いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(245)「キリストの平安を得よ」

2014年06月30日 | 聖書からのメッセージ

 ヨハネによる福音書14章25節から31節までを朗読。

 

 27節「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」。

 私たちにとって、平安である、安心があることは大変うれしいこと、幸いなことです。考えてみると、人はそれを求めて生きていると言えるかもしれません。安心を得たい、平安でありたいと願います。ところが、なかなかそれが得られません。

 

 ここにイエス様は「わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる」と言われます。同じ「平安」という言葉を使いますが、世が与えてくれる平安と、イエス様が与えてくださる平安とは違うものだということです。まずこの世の平安とはどんなものでしょうか。お金のない人は何とかお金があれば安心だと思います。また病気の人にとって見れば、早くこの病気が癒されて健康になれば私は安心なのだと思います。生活に困っている人にとっては、それが取り除かれることが安心だ。そうやって考えますと、世の中の生活は、日々、絶えず自分の安心を求めてあくせくしている、苦労していると言ってもいいと思います。それほどに、誰だって平安でありたい、安心を得たいと思いながら、なかなかそれが得られない。その原因はこの世の安心とか平安と言われるものは、どうしても限界がある。これは本当の平安ではないからです。例えば、病気をして病弱でいつも死の不安を抱えている。何とかこれがすっかり元気になって健康になれば、安心だと思っても、もう二度と病気にならないという保証はありません。人が生きているかぎり、肉体的な、身体的なものは逃れようがありません。また経済的な問題でも、時代が変わり、いろいろなものが変化していきます。昨今のように世界が経済不況に陥ってしまうと、どんなことをしても、安心はすぐに消えてしまいます。この世の与える平安は、そのように絶えずクルクルと変わっていく。だから、いつまでたってもそれに達しない。まるで、ハツカネズミが丸い車の中でぐるぐる走り回っているように、走れど走れど丸いかご自体が動きますから、いつまでも終わらない。世が与えてくれる平安を求めるかぎり、決して得られません。

 

イエス様がこの世に来てくださったのは、そのようにいつまでも得られない、達成できない平安ではなくて、文字どおりの安心を与えてくださるためです。「平安をあなたがたに与える」と言われます。イエス様が私たちに与えてくださる平安とは何か?それを考えるためにはもう一つ、私たちの平安を乱している事柄、私たちの心に不安や恐れを起こしているものはいったい何かを考えねばなりません。確かに、目に見える状態や事柄、事情境遇、お金がないとか、病気であるとか、あるいは、あの人この人とのいろいろな人間関係の問題、目に見えるそういう事態があるから不安だとか、心配だとか言います。しかし、実はもっと深いところで私たちが不安を感じる、恐れを感じている事柄があります。それは、神様と私たちとの関係でしょう。ヨブ記を開きたいと思います。

 

 ヨブ記22章21節から30節までを朗読。

 

 21節「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい」とあります。実は、私たちが求める平安のいちばん根本にある恐れや不安、ある種の自信のなさ、安心感がない原因は、神様と私たちとの間が断絶していることです。言うならば、神様と敵対関係にあること、これがそもそもの原因なのです。それはどういうことかと言いますと、まず私たちは神様に造られたものです。私たち一人一人が神様によってこの地上に命を与えられ、生かされている者です。私たちは誰のために生きているわけでもない。自分のためでも人のためでもない、家族のためでもない。私たちの造り主でいらっしゃる神様に与えられた目的と使命のために生きる者のです。ところが、神様のことなど私たちは知らなかったわけです。神様がいらっしゃることも考えない。それどころか自分が神様になったと言いますか、自分がすべてであって、私の考えや私の計画、私が……と生きてきた。その結果、私たちは神様との関係が絶たれてしまっていた。これが私たちを大変不安にする原因なのです。というのは、神様は私たちの造り主ですから、私たちは神様と結びついて初めて人となり得るのです。創世記にそう語られている。私たちは神様の命の息を吹きいれられて人となる、生きるものとなる。人が神様と共にあること、これがエデンの園の恵み、生活です。神様との隔てなき交わりが続いているかぎり、人は安心できるのです。

 

