いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(514)「そのままで『よし』」

2015年04月19日 | 聖書からのメッセージ

ヨハネによる福音書」8章1節から11節までを朗読。

 

11節「女は言った、『主よ、だれもございません』。イエスは言われた、『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』」。

 

イエス様が罪を犯した女の人との出来事を語った記事であります。このときイエス様はエルサレムの神殿に来ておられました。そこで神の国について、福音について、神様の恵みについて語っておられました。そのとき律法学者やパリサイ人が姦淫の現場で捕らえた女の人を連れてきました。彼らは当時のユダヤ人社会で指導者といわれている人々であり、尊敬すべき人物と思われた人たち。また、自分たちは正しい人間、何一つ間違ったことをしたことがないと自負する誇り高い人たちでもありました。宗教的な意味においても、また社会的な規律規範を守る点においても、彼らは誰よりも誇り高い人たちでした。彼らは罪を犯す人を見ると許しておけない。「あいつはあんなことをしている」と、とがめ立てをするのが、彼らの本性です。

 

この律法学者やパリサイ人は、他人事ではありません。実は私たちの内にも住んでいます。私たちの心の中にもパリサイ人、あるいは律法学者がいます。「そんなはずはない。私はそんなのとは縁がありません」と思われるかもしれませんが、人の罪とか失敗、やり損なったことを厳しくとがめ立てをする。そう言われたら、身に覚えがないどころか大有りだと思います。つい人の様子を見て、「あの人はあんなことをしちゃって」と、さげすんでみたり、批判してみたり、とがめ立てをする。その心はまさにパリサイ人であり、律法学者です。「こうあるべきだ」「人はそんなことをしてはいかん」と規則を作る。律法とは一つの法律といいますか、基準であります。そういうものを尺度として、あの人、この人を計り回るのです。「こいつは寸法が足らん」とか、「長すぎる」とか、実に細かい所まで常に目を配る。正義を振り回すのが律法学者やパリサイ人であります。だからちょっとでも社会の正しいといわれる習慣に背いていることがあれば、すぐに非難し、とがめ立てをし、裁くのです。

 

このときも女の人が「姦淫をしている時につかまえられた」とありますが、現行犯逮捕です。誰だってそんなものを見ると「これは許しておけん」と憤慨し、「そんな不らちなやつは世の害悪だ」という正義感にかられます。殊にパリサイ人や律法学者たちはそういう思いをもってその女の人を捕えました。捕えてイエス様の所へ連れて来たのです。それは、6節「イエスをためして、訴える口実を得るため」でした。彼らの本心はその女の人も問題であるということはもちろんですが、更にもう一つの狙(ねら)い所は、イエス様が律法に反するといいますか、宗教的な罪を犯すことに誘い出して、何とかイエス様をとっちめてやろう、という魂胆があったのです。だから、この罪を犯した女に対してイエス様はどういう判断をするか、どういうことを言うかと連れて来たのであります。

 

ですから4節「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。5 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」と。モーセの律法は、かつてイスラエルの指導者であったモーセを通して、イスラエルの民に定められた神様の規則といいますか、神様の御心にかなう人間となるための道筋を細かく定められたものでした。旧約聖書の「出エジプト記」から「レビ記」、「申命記」などをお読みいただきますと、律法の細かいことが語られています。生活全般にわたって細かいことが記されています。「これをしてはいけない」とか「これはこうすべきである」とか、いろいろなことが神様の御心であると定められている。それに違反することは大きな罪である、といわれました。律法ではそういう不品行な行いをしている者は石で撃(う)ち殺す、石撃ちの刑に処せられる。これは厳しいです。今でもイスラム教やユダヤ教では、私はそんなに詳しくは知りませんが、聞くところによると、今でも旧約聖書の世界、律法の世界で生きていますから、今でも石撃ちの刑が行われる。あるいは、鞭(むち)撃ちの刑もあります。公衆の面前で鞭(むち)を打つのです。実にそういう時代だったのです。

