ヘブル人への手紙9章11節から14節までを朗読。
14節に「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか」。
ここに救いはどういうものか、簡単ながらも真髄を語っています。イエス様の救いをうけるのは、恵みであり幸いなことでが、その具体的なあり方はどのようなものでしょうか。救われると私たちの生活の中にどういう事態、事柄が起こってくるのでしょうか。というのは、「救い」というと、ご利益的な、家内安全無事息災、交通安全、学業優秀、商売繁盛という、生活上の条件、状況、事柄がうまくいくことだと思う。それも幸いなことですが、それはあくまでも肉に付けるもの、消え去り、移ろいゆくものです。この世は、消えていくものであり、過ぎ去っていくものに過ぎません。
人生の勝利者、この世で勝つ人生、人生で成功するというのは、何も偉大な事業を成し遂げるとか、事情境遇に恵まれた生涯を送ることではありません。何十年かの地上の生涯を歩んだ結果、勝利者といえるのは、死を乗り越えて、永遠に生きる望みを持ち得るかどうかです。この世で、素晴しい宮殿に住もうと、大きな邸宅に住もうと、あるいは何十人もの人に仕えられて、人のうらやむような生活をしようとも、その事が死をのり越えて、永遠の望みを与えてくれるかどうかです。いよいよ最後の死を迎えて、どうしたらいいか分からなくなってしまうならば、あるいは失望落胆してお先真っ暗というのだったら、その人生は実にむなしいと言えます。
死によって全てが雲散霧消して、終わってしまうのだったら、何のために生きる苦労をするのかということです。だから、人は自分の死んだ後に、その向こうに何があるか分からないから、一生懸命にこの世にしがみつこうとするのです。「長生きをしたい」。「死んでも命がありますように」と、この世にがむしゃらにしがみつこうとします。それで、あの健康法、この健康法と、この治療法とそういう形で医学が進んできて、クローン人間であるとか、あるいは自分の体を冷凍して、将来、治療法が見つかったときに、自分の病気を治療してもらうという話になったりします。いろんな形で、地上の生涯、生活が豊かになって長く続くようにと願います。そして少しでも長く生きることが、勝利だと思っているのです。
古代エジプト時代のピラミッドだとか、ミイラがありますが、それらもいわゆる、現世に自分を永遠に残していくことの極み、人が考えた最終的な手段ですね。人間の体から臓器を取り出して、完全にミイラ化して、そして何重にも包み込んで、ツタンカーメン王などは、幾つもの箱の中に納められて、ピラミッドを築いて、「これで私は生き続けるんだ」と思う。でも、いかんせん本人は死んでしまって、残った宝物は、後世の人たちが盗掘して、やがて自分のミイラすらもどこかの博物館に展示されて、残ったといえば残ったのでしょうが、実に哀れです。皆さん考えて御覧なさい。皆さんの今の体が、千年後にどこかの博物館に展示される、そんなことを夢見て、ミイラになりたい人はいないでしょう。いつまでもこの地上で生き続けようと願うのは、先に対して望みがない。永遠の命を信じることができない。私たちは、神様に創(つく)られたものであり、神様の手の中に握られていくとき、神に似るものと変えられます。救いにあずかった結果として、聖書に約束されているのは、すべての者が、キリストと同じ栄光の姿に変えられるとあります。いうならば、神様の性質に似る者と変えていただく。永遠の命というのはそのことです。
永遠から永遠まで、過去、現在、未来永劫(えいごう)にわたって存在なさる御方は、ただ神様だけです。しかし、わたしたちがその神様の手の中に握られて、神様と共にある者と変わっていくとき、私たちも神と共に永遠なる存在に移し変えていただく。これが神様の救い、私たちが受けている救いです。エデンの園で人が創られてそこに置かれたとき、そこに死はなかったのです。神と共にエデンの園で永遠の存在であったものが、神様から離れて捨てられて、迷い出てしまって、己を神とすることになって、初めて死を体験するものとなったのです。だから、死というのは、罪の結果であるとコリント人への手紙にあります。神様に対する罪の結果として、死が私たちを支配するようになった。イエス様がこの世に来てくださったのは、永遠の滅び、死に向かって落ちている私たちを、そこから救い出してくださる。永遠の命を与えてくださるためです。神と共にある生涯、神の性質へ似る者へ造り変えてくださる。これがイエス・キリストの救いです。イエス様がこの地上に来てくださって、罪のあがないの供え物として、御自身をささげて、私たちの罪を清めてくださいました。それは、再び滅びることがない、二度と死ぬことがない永遠の命に私たちを結び付けるためです。
そのことが今読みました11節以下に記されています。「しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、12 かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである」。
この言葉の背景を知っておかなければ理解できにくいかもしれません。イスラエルの民、神様が御自分の選びの民として定められたイスラエルの人々。これは、後にイエス・キリストの救いにあずかる一つのプロトタイプ(原型)、見本です。神様はイスラエルの民と共に居ることを証詞してくださいました。そのために、イスラエルの民の中に幕屋を設けることを求められました。「あかしの幕屋」とも言われます。それは、神様がそこにいらっしゃることを表すためのもの。と言って、その幕屋にだけ神様がいるのではない。神様はもっと大きな方ですから、ちっぽけな幕屋の中に住まわれる方ではない。それは一つの印です。イスラエルの民には、活ける真の神様がついていることを表すための、言うならば、水戸黄門の紋所のようなものですね。その印があるから、ここには神様がいらっしゃることが分かるように、幕屋を建てられた。