 これは親子関係と同じです。子供と親という関係は、神様と人との関係のようなものです。親子の関係が非常にうまくいっている、親と子が密接な愛の交わり、そういう関係にあると、子供の精神状態が非常に安定します。ところが、何かの問題や事柄があって親子が断絶する。あるいは、信頼関係が失われてしまいますと、殊に幼年期、幼い頃にそういう事に会うと、子供の成長が阻害される。特に内面的な、精神的な面でトラブルを抱え込んでしまいます。それは幼い頃だけの問題としてではなくて、親子関係が改善されるまでズーッと続きます。大人になっても続きます。

 

 私は身近にいろいろな方々を見ていて、そのことをしみじみ教えられます。私の知っているある方は、お父さんが大変厳しくて、父親を慕う気持ちもありますが、父親のことを思うと、その恐怖心と言いますか、あるいはそれに対する憎しみというものがグッと強く出てくるのです。その方は70代後半になっていますが、今もって「おやじが」と、自分の親のことを一言言った瞬間に、クッと心が変わります。そして、父親との関係がうまくいかなかったことと同時に、自分はそんな父親になれないという責めも感じる。ところが、母親は長男であった彼に対して大変甘かったのです。優しいばかりで接してきましたから、その落差が大きい。その親子関係、ある種のねじれと言いますか、もう父親は亡くなったのですが、その関係が今もって続きます。私はその姿を見ながら、人の関係でもこういう問題があるのだなと思う。それは親子の関係が回復されないことには治りません。

 

 私たち人間はすべてそうなのです。造り主でいらっしゃる神様に対して、私たちが信頼できない。神様を信じられないところに、私たちの根本的な不安と恐れと苛立ち、焦燥感、何かじっとしておられない不安定な精神状態になる。これは私たちの生活の中に必ず出てくる。何か事があるとフッとそのことが私たちの心をよぎってくる。自分は両親が大変愛してくれて、親子関係にそんなひずみはないと言われます。確かにそうでしょう。その関係においては良い関係であったと言えると思いますが、しかし、神様と私、神様とあなたとの関係はどうであったか。そう言われると、私たちは神様との間にどうしても信頼できない不信感のようなものが根強くあるのです。神様はいらっしゃるかしれないが、それを感じるけれども、何か神様は罰を与える御方だと。日本人はそうですね。“触らぬ神にたたりなし”と言うでしょう。できるだけ神様には近づかないほうがよいと。“祭り上げる”と言います。なぜ祭るか。できるだけ遠ざけたい。だから神棚は天井近くに置いている。日常生活で見えないようにして、フッと時々見ればいい。あまり年中見たくない。そういうものでしょう。だから、神様は怖いものの代名詞ですよ。「山ノ神」など、そうですよ。怖いのです。なぜ神様が怖いものと感じられるのか。それは、どこか責められる思いがある、あるいは、自分は神様の前に何かやましいものがあると言ってもいい。といって、何か具体的に神様に対して敵対した思いはもちろんありません。ところが、今読みました22章21節には「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい」と勧められています。神と和らぎなさい、和解しなさいと。けんかしていただろうから、あなたがたは「御免なさい」と言いなさい、これが大切だと。どのように神様と敵対していたか。それが実は22節以下に語られています。「天幕から不義を除き去り、24 こがねをちりの中に置き、オフルのこがねを谷川の石の中に」、神でないものを頼り、神でないものを神としていたではないかと。確かに考えてみますと、神様以上に家族を信頼し、子供を頼り、お金を頼り、自分の才能や家柄を頼り、そういうことを自分の力として生きていることは、取りも直さず、真の神様をないがしろにしていたことです。その結果、私たちの心は不安と安心がない心に変わっていく。だから、25節に「全能者があなたのこがねとなり」と、更に26節に「あなたは全能者を喜び」とする。神様を自分の宝としてしまう。神様を全面的に「あなたは主です」、「あなたは神です」と、私どもが神を神として尊び敬う者となること。そして、神様と和解するならば、私たちは神に向かって顔を上げることができ、祈りを聞いて頂くことができる。神様との密接な交わりに入ることができる。だから「神と和らぎなさい」と言われます。

 

