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いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(341)「主は今生きておられる」

2014年10月04日 | 聖書からのメッセージ

「マタイによる福音書」28章16節から20節までを朗読。

 20節「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

 イースターという言葉は皆さんもよくご存じのとおりで、主イエス・キリストが墓からよみがえられたことを記念した「復活の日」であります。それははるか2千年も昔の話です。私たちにとっては遠い夢物語のような話であります。イエス様は神の御子で、神と共に居給うた御方である、と語られています。そのイエス様、御子が、この世に来てくださった。このこと自体、想像のつかない破天荒(はてんこう)なことだと思います。日本の伝統的な神様のイメージとは全く違う感じです。この日本では古来神はいろいろなものの中に宿っている一つのエネルギーといいますか、力のようなものである、と信じられてきました。ですから、いろいろな所に神がいます。かまどの神様、井戸の神様、家中至る所に神だらけという、八百万(やおよろず)の神、八百万と書くのです。それ以上かもしれませんが、いずれにしても神様についてはそのくらいの理解であっただろうと思います。しかし、聖書を通して証詞されている神様はそのようなつかみ所のない、漠然(ばくぜん)とした、どこにでもいるという、木の精であり、あるいは動物の中にあり、人の中にもあり、生活の隅々にまで神が宿っている、という意味での神様とは違います。どのように違うかというと、まずこの世、森羅万象(しんらばんしょう)すべてのものを創造し、そこに存在させておられる御方が神である、と宣言されています。ですから、全てに先立って、まず神様がいらっしゃった。その後にすべてのものが創(つく)り出された、という考え方です。ところが、日本のいわゆるアニミズム、汎神論的なすべてのものの中に神が宿る、という考え方は、まず物があってそこに神が宿る。これが聖書を通して語られている神様との大きな違いです。聖書には、まず神様がいて、すべてのものが出来た。だから、私たちが今こうやって生きていることも、親から生まれたから親が造ったというのではなく、神様によって造られた。「いや、私たちは先祖のお陰で今があるのです」と、よく言われます。「どうして、キリスト教は先祖祭りを大切にしないのですか」「いまあるのは先祖のお陰じゃないですか。先生だって親があり、その親があり、またその親があり……、でしょう? その親のお陰で今がある」「いや、でも私の親がそんなに責任を持てるような親じゃありませんよ。もっと小さいですよ」と答えます。私はその方に「あなたが先祖になったとき、子孫に何ができますか?」と。何もしてやれません。だから先祖は大迷惑をしていると思います。別に先祖によって造られたのではない。私たちを造った目に見えない神様がおられたことがまず第一です。ところが、私たちはすべての物があって、そこに神が宿っているのだ、と考える。ここが大変大きな違いです。それは大した違いでなさそうに思いますが、これがすべての物事の考え方、受け止め方、生き方にかかわってきます。私たちが今こうやって生きていること自体が、神様が生かしてくださっている。神様が私を造ってこの地上に命を与え、何十年かの旅路を導かれる御方だ、ということを信じるのか、あるいは自分は先祖か何かよく分からないけれども、とにかく仕方がない、生まれてきた以上生きなければ仕様がない。死ぬに死なれないから生きている。嫌なこともあり、つらいこともあるから、一つ神様なるものにチョット頼もうか、という神様なのか、これは大きな違いです。聖書に私たちが造られ生かされているのは、まさに万物の創造者の神様がおられるからだと宣言されています。