更に、幕屋を通して、神様が人と交わるためです。交わるといっても、今の私たちのように直接神様にお話できませんから、人と神様との間を取り次ぐ祭司が立てられたのです。そうでないと、穢(けが)れた者たちが土足で、神様の所に、近づくわけにはいかない。と言って、どんなに自分を清めたところで、清くなるはずがない。外側は顔を洗ったり、お化粧をしたり、美顔術をして奇麗になるかもしれませんが、心はそうはいきません。神様は私たちの心を見ていらっしゃる。私たちは神様の前にたならば一瞬にして滅ぼされる。神様と人とは、雲泥の差どころではない。天と地が離れている以上に大きな違いがあります。じゃ、どうしたら神様に近づくことができるか。神様が定められたルールがあります。イスラエルの民のレビ族を、神に仕える者とし、そこから祭司を選んで、願い事や、神様に対するさまざまな祈りを取り次ぐことにしました。
「ヘブル人への手紙」に、祭司の役割、神様と人との関係について語られています。しかし、祭司が人の中から選ばれる限り、祭司も人間ですから、先ず自分自身の罪を悔い改め、神様に許しを受けて、祭司としての務めに立たざるを得ない。しかも、肉にあって生きていますから、一度だけではなくて、繰り返し罪を犯しますから、その度ごとに自分自身のために先ずいけにえをささげなければならない。それから民のためにと。これは大変なことです。祭司自身がまだ不完全なものです。ところが、神様は、ときを定めて、人ではない、神の御子、ひとり子、イエス・キリストを世に遣わしてくださいました。神ご自身といってもいい方が、あえて人となってこの世に来て、神に仕える祭司としての役割を果してくださいました。
それが今読みましたこの11節に「キリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられた」。キリストがこの世に来てくださったのは、私たちと神様との間を執り成す完全無欠な祭司となってくださるためです。イエス様は、神の御子ですから、あえて自分のために犠牲やいけにえをささげる必要がない。罪のない方です。ヘブル人への手紙4章に「この大祭司は、罪は犯されなかった」とあります。9章の11節に、「手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり」、ここで言われている、「世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋」というのは、イエス様ご自身の肉体を指しています。イエス様は幕屋となって、その幕屋にあって御自分が祭司となり、神に仕えてくださったのです。イエス様は、救い主としてこの世にきて、ご自分を罪の贖いの生け贄として献げて下さいました。もう一つは、私たちの大祭司となって、贖いと執り成しの務めを果たしてくださいました。イエス様が仕える幕屋は、地上の生涯、肉体をもって生きてくださったこと自体が幕屋だったのです。だからもっと分かり易くいいますと、イエス様の肉体が、神様を宿した幕屋であります。
だからここに「完全な幕屋をとおり」とあります。それまでは不完全な幕屋でした。神様はモーセを通して幕屋の造り方が細かく命じられました。ジュゴンの皮であるとか、縦が何キュビト、横が何キュビトとか、読んでいたら眠くなりますが、そういう形を完全に造らせたのです。しかし、あくまでもそれは、この世にある材料ですから、不完全です。ところが、イエス様は「完全な幕屋」となってくださいました。しかも12節に「かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ」。「やぎと子牛との血によらず」とあります。イスラエルの民の中に作られた幕屋では、羊やヤギという動物を殺して、その血を流し、その動物を焼いて、その灰をまきかけて、民を清めたり、その罪を許したりしたのです。ですからここにありますように「やぎと子牛との血」を流して祭司が神様の前に祈り、仲立ちをし、執り成しをしたのです。本来だったら、私たちも、そういう風にしなければ、神様ののろいから解き放たれることはできない、罪を許されることができない。しかし12節に「やぎと子牛との血によらず」と、そういう朽ちゆくもの、動物の血によるのではなく、御自身の血によってとあります。イエス様御自身が、やぎや牛の代わりに犠牲となって、御自分をささげてくださいました。そして御自分の血を流して、「一度だけ聖所にはいられ」た。この聖所とはどこであったか? 十字架です。イエス様にとっての聖所は、十字架の祭壇に御自分をささげた場所です。
誰のために? 私のために、皆さん一人一人のために。イエス様が御自分を十字架の祭壇に、自身をいけにえとして、羊や牛の代わりに完全な神の子でいらっしゃる方が、罪なき方が罪人とせられて、あがないを全うしてくださいました。ですから「一度だけ聖所にはいられ」、それは一度だけでいいのです。二度も三度もいらない。人が祭司となり、動物の血をささげていたときは、毎日のように、同じことを繰り返したのです。しかし、もうその必要はない。なぜなら「完全な幕屋」であって、そこには不足するものが何もない。足らないことがない。そのイエス様は、永遠のあがないを全うされたのです。永遠のあがないですから、今日、明日、来年、また何十年、何百年先であろうと、永遠にわたって有効といいますか、効き目がある。賞味期限はないのです。イエス様の十字架の血潮は、二千年たったから、そろそろカビがついているから、もう一度私が代わって十字架にかかってあげようかと、そんなことは必要がない。大祭司として、イエス様の血によって、私たちの罪のあがないを成し遂げてくださった。