 ですから、ヨハネによる福音書14章27節、「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える」と言われます。イエス様がこの世に来てくださったご目的は、私たちに平安を得させるためです。先ほどのヨブ記の言葉から言うならば、「私たちを神様と和らがせてくださるため」なのです。そのことをイエス様は「わたしの平安」と言われるのです。イエス様が持っていた平安はどんな平安だったでしょうか。それは父なる神様と全く一体となる事です。イエス様は父なる神様と共に居給うた御方が、あえて神の位に固守することをせず、人となってこの世に来てくださった(ピリピ2:6)。確かにイエス様は、私たちと同じ肉体をとってこの地上に生きてくださいました。しかし、それは同時に父なる神様と密接につながる、神様と和らいだ者の一つのモデルであります。イエス様はこの地上に在りし間、常に「父よ」、「父よ」と、父なる神様と不即不離と言いますか、決して離れることなく、全くぴったりと寄り添って生きてこられたのです。それに対して私たちはどうかというと、私たちは神様とくっつくことができないで、自分で、自分でと言い張って、神様との間が、距離が隔たってしまった。そこへイエス様が来て、「わたしの平安をあなたがたに与える」と。「わたしの平安」、すなわち、父なる神様と私たちとが全く一つになって、神様を尊んで、敬って、主のものとなりきっていく和解の道を、主が私たちのために備えてくださった。イエス様があの十字架にご自身の命をささげてくださった時、父なる神様から最後ののろいを受けて完全に父と子としての関係を切り離されました。その時、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と、イエス様は悲痛な叫びを上げています。父なる神様から完全に切り離された痛みです。これは徹底的な滅びでした。言うならば、実は私たちがそういう状態にあったのです。神様から切り離されて、神なき者となっておった。これほど惨めな、これほど大きな災難はないのであります。たとえ私たちの目に見える生活条件が整って、物質的にどんなに豊かで、事情境遇が恵まれていようと、神様から切り離されている魂、心であるかぎり、これは完全に呪われた生涯、そこには何一つ良いものが生まれてこない。エレミヤ書に、「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は、のろわれる」(17:5)とあります。私たちが自分を尊んでいるかぎり、神様との間は完全に切られた者、神様との関係が絶たれた者となります。これはイエス様があの十字架の最後に受けた神様からののろいだった。その瞬間まで、それまで十字架の上にあったときでもなお「父よ」、「父よ」と、父なる神様に信頼しておられた。ゲツセマネの園の中にあっても、苦しみの中に祈りつつも、父なる神様のご愛の中にイエス様はとどまっていらっしゃった。だから、イエス様は父なる神様にご自分を全くささげて従うことができたのです。私たちはイエス様の体験なさった平安を、今頂くことができるのです。27節に「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える」と言われるように、イエス様が与えようとしてくださる平安、神様と和らいで、神様と一つになっていくこと。これが大安心です。たとえ日常生活の問題や事柄、どんなことが起こってきても、神様と和らいでいるならば、神様のご愛の中にすっぽりと自分を委ねきってしまうことができるならば、まるで温室にいるのと同じです。どんな大嵐の中にあっても、どんなことが起こってきても動じない。これが実は私たちにイエス様が与えようとしてくださる平安なのです。もしいま何か不安があり、落ち着かない思いがあるならば、また、今は漠然として、何が問題といって問題はないのだけれども、何か将来に対してじっとしておられない不安があるならば、その原因はまさにそこなのです。神様に対する信頼、これをイエス様が与えてくださるために、あえて十字架にご自分が罪人となって、神様と私たちとを隔てておった罪の一切を取り除いてくださったのです。

 

 エペソ人への手紙2章11節から16節までを朗読。

 

 本当に素晴らしい恵みです。11節から12節の終わりまで、まさに「罪ととがとに死んでおったもの」、「この世の中で希望もなく神もない者であった」と。様々な神様の祝福と縁のなかった私たち、滅びに定められていた私たちです。ところが、13節に「今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである」と。イエス様の十字架の血潮によって、私たちの罪もとがも一切を取り除き、神様に全く近い、神様と一つとならせてくださる。14節に「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし」とありますが、「二つのもの」とは、神と私、キリストと私です。この二つを一つにしてくださる、一体となる。これは私たちに与えられた神様の恵み、平安です。私たちはだれからも罪人と定められることのない者としてくださった。神様と全く和解させてくださった。このことを信じていきたい。これが平安の源なのです。私たちがいろいろなことで不安を覚え、恐れを感じ、心配、思い煩いにいるとき、この恵みを忘れている時です。私たちが神様から離れてしまっている。もう一度、神様のものとなって、神様が私と一つであること、神様は私の中に宿っていてくださる。キリストは私たちと共にいて、新しい命となって、私を生きる者としてくださる。ここにいつも立ち返っていく。事情、境遇、問題、事柄、目に見えることは目の前にたくさんありますが、しかし、その背後の神様と私、そこに目を留めていきますと、どんな目の前の問題も、もはや問題とならなくなるのです。

