いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(440)「創造主の責任」

2015年01月13日 | 聖書からのメッセージ
 「イザヤ書」46章3、4節を朗読

 4節「わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」。

 私は牧師館に生まれ育ちまして、生まれながらに神様と切っても切れない縁ができてしまったというか、そういう関係でありました。ところが、なかなかすんなりと神様を認める、信じるというようにはいかない。子供の頃、小・中学生あたりまで、あるいは高校ぐらいまでは、どちらかというと素直でありますから、言われることをすんなり受け入れる側面があります。ですから、自分で言うのもなんですが、私も高校生ぐらいまでは素直な信仰をもっていたと、自分では思っています。しかし、その信仰はその年代のものでありますから、幼稚であり、また実に偏(かたよ)ったものであったと、今は恥ずかしい思いがします。中学・高校と進んでくる頃は各集会にも出て聖書のお言葉を通して話を聞きます。父の説教ですから、父が語ることを聞いて「そうだ。そうだ」と、素直にそれを信じます。ところが、大学へ入り、家元を離れるか、その少し前くらいからだんだんと疑問に思い始めるのです。「本当にこれでいいんだろうか」、「もっと世界は広いはずだ」、「もっといろいろな考え方があってもいいんじゃない」と。どうも自分はこの家に洗脳されてしまった。親の価値観を押し付けられたと。非常に窮屈な思いをするようになったのです。そして何とかそこから自由を得たい。自分の力を試したいと、そういう思いで親元を離れてやれ、と飛び出して行きました。そうしますと世間の風に当たります。今までは囲われた、いうならば、温室、ある意味では保護された環境の中におりました。あまり外部のものに触れることがなかった。世の中に出て行って、といってもまだ学生ですから、世間のど真ん中にいるわけではなくて、入口の所をのぞいている程度の関係でしたが、それまで知らなかった、経験しなかったような話や事柄に出会う。そうすると、「どうも今まで聞いてきたおやじの話は、いったい何だったのだろうか」と疑問に思い始めるのです。これも神様の大きなご計画の中の一コマにすぎなかったと、今は思います。しかし、そのときは、鬼の首を取ったがごとくに「やはり、おやじの言うことばかり聞いておってはいかん」と思い始める。休み毎に帰郷しますと偉そうに議論を父に吹っ掛ける。そして、神がどうだとか、こうだとか、世間でいろいろ聞きかじったことを持ってきてあれこれ言います。父は大抵うてあわないわけです。「そんな馬鹿なことを言って」、「お前にはまだ分かっとらん」、「人は神様に頼らなければ駄目。神様に信頼して神様によって生きなければ駄目だ」と言われる。そう言われると余計に反発する。何に反発するかというと、「私というものはどこにあるのだ」と。「『神様に信頼して神様に委ねなさい』とか『任せなさい』そんなことをしたら、私という者はいったいどうなるのだ。私は消えてなくなるのか」と。自主独立、自立して、親から離れて羽ばたこうとしている、巣立ちをしようとしている。そこへ父から「お前一人でできるわけじゃない。神様に頼らなければ人は生きることができない」と。神様に委ねる、神様に任せるということを繰り返し言われるのです。そうするといよいよ反発をしまして、自分らしく生きるにはどうすべきか? そこで「これから私は私らしく生きる」と宣言する。オリジナリティーですね、独創的に生きてやるのだと、そう言って父と議論した時のことをいま思い出します。