それは二千年前、ただ一回限りです。12節に「それによって永遠のあがないを全うされたのである」。あがないを完成してくださいました。だから、「今やわたしたちは神の子である」と、「ヨハネの第一の手紙」にあります。私たちがまだ生まれない先から、神様は、ちゃんとそのことを定めて、私たちをあがなってくださいました。買い取って、神様のものとしてくださいました。どうぞ先ずこのことを、しっかり信じて受け入れ、確信をもっていきたい。「私は、キリストの命によって買い取られた者、あがなわれた者」、しかも、永遠のあがないですから、不完全なものではない。あがなわれたけれども、私はこんな失敗をしました。こんな罪を犯してしまった、だから、あのあがないは、無効になりましたと、そういうものではない。神様が、完全にあがないを全うしてくださったのですから、どんな状態に落ち込もうと、いつでも、主に立ち返りさえすればいいのです。神様のほうは、これで完全に終わったから、安心しなさいと言われる。
ただ、問題は私たちの側です。私たちが、いつまでも「こんな私だから駄目に違いない」「こんなことをしたから、神様から、また捨てられる」と、そうやって自分で自分を神様から引き離していこうとする。その結果、神様から遠く離れてしまうとき、私たちは滅びてしまう。だから、完全なあがないを全うしてくださったのですから、繰り返し主に立ち返ることです。でも、そんな何遍でもなんて、幾らいい人だってこれだけ繰り返したら、いい加減愛想をつかされる。神様、あと何回悔い改めて、許される回数が残っているでしょうかと。イエス様が言われたように、7度を70倍するほどの許しがあります。イエス様は十字架の上で「事畢(おわ)りぬ」と宣言されました。イエス様の十字架の血潮によって、あがなわれ許されました。だからどんなことがあっても主の前に立ち返る、神様の御許に帰ってくること、これだけです。神様は何度でも私たちを許し、神の子供として変わらずに扱ってくださいます。
人は、そうはいきません。ホトケの顔も三度まで、「お前、そんなことを言ったら、もう二度と……」となります。神様は仏じゃありませんから、3度どころか7度を70倍でもと言うのです。では、好き放題をしていいのかというと、そうはいきません。そんなにまで、愛してくださる主に対して、慎ましく、自分自身を大切にして、あがないの尊さをないがしろにできません。「恵みを無駄にしてはならない」とパウロは言っています。そのとおりです。だから、何とか主の御愛に応えて、主のあがないにあずかった者にふさわしく歩もうとします。しかし、肉にある間は、どうしても罪の誘惑に負けます。サタンの誘惑に負けます。イエス様のあがないはサタンの力以上に強いのです。だから、何度でも主に立ち返ることができます。「こんな私だからもう駄目です」と言って、自分を見ている間は駄目ですね。こんな自分ですが、今日も十字架の血潮によって、あがないを全うしてくださっていると、そこに目を止めて感謝し、喜ぶのです。ところが何か失敗したり、咎(とが)められることをしてしまった。神様に申し訳ないことをしましたと、心に引っ掛かる。そうすると、「もう駄目だ」と自分のほうに重点を置いてしまう。そして神様の前から離れてしまう。そうではなく、「そういう自分だけれども、主の許しがここにある」と、十字架のあがないに、自分を結び付けるのが私たちの救いなのです。
13節に「もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば」。動物の血を採ってふりかけたり、あるいはその動物を焼いた灰を穢れた人たちにまきかけるのです。お払いするように、肉体を清め、聖別する。それですらも清いとされるならば、14節に「なおさら」と、「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら」と言う。ここは「キリストの血は、なおさら」と読んでいただいたらいいと思います。前置きが長いから、読んでいるうちに、どこにポイントがあるか分からなくなりますが、ここで大切なのは「キリストの血は、なおさら」、その後に「わたしたちの良心をきよめて」です。イエス・キリストの血によって、私たちを清めてくださいます。それを信じることによって清められるのです。
イエス様の血潮は、私たちの一人一人のために注がれた血潮、それを信じるのです。どういう風に信じるかというと、「今日もこんな私のために、イエス様は、十字架にくぎづけられ、胸をやりで突かれ、血を流してまで……」、そのことをじっくりと自分の心の中に、黙想をするといいますか、それをじっと味わうのです。そして自分を振り返ってみると、神様からこれほどの恵みを受ける自分であろうかと思い至ります。イエス様の十字架が、何のためにあるのか、誰のためであったのか。私の何のために、こういう苦しみを受けてくださったのかと、繰り返して思い巡らすと、御霊が、イエス様の救いを、私たちの心にぴたっと貼り付けてくださる。ただ頭で聞いて知っているだけでなく、時間が空いているときに、あるいは夜休むときにお布団の中でもいいのです。イエス様の十字架の血潮とは一体何なのだろうか。それは私にとってどういうことなのだろうか。心に思い巡らすと、いいようのない喜びと感謝が湧いてきます。これは確かです。そうしますと、自分の思いが清められ、心が変わってくる。確かにここにあるように「キリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き」、私たちの生活の心を変えてくれます。心に神様の大きな愛が注がれて、「こんな者を愛してくださる主がいらっしゃる。私は主に対してどれほどのことをしただろうか。何をもって報いてきただろうか。神様は私にどんな恵みを今日も注いでくださったか」と、感謝と喜びがあふれてきます。
