ教の伝統に引っ張られると思ったら、「いや、そうではない」と言われて、今度はイエス様を中心にと思って、心が揺れて……。だから、パウロからペテロは「あいつはなっていない」、「あなたはいったい何を信じているのだ」と言って詰問されたこともある。彼もどちらかというと、どれが正しいのかまだ分からない。パウロは明確によみがえった主を体験していますから、彼とはまた違った信仰のあり方です。でもペテロはペテロなりに信仰の道をたどっています。彼は私たちに身近な存在です。人から何か言われると、「ああ、そうかな」と思う。そして揺れる。またこちら側から言われると「ああ、そうかな」と揺れる。だから最後の最後まで、恐らく戦いが多かったと思います。でも、このときの信仰告白、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」ということを体験し、生涯を全うするのです。

ご存じのようにシェンキェヴィチという人の『クォ・ヴァディス』という小説にペテロの最後のことが語られています。彼はローマにいるクリスチャンの指導者となりました。やがてネロ皇帝のキリスト教迫害に遭いました。彼は大切な人だからあなたはここで殺されては駄目、捕らえられないようにと、仲間から逃げるように勧められて、彼はしぶしぶ逃げるのです。逃げていく途中でイエス様に出会います。白い服を着たイエス様が通り過ぎていく。彼には誰かわかりません。しかし、通りすがりに見た瞬間、それはイエス様だとわかった。それで「クォ・ヴァディス・ドミネ(主よ、どこにおいでになるのですか)」と尋ねます。そのときイエス様はペテロに「お前が捨てたローマにわたしは行く」と。はるか後ろのほうを見るとローマの町がネロ皇帝の迫害で火災の中にある。ペテロはあの十字架のイエス様を裏切ったときの自分に心を刺されて悔い改めて、「私も主についていきます」と引き返しました。ローマに行って捕らえられて、やがて十字架にはりつけになり殉教しますが、そのような彼の生涯はまさにこの信仰告白から始まっているのです。

私たちが御言葉を信じて、告白する信仰にふさわしく、神様は私たちを造り変えてくださるのです。それと同時に、イエス様が語っていることですが、「あなたがたはわたしをだれと言うか」と、いつも私たちは問われる。私はいったい何を信じているのだろうか。私は今いったい誰を頼りとしているのだろうか。絶えず自分自身に問いかけていかなければ、うかつにすると、気がつかないうちに、イエス様の前から離れて行ってしまう。「あなたがたはわたしをだれと言うか」、このイエス様の問いを絶えず自分に問いかけていきたい。と言いますのは、信仰は「私」が信じなければどうにもならないのです。どんな信仰熱心な人がそばにいようと、誰が助けてくれようとも、信仰についてはその人一人一人なのです。「あなたこそ、生ける神の子」と誰が信じるのか。

これは家族みんなでとか……。日本の社会は、比較的そのような「和を尊ぶ」ようです。個人個人ということはあまり重視しない。この仲間に入ってもらったら、それで一応事がおさまる。だから「個人」ということはあまり意識しないで生きている。みんなでどうこうしようと。だから、教会でもそうですが、こうやって一つの組織に所属する、仲間に入るとそれで安心してしまう。これで大丈夫と。ところがそうはいかない。一人一人が神様の前に決断し、選択し、そして従わなければ、信仰ばかりはどうにもなりません。だから、イエス様はここで「あなたがたはわたしをだれと言うか」と問われたのです。聖書を通して、私は最近特に教えられることですが、イエス様も、神様も求めていらっしゃるのは、私たち一人一人なのです。一人の命を、魂を神様は求めておられるのです。それはほかの人ではなくて、私なのだということを私たちはよく知っておきたい。今、神様が求めていらっしゃるのは、多くの人々、みんなをというのではない。もちろんイエス様の救いはすべての人に開かれてはいますが、それをどのようなものと信じるかどうかは、あなた一人に掛かっている。だから、どんなに奥さんが熱心に「私は家族を代表してひとつ信仰に励みます」と言われても、「右代表」では役に立たないのです。イエス様が譬えていますが、終わりのとき、やがてそれぞれがさばかれるときがくると語っています。そこを読んでおきましょう。