 というのは、先だってある集まりに出ましたときに、一人の方がご自分の体験を話してくれました。その方は結婚するまではキリスト教には縁のなかった生活をしていました。ところが、不思議な導きを得て一人の人に出会った。それはクリスチャンであった。しかもその家庭はクリスチャンホームでおしゅうとめさんに当たる方も大変熱心なクリスチャンであった。そして、結婚に当たっておしゅうとめさんからひと言いわれたのは「我が家はキリスト教という信仰を大切に守ってきている。ついては、あなたも結婚して我が家に入られるならば、是非この信仰を持っていただきたい。それについては、まず教会に来て各集会に出てもらえるだろうか。これだけはっきりしていただきたい」と言われた。その方は「信仰を持つことは悪くない」と思った。その方も神仏といいますか、世間一般の信仰生活になじんでおられましたし、ご自分の実家も一つの宗教を信仰していた。でも、彼女は比較的広やかな心ですから、これでなければという思いはないから「信仰を持つということは人生を豊かにすることだし、何の不都合もない。お母さんがそう願うのでしたら、喜んで私も信仰に触れてみたい、求めてみたい」と思ったと言うのです。結婚して各集会に励んで出て来られ、だんだんと魂が養われてイエス様を信じる者と変えられてきました。ところが、結婚してみると『神様を信頼しなさい。自分の知識に頼ってはいけない。自分で考えないで神様に委ねなさい』と言われる。そうすると、何だか自分が消えていくような気がします」と言われる。私はそれを聞きながら、「これは私のことじゃなかったか。同じことを感じる人がいたのだ」と思って、私は改めてびっくりしました。やはりその方も自分が消えてしまうと思ったというのです。それは無理もないことだと思います。

この世に生を受けて生きる者となったとき、私たちは一人一人が自主独立、自立を願います。子供の成長とはそういうものです。生まれた赤ちゃんは初めのうち親におんぶに抱っこ、何から何まで全部世話を受けていますが、成長してくると知恵づいてくる。あるいは、ハイハイができるようになり、つかまり立ちをする、歩くようになる。そのたび毎に自分の意思で自分の選択と決断で事を進めようとします。そのために、生まれたときのようにいろいろと手出しをすると嫌がられるようになります。手を払いのけてきます。教会に7ヶ月8ヶ月という子供たちがいますが、日に日に成長しますから、ちょっとでも気に入らないことをすると「ギャー!」と、私も遠慮なく怒鳴られますから、ご機嫌を伺いながらやらないといけない。相手の気に入るようにしてやらなければなりません。自己主張というのが出てきます。自分で……、これはある意味では成長していく、自主独立という精神が旺盛になって来ることですから、誠に幸いなことであります。でも、最近はどういう訳か、必ずしもそうばかりではないようです。

新聞を読んでおりましたら一つの記事がありました。相談所に駆け込んで来る相談者が増えてきたと。70代の両親がやってくるという。息子や娘や子供たちのことで相談に来るそうです。50を過ぎても引きこもり。家にいて外に出ようともしないでゲームをしたり、プラモデルといいますか、そういうものを造って一日働きもしないでブラブラしている、いわゆるパラサイト・シングル(結婚をせず、親元で甘えて生活(寄生・居候)する)と言われる人が増えているというのです。私どもの周囲にもそういう人を見受けることがありますが、いわゆる依存症になってしまうのです。相談を受けている一人の相談員の方は、その大きな原因はあまりにも過干渉、幼い時から親が手取り足取り世話をしすぎた。そのために本人が自主独立してやって行こうという意欲を無くしている。いうならば、成長する力、飛び出して行くエネルギーが乏しくなってしまっている時代だと。これはある種の社会現象でもあるという。そう言われると、なるほど、そういう事例が私の周りにもいくつかあるものですから考えさせられることでもあります。だから、自主独立、自立は誠に幸いなことではあると思うのです。