 

ですから「モーセの律法に従うならば、こういう罪を犯した女の人は石で撃ち殺さなければならない。イエス様、さぁ、あなたはどうしますか」と。イエス様が律法に違反することでも言おうものなら、すぐにでも非難しようと思って待ち構えたのです。ところが、イエス様は6節後半に「しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた」と。イエス様は地面に何か書いておられて、女の人を全然見ようともしないし、彼らと会話が成り立たない状況です。だから7節に「彼らが問い続けるので」とあるように、イエス様は完全に無視していたのです。彼らが訴えることを全然聞こうともしなかった。ところが、彼らがあまりにもしつこく問い続けるから「イエスは身を起して彼らに言われた。『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい』」。これは予想しなかった返事です。イエス様が「やはり律法に従ってこいつを石撃ちの刑にすべきだ」と言ったら、律法学者やパリサイ人たちはイエス様も俺たちと同じ仲間となります。それまでイエス様は律法に従わないどころか「神様に従うことが大切である」と言っていたのですから。

 

あるとき、安息日にイエス様は弟子たちと一緒に麦畑を通っていたのです。そのとき弟子たちはちょっとおなかをすかせていた。それで麦の穂をつまんで手でもんで口に入れた。それを見とがめたパリサイ人たちが「あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。律法に背いた」と厳しく非難しました。

まず安息日を守らないことが罪です。安息日を守るにはどうあるべきか、当時細かい規律がありました。家から何百メートルは歩いてよろしい、それ以上歩いたらこれは労働に当たる。火をおこしてはいけない。食事の準備をしてはいけないというのがある。それから収穫、刈り入れなどをしてはいけない。細かい規律があります。麦の穂をつまんで、手でもんで、口に入れる行為は、収穫してはいけないという罪を犯した。その次に脱穀やそういう加工するということを禁じている律法も犯した。更に、収穫した物を調理して食べるということも罪です(出エジプト35:3)。だから、たった麦の穂をつまんでちょっと食べただけで、これは三つ四つの重大犯罪です。だから、パリサイ人たちは「イエス様の仲間がこんな大変な罪を犯しています」ととがめたのです。それに対してイエス様は「安息日の主は人の子であって律法ではない。確かに安息日を守ることは大切ではあるけれども、しかし、今おなかがすいてひもじい人がそれを補うことは律法に反することではない」と言われたのです(マタイ 12:1~)。

 

また「自分の飼っている大切な家畜が井戸や溝に落ちて死にかけたとき、安息日だからと言ってあなた方はそれを引き上げないことがあろうか」(ルカ14:5)と言われています。「大切なのはいったい何なのか」と、イエス様はパリサイ人たちに問うたのです。

 

そういうイエス様ですから、「さて、この女の人に対して何と言うか」と、実に興味津々(しんしん)という事態でした。7節に「イエスは身を起して彼らに言われた、『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい』」。これはまったく予期しない答えです。イエス様は「石を投げてもよろしい。しかし、まずあなた方のうち罪無き者が石を投げよ」と言われたのです。そうしたとき9節「これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された」。怒り狂っていた律法学者やパリサイ人やそこにいた群衆はみな「年寄から始めて」立ち去ってしまう。これは非常に意味深長ですね。年寄り程罪が多いから。長生きした分だけ罪が重なっていますから、だから年寄りからソーッと去って行った。ここで言われていることは、誰ひとり自らを罪のない人間ということはできないということです。「ローマ人への手紙」3章にありますように「義人はいない、ひとりもいない」と。義なる人、正しい人はどこにもいない、誰一人いない。このことをイエス様ははっきりと語っているのではないでしょうか。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。恐らく皆さんがそのように言われて、石を投げられる人はまずいないでしょう。恐らく誰もいない。自分が罪なき者であると思っていません。

 