マタイによる福音書24章40,41節を朗読。

40節の前に「人の子の現れるのも」とありますが、それは世の終わりのとき、神様のさばきに会うときです。そのとき40節に「ふたりの者が畑にいると」、二人の人が一緒に同じ畑にいる。ところが「ひとりは取り去られ、ひとりは取り残される」とあります。神様に選ばれるべき者は、この畑にいる人はみんな一緒に、とはならない。同じ畑の中にいながらも「ひとりは取り去られ、ひとりは取り残される」。ということは、一人一人が何を信じ、誰を信じ、どのように生きたかということが問われるわけです。だから同じ畑で同じ仕事をしているから、一緒に、なんていうことはない。夫婦で何十年連れ添ってきたから、私も彼も一緒にということもない。実は一人一人が神様の前に立たせられる。ですから信仰とは、極めて個人的なものと言いますか、個人主義的といってもいいかもしれません。ある意味ではほかの人とは関係がない。極端な言い方をするとそうなのです。どんなに親しい人でも、無二の親友、死んでも離れまい、なんて言っていますが、神様の前に立つときは一人一人なのです。だから41節にありますように「ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう」。昔の臼(うす)は、石うすです。大きな石を二枚重ね合わしたものをガラガラひくのです。小さなうすだと一人でもひけますが、大きなものになると二人の人が向かい合って、両方でひくのです。半分ひいてきたら相手の人がまた半分と挽く。その間に上石の端の所に穴があって、そこに穀物などを流し込む。二人が同じ一つのうすをひき合うのです。そのように同じことをしているから、二人とも一緒に神様の前に立てるかというと、そうではないと。「ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう」。これは極めて厳粛なことです。ですから、誰が信じなければならないか、誰が救いにあずかるべきかと言うと、それはあなた自身、また私自身なのです。まず、自分自身が信仰に堅く立つことが大切です。

そのようなことを言うと、ある方が「先生、ではうちの息子たちや孫たちは駄目ですかね」と言う。「もし、駄目だったら私も地獄に行きたい」なんてことを言った人がいましたが、駄目かどうか、これは分からない。これは神様のなさることですから、ただ言えるのは、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒 16:31)と約束されている。だから、神様は私が救われることをまず求めていらっしゃる。そして、家族についても神様は憐(あわ)れんでくださる愛なる御方だと、私どもは信じています。それでいいか悪いか、合格したか不合格か、それは神様が知っているのであって、私たちは人を「あなたはもう地獄へ行くよ」とか「あなたは救われたよ」とか、そんなことを言えた柄ではない。それどころか、そのような権限は何もないわけです。ましてや自分自身もそうでしょう。自己免許で「私はこれでちゃんと天国へ入れますよ」と言えるかというと、はたしてそうかどうか分からない。ただ主の憐れみにすがって信じさせていただくことです。だから生きるかぎり、この地上に置かれているかぎり、主の備えてくださる御国を望みつつ、希望を持って、与えられたところで「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と、イエス様を救い主と信じ、イエス様を私の主と信頼して、そのように自分が歩むこと、これ以外にない。

ですから、マタイによる福音書16章16節に「シモン・ペテロが答えて言った、『あなたこそ、生ける神の子キリストです』」。私たちは「あなたこそ、生ける神の子キリスト」、イエス様がよみがえってくださったということを知っています。知っているならば、そのように、よみがえってくださった主と共に生きること、イエス様が私と共にいてくださることを信じて、与えられた問題や事柄、日々の生活の隅々まで、イエス様に信頼していくことです。確信を持って立っていくことです。これがまず信仰に立つ秘けつです。またそれ以外にないのです。

詩篇63篇を朗読。

この1節に「神よ、あなたはわたしの神」と、「わたしは切にあなたをたずね求め、わが魂はあなたをかわき望む」。この表題には「ユダの野にあったときによんだダビデの歌」と記されています。ダビデはイスラエル王国の王になった人物です。そして「イスラエルの民」は、神様の選びの民、神の民と呼ばれた人たちです。ですからイスラエルの民であることは、それ自体で特権といいますか、恵まれた境遇に置かれていたことは確かです。しかし、イスラエルの歴史を見ますと、その中で本当の命にあずかり、恵みにあずかった人たちはどのような人々だったかと言うと、集団ではない。その時代時代、一人一人に神様は呼びかけ、それに応答しているのです。

アブラハムもまずもってそうでしょう。「アブラハムは親族を離れ」と、神様は求められました。彼は家族がいたのですが、神様のみ声を聞いて、彼一人がそこに従ったのです。そうしたときに彼は恵みを受けます。そして今度はその息子イサクが与えられました。それは神様の約束の子イサクです。聖書を読みますと、アブラハムはその後ほかにも子供をもうけています。奥さんサライが死んだ後、再婚しています。イサク以外にも息子がいるのですが、聖書ではイサクだけが取り上げられていきます。一族郎党、系図に有る者みなというわけにはいかない。その中から選ばれた者たちだけです。そしてそれはたった一人です。イサクが神様に従う者となり、イサクの子供にエソウとヤコブがいます。このうちのヤコブが選ばれて、神の民となる。だからアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と、神様は一つなのですが、信じたその人の神になってくださる。