さて、「神様に頼ることは、自立、自主ということと相反するではないか」と。だから、世間では「自分でやれ」と「自分でしっかり頑張れ。おまえの努力によって事はどうにでも変わる」と励まし、また、そういうことを言います。だから、多くの人々は自分の力で頑張ろうとしますが、何といっても私たちには力がないのです。あるといっても、本当に乏しい耳あか程度の力しかない。知恵もない。そうすると、自分でやりたいと思いつつもできないことだらけです。行き詰る、あれが足らない、これが足らない。そうすると不安や心配や思い煩いばかりが日々押し迫って来る。その逃げ場として多くの神仏、神や仏に人は頼ろうとする。ですから、世間一般でいう神様、あるいは仏様であり、そういう宗教と言われるものは、人の悩みを引き受けてそれを取ってくれるといいますか、少し和らげてくれる。そして、励まして「あんたが大将、頑張ればできるよ」と言ってくれる神様です。だから、あくまでも人が自分の力で頑張ることが前提の上で、神様が助けてくれる。だから“天は自ら助くる者を助く”と言うでしょう。天の神様は自分で頑張る人を助けてくれる、頑張らない人は放っておく、という。そういうのが世の中の神様であります。神様に信頼するとか寄り頼まれると世間一般の神仏は困るのです。「全面的に頼みます」と言われると、その神様は困るのです。だから、専門領域がある。交通安全、商売繁盛、学問成就、家内安全・病気平癒と専門分野がありますから「あなたにだけ頼みたい」とお願いしても「それは困るよ。あちらにもこちらにも頼んでおけ」というのが、世間一般の考え方であります。だから、基本的にこの世は人の世であります。人間が自分の力で業を進めようとする世の中です。それに対して聖書を通して求められているのは、そうではないのです。人間そのものが神様抜きで生きることができないということです。

「伝道の書」12章1、2節を朗読。

1節に「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」と。ここで「造り主を覚えよ」と、「若い日に」といわれると「私は若くないから駄目なのか」と思われますが、そうではありません。まだまだ私どもは頭がさえている間、あるいはこうやって元気を与えられて教会に出て来ることができる間は、まだ若いのであります。だから、「あなたの造り主を覚えよ」と。まず私たちがこうして生かされ生きていることのそもそもの原因、いちばんの始まりは何であったか?それは私たちを造られた御方がいらっしゃる。「私たちの造り主を知りなさい」というのが、ここに勧められている事なのです。「悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に」とあります。人はだんだんと年を取ってきて、次から次へと今までできていたことができなくなる。年を取るとは失って行くことであります。失うというよりは、神様にお返ししていくことだ、と私は思います。これまで神様は、そのとき、時代時代、年齢に応じて、あるいは事柄に応じて力を与え知恵を与え健康を与えてくださった。そして、ある所まで来たとき、神様は「もうそろそろお前は良かろう」と決められて、目がしょぼくれてくる。「そんな余分なことは聞かなくてもよろしい」と、耳が遠くなる。また余分な所へ行かなくてもいいように足を弱くしてくださる。「教会だけに行け」と、神様はちゃんと上手い具合に一つ一つ取ってくださるでしょう。最後に、神様が命をスーッと引かれる時が来る。それまで神様は私たちにそれを使わせてくださる。ところが、だんだんと年を重ねて来るといろいろなものを失って「私には何の楽しみもない。ああ、昔が良かった」と言うようになります。「伝道の書」に「昔が今よりもよかったのはなぜか」と言うな(7:10)と書いてあります。私どもはついそういうつぶやきが出ます。「私の若い時は……。もっと私が若かったらあのようにはしていない」と言って、娘や息子を叱(しか)ったりします。なぜ「造り主を覚えよ」と言われるのか。それはどういう状況の中にあっても、そこに神様である造り主を覚えていくためです。自分で生きているのではないと認める。先ほど申し上げたように、世間では自主独立、自分の力で頑張れと言いますが、頑張りたくてもできなくなるときが来るのです。ということは、私たちは何者かによって在らしめていただいている、生かされている者であるということです。その造り主を知る、これは大切なことであり、この御方が私たちを造り、生きる者として日々に命を与え、健康を支え、着る物を与え、食べる物を与え、住む所を備えてくださっている。