普段はそのことを封印しているといいますか、気が付かない振りをして生きている。しかし、心の中では「自分は罪人である」という自覚が必ずあるのです。これはどんな人にもあります。心の奥底に神様を離れている思いがあるのです。私たちは造られたものであり、普段はあまり自覚しませんが、常に「私はいったいどこから来て、どこへ行く者であろうか」と、自分がどういう者としてここに生きているのだろうか、生きる目的といいますか、そういうものがはっきりしない、あやふやな状況の中で人は生きているのです。そのために常に自信がない。「こうしているけれども、これで良いのだろうか」、「私はこれがいちばん良いと思ってしたけれども、果たして良かったのだろうか、悪かったのだろうか」。いつもそういう不安……、あからさまに不安とまでは言えないけれども、自信のなさが常に伴うのです。だから、人生を振り返ってみて「あのとき、あんなことをしたけれども、あれで良かったと思うけれども……」と、100パーセント手放しで良かったと言えない。80、90パーセント良かった。「あれしか仕方がなかったよね」とは言いつつも「ひょっとしたらもうちょっと違ったやり方があったかもしれない。いや、別の道があったかもしれない」と、常に自分に自信が持てない。それは、「あなたはそれでよろしい」と保証してくれるものがないからです。

 

だから、子供を見ているとそう思います。親が「よし」と言ってくれることを求めます。教会に来る子供たちを見ているとそう思うのです。幼稚園ぐらいまでの子供は、何かしようとするときフッと親の顔を見ます。何か物をやろうとします。そうすると「有難う」と言って飛びつく拍子にちょっと横にいる親の顔を見るのです。その親が「あ、良かったね」とか「有難う、と言いなさい」と言って、その子の気持ちをつかんでやると、喜びます。ところが、自分がしようとするとき、親がちょっと眉をひそめると、パッと手を引きます。「あ、これはしてはいけないのだ」と。それを通して、親から子供に何が良くて何が悪いか、価値観が受け継がれて行くと同時に、子供はいつも親からの「よし」というサイン、「それで良かったんだよ」と言ってもらいたいのです。そうすると、初めてその子は心が落ち着く。成長してくると、そういうことが必要なくなりまして、「うるさい、いちいち親なんかに言うもんか」と、言わなくなって、何をしているのか親も分からなくなってきます。これは成長の一段階ですから、仕方がないことです。ところが、もう一つ血縁的な親子関係とは別の意味の、人としての保証、それは私たちの造り主でいらっしゃる神様からの「よし」というサインです。これを私たちが受けられるかどうかです。人の心には常に「私だけではない、私を越えたもっと大きな力、何かがあるに違いない」という思いがあります。それがはっきりと万物の創造者、聖書に証しされている神様とつながらない。幸い私たちは聖書のお言葉を通して万物の創造者であり、造り生かしてくださる全能なる神がいらっしゃることを信じる者としていただきました。神様と私たちとの関係、親と子のような関係性が確立されることがまず大切です。いま神様と私たちとの間が正しい関係になっているかということです。

 

9節に「これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された」と。誰一人として自分は罪無き者、いうならば、神様が「よし」と言ってくださる自分だとは思えないのです。「お前はそれでよろしい」と、神様が受け入れてくださっているという確信がない。これが罪の姿であります。私たちはイエス様を信じる者とされ、神様のいらっしゃることを信じています。しかし、日常生活の中で神様のいますことが具体的になってこないのは、神様は目に見えないからどうしても神様から離れていきます。そうすると、心が浮草のように揺れ、動き始めるのです。いろんなことに不安を覚え、恐れを感じるようになってきます。だから、イエス様の所へ集まってきた人たちも、「自分は正しい人間ではない。神様からこのまま裁かれたならば、恐らく耐えられないどころか、自分は罪人である」と普段の生活の中で自覚していたのであります。しかし、その罪が赦される道を彼らは知らなかったのです。

 