 

14節以下に「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、15 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである」。「戒め」とは、私たちを責める道具です。私たちを罪に定めるための規定です。物差しでいろいろなものを測りますと、あれが足りない、ここが欠けている、多すぎる、少なすぎるなど、はっきりしてきます。それは欠けた所や不足している所を明らかにするためでしょう。律法とは、私たちがどんなに欠けた者であるか、どんなに神様に対して罪人であるかを糾弾(きゅうだん)する道具であります。しかし、イエス様はそれをすべて打ち壊して、私たちを神と一つになる者としてくださった。だから、私たちはどんなことがあっても、十字架によって、私たちは今、神様との間にとがめられることのない者であり、神様がいちばん愛してくださる自分であることをしっかりと心に留めておきたい。

 

先日もある方が、お手紙をくださって、「実は私は考えてみると、神様から偏愛された自分だと思う。誰よりも私は神様から愛された者であると、いま本当に感謝しています」。あつかましいなぁ、と思いますが、そのくらい神様に信頼していくことができたら、どんなにか幸いなことでしょう。何が起こってきても、神様がご存じだからと確信できます。先ほどのヨブ記に「全能者があなたのこがねとなり、あなたの貴重なしろがねとなるならば」とあるように、神様が私の力であり、全てであり、いま目の前のどんな問題でも、事柄でも、神様がご存じなのだ。神様は私を愛して、私のためにいちばん良いことをしてくださると言えるのはこの確信があるからです。「キリストの血によって」、神様と私たちを一つにしてくださった。「近いものとなった」と言われるように、神様のそば近くにおらしていただけるのであります。更にその先16節に「十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ」、どうぞ、ここをしっかりと心に留めていただきたい。十字架によって二つであったもの、神と私というように相対していた、向かい合っていた私たちを、そうではなくて、神イコール私、私イコール神様と、全く一つにしてくださった。「一つのからだとして神と和解させてくださった」。「敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである」。神様は私たちを滅ぼさない、私たちをとがめない、罰しないとおっしゃる。だから、何を恐れることがあるでしょうか。私たちは「はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」(ヘブル 4:16)と、神様に近づいて呼び求めることができるようにしていただいた。

 

 ピリピ人への手紙4章6,7節を朗読。

 

 「何事も思い煩ってはならない」と、どんなことも感謝をもって、ことごとく祈りと願いを神様に申し上げなさいと。神様にこんなことを言っていいのだろうかなどと恐れますが、何の遠慮もいりません。エペソ人への手紙に語られているように、「十字架によって、二つのものを一つとせられた」のですから。だから、私どもはどんなことでも、神様の前に持ち出していくことができる。神様は私たちの心の隅から隅まで、言葉にならない、うめくような思いすらも全部くみ取ってくださる御方。私たちのそばにいてくださる。私たちと共にいてくださるでしょう。そこまで神様に結びついているでしょうか?時折、必要な時だけ持ち出してきて、普段はちょっと隠れてもらってという、そんな状態であるから、いつまでも他人(ひと)の靴を履いているような落ち着かなさがある。そうではないのです。もっと大胆に、「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」(1ヨハネ 3:16)と告白し、主に信頼しましょう。主が十字架に命を捨てて、その血によって神様と私たちの間の敵意という隔ての中垣を一切取り壊して、二つであったものをいま一つにしてくださった。これほど身近なものはない。夫婦であってもこれほど一緒になれません。夫婦であっても皮の袋にお互い包まれていて、二つですからいくらぶつかり合っても一緒にはなりません。でも神様と私たちは一体となる。これが私たちに主が与えてくださる平安。だから、「求めるところを神に申し上げるがよい」と。どうしてあなたがたは遠慮しているのですか、どうして言わないのですかと、神様は妬(や)けるような思いをもって待っているのです。私たちが一切神様に申し上げるならば、7節に「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安」とあるように、言葉に言い表すことのできないほどの安心、神様の平安によって、心の思いの一切を神様が鎮(しず)めてくださる、取り仕切ってくださる、握ってくださるのです。私たちに安心を与えてくださる。これが私たちの受けている大きな恵みです。私たちはいつも平安のうちに喜び感謝して生きる。確かに目の前にはいろいろな問題があるに違いない。「ああなってくれるならいいけれども……」と、いろいろなことがありますが、それは神様がすべてご存じです。全能者ですから。私が分からなくてもいいのです。私が心配しなくてもいい。神様はちゃんといちばん良いことをしてくださる。