「死んだわざを取り除き」と、自分ではどうにも許せなかった人を許すことができるように変わる。あるいは自分がしたくないことを、喜んですることができるように変えてくださいます。私たちの生活の一つ一つの歩みを、神様は清めて、御心にかなうものと造り変えてくださいます。これは確かな力です。どうぞ信じて、神様の十字架の血潮の命をくみ取る体験していきたいと思います。死んだわざを取り除いて、「生ける神に仕える者としないであろうか」。生ける神様に仕えていく。神に仕える者に変えてくださいます。「神に仕える」というのは、神のしもべとなる生涯です。自分の生涯を主にささげて、主の御愛と恵みに応えていく人生を生きる者となる。これが、実はイエス・キリストの救いの完成です。この地上にあって、キリストのために生きる生涯に変わる。キリストに仕えて、神のしもべとなる生涯です。神のしもべとなって、神に仕えていく者として自分をささげる。これが私たちの最高の人生です。これが神様が与えて下さる永遠のいのちの生涯です。生活の真っただ中で、一人一人が、神に仕える者として、主にささげていくことです。日々、朝起きてから夜寝るまで、いろんな生活がありますが、その一コマ一コマのわざ、出来事の中で、主に仕える。神様のしもべとして、神様の御用をさせていただいていることを、絶えず喜び感謝する生涯です。そうなると、死ももはや恐れるものではなく、この世にありながら、すでに神様の命に繋がって生きるものとなる。神様が、私たちをこの地上に置いてくださるのは、神のしもべとして、神に仕えていく生涯を歩むように定めてくださったのです。
ですから、私たちはそれぞれ遣わされているところで、イエス・キリストの十字架の完全なる永遠のあがないを感謝して受け、清められた心となって、死んだわざを取り除いて、神様に仕えていく生涯、神のしもべとして、自分をささげて生きる。これがイエス・キリストの救いです。その体験をするのが地上の生涯です。やがて生涯が終わるとき「善かつ忠なる僕よ」と、神様に仕えてきた私たちを、永遠の御国に移してくださって、一切の労苦をねぎらってくださいます。
ですから一つだけ読んでおきたいと思いますが、コリント人への第二の手紙6章3節から10節までを朗読。
ここに繰り返して4節、8節に「神の僕として、自分を人々にあらわしている」とパウロは語っています。それぞれ家庭に遣わされているのは、そこで神様に仕えるためです。神様に自分をささげて、献身の生涯を生きる。日毎の生活の中で、どんなことの中にも、神のしもべとして自分を現していく生涯。今、このことを通して、神に仕えている自分であることを、絶えず自覚しておきたい。何か特殊なことをしたり、特別なわざをすることが、神に仕えることではありません。既に、神様のものとしてあがなわれています。仕える者として立てられているのです。清めてくださいました。だから、それぞれの家庭で、地域社会で、またその職場へと、神様に遣わされて、神のしもべとして自分を現していくのです。
4節以下にありますように「極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、5 むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも」、さまざまな困難の中にも、苦しみの中にあっても、神のしもべとして、絶えず自らを現していく。これがパウロの生き方です。と同時に、イエス様の血潮によってあがなわれた者の生涯でもあります。ですから、説教したり、伝道しているわけではないから、神様に仕えていないと言うのではない。神様のものとして、受け入れるにふさわしく、私たちを清めてくださいましたから、すべての人が自らを神にささげるのです。神に仕える者としてくださっています。だから、置かれた所がどこであっても、そこで敬虔に主のしもべとなりきってしまう。これが私たちに求められているただ一つのことです。自分のために生きるのではない。自分の夢を実現するのでも、自分の何かをするのでもない。自分の好き嫌いに係わらず、主がせよと言われるところに従って、しもべとなって、主に仕えていくことが、何よりも主が喜んでくださることに他なりません。どんな中にあっても、8節に「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても」と。つい人の反応をみます。人からの報いを求めますから、「こんなにしたから、あの人が何か言ってくれやしないか」「何かご褒美の一つでもくれやしないか。お礼の一言でもあるんじゃないかな」と思うから、失望し、怒りが出てきます。それは主に仕えていないからです。主人である神様から、お褒めの言葉をいただけばいいのです。人に仕えているのだったら、その人から「お前よくやったな」と言われたいと思う。しかし、人に仕えているのではなく、主に仕えて、神のしもべとなっている。だったら、主人でいらっしゃる神様が、報いてくださる。この世にあって、人から褒められようと、そしられようと、何をされようと、そんなことは関係がない。絶えず主に心を向けて、主のしもべとなって仕えていく。これが私たちの信仰です。
ですから、ヘブル人への手紙9章14節に「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか」。「生ける神に仕える者としないであろうか」、いや、私どもを生ける神に仕える者としていてくださるのです。どうぞ神のしもべとして、いつも、どんなときでも、「私は、主のしもべです」と、主にのみ目を止めて、主が報いてくださる、主が求めておられる、主が喜んでくださることを第一に歩む日々でありたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
