いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(411)「新しい命」

2014年12月13日 | 聖書からのメッセージ
 「ローマ人への手紙」6章1節から14節までを朗読。

 4節「すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」。殊にこの後半に「それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」とあります。

 今日は復活の記念の礼拝をもたせていただいております。イースターは「私たちの信仰にとって最も大切なことの一つである」と言っていいと思います。もしこれ(主の復活)がなかったら、私たちの信仰は誠にむなしいといいますか、意味をなさないことになり、信仰の中心です。これはイエス様がこの世に来てくださったご目的と深く結びついた事だからです。

イエス様はおとめマリヤの許(もと)に生まれてくださいました。これは預言の書に記されているように、神様が約束なさった、世の罪を除く神の子羊として遣わされた神の御子でいらっしゃいます。イエス様はこの世に来てくださいましたが、何のために来てくださったのか?私たちの生活を援助するために……。被災地で多くの人々がボランティアで助けていますが、そのように私たちを少しでも住みやすく、生活しやすくしてやろう、というために来られたのか?そうではありません。もちろん、そういうことも間違いではありませんが、イエス様がこの世に来てくださったご目的は、私たちを救ってくださるためです。救い主として来てくださいました。いうならば、私たちは救われなければならない者なのです。これを自覚しているかどうか。自分は救われなければならない人間である、と思っているかどうか。世の中の多くの人々は、「もちろん、先生、私は救われたいです」「じゃ、何からの救いですか? 」「いや、お金がちょっと足りないから、いま困っていますから、何とかできないだろうか」と、あるいは「私は本当に救われたいです」「何から? 」「いや、息子や娘がこうで……、ああだから……」と「いろいろな問題を抱えて悩んでいるから、その悩みを何とか解決してもらったら幸せになれるのだが……」と。おおむねそういうことが多くの人々の救いということではないでしょうか。「私は救われなければならない」と言っても、そのことの内容が人それぞれによって違っております。

それでは、イエス様は何のための救い主として来てくださったのか? それは私たちの罪の救いであります。そう言われると途端に雲かかすみに包まれたように訳が分からなくなる。「罪と言われても、私はそんなのは分かりません」と、ある時言われたことがあります。私たちがいちばん救われなければならないのは、確かに事情や境遇、事柄に悩んでいる。病気で悩んでいる、あるいは家族のことで悩んでいる。仕事のうえでの悩みがあるからそこから救われたい、ということももちろんでありますが、どんな悩みに遭っても、いちばん救われなければならないのは、私たち自身なのです。それはどういう意味かというと、私たちが造り主でいらっしゃる神様から離れてしまっている。ここです。このこと自体もなかなか奥深いことでして、もう一つ踏み込んで行きますと、まず私たちが造られた者であり、私たちを造った御方がおられるという、この辺の所から話が始まります。これを話し始めたら、1時間や2時間では足りませんが、いつも皆さんにお話していますように、まず、私たちがこの地上に生きていること自体、これがいったい何によるのか? ただ単に親がいて、先祖がいて、そして、その末えいとして仕方なしに気がついてみたらこの世に生まれていた。とにかく食べること、着ること、寝ること、住まい、生活に追われている。ところが、物質的な物の豊かさによって人が生きているかというと、そうではありません。これは多くの人が共通して感じる事柄です。もちろん、目の前にいま差し迫って必要なのは、あれが必要、これが必要と、物質的なそういう条件も必要ですが、必ずしもそればかりでないのが人間特有なものであります。私たちのうちに心、魂というものがあります。これは普段は気がつきません。目の前のいろいろなことに心が捕らわれて、あまりそういうことを感じないままに「今日、一日上手く行った」とか、「願ったようには行かなくて、がっかりした」と、一喜一憂しながら日々の生活をしています。しかし、時折まるで一瞬稲光が光るがごとく、私たちの心にフッと人生を生きる喜びとか、むなしさとか、あるいは悲哀、孤独、そういうものを感じることがあります。家族に恵まれて和気あいあい団らんしています。だから、余程その人は心が満足しているかというと、必ずしもそうではない。じゃ、何か問題があるか? 何もない。経済的にも恵まれ、事情や境遇もよく、健康にも恵まれ、そして家族もきちんとしてくれて、何の思い煩いも心配もない。そうであれば、手放しで“手の舞い足の踏む所を知らず”大喜びをしているかというと、そうはいかない。何か暗い陰が絶えず付きまとって寂しさがあり、満たされないものが心にあるのです。これは普段は気がつきませんが、一瞬フッと影のようなものが通り過ぎるがごとくに私たちの心に感じるときがあります。これが人の奥に隠されている魂のうめきです。普段はそれがいろいろなもので覆われて、表に出てきません。しかし、ちょっと隙間が開くとすっとそこから心に忍び込んで来るものがあるのです。これはどんな人にもあります。ただ、それは一過性のものでありますから、過ぎたら忘れる。そして、目の前のいろいろなこと、楽しいことや何かで気が紛(まぎ)れて普段どおりにやっています。何か悪いことをしたとか、何か人にとがめられることをしたという、そういうこともはっきりしないけれども、寂しさといいますか、むなしさが伴ってきます。詩人や感受性の豊かな芸術家などは「存在の悲しみ」という言い方をしますが、生きていること自体が持っている、不安感、恐れ、満足のない状態。それは何によって満たされるか。物をもってしても、あるいは、人間関係をもってしても、家族をもってしても、これは満たされない。ましてや、薬をもって紛らわしても消えません。それは、私たちが造り主でいらっしゃる神様から離れていることの罪の陰です。これを「そうだ」と認めるかどうか、それぞれ皆さんのお決めになることでしょうが、聖書にはそのようにはっきりと書いてあります。「人が神様を離れた結果、神の栄光を受けることができなくなった」と。