ところが、その神様を私たちはいつ知ったのでしょうか?実は、知らなかったのです。知らないままに生きてきました。しかし、いろいろなことで思いどおりにいかない、願いどおりにいかない、あるいは人生には不合理、理の通らない不条理なことが多々あります。「どうしてこんなになったのだろうか」「どうしてこんなことが起こるのだろうか」と、訳が分からない。世の中には不公平な事態がありますし、義なる者がその報いを受けることができないで、かえってとんでもない災難に遭うことを目にしたりします。そうすると、私どもは「いったい神がいるだろうか?」「神様がいるなら、どうしてこんなことが起こるのだろうか?」と憤(いきどお)ったりします。しかし、そのような問題を通して初めて人は自分が被造物、造られたものであって、私たちを生かしておられる御方がいることに思いを向けるのです。だから、不幸に遭い、悲しみに遭い、苦しい出来事に遭い、不条理なこと、思いもかけないことがあるとき、もう一つ踏み込んで、人が「自分はいったい何者なのだろうか?こういう悩みの中にあって、自分は手も出ない、足も出ない、何にもできない。無能無力である」と痛感する。そこで初めて人は謙そんを知るのです、へりくだる。自分はできないけれども、何か私たちに見えない、想像のつかない、私の力は及ばないけれども、もっと大きな力がある。神様がいらっしゃるに違いないと、そこに思いをつなぐ、私たちの心を向ける。実は、それを神様は求めておられるのであり、それが世の中にそういう問題や悩みや苦難がある理由です。私どもは悩みも悲しみも苦しみもない楽天地を願いますが、現実は決してそうではありません。いろいろな悩みがあり、困難があり、苦しみがある。これはどうにも仕方がないといいますか、いや、仕方ないどころか、私たちがそういう人生を生きるように神様が造っていらっしゃる。だから、あきらめて「もう仕方がない、それじゃ、そのままで生きるか」と言うのではなくて、実はそのことを通して私たちの思いの及ばない、力の及ばないもっと大きな、次元を超えた神様がおられることを知るのです。そうすると、いろいろな悩みも苦しみも困難も、むしろ神様の恵みであると受け止める、そういうものとして受け入れることができるようになる。悲しみを悲しみとして自分が引き受けることができる。これが私たちの生き方です。私たちは悲しみや苦しみを自分の生活の中から排除しよう、取り除(のぞ)こうと頑張ります。でもいくら防ごうとしたって、どこからか入ってくるでしょう。そうではなくて、いやむしろ、この悲しみを造っている神様がおられる。「え!神様は悲しみを作るのか」と、あるいは、この苦しいつらい困難な問題も神様が造られたと認める。自分自身の存在、私が今ここに生きていることが、神様によって造られたものであると認めるならば、当然そうならざるを得ないのです。神様は私たちを造って生かしてくださる。私の知恵でも計画でも私の努力や力でもなくて、神様がそうしていらっしゃる。そうであるなら私たちが出会う問題や悩みや悲しみや苦しみすらも、これは私が作ったのではなく、神様が私のために与えてくださった賜物(たまもの)、恵みです。そう言われると、納得がいかない。「いや、そんな馬鹿な」と思われるかもしれませんが、そのように信じて悲しみを引き受け、苦しみを自分のものとして感謝して受けていくとき、そこで初めて神様の素晴らしい恵みを体験するのです。

 ある方が、大変な悩みと苦しみに遭いました。経済的な問題でしたが、その問題のなかにあるときは七転八倒です。どうやってこれを解決するか、どういう道があるか、あちらの弁護士にも聞き、こちらにも頼み、いろいろなことをして、その方は自分がまいた種ではあることは分かっていて、自分を責めますが、しかしその具体的な解決は自分で全部引き受けなければならない。といって、生活もかかっているし、大きな悩みのなかで神様に頼るしかなくなってしまった。いわゆる“苦しいときの神頼み„です。それは幸いです。だから「苦しいときの神頼み」という言葉は極めてこれは聖書的な言葉でありまして、悩みや困難や苦しみを与えなさるのは神様で、それを恵みとして与えてくださる。その方がその悩みにあったとき、私は「これは神様が与えてくださる恵みですから大丈夫、きっと祈っていれば、神様が必ず知恵を与え、解決の道を与えてくださるから、『まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう』(マタイ 6:33)と聖書に約束されていますから、神様の前に立ち返って、神様を求めてください」と申し上げた。初めはそんなことを聞く耳はありません。「先生は人ごとと思ってそんなのんきなことを言って」と、言われましたが、これしかないのです。ところが、その方もいよいよお手上げになって、「神様にもう祈るしかありません!」と。人は悟りが鈍(にぶ)いですから。そうなってから、その方は真剣に祈っておりましたとき、思いもかけないところから助けが、助けと言っても全面的な解決ではありませんが、その方が負った負債を順次払っていけるような道筋を神様が備えてくださった。その方は大変感謝して、今では「私はこの神様から離れるわけにはいきません」と神様第一です。そして詩篇の119篇に「苦しみにあったことは、わたしに良い事です」(71節)と歌われているように、その方も今は「あの悩みに遭ってよかった。もしあのことがなかったら、まだ自分は高慢で人を見下して生きていた」と、悔い改めて謙そんになって輝いておられるのです。生活自体は前よりもはるかに小さくなり、ぎりぎりの生活をしていますが、心が晴れやかになる。神様が与えようとしてくださった恵みはそれです。