このとき、女の人はそのままそこに残っていて、10節「そこでイエスは身を起して女に言われた、『女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか』」と問うています。イエス様はうつむいて何か書いておられるから、周囲の動きに全く無関心でした。ふっと気が付いて見ると、女の人が一人だった。「みんなはどこにいるか」と。すると11節に「女は言った、『主よ、だれもございません』」と。これは明らかに集まった全ての人が「自分は罪人です」と告白しているのです。ところが、告白しながらその罪を赦される道を求めようとしない。安心を得させてくださる御方がおられるのに、その御方のそばから去っていくのです。

 

私たちもいろんなことで、「これで良かったんだろうか」、「ひょっとしたら私がやりすぎたんじゃないだろうか。私が悪かったのだろうか」と自分を責める思いがあったり、自分に確信をもてなかったり、あるいは、したこと、語ったことに後悔したり、とがめたりする、あるいは人の言葉を聞いて苛立ってみたり、批判してみたりして、心が騒ぐとき、造り主であり、父なる神様から私たちが離れてしまった状態にあるからです。そこに集まった群衆のようにイエス様の所から去ってしまうのです。これは誠に残念なことです。というのは、イエス様こそが私たちの罪を赦すことができる、ただ一人の御方だからです。

 

だから後半に「イエスは言われた、『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』」と。「罪を犯さないように。もう、わたしはあなたを罰しない」。「どうしてそこでイエス様がそんなことを言う。罪を赦すのは神様であって、イエス様が神様の代理のようなことを言って」と、その当時の人々は憤慨します。実はイエス様こそが神様から私たちの罪を赦す御方として世に遣わされた“神の子羊”です。だから、イエス様は女に「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい」と。「お帰りなさい」とは、「あなたの罪は赦された」と宣言していらっしゃるのです。

 

あるとき、中風を患った人がイエス様の所へ連れて来られた記事があります(マルコ2:3~)。イエス様がある人の家に滞在しておりましたとき、イエス様に病気を癒していただこうと中風の人を連れて来ました。ところがあまりに人が多かったので、屋上からイエス様のいらっしゃる所へつり下ろしたのです。そのときイエス様は「子よ、あなたの罪はゆるされた」と語っています。「安心しなさい。あなたの罪は赦されましたよ」と言われたのです。そこに居合わせた律法学者たちは「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」とつぶやいたことが語られています。それはイエス様がどういう御方であるか、彼らに分からなかったからです。

 

このときもそうです。イエス様がこの世に遣わされたご目的は全ての人の罪のあがない、神の子羊となるためであったのです。人の罪をあがなうためにイエス様は三十三年半近くの地上の生涯を終わって、十字架に釘づけられました。イエス様は「父よ、彼らをおゆるしください」と全ての人の罪のあがないとなってくださいました。そして、十字架上の最後の言葉「事畢(をは)りぬ」(ヨハネ19:30文語訳)「全てのことは終わった」と宣言してくださった。

 

これは私たちに対する罪の赦しの宣告です。神様はご自分のひとり子をこの世に送って、罪を犯さなかったイエス様を私たちと同じ罪人として、私たちの一切の罪と咎の刑罰を、呪いをイエス様に負わせてくださった。そのご犠牲によって私たちの罪を赦してくださったのです。神様と私たちとの関係は罪を赦す者と十字架によってあがなわれ、罪を赦された者との関係です。言い換えますと、神様が十字架を通して表してくださった限りない大きなご愛を土台として神様と私たちとの新しい関係が作り出されて行くのです。神様と私たちは、私たちは被造物、造られたものとして、また神様は創造者、造り主としての関係があります。この造り主と造られたものはどこにも接点がありません。神様は創造者でいらっしゃり、私たちは被造物という、はっきりとした区分けと言いますか、そこには大きな溝があります。これは決して越えられない、一緒になることはできません。ところが、その大きな隔たり、その違いを乗り越えてくださったのがイエス様です。イエス様の十字架のご愛を通して、神様と私たちとが造り主と被造物とが共に生きる、共にある新しい関係の中に、私たちを置いてくださっておられる。これが神様のご愛と恵み、祝福です。