ここに「神よ、あなたはわたしの神」とダビデが詠みました。ヤコブの後、そのほかにもたくさんの人物がいます。一番身近なところではモーセがいますが、モーセにも兄弟がいました。しかし、やはりモーセの神として神様は立ってくださいました。ところがサウル王様は、神様から選ばれ召されたのですが、神様の言葉に従わず、離れたために、神様から捨てられます。ところが、その後を受けたダビデは、「あなたはわたしの神」と、この神様は私の神ですと信じたのです。決して「あなたはわれわれの神です」とか、「イスラエルの民の神です」と言ったのではない。いや、イスラエルの民の神であるかも知れないが、それはそれとして、「あなたはわたしの神」と信じる。これが神様と私たち一人一人の約束です。

ですから、私たちもそうなのです。こうやって教会に来て、○○教会という群れの一人だと思っているかもしれませんが、そうではなくて、「イエス様は私の主です」と信じることが大切です。ほかの人はどうであれ、それは関係がない。関係がないとは冷ややかな言い方と言われますが、実際そうです。先ほどのうすをひいていて、同じ働きであっても同じことなのです。だから、今私が何を信じているのか、これを問われている。キリスト教徒は、ある意味では極めて個人的と言われるのはそういう意味です。それだけに責任がある。選択し、決断するのは、ほかの人ではなくて私なのですから。だから私どもは、「あなたはわたしの神」と、はっきりと心から信頼して生きる者となりましょう。他人(ひと)が何と言おうと、人がどうであろうと、そんなことはあまり関係がない。私が何を信じているのか、これが大切な事柄なのです。そして私たち一人一人が自分の救いの達成に努めなさい(ピリピ 2:12)とパウロは語っています。自分の救いをまず求めるべきです。自分が救われなければ、気がついてみたら、ほかの人は救われていたが、私だけは取り残されたという……。そして、私がまず救われることが家族の救いのためにも大きな恵みです。だから、私どもは、他人(ひと)ではなくて、私が今イエス様をどのような方と信じているのか。このことを自分のこととして握っていきたい。聖書を読みますと、信仰に生きた人々は、固有名詞で書かれています。このグループがみな信仰に満ちた人たちだったという、そのようなグループはありません。イスラエルは12部族に分かれていましたが、この部族だけは全部がよかった、などとはどこにも書かれていません。イスラエルの民に選ばれた人たちはたくさんいましたが、神様の選びと召しを感謝して、「私はこういうイスラエルの民、選びの民に生まれた者だった。だからひとつこの恵みを自分のものとしたい」と言って、熱心にそれを求めるなら、得られるのです。ところが「おれたちはイスラエルの民だからもう大丈夫、これで神様の保障がある」と思った人たちは、やがて滅びていったのです。信仰に立っていないのです。何代続いたクリスチャンホームであろうと、親がどんなに熱心な信仰者であったとしても、その子供、孫は関係のないことです。逆に、「あんなご両親が立派な信仰を持っていらっしゃったのに、息子たちはだらしがないね」という言い方も、当らないのです。それは当然です。なぜならば、一人一人ですから。といって、私は自己弁護しているわけではありません。一人一人なのです。だからどんな信仰深い両親がいたからといって、お父さんがいたからといって、その息子が信じなければ救われません。二代三代、四代も続いたクリスチャンホームなのに、どうしてあの人はあんなのだろう、せっかくなのに……、と思うかもしれませんが、イスラエルの民だってそうだったのですから、イスラエルは他の民と区別された、神が共に居給う民でありながら、その神を「あなたはわたしの神」とした人だけが救いにあずかった。だからイエス様は「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」(マタイ 22:14)と言われたのです。聖書の真理は間違いのない事だと思います。だから素晴らしいクリスチャンホームに生まれたとしたら、そのことを感謝して、「こんな本当に恵まれた環境に私を神様が置いてくださった。ここはひとつこの神様を私の神として生きよう」と選び取ること。これはその人一人一人の与えられた恵みなのです。だから、私たちは今そのような神様の恵みの中に置かれている。そのことを知って、それを自分のものとすることです。

 日本人は、先ほど申し上げましたように和を尊ぶ。他人(ひと)のことも何とかしなければと。みんな仲良くするように、お手々つないで「あなたが天国に入らないのだったら、私も入らないでおこうかしら」なんて、どこか遊園地にでも入るがごとく、そのくらいのことならばそれでしかないわけです。しかし、真剣に「私はこの神を神とし、この方の子供として生きていくのだ」と選択し、決断していくときに、神様はその方の神となってくださる。その方の救い主となってくださるのです。そして、そこに神様の恵みを味あわせていただけるのですから、今置かれた、与えられた恵みの時、救いの日、この境遇に置かれたことを感謝したいと思います。ただ与えられた境遇・恵みだけを感謝して、「みんなの中に私は入っているから、これでよし、よし」というのではなくて、その中でこそ、私の信仰、私の救いを求めて、その達成に励むことが大切です。ほかの人はどうであれ、私はこの神を神としていきます。人から自己中心と言われようと、エゴイストと言われようと、信仰の点においては妥協できない。「私はこのお方に信頼します」、これに徹する以外にないのです。逆に言うと、ほかの人が何をしていようと、そんなことを気にすることは何にもないのです。「あの人はあんなことをしてしまって、あれでは神様の前に申し訳がない」と思って、人を批判したり、あれこれ言う必要は何もない。ご主人が奥さんに、奥さんがご主人に対しても、そうですよ。「一緒に教会に行っているのに何を聞いているのだろう、あの主人は神様のことばを聞いているのに、あんなことをしてしまって」と、批判的に見る。それは全く的外れです。その人はその人、私は私です。夫婦であってもそうですから、どうぞ人に頼らないで、まず自分自身が何を信じているのか。「あなたがたはわたしをだれと言うか」と、ここに原点があるのです。