 そのように、神様がすべての主でいらっしゃることを認めていく生涯がどんなにタフな強力な人生であるかを、多くの人々は知らないのです。だから、自分の弱さを認め、神様が造ってくださって生かされている自分であることを認めていくこと、これが第一です。その次に「じゃ、神様は私たちに本当にいいことをしてくれるのか?」と。ここが問題です。昔から“触らぬ神に祟(たた)りなし„と、下手(へた)に神様にちょっかいを出したらえらい目に遭う、祟られると恐れます。何か不幸があると「祟ったのではない。先祖が祟ったのはこの神様か、あの神様か、訳が分からんから、あちらもこちらも取りあえず……拝み倒しておこう」という話になります。「神様は本当に私のことを考えてくれているのだろうか」、この疑問をまず解決しないことには、いくら「神様は私たちの造り主だ」と言っても、「造り主ならいつつぶされるかもしれない。ご機嫌が斜めになって突然のごとく永遠の滅びに定められるか分からない、け飛ばされるか分からない。そんな怖(こわ)い神様に付き合っておれんわ」という話になります。しかし、そこで神様が明らかにしてくださったのは「神は愛である」ということです。神様は全能の御方で、創造者であり、またすべてのものをご自分の御心のままに自在に導き給う御方です。私たちの好きとか嫌いとか良いとか悪いとかにかかわらず、神様は私たち一人一人を造られたのですから、神様のご目的にかなうように私たちを取り扱ってくださる。神様のお取り扱いにいちいち文句は言えません。「神様、どうしてあんなことをするのですか」「どうしてですか、ちゃんと私の言うことを聞いてください」とは言えません。神様は私たちの召使でも僕(しもべ)でもありません。神ですから、私たちが仕える御方で、いちいち指示したり命令したり、自分の小間使いのように使うわけにはいかない。神様は何でも自分の思いどおりに、打ち出のこづちのごとく何でもやってくれると思うのは大間違いです。だからこそ怖いですね。逆にいうと、神様は私たちの意向を無視して、といいますか、私たちの思いを無視して勝手なことをされるのだったら、どのようになるやら先が分からない。そのような神様に対しての不信感、これを罪と言うのです。聖書で言う罪とは、神様を信頼できなくなってしまった人の心です。神様は私たちを造って、神と共に生きる者としてくださったはずですが、神様を恐れる。恐れるのは怖いからです。だから、創世記の記事を読みますと、アダムとエバが罪を犯したとき、彼らは「神の顔を避けて」(創世3:8文語訳)と語られています。「神様に顔向けができない」「神様が怖い」と言って逃げ出してしまう。私たちも神様にできるだけ近づきたくない、というのは怖いからです。何をとがめだてされるか分からない。聖書を読むと私たちの心の中まで知られているのです。「えらいことや、そんな神様には怖くて近寄れない。できるだけ離れて見られんようにせんと」と。自分の心を見られたらどうですか? 喜ばれる心だとは到底誰も思っていない。いや、それどころか「神様に見られたら一遍(いっぺん)にやられてしまうぞ」と思っている。その怖さがいつもあるのです。そのような自分でありながら、そこからどうにも抜け出られない。神様の前に「天地神明に懸けて恥ずべきものは何もありません」と言えない自分である。その故にこそ神様が怖いのです。ところが、神様はそのような私たちの罪を取り除いて、私たちの真っただ中に来てくださる。その証拠として主イエス・キリスト、御子をこの世に遣(つか)わしてくださったのです。