 

11節に「女は言った、『主よ、だれもございません』。イエスは言われた、『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』」。これは私たちに対する罪を消し去って、赦しの宣告です。

 

「コリント人への第二の手紙」5章17節から21節までを朗読。

 

17節に「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」とあります。この「新しく造られる」というのは、私たちと神様との関係が創造者と被造物、造り主と造られたものという関係から、今度は神様と私たちが父と子という関係、神の家族としての関係に造り替えられることに他なりません。それはただ一つ、キリストにあることによってです。キリストにあるとはどういうことでしょうか? これは私たちが死ぬべきところ、呪われた私たちが受けるべき刑罰の全てをイエス様が受けてくださったことを信じるのです。いうならば、イエス様が私の救い主となって、罪をあがなうために十字架に命を捨ててくださった。そしていま私たちは神様に罪を赦された者となっている。21節の終わりに「彼にあって神の義となるためなのである」とあります。イエス・キリストにあることによって「神の義となる」。いうならば、神様の前に罪無き者として、神様に喜ばれる者として受け入れられ、造り変えられたのです。だから、私たちがイエス・キリストを信じて、私の罪のために、とがのためにイエス様は十字架に呪われて死んでくださった。そしていま私は罪を赦された者、義なる者として、神様が受け入れてくださっている。私たちを有りのままに全てを「よし」として受けてくださる。

 

だから17節に「その人は新しく造られた者である」と。もう新しくなったのだ。「古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」。だから、私たちはいつまでも過去のことを思い出して「あのとき、あんなことをしなければ良かった」、「あんなことを言わなければ良かった」、「昨日あんなことをしたからこんなことになった」と悔やむことはいらない。それはもう過ぎ去ったのです。今は全てのことを許してくださって、神様は私たちを義としてくださる。義とされるとは、「あなたはそのままで、あなたがいちばん素晴らしい者だ」とイエス様は、神様は私たちを受け入れてくださっている。これを信じるのです。

 

先日も一人の姉妹とお話をしておりました。その姉妹は教会に来てイエス様に出会うまで、一つの悩みを抱えておられました。それは何かというと、自分の性格といいますか、自分というものをなかなか受け入れられなかった。「どうして、自分ってこんな嫌な人間だろうか」、「自分はどうしてこんな風なところがあるのだろうか」と、いつもそのことが心に引っ掛かって喜べない自分に悩んでおった。ところが、教会に来るようになって、聖書のお話を通して、御言葉を通して、私たちを造ってくださった神様は私にとっていちばん善いことをしてくださっているのだと。自分はその神様の作品、造られたものである。「神の造られたものは、みな良いものであって」(Ⅰテモテ 4:4)と。それを聞いたときに「頭をぶん殴られるような思いがしました」と。「今まで自分が嫌だ、何でこんな自分なんだろう、と自分を憎み続けてきたけれども、これは神様に対して申し訳ない、大変大きな罪を犯してきた。それに対して神様は忍耐してくださった。いま初めて心が軽くなりました。神様は『お前がいちばん善いものとして造った』とおっしゃってくださる。後は、はい、有難うと感謝して受ける他はない。私は本当に罪人でした」と告白しておられました。

 

17節に「古いものは過ぎ去った」とあります。私たちはいろいろな過去を持っています。それをあげつらえばいろいろなことが出て来ます。たたけばほこりどころではない、粗大ゴミが出てくるでしょうが、しかし、それはもう「過ぎ去った」のです。そして何とありますか。「見よ、すべてが新しくなったのである」。全てが新しい。いま私たちは神様によって新しいものとして、神様との愛にある交わりに入れてくださった。

 