14節に「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか」。
ここに救いはどういうものか、簡単ながらも真髄を語っています。イエス様の救いをうけるのは、恵みであり幸いなことでが、その具体的なあり方はどのようなものでしょうか。救われると私たちの生活の中にどういう事態、事柄が起こってくるのでしょうか。というのは、「救い」というと、ご利益的な、家内安全無事息災、交通安全、学業優秀、商売繁盛という、生活上の条件、状況、事柄がうまくいくことだと思う。それも幸いなことですが、それはあくまでも肉に付けるもの、消え去り、移ろいゆくものです。この世は、消えていくものであり、過ぎ去っていくものに過ぎません。
人生の勝利者、この世で勝つ人生、人生で成功するというのは、何も偉大な事業を成し遂げるとか、事情境遇に恵まれた生涯を送ることではありません。何十年かの地上の生涯を歩んだ結果、勝利者といえるのは、死を乗り越えて、永遠に生きる望みを持ち得るかどうかです。この世で、素晴しい宮殿に住もうと、大きな邸宅に住もうと、あるいは何十人もの人に仕えられて、人のうらやむような生活をしようとも、その事が死をのり越えて、永遠の望みを与えてくれるかどうかです。いよいよ最後の死を迎えて、どうしたらいいか分からなくなってしまうならば、あるいは失望落胆してお先真っ暗というのだったら、その人生は実にむなしいと言えます。
死によって全てが雲散霧消して、終わってしまうのだったら、何のために生きる苦労をするのかということです。だから、人は自分の死んだ後に、その向こうに何があるか分からないから、一生懸命にこの世にしがみつこうとするのです。「長生きをしたい」。「死んでも命がありますように」と、この世にがむしゃらにしがみつこうとします。それで、あの健康法、この健康法と、この治療法とそういう形で医学が進んできて、クローン人間であるとか、あるいは自分の体を冷凍して、将来、治療法が見つかったときに、自分の病気を治療してもらうという話になったりします。いろんな形で、地上の生涯、生活が豊かになって長く続くようにと願います。そして少しでも長く生きることが、勝利だと思っているのです。
古代エジプト時代のピラミッドだとか、ミイラがありますが、それらもいわゆる、現世に自分を永遠に残していくことの極み、人が考えた最終的な手段ですね。人間の体から臓器を取り出して、完全にミイラ化して、そして何重にも包み込んで、ツタンカーメン王などは、幾つもの箱の中に納められて、ピラミッドを築いて、「これで私は生き続けるんだ」と思う。でも、いかんせん本人は死んでしまって、残った宝物は、後世の人たちが盗掘して、やがて自分のミイラすらもどこかの博物館に展示されて、残ったといえば残ったのでしょうが、実に哀れです。皆さん考えて御覧なさい。皆さんの今の体が、千年後にどこかの博物館に展示される、そんなことを夢見て、ミイラになりたい人はいないでしょう。いつまでもこの地上で生き続けようと願うのは、先に対して望みがない。永遠の命を信じることができない。私たちは、神様に創(つく)られたものであり、神様の手の中に握られていくとき、神に似るものと変えられます。救いにあずかった結果として、聖書に約束されているのは、すべての者が、キリストと同じ栄光の姿に変えられるとあります。いうならば、神様の性質に似る者と変えていただく。永遠の命というのはそのことです。
永遠から永遠まで、過去、現在、未来永劫(えいごう)にわたって存在なさる御方は、ただ神様だけです。しかし、わたしたちがその神様の手の中に握られて、神様と共にある者と変わっていくとき、私たちも神と共に永遠なる存在に移し変えていただく。これが神様の救い、私たちが受けている救いです。エデンの園で人が創られてそこに置かれたとき、そこに死はなかったのです。神と共にエデンの園で永遠の存在であったものが、神様から離れて捨てられて、迷い出てしまって、己を神とすることになって、初めて死を体験するものとなったのです。だから、死というのは、罪の結果であるとコリント人への手紙にあります。神様に対する罪の結果として、死が私たちを支配するようになった。イエス様がこの世に来てくださったのは、永遠の滅び、死に向かって落ちている私たちを、そこから救い出してくださる。永遠の命を与えてくださるためです。神と共にある生涯、神の性質へ似る者へ造り変えてくださる。これがイエス・キリストの救いです。イエス様がこの地上に来てくださって、罪のあがないの供え物として、御自身をささげて、私たちの罪を清めてくださいました。それは、再び滅びることがない、二度と死ぬことがない永遠の命に私たちを結び付けるためです。
そのことが今読みました11節以下に記されています。「しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、12 かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである」。
この言葉の背景を知っておかなければ理解できにくいかもしれません。イスラエルの民、神様が御自分の選びの民として定められたイスラエルの人々。これは、後にイエス・キリストの救いにあずかる一つのプロトタイプ(原型)、見本です。神様はイスラエルの民と共に居ることを証詞してくださいました。そのために、イスラエルの民の中に幕屋を設けることを求められました。「あかしの幕屋」とも言われます。それは、神様がそこにいらっしゃることを表すためのもの。と言って、その幕屋にだけ神様がいるのではない。神様はもっと大きな方ですから、ちっぽけな幕屋の中に住まわれる方ではない。それは一つの印です。イスラエルの民には、活ける真の神様がついていることを表すための、言うならば、水戸黄門の紋所のようなものですね。その印があるから、ここには神様がいらっしゃることが分かるように、幕屋を建てられた。