 初めのマタイによる福音書16章16節に「シモン・ペテロが答えて言った、『あなたこそ、生ける神の子キリストです』」。私たちはこの救いへと導き入れられて、教会に連なり、その中で信仰を導かれている。「この仲間に入れてもらったから、私は資格を得られた」と思ったら大間違いで、それはイスラエルの民とはなったのですが、イスラエルの民は必ずしもみんながみんな救われたわけではない。その中で選ばれた者だけが……。私たちは招かれて入る。この中から選ばれて、本当に文字どおり、名実共に神の子たる者へと造り変えていただくためには、あなたが誰を信じ、誰に信頼し、何を大切なものとしているかに掛かっています。ですから、他人(ひと)のことなんかどうでもいい。「どうでもいい」という言い方は冷たいかもしれませんが、ご主人は放っておいてでも、「家族や孫や子供たちのことは神様がご存じだから、私は分かりません。私だけ」と、あなたが救われて喜び、望みと命とに輝いていることが大切です。子供や孫を見て、自分の心が暗くなって沈んだ生活を神様は送れとおっしゃるのではない。そんなものは放っておいていい。捨てておいていいのです。まず私が神様の救いにあずかっているかどうか、主を喜んでいる自分であるかどうかです。イエス様の救いにあずかって、「あなたはわたしの神です」と、イエス様を愛して、主のご愛、暖かい血の通ったイエス様のご愛を感じているだろうか。それほどにイエス様と結びついているだろうか。このことを自分自身が求めていかなければ、救われない。だから、まず神様の前に自分が真剣に立って生きる者となりたいと思います。

私もそうなのです。皆さんに信じてもらいたいと思います。しかし、皆さんが地獄へ行くか天国へ行くか、それは私の知ったことではない。神様がご存じなので、行って見たら、あの人もこの人も来ていなかったとなると、私の責任かなと考えてしまいますが、そのような責任はありません。ところが、皆さんが行って見たら、「和義先生が来ていなかったね」と、思われたら困りますから、私は一生懸命に何とかして救いに達したいと励みます。パウロはそのように言ったのです。「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ」(ピリピ 3:13 )、人のこと、周囲のこと、そんなことはどうでもいいですよ。そのような言い方をすると、愛がないと言われるかもしれませんが、仕方がない。どうぞ、自分の救いをしっかりと達成していこうではありませんか。そのために何はさておいてもまず第一、イエス様に結びついているだろうか、イエス様が今ここにいらっしゃるのに、その御方を信頼しているだろうか?よそ見をして、あれを見、これを見てばかり、心配ばかりを持ち込んできて、せっかく神様が楽しむべき地上の日々を与えてくださっているのに、他人(ひと)のことばかり心配して、悩みを背負い込んで、私は世界のすべての悲しみを背負っているかのように、悲劇の主人公になるなんて、そんなことは馬鹿馬鹿しいですから。今イエス様の恵みに生きていることを絶えず体験して、味わって、喜んで、感謝していきたい。少々周囲の家族が泣いていようと放ったらかして、賛美して感謝して喜んでいくときに、決して神様は周囲の者についても放っておかない。まずあなたが神様を信頼していく以外にないからです。私たちが心配したところで、寝ないで頑張ってみたって、家族がどうなるわけではない。それよりも私たちが喜んで主に信頼して、神様を求めて、祈りとりなすことができる信仰に立っていくことが大切です。

「あなたがたはわたしをだれと言うか」。絶えず求められているこの信仰の原点に立っておきたいと思います。皆さんが何か思い煩うとき、これは誰のために思い煩っているのかと考えてみたら、それがなんと馬鹿馬鹿しいことかに気がつきます。神様が知っていらっしゃる。家族のことも誰のことも、私が知っているのではなくて、神様がご存じなので、その一人一人の魂を神様が導かれるのであって、私がどうこうできるわけではない。だからこそ、まず私自身が常に主と共に生きて、喜び感謝して、主を褒めたたえ、主を証詞していくものでありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましよう。

最新の画像もっと見る