18節に「しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務(つとめ)をわたしたちに授けて下さった」。神様は私たちを赦し、受け入れてくださった。だから、私たちも互いに許し合うことができる。それどころか、私たちは全ての人に「あなたも許されているのですよ」と伝える義務がある。「和解の務」とは、そのことです。ところが、「自分は許されているけれども、あんたは許されてないよ」、「あんた、そんなことでは駄目よ」と、人を罪に定めようとします。これはいけませんね。「あなたも許されているのですよ」、「神様はあなたにも『よし』とおっしゃっているのですよ」と。私たちの言えることはそれだけです。「そんなことをしたら駄目じゃないの。そんなことをしたら神様から滅ぼされるよ」、「見ていてご覧、あんた、そんなことをしていたら地獄へ行くからね」と、まるで地獄へ行ってほしいかのように……。それは自分が許された者であることを忘れているからです。神様はどんな人に対しても、そのままで「よし」としておってくださる。

 

だから、私たちは他人のことをあれこれとは言えません。だから、まず自分自身がいつも神様の許しの中にいることを感謝していましょう。「わたしもあなたを罰しない」と言われるのですから。と同時に、自分だけではなく、この人のためにもキリストは死んでくださった。皆さんが「あいつなんか知るものか。あんな者は死んでしまえ」と、憎むその人のためにもイエス様は命を捨ててくださった。それなのに私たちが「許せん」などと言うのは大きな間違いです。その人がどうあろうと、神様はすべてをご存じです。だから、私たちは徹底して主の十字架の赦しの中に自分を置いていますと、人のことは気にならないのです。どこか冷たいようですが、人のことは放っておくしかないのです。放っておくといいますか、余分なことは言わなくてもいいのです。全部神様はご存じです。その人も神様の手の中にあるのです。だから、まず自分自身がいつも主のご愛の中にとどまっていることです。主の赦しの中に自分を絶えず置くことです。だから「私はこんなことをして本当に駄目です」と言う人がいたら、「そんなことはない。イエス様はあなたを許してくださっておられる。『和解を受けなさい』と言われるのだから、あなたはそんなことを言わなくて、イエス様の赦しを信じたらいいのですよ」と言って、伝えてあげるのが私たちの役割です。「私はこんなことをして駄目です」と聞くと、「そうだよ、あんたがいかんのよ」と、輪を掛けて上から押さえつけるからとんでもないことになる。大間違いですよ。18節の後半に「わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった」と。私たちには大きな使命がある。それは「あなたも主に赦されたものですよ。キリストがあなたのためにも命を捨ててくださったのですよ」と伝えるのです。これが私たちの務めです。そうでありながら、自分が裁判官になり、また検察官になって、「あんたは駄目」、「こいつも駄目」「あんたは十字架を信じないから駄目よ」と切ってしまう。そうではない。「十字架は立てられた。あなたも信じたら大丈夫ですよ」と、「大丈夫」と言ってやらなければいけません。

 

この聖書のお言葉にあるように、20節「神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである」。私たち一人一人、「キリストの使者なのである」。キリストから遣わされている者であります。何のためにか?「主が赦してくださいました。あなたのことも赦してくださいました。もう泣かなくていいですよ。悲しまなくていいですよ」と、伝えるのが私たちの使命であります。

 

「ヨハネによる福音書」8章11節に「女は言った、『主よ、だれもございません』。イエスは言われた、『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』」。イエス様が今日も私たちに「わたしもあなたを罰しない」と。気が付かないうちに神様の赦しの中から飛び出して、「あんなことをしなければ良かった。あの人があんなことを言うからよ」とつぶやく。しかし、イエス様は「お前の罪は赦されたよ」と宣言してくださっている。主のご愛の中で心を低くして「主よ、有難うございます」と、主の赦しを喜んで感謝して受けようではありませんか。そして、私たちもまたその赦しの使者として、イエス様が女の人に「わたしもあなたを罰しない」と言われたお言葉を伝えるべく、私たちは先に選ばれ、召された者であります。この大きな尊い恵みのお言葉を運び行く者となりましょう。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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