更に、幕屋を通して、神様が人と交わるためです。交わるといっても、今の私たちのように直接神様にお話できませんから、人と神様との間を取り次ぐ祭司が立てられたのです。そうでないと、穢(けが)れた者たちが土足で、神様の所に、近づくわけにはいかない。と言って、どんなに自分を清めたところで、清くなるはずがない。外側は顔を洗ったり、お化粧をしたり、美顔術をして奇麗になるかもしれませんが、心はそうはいきません。神様は私たちの心を見ていらっしゃる。私たちは神様の前にたならば一瞬にして滅ぼされる。神様と人とは、雲泥の差どころではない。天と地が離れている以上に大きな違いがあります。じゃ、どうしたら神様に近づくことができるか。神様が定められたルールがあります。イスラエルの民のレビ族を、神に仕える者とし、そこから祭司を選んで、願い事や、神様に対するさまざまな祈りを取り次ぐことにしました。
「ヘブル人への手紙」に、祭司の役割、神様と人との関係について語られています。しかし、祭司が人の中から選ばれる限り、祭司も人間ですから、先ず自分自身の罪を悔い改め、神様に許しを受けて、祭司としての務めに立たざるを得ない。しかも、肉にあって生きていますから、一度だけではなくて、繰り返し罪を犯しますから、その度ごとに自分自身のために先ずいけにえをささげなければならない。それから民のためにと。これは大変なことです。祭司自身がまだ不完全なものです。ところが、神様は、ときを定めて、人ではない、神の御子、ひとり子、イエス・キリストを世に遣わしてくださいました。神ご自身といってもいい方が、あえて人となってこの世に来て、神に仕える祭司としての役割を果してくださいました。
それが今読みましたこの11節に「キリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられた」。キリストがこの世に来てくださったのは、私たちと神様との間を執り成す完全無欠な祭司となってくださるためです。イエス様は、神の御子ですから、あえて自分のために犠牲やいけにえをささげる必要がない。罪のない方です。ヘブル人への手紙4章に「この大祭司は、罪は犯されなかった」とあります。9章の11節に、「手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり」、ここで言われている、「世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋」というのは、イエス様ご自身の肉体を指しています。イエス様は幕屋となって、その幕屋にあって御自分が祭司となり、神に仕えてくださったのです。イエス様は、救い主としてこの世にきて、ご自分を罪の贖いの生け贄として献げて下さいました。もう一つは、私たちの大祭司となって、贖いと執り成しの務めを果たしてくださいました。イエス様が仕える幕屋は、地上の生涯、肉体をもって生きてくださったこと自体が幕屋だったのです。だからもっと分かり易くいいますと、イエス様の肉体が、神様を宿した幕屋であります。
だからここに「完全な幕屋をとおり」とあります。それまでは不完全な幕屋でした。神様はモーセを通して幕屋の造り方が細かく命じられました。ジュゴンの皮であるとか、縦が何キュビト、横が何キュビトとか、読んでいたら眠くなりますが、そういう形を完全に造らせたのです。しかし、あくまでもそれは、この世にある材料ですから、不完全です。ところが、イエス様は「完全な幕屋」となってくださいました。しかも12節に「かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ」。「やぎと子牛との血によらず」とあります。イスラエルの民の中に作られた幕屋では、羊やヤギという動物を殺して、その血を流し、その動物を焼いて、その灰をまきかけて、民を清めたり、その罪を許したりしたのです。ですからここにありますように「やぎと子牛との血」を流して祭司が神様の前に祈り、仲立ちをし、執り成しをしたのです。本来だったら、私たちも、そういう風にしなければ、神様ののろいから解き放たれることはできない、罪を許されることができない。しかし12節に「やぎと子牛との血によらず」と、そういう朽ちゆくもの、動物の血によるのではなく、御自身の血によってとあります。イエス様御自身が、やぎや牛の代わりに犠牲となって、御自分をささげてくださいました。そして御自分の血を流して、「一度だけ聖所にはいられ」た。この聖所とはどこであったか? 十字架です。イエス様にとっての聖所は、十字架の祭壇に御自分をささげた場所です。
誰のために? 私のために、皆さん一人一人のために。イエス様が御自分を十字架の祭壇に、自身をいけにえとして、羊や牛の代わりに完全な神の子でいらっしゃる方が、罪なき方が罪人とせられて、あがないを全うしてくださいました。ですから「一度だけ聖所にはいられ」、それは一度だけでいいのです。二度も三度もいらない。人が祭司となり、動物の血をささげていたときは、毎日のように、同じことを繰り返したのです。しかし、もうその必要はない。なぜなら「完全な幕屋」であって、そこには不足するものが何もない。足らないことがない。そのイエス様は、永遠のあがないを全うされたのです。永遠のあがないですから、今日、明日、来年、また何十年、何百年先であろうと、永遠にわたって有効といいますか、効き目がある。賞味期限はないのです。イエス様の十字架の血潮は、二千年たったから、そろそろカビがついているから、もう一度私が代わって十字架にかかってあげようかと、そんなことは必要がない。大祭司として、イエス様の血によって、私たちの罪のあがないを成し遂げてくださった。