 ですから、「イザヤ章」46章4節に「わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」と。ここに「わたしは造ったゆえ」とあります。神様が私たちをお造りになられた。「造り主を覚えよ」というのは、このことです。私たちは神様によって造られて、「生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け」とあります。「生まれ出た時」「胎を出た時」、お母さんのおなかから「オギャー」と生まれ出て、それからこの地上での生活、ズーッと神様が「わたしがおんぶに抱っこ。絶えず持ち運んで来たではないか」と。そんなこととはつゆ知らず、私たちは自分でやってきたと思っている。しかし、そうではないのです。神様が私たちを持ち運んでいらっしゃる。

「では、私は何なのかしら」と疑問に思う。先ほどお証詞しました方も「いったい、神様を信頼して行くということは良いけれども、では、私というものがなくなってしまう」と感じられたそうです。その方は幼い時から世間での信仰といわれているものによくなじんでおられたから、自分が一生懸命に頑張って神仏の助けを得て、そういうものに支えられることによって補われて、欠けた所、足らない所を足してもらって頑張っていくんだ、という世界観、あるいは人生観。ところが、教会に来てみるとそうじゃない、初めから「お前たちはゼロだ」と言われたのです。無いのです。神様が持ち運んでおられる。神様が造ってくださった。そうすると「私は何だろう? 」と思ってしまう。私もそういう思いを持ったことがあります。最初に申し上げたように、父のそういう信仰に対して疑問を抱きました。ところが、社会に出て行っていろいろなことを通して教えられたことでありますが、私たちが神様に結び付いて生きるとき、この時しか自立した自分はないのです。神様を離れて自分が、自分がと、自分に知恵があり、力があるかのように思いますが、これはあくまでも神様が陰にあって支えておられるからであり、そうすることを許しておられるからにすぎないのです。自分たちに本来ないものであります。だから、神様を離れて自分勝手な思いに従って生きているかぎり、自分らしい生き方はできないのです。なぜならば、自分でありながら自分のことをなにも知らない。自分が何者であるか、自分はどういうことのために生きているのか? 自分でありながら自分のことは何も知らないのです。それでいて「私のことは私が決める」「私のことは私がする」と言い募(つの)ってみても、そもそも私というのがないのです。じゃ、誰が私のことをよく知っているかと言うと、神様です。造り主でいらっしゃる。だから、神様が私たち一人一人にその人でなければ生きることのできない人生、この地上の生活を導かれるのです。私はそのことを始めて教えられたとき、目が開かれた思いがいたしました。「そうなのだ。人がいくら独創的といいますか、人と違う自分だけの生き方をしようとしたって、決してできない」。というのは、自分が何者であるかも分からなければ、自分は何がいちばんふさわしいかも分からない。だから、若い人と話をするときそう思うのです。「あなた、これからどういう人生を生きたいと思う? 」「分かりません」と。「でも、夢はあるでしょう」「夢はあるけれど、現実、自分にはそういう能力がない、力がない。こうなりたいとか、ああしたいとかはあるけれども、それができない自分です」と。私はそれを聞きながら、神様抜きに自分が何のために生きているのか、あるいはどこへ向かおうとしているのか、何をするのがいま自分にとって最もふさわしいことであるかは、自分では分からない。では、誰が知っているか。造り主が知っていらっしゃるのです。どんな物でもそうですが、造られたものは造った人がいちばんよくそのものを知っています。複雑な時計の仕組みであろうと、あるいは、私たちは車に乗っていながら車のことは何も分かりません。道の真ん中でストップしたら「え!いったい何で止まったのだ」と、蹴(け)とばしてみたりたたいてみたりするけれども、ウンともスンとも言わないでしょう。「普段から毎日乗っているのだから少しぐらい分かっているだろう」と思いますが、全く分からないのであります。だから、それをよく知っている人の所、あるいは造っている人の所へ持って行って見てもらう。それがいちばんの近道です。私たちの健康でもそうです。体のことは医者が知っていると思っていますが、知らないのです。医者は私たちの造り主ではありませんから。いちばんよく知っているのは神様でしょう。私たちを隅から隅まで、腹の中も知っている。黒いか白いかも。だから、何もかもみんな神様はご存じです。そして、私たちのあり様に応じて、この人にとっていちばん幸いなことが何であるかを知って、神様が備えて生かしてくださる。だから、神様を抜きにして、自分が自分である人生を生きることができないのです。これは若い方の集会でお話をさせていただくことでもあるのです。自立、自分で立つのは神様により頼むことによって初めて成り得ることです。