 

 先だっても福岡の若い人たち、兄弟が遊びに来まして、一緒に食事をしました。いろいろな話をしまして、今度大学を受験する高三の子供、あるいは大学生がいました。そのとき、人生にはいろいろな失敗もあるし、思い掛けないことが起こるという話から、大学生で、今3年生になる子に、「ちゃんと勉強して単位を取らなあかんぞ」と言ったのです。「卒業の時になって、ひょっとして卒業できなかったら困るから」と言ったら、「あと20何単位残っていますが、これくらいなら4年生で取れる」と言いますから、そこで思い出したのです。と言うのは、私の知人が今、大学で教師をしていますが、彼は大学4年生で、いよいよ3月に卒業になり、もう就職も決まっていまして、就職先に荷物を送る手はずにもなっていた。本人も卒業するものと思い込んでいました。そうしましたら、卒業式の直前になって、「あなたの1年生の時の語学の単位が取れていません」と言われ、卒業名簿に名前がない。本人もびっくりして、とうとう卒業できなくなり、就職も駄目になりました。それで僅かな単位を取るために、一年間大学に残ったのです。その時のことを考えると、親は大変でした。絶望の淵、どん底に落ちる。「どうなるか!」と。それで大学をやめてしまえば、中退になりますから、一年そのために頑張ったのです。翌年卒業をしました。卒業して就職してくれて、親はこれで大安心と思ったら、「やはりもうちょっと勉強をしたい」と、目覚めた。大学院に行きたいと言って、それから一年、また浪人をした。幸いに一年勉強して大学院に入る。やがて卒業をして、大学の教師になりました。考えてみたら、あの時単位を取り損なって良かったじゃないかと。それを聞いた若い者が、「え!そういうことがあるの。だったら失敗してもいいじゃないか」と言う。

 

神様のなさることはそうなのだろうと思うのです。どんなことでも結果はオーライだろうと思います。ところが、私たちはその神様を信頼しきれない。神様のご愛に私たちの心が届かないからです。神様がしてくださることに、どんなへまもない失敗もないことを知っておかなければならない。人がすることは失敗だらけ、欠けた所だらけ。だから、どうぞ、皆さん、どんなことがあっても、全能者を自分のこがねとし、宝としていくならば、これに勝る平安はありません。どんな「お守り」を持つよりも、これがいちばんですよ。神様が私を「十字架によって、二つのものを一つ」にしてくださった。神様と私とは何一つ揺らぐことがない関係にある。これをはっきりと知っておきたい。

 

ヨハネによる福音書14章27節に、「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える」。イエス様が与えてくださる平安は何か?それは父なる神様、全能者と私たちが一つとなることにほかなりません。そして、その全能者に信頼していく時、思い煩うことが一切ない。ただ喜び、感謝し、主を褒めたたえ、賛美していく以外にない。今どんな問題の中に置かれていても、神様がそこから何をしてくださるか分かりません。私たちには分からないけれども、神様は私たちの味方であり、後ろ盾となって、いちばん良いことをしてくださる御方、決してへまなことをなさる御方でありません。愛なる御方です。

 

どうぞ、私どもはその御方のご愛の中にスッポリと自分を委ねて、何があっても感謝し、喜んで、主を褒めたたえていこうではありませんか。だからそこにあるように、「あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」と。どうですか、何か「あれがあったら、どうしようか」「これが……」とおじ気づいているとするなら、それは主のご愛から離れているからです。「全き愛は(おそれ)を除く」(Ⅰヨハネ 4:18文語訳)と言われるように、主の完全なご愛の中に自らをしっかりと結びつけましょう。そのためには十字架以外にありません。十字架はそのために立てられた。主の十字架によって、キリストと一つになって、神と一つになって、主の平安の中に歩みたいと思います。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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