それは二千年前、ただ一回限りです。12節に「それによって永遠のあがないを全うされたのである」。あがないを完成してくださいました。だから、「今やわたしたちは神の子である」と、「ヨハネの第一の手紙」にあります。私たちがまだ生まれない先から、神様は、ちゃんとそのことを定めて、私たちをあがなってくださいました。買い取って、神様のものとしてくださいました。どうぞ先ずこのことを、しっかり信じて受け入れ、確信をもっていきたい。「私は、キリストの命によって買い取られた者、あがなわれた者」、しかも、永遠のあがないですから、不完全なものではない。あがなわれたけれども、私はこんな失敗をしました。こんな罪を犯してしまった、だから、あのあがないは、無効になりましたと、そういうものではない。神様が、完全にあがないを全うしてくださったのですから、どんな状態に落ち込もうと、いつでも、主に立ち返りさえすればいいのです。神様のほうは、これで完全に終わったから、安心しなさいと言われる。
ただ、問題は私たちの側です。私たちが、いつまでも「こんな私だから駄目に違いない」「こんなことをしたから、神様から、また捨てられる」と、そうやって自分で自分を神様から引き離していこうとする。その結果、神様から遠く離れてしまうとき、私たちは滅びてしまう。だから、完全なあがないを全うしてくださったのですから、繰り返し主に立ち返ることです。でも、そんな何遍でもなんて、幾らいい人だってこれだけ繰り返したら、いい加減愛想をつかされる。神様、あと何回悔い改めて、許される回数が残っているでしょうかと。イエス様が言われたように、7度を70倍するほどの許しがあります。イエス様は十字架の上で「事畢(おわ)りぬ」と宣言されました。イエス様の十字架の血潮によって、あがなわれ許されました。だからどんなことがあっても主の前に立ち返る、神様の御許に帰ってくること、これだけです。神様は何度でも私たちを許し、神の子供として変わらずに扱ってくださいます。
人は、そうはいきません。ホトケの顔も三度まで、「お前、そんなことを言ったら、もう二度と……」となります。神様は仏じゃありませんから、3度どころか7度を70倍でもと言うのです。では、好き放題をしていいのかというと、そうはいきません。そんなにまで、愛してくださる主に対して、慎ましく、自分自身を大切にして、あがないの尊さをないがしろにできません。「恵みを無駄にしてはならない」とパウロは言っています。そのとおりです。だから、何とか主の御愛に応えて、主のあがないにあずかった者にふさわしく歩もうとします。しかし、肉にある間は、どうしても罪の誘惑に負けます。サタンの誘惑に負けます。イエス様のあがないはサタンの力以上に強いのです。だから、何度でも主に立ち返ることができます。「こんな私だからもう駄目です」と言って、自分を見ている間は駄目ですね。こんな自分ですが、今日も十字架の血潮によって、あがないを全うしてくださっていると、そこに目を止めて感謝し、喜ぶのです。ところが何か失敗したり、咎(とが)められることをしてしまった。神様に申し訳ないことをしましたと、心に引っ掛かる。そうすると、「もう駄目だ」と自分のほうに重点を置いてしまう。そして神様の前から離れてしまう。そうではなく、「そういう自分だけれども、主の許しがここにある」と、十字架のあがないに、自分を結び付けるのが私たちの救いなのです。
13節に「もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば」。動物の血を採ってふりかけたり、あるいはその動物を焼いた灰を穢れた人たちにまきかけるのです。お払いするように、肉体を清め、聖別する。それですらも清いとされるならば、14節に「なおさら」と、「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら」と言う。ここは「キリストの血は、なおさら」と読んでいただいたらいいと思います。前置きが長いから、読んでいるうちに、どこにポイントがあるか分からなくなりますが、ここで大切なのは「キリストの血は、なおさら」、その後に「わたしたちの良心をきよめて」です。イエス・キリストの血によって、私たちを清めてくださいます。それを信じることによって清められるのです。
イエス様の血潮は、私たちの一人一人のために注がれた血潮、それを信じるのです。どういう風に信じるかというと、「今日もこんな私のために、イエス様は、十字架にくぎづけられ、胸をやりで突かれ、血を流してまで……」、そのことをじっくりと自分の心の中に、黙想をするといいますか、それをじっと味わうのです。そして自分を振り返ってみると、神様からこれほどの恵みを受ける自分であろうかと思い至ります。イエス様の十字架が、何のためにあるのか、誰のためであったのか。私の何のために、こういう苦しみを受けてくださったのかと、繰り返して思い巡らすと、御霊が、イエス様の救いを、私たちの心にぴたっと貼り付けてくださる。ただ頭で聞いて知っているだけでなく、時間が空いているときに、あるいは夜休むときにお布団の中でもいいのです。イエス様の十字架の血潮とは一体何なのだろうか。それは私にとってどういうことなのだろうか。心に思い巡らすと、いいようのない喜びと感謝が湧いてきます。これは確かです。そうしますと、自分の思いが清められ、心が変わってくる。確かにここにあるように「キリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き」、私たちの生活の心を変えてくれます。心に神様の大きな愛が注がれて、「こんな者を愛してくださる主がいらっしゃる。私は主に対してどれほどのことをしただろうか。何をもって報いてきただろうか。神様は私にどんな恵みを今日も注いでくださったか」と、感謝と喜びがあふれてきます。