イエス様がベツレヘムの馬小屋に生まれてくださったとき、それは神様が「わたしはあなたたちをこんなに愛しているよ」という愛の印です。「それはその獨子(ひとりご)を賜ふほどに世を愛し給へり、すべて彼を信ずる者の亡びずして、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を得んためなり」(ヨハネ3:16文語訳)。私たちのためにひとり子イエス様をこの世に遣わしてくださった。それは神様が「わたしはあなた方を愛しているよ」と告白しておられるのです。よく若い男女が「私はあなたを愛している」「私もあなたを愛しているよ」と、最近はメールか何か知りませんが、やり取りをするそうであります。皆さんは随分(ずいぶん)昔のことでお忘れになったと思いますが、そういうときがあったでしょう。「愛しているよ」と言うと、大抵「愛しているのだったら、何か証拠(しょうこ)を見せて。ダイヤの一つでも買って」と、そのような話になりますが、神様は「わたしはあなたを愛しているよ」と言って、その証拠として、「はい、わたしのひとり子をあなたのために十字架に下したよ」と、これ以外にありません。そして、神様は「わたしはあなたを愛して、あなたのためにどんなものをも惜(お)しまない」と。「イザヤ書」43章には「わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの」、あなたは私の目に入れても痛くない、一番大切なものであるよ、と宣言してくださった。誰がこんなことを言ってくれますか。「いや、うちの女房がそう言ってくれる」、それは口先だけです。神様以外にない。神様は「わたしはあなたを愛して惜しまない」。その後に「どんな国や民族を捨ててでも、あなたをわたしは愛しているよ」と神様はおっしゃる。この神様との愛の交わりのなかに、私たちを「もう一度立ち返れ」と招いてくださっている。そして、そのひとり子を世に遣わしてくださいました。

 この年もこうやってイースターを迎えました。復活とは死んだ人がよみがえる。「そんなことは今まで聞いたことがない。死んだ人間がよみがえるなんてあり得ない」とよく言われますが、しかし、神様がそのことをなさるのですから、あり得ない話どころじゃない。大いにあり得ることであります。しかも神様がご自分のひとり子を世に下してくださった。その方をあの十字架に釘付けた後に死からよみがえらせなさいました。先週は受難週、イエス様がみ苦しみをお受けになったことを記念する一週間を過ごしました。先週の金曜日はイエス様が十字架におかかりになられた日であります。朝の9時ぐらいから夕方の3時に至るまで、大変な苦しみをイエス様は味あわれました。これとて、ユダヤ人たちの憎しみ、ねたみ、憤りによって、罪なき御方が罪人とされてしまいましたが、表向き見たところはそのような話の流れです。しかし、実はその事柄の背後に、見えない神様の私たちすべての人に対する愛の御思いがあったことはご存じのとおりです。だから、私たちの目に見える事柄には背後に隠されている神様の深い大きなご計画と御思いがあることを知る。これがどんなことでも大切です。家庭での日々の生活のなかでもいろいろな事が起こります。思いがけないこと、計画しないこと、想像もしないことがポンポンと起こってくると、「何で!……」「あいつがいけない」とか「こいつが悪い」とか「あの人が言った」「この人が言った」と、人がそれを起こしているように見えますが、そうではなくてその背後で神様がその事を起こして何か語ろうとする意図があるのです。私たちが謙そんになって、「今こういう問題が起こっています。これはいったいどういうことでしょうか。神様、私に何を求めておられるのでしょうか」と、神様の御思いを知ることに心を向けてご覧なさい。目の前の事柄や事態はそんなに重大な問題ではいのです。大切なのはすべてのものを統(す)べ治(おさ)め給う神様の御心を悟ること。その時のいちばんの土台が「神は愛である」ということです。イエス様はユダヤ人たちの陰謀(いんぼう)とたくらみによって、罪なき御方でありながら十字架に命をお捨てになりました。これとても神様がなさった愛の御業です。