私たちの人生もそうでありますし、年を取ってくるといよいよそのことが問われます。年を重ねるにつれて自分でできなくなってくる。そうなってくると人を頼る。娘や息子やあの人この人を動かして、何とか自分の思いを遂げようとする。そして自分の思うように動いてくれないと、腹を立てたり文句を言ったりしますが、頼るべき御方は私たちを造り、今も持ち運んでくださる神様に信頼すること以外にありません。これがどんな状況の中にあっても自立していくただ一つの道なのです。だから、神様を信頼して行きますならば、何があっても、きっと神様が必要な助けを備えてくださるに違いない。また進むべき道を神様がちゃんと整え備えてくださるに違いない。だから、神様に信頼して歩んで行くとき、その人でなければ生きることのできない生き方をさせて下さるのです。これがオリジナリティーということです。独創性、誰もまねができない人生を生きるとはここなのです。

今お読みいたしました「イザヤ書」46章4節に「わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ」と。神様は私たちのこの地上の生活の日々を持ち運んでくださっておられる。今日、こうしてこの所に呼び集めてくださったのは、神様がそのことをしてくださったのです。そして、これから先も、明日も、この新しい1週間の生活をも持ち運んでおられるのです。もう既に今週のいろいろなスケジュールが立っていると思いますが、そのとおり行くとは必ずしも思いませんし、行かないことのほうが多いでしょう。では、誰がそれをしているか? 神様なのです。「明日は連休でお休みだから、天気が良くなったらどこか郊外にでも出かけようか」と計画しても、翌日朝から雨が降っている。「どうして雨が降って!」とガッカリしますが、それは神様がとどめられたのです。いつも神様に信頼して、神様を前に置いて生きる。神様が持ち運んでくださっていることを信じていくとき、自分で走り回ることはいらない。自分で気を回すことはいらない。何もあれやこれや心配することはいらないのです。まさに、その時に応じて神様はいちばん善いことを実現して下さる。ですから、この4節に「わたしはあなたがたの年老いるまで変らず」とあります。「変らず」とは、真実な御方でいらっしゃるということです。神様は「我に就(きた)る者は我かならず之を棄(すて)ず」(ヨハネ6:37元訳)と言われるように、すっぽんのような御方でいらっしゃいますから、決して私たちを中途半端で投げ出さない。私たちのほうが勝手に「神様、もう結構です」と言ってそっぽを向くかもしれないけれども、たとえそっぽを向いても神様は決して手放さない。真実に変わらずに最後まで「あなたがたを持ち運ぶ」とおっしゃる。私はいつもこのお言葉を読ませていただくたびに、大きな励まし、力を与えられます。「そうなのだ。神様が持ち運んでくださる」と。自分の力で生きているのではない。「よし頑張ってやろう」と言うのは、なるほど恰好は良いですけれども「じゃ、何ができる」と言われても、できないのであります。だから、神様が力を与えてくださり、神様がさせてくださるとき、神様のほうが知恵も力も財も健康もどんな必要なものでも、すべてのものを供給、与えてくださる。だから、自分で前もって手を打たなければ、前もって何とかしておかなければと焦る必要もない。前もってしたところで、そのように行くかどうか私たちには分かりません。神様は「あすのことを思いわずらうな」とおっしゃる(マタイ 6:34)。だから、信仰生活というのは、出たとこ勝負です。こういうことを言うと皆さん、がっかりして「何だ、信仰生活、無責任な……」と失望されますが、私たちは責任を持てないのです。実際、明日どうなるか分からないのです。だから「何を準備しておきましょうか」と言っても、準備のしようがありません。だから、事がなったらなった時です。そのときに神様がちゃんと逃れるべき道を備えてくださる。だから、行く所まで行けばいいのです。神様が持ち運んでおられるのだから、神様が手を離すはずがない。