「死んだわざを取り除き」と、自分ではどうにも許せなかった人を許すことができるように変わる。あるいは自分がしたくないことを、喜んですることができるように変えてくださいます。私たちの生活の一つ一つの歩みを、神様は清めて、御心にかなうものと造り変えてくださいます。これは確かな力です。どうぞ信じて、神様の十字架の血潮の命をくみ取る体験していきたいと思います。死んだわざを取り除いて、「生ける神に仕える者としないであろうか」。生ける神様に仕えていく。神に仕える者に変えてくださいます。「神に仕える」というのは、神のしもべとなる生涯です。自分の生涯を主にささげて、主の御愛と恵みに応えていく人生を生きる者となる。これが、実はイエス・キリストの救いの完成です。この地上にあって、キリストのために生きる生涯に変わる。キリストに仕えて、神のしもべとなる生涯です。神のしもべとなって、神に仕えていく者として自分をささげる。これが私たちの最高の人生です。これが神様が与えて下さる永遠のいのちの生涯です。生活の真っただ中で、一人一人が、神に仕える者として、主にささげていくことです。日々、朝起きてから夜寝るまで、いろんな生活がありますが、その一コマ一コマのわざ、出来事の中で、主に仕える。神様のしもべとして、神様の御用をさせていただいていることを、絶えず喜び感謝する生涯です。そうなると、死ももはや恐れるものではなく、この世にありながら、すでに神様の命に繋がって生きるものとなる。神様が、私たちをこの地上に置いてくださるのは、神のしもべとして、神に仕えていく生涯を歩むように定めてくださったのです。
ですから、私たちはそれぞれ遣わされているところで、イエス・キリストの十字架の完全なる永遠のあがないを感謝して受け、清められた心となって、死んだわざを取り除いて、神様に仕えていく生涯、神のしもべとして、自分をささげて生きる。これがイエス・キリストの救いです。その体験をするのが地上の生涯です。やがて生涯が終わるとき「善かつ忠なる僕よ」と、神様に仕えてきた私たちを、永遠の御国に移してくださって、一切の労苦をねぎらってくださいます。
ですから一つだけ読んでおきたいと思いますが、コリント人への第二の手紙6章3節から10節までを朗読。
ここに繰り返して4節、8節に「神の僕として、自分を人々にあらわしている」とパウロは語っています。それぞれ家庭に遣わされているのは、そこで神様に仕えるためです。神様に自分をささげて、献身の生涯を生きる。日毎の生活の中で、どんなことの中にも、神のしもべとして自分を現していく生涯。今、このことを通して、神に仕えている自分であることを、絶えず自覚しておきたい。何か特殊なことをしたり、特別なわざをすることが、神に仕えることではありません。既に、神様のものとしてあがなわれています。仕える者として立てられているのです。清めてくださいました。だから、それぞれの家庭で、地域社会で、またその職場へと、神様に遣わされて、神のしもべとして自分を現していくのです。
4節以下にありますように「極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、5 むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも」、さまざまな困難の中にも、苦しみの中にあっても、神のしもべとして、絶えず自らを現していく。これがパウロの生き方です。と同時に、イエス様の血潮によってあがなわれた者の生涯でもあります。ですから、説教したり、伝道しているわけではないから、神様に仕えていないと言うのではない。神様のものとして、受け入れるにふさわしく、私たちを清めてくださいましたから、すべての人が自らを神にささげるのです。神に仕える者としてくださっています。だから、置かれた所がどこであっても、そこで敬虔に主のしもべとなりきってしまう。これが私たちに求められているただ一つのことです。自分のために生きるのではない。自分の夢を実現するのでも、自分の何かをするのでもない。自分の好き嫌いに係わらず、主がせよと言われるところに従って、しもべとなって、主に仕えていくことが、何よりも主が喜んでくださることに他なりません。どんな中にあっても、8節に「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても」と。つい人の反応をみます。人からの報いを求めますから、「こんなにしたから、あの人が何か言ってくれやしないか」「何かご褒美の一つでもくれやしないか。お礼の一言でもあるんじゃないかな」と思うから、失望し、怒りが出てきます。それは主に仕えていないからです。主人である神様から、お褒めの言葉をいただけばいいのです。人に仕えているのだったら、その人から「お前よくやったな」と言われたいと思う。しかし、人に仕えているのではなく、主に仕えて、神のしもべとなっている。だったら、主人でいらっしゃる神様が、報いてくださる。この世にあって、人から褒められようと、そしられようと、何をされようと、そんなことは関係がない。絶えず主に心を向けて、主のしもべとなって仕えていく。これが私たちの信仰です。
ですから、ヘブル人への手紙9章14節に「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか」。「生ける神に仕える者としないであろうか」、いや、私どもを生ける神に仕える者としていてくださるのです。どうぞ神のしもべとして、いつも、どんなときでも、「私は、主のしもべです」と、主にのみ目を止めて、主が報いてくださる、主が求めておられる、主が喜んでくださることを第一に歩む日々でありたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。