イエス様は墓に葬(ほうむ)られなさいましたが、その次の日は安息日であったとあります。その当時は今で言うところの土曜日が安息日だったのです。だから、金曜日の夜に葬られた後、安息日を過ごして、次に三日目の今朝、いま私たちが言うところの日曜日の朝、週の初めの日朝早く女の人たちがイエス様の墓にやって来ました。それは急いでイエス様を葬りましたから、ちゃんと葬りなおすといいますか、きちんとした埋葬(まいそう)をしようと準備して来たのです。ところが来てみると石は取り除けられ、そこに神の御使がおられた。「あなた方は十字架につけられたイエスを探しておられるのだろうけれども、もうその方はここにおられない。よみがえられた」。これは女性たちにとってびっくり仰天(ぎょうてん)です。「いったい何があったのだろう。イエス様の遺体をどこか別の所に移したのか」。そうじゃないのです。父なる神様が御子イエス様をその死のなかから、黄泉(よみ)のなかから引き上げて、よみがえらせてくださった。そして、その日の夕方弟子たちがユダヤ人を恐れて隠れひそんでいる場所にイエス様は入ってきてくださった。「安かれ」、心配するな、と言ってくださったのです。「主を見て喜んだ」とあります。大きな喜びが弟子たちに与えられた。それから後、40日間にわたってイエス様は多くの人々にご自身のよみがえりの証詞をしてくださいました。

なぜイエス様はよみがえらなければならなかったのか?イエス様は私たちの罪のあがないとして私たちが死ぬべきところを身代わりになって死んでくださった。「それで十分ではないか」、私はかつてそのように思ったことがあります。「罪を赦(ゆる)されたのだから、もうそれ以上まだしつこく付きまとうのか、イエス様は」と思ったのです。ところが、それからしばらく経って初めて分かった。イエス様がよみがえってくださらなければ、私たちは罪の道にまた迷い込んでしまうのです。イエス様が十字架にかかって罪を赦してくださった。そこからよみがえってくださって、私たちとどんなときにも共にいらっしゃる御方となってくださった。イエス様がガリラヤ湖畔(こはん)で、弟子たちと共に生きてくださったように、肉体を持ったイエス様だったら年を取ります、だからこそ神様は誠に不思議な、私たちの想像を超えた大きなご愛の恵みをもってイエス様を墓からよみがえらせて生きるものとしてくださった。そして時代を越え、人種を越え、地域を越え、また年齢を超えて、すべての人の主となるためによみがえられたのだ、と宣言されています。

「ローマ人への手紙」14章7節から9節までを朗読。

9節に「キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである」と。イエス様はよみがえってくださった。何のために? 私たちの主となってくださる、私たちの指導者といいますか、私たちの主人といいますか、私たちと共にいて正しい道を歩むことができるように導く御方となってくださる。それはいま申し上げたように、神様を離れて、神様を恐れて、神様から遠ざかっていた私たちの罪を赦してくださった。そして「もうあなたの罪を罰しない」と。それどころか「わたしはあなたを愛しているよ」と、ご愛をもって私たちに臨(のぞ)んでくださる神様がおられる。「そうか。私は罪を赦されて神様の前に何もとがめられる者ではないのだ。誠に自由な者としていただいたのだ」と喜んで、では、どうするか? 私たち浅はかな人間、自分の知恵や自分の何かでは、正しい神様の道を生きることができません。それどころか、私たちは常に何かに頼らなければすぐに倒れてしまいます。すぐに何かに頼るような者です。人を頼ったり、世の人々を頼ったり、いつも何かにくっ付いて生きている。そうでしょう。「いや、私はそんなことはない。私は自由です。私は自分のオリジナリティーを……」と言いますが、そんなことはあり得ません。