 昨日も7ケ月の子供のご両親が「ちょっと用事があるから、先生、預かってください」と預けて行きました。子供はこちらが言っても分かりませんから抱かれて「うーん、うーん」と声を発する。「歩けということかな」と、あちらに行け、こちらに行けと振り回されますけど、ハイ、ハイと従って行きます。こちらはだんだん肩が痛くなる。それでも落とせません。疲れるからその辺のソファーに置くと「やーん」と泣きます。仕方なしにまた抱えるのです。私はそのとき「神様は私をこんなにして抱いてくれているのか」と思いました。私はしょっちゅう我ままばかり言うけれども、神様は忍耐強くてあちらに運び、こちらに運び、ああしようか、こうしようかとしておられる。4節の後半に「わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」と。「わたしは造ったゆえ」、造り主でいらっしゃる。私をお造りになられた、皆さんお一人お一人を造って今に至るまで御手を持って支え、守り、いろいろなことの中に持ち運んでくださる。神様はこれからも、「いや、確かに考えてみたらこれまではそうでしたが、でもどうでしょうか、先生? これから、私はだんだん年を取って魅力もなくなるし、神様は迷惑でしょう」と。「神様はあなたの魅力のゆえに持ち運んでいるわけではない。神様は造ったとおっしゃる」。製造者です、造り主です。

 だから、足らないことがあり、ピンが抜けている所があり、おめでたくなった所があるとするなら、それは神様が造ったのですから、誰にも文句の言い様がありません。神様は「それでよろしい」とおっしゃるのですから、私どもは感謝して受ける。誰が私を造り、そして生きる者とし、私を持ち運んでくださっておられるか。「わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」。神様が「必ず負い、持ち運び、かつ救う」とおっしゃる。私たちの救いが完成に至るまで、この地上の生涯が終わって神様の御許、永遠の御国に入るまで、最後まで私を、責任を持って握ってくださる。これは何とも幸いなことではないでしょうか。それは私だけではないのです、皆さん。まだ神様のことが分からない家族もそうであり、また、なお神様を知らないでいる世の多くの人々に対しても、神様は同じように今も持ち運んでいらっしゃる。ところが、その造り主を知らない。ただそれだけなのです。「私は神様に持ち運ばれている。しかし、あなたは違うから、駄目ね」というのではありません。そうじゃないのです。家族の誰であれ、まだ神様を知らない者であったとしても、神様は造り主です。その方をも造り、その方のためにもひとり子を十字架に釘づけてくださったのです。何と大きな神様の広やかな御心ではないでしょうか。

 そのような神様が今日も「わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」とおっしゃる。この神様に私たちは全面的に信頼して、何が起こってきても「これも神様が導かれるのだから」と、喜び感謝し、そして主がそのとき、そのときに「お前がこれをしなさい」「お前はここに行きなさい」「それはやめときなさい」とおっしゃる一つ一つに「はい」「はい」と従って行きさえすれば、あなたでなければ生きることのできない、あなただけの掛け替えのない人生が完成するのです。これは誰もまねをすることもできない人生です。「年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ」とおっしゃる神様のこの約束を信じて、「今日も主よ、私をあなたの手に握って、持ち運んでください」と委ねていく、全てを神様の御手にささげていく、手渡していく者となろうではありませんか。自分で握らないのです。自分で走り回らない。神様が持ち運ぶとおっしゃる。

 まさに先のことは分かりません。ただ、目の前のことしか分かりません。神様が一つ一つ開いてくださる、置いてくださる所で忠実に神様に信頼して、委ねて、感謝し喜び、そして主を褒めたたえる者となりましょう。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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