私もかつてはそのように思ったのです。親の元にいたら不自由だし「私は自分らしい生き方をしなければ……」と、殊に牧師の家庭に生まれまして、二言目には「牧師先生の息子さん……」「牧師先生の息子さん……」、「おれはいったい何だ!」と思ったのです。「息子だけでそれ以上の者ではないのか」と「私は榎本和義だ。これを何とか認めてもらいたい」と。ところが、ここにいてはそれは無理だったのです。「あなたの子供のときを知っているよ」と言われると、クシャッとなってしまう。だから「おやじのいない所へ行こう」と、それで遠くへ出ました。「そこには私の父のことなんか誰も知らない。私だけを見てくれる人がいる」と。こんないい話はない。それで「自分は自分らしく生きるのだ」と思った。ところがどっこい、自分らしいってどういう生き方? 分からないのです。となるとどうするか。横を見、周囲を見、あの人を見、この人を見、「あんな風にするのか」「こんな風に……」と物まねをするしかない。あるいは何かに頼る。「みんながこうしているから、いいに違いない」と。そこで安心を得る。「こんなにしとけば大丈夫だろう」と、そこで安心を得る。実にあちらにこちらに、右に左に、自分らしいなんてどこにもない。父から「馬鹿な、自分らしい生き方なんて、そんなものはできやせんよ。神様に信頼して神様に従うのが、人が人らしく、その人らしい生き方ができる」と言われた。だから、反発しまして、皆が神様に従ったら、皆同じじゃないか。金時あめを切ったようなものだ。そんな自分にはなりたくない」と言ったのです。ところが、やってみたら、自分も金時あめですよ。結局のところ、人のまねしかできない。そして人がしているようにしないと何か怖い。何を言われるか分からない。人が私を見てどのように評価するだろうかと、そんなことばかりで頭がガンガンになってしまう。肩がこってしまう。息苦しい、生きるのがつらい。そのような行き詰まりのなかで初めて主のよみがえり、「本当にイエス様にすがるしか私は生きる道がない」と。私たちは罪を赦されて、「自由になった。自由奔放(ほんぽう)今から何でも私は、私らしい生き方を……」なんて、結局やっているのは人まねですからね。そうではなくて、この地上に命を与えられてどのように生きるべきかは、イエス様によらなければわからないのです。だから、神様はイエス様を死からよみがえらせて、そしていつまでも私たちの主としてくださったのです。

ですから、9節に「キリストは、死者と生者との主となるために」と、生きている者にとっても、また死んだ者にとっても主です。これはすごいですね。イエス様は生きている私たちだけの救い主ではない。イエス様を知らずに死んでしまったはるか昔の人から今に至るまで、全人類の過去現在未来にわたって、主なのです、神様なのです。そのためによみがえってくださった。だから、いま私たちはこのイエス様にくっ付くのです。イエス様にすがって生きるときに人を恐れない。事情、境遇を気にしない。どんなものにも支配されない。誠に自由にして、私だけしか生きることのできない人生を生かしてくださる。イエス様が、よみがえった主が私たちと共にいてくださるとき、そのことができるのです。その主は私たちに愛をもっていちばんよいことをしようと約束してくださる。決して私たちを悲しませ、失望落胆のなかに追い込もうとなさるのではないのです。神様は私たちを喜び感謝し、主を褒めたたえて輝いて生きるものとしようとしてくださる。なぜならば、神様の作品だからです。神様はご自身の栄光のために私たちを造って神様の御業であることを証詞しようとなさるのです。

「マタイによる福音書」28章20節に「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。よみがえってくださったイエス様を……、「今日、主はよみがえってくださった」と言って、明日からまたもとへ戻るのではない。私たちは毎日主のよみがえりと共に生きているのです。ここに神様が約束してくださっています。「いつもあなたがたと共に」、よみがえったイエス様が私たちと共にいらっしゃる。だから、あの女の人たちが墓に行ったときに、御使が「その方はよみがえって、もうここにはおられない」と言ったでしょう。「ここにはおられない」。それに対して「じゃ、どこにいるの?」どこにいらっしゃるのですか?はっきりと「ここにいます。私と共にいます。主はよみがえって墓ではない、私と共にいらっしゃるのです」とはっきり告白していきたい、信じていきたい。そして、それは毎日です。世の終わりまで、いつも主が、私の主でいらっしゃる。その御方にすがって、その御方に結び付いて、イエス様と共に生きる者となる。主がよみがえり給うたことは御言葉を通して知るわけでありますが、今度は実際の生活のなかで知ることです。「ガリラヤに行け」とはそのことです。「そこでわたしはあなたがたに会うであろう」。ガリラヤはイエス様の出会う場所、そこはペテロたちの生活の場である。弟子たちが初めてイエス様に出会ったのはガリラヤ湖畔(こはん)、漁師であった自分の生活の現場です。そこは、もう一度イエス様に出会うことが出来る場所です。イエス様に出会う場所はどこか特別な場所ではなくて、いま生き、生活しているその場所でよみがえってくださったイエス様を「あなたは私の主です」と、信じて、イエス様にすがって、与えられる一つ一つの問題や事柄のなかで主の御心に従うとき、「主は今も生きておられます」と喜び感謝することができます。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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