幼稚園くらいの子供さんたちはお母さんから離れると非常に不安を感じます。何か物が足りないとか、病気をして熱があるとか、痛い所があるのではないが、いつもお母さんの存在、お母さんがどう思っているかと気にします。教会にもそういう子供たちが来ます。礼拝をしていると、子供たちは2階のほうへ行って遊んでいる。時々会堂へ降りて来てのぞく。のぞいて何をするかと? 何もしないのです。お母さんの所へ来て、ポッとお母さんの顔を見て、またスーッと出て行くのです。親との交わりといいますか、子供は親との交わりがあって初めて安心があるのです。おもちゃで紛らわしても駄目です。それと同じで、私たちが造り主でいらっしゃる神様がおられるのに、それから離れていますから、早く神様との関係を修復するといいますか、罪を取り除いていただく。神様を離れた心とは自分が神になろうとする心です。自分を全てのことの王様にしてしまう。家の中のことでも「私が……」と、自分の人生についても「私が……」と、「我」というものがあるでしょう。自分が考えていることは何でも正しくて、自分がしていることは何でも「正しくて正解である」と、自分を義とする思い。常にそうやって自分が突っ張っているわけではありません。実に穏やかな、温厚な皆さんですから、表には出しません。ただ心の奥底にいつも思っている。だから、全てのものをご支配している神様の前に自分を置くことができないのです。自分以外に神があってはならないと思っている。その罪を私たちが持ち続けるから、いつも陰を感じるのです。光が差してこない部分が心の中にあるのです。これを早く取り除かなければ本当の安心が得られないのです。

その罪を取り除く方法はどうするか?私たちが神様の前に犠牲献身といいますか、何かささげ物か犠牲を払って自分で罪を償(つぐな)って、神様の赦しを受けようかと、そんなことをいくらしても罪を清めることはできません。なぜならば、私たちは既に神様を離れて罪なる者、汚れたる者です。不完全な者となってしまった。そういう私たちがいくら神様に死んでおわびをしようとも役に立たない。ですから、神様は私たちを捨ててしまったかというと、実は罪を犯して神様から離れて失われたような私たちを常に心に掛けてくださった。失うのに忍びない。「惜しい」と思っておられるのです。私たちの出来がいいとか、見栄えがいいとか、取り柄があるからではありません。神様が惜しんでくださるのは、私たちが神様のかたちにかたどられて造られた者だからです。神様のご性質に似る者として全ての被造物、造られたものの中でただ一つ、人間にだけ神様はその恵みを与えてくださった。ところが、神様のかたちにかたどられ、神様に近いものとして造られていながら、その神様を離れてしまった。そうなったら、愛がひっくり返って憎しみ百倍になるかというと、神様はそうではなく、愛する者に裏切られた神様は、敢えてその者を愛してくださった。これが私たちに対する神様の御愛です。そして私たちの罪のあがないとして、罪を赦してくださる道を神様のほうが備えてくださった。これがイエス・キリストです。イエス様は神の位に居給うた神の御子でいらっしゃる。神ご自身であったと言ってもいい。その御方が敢えて人の世に下ってくださった。なぜならば、私たちと同じ肉体をもった者となってご自分を神様の前にささげて、死んでおわびをするべき私たちの身代わりとなってくださいました。いうならば、私たちが死んで神様の前に「申し訳ありません」と言うべきですが、罪なる者が、私たちがいくら死んでも役に立たないことを百も御承知だから、神様は私たちを憐れんで、私たちがささぐべきいけにえ、身代わりとして、イエス・キリスト、ご自分のひとり子を世に遣わしてくださったのです。そして、イエス様は二千年前ゴルゴタの丘の上で命を捨ててくださった。おとめマリヤの許(もと)に生まれて、33年半近くの地上の生涯をヨセフとマリヤの子として歩まれました。30歳を過ぎてからバプテスマのヨハネによって洗礼を受けられ、聖霊に満たされイエス様は公の救い主としてのご生涯を歩まれました。そして最後にゲツセマネの祈りを通して神様に一切をささげなさったのです。その後十字架に曳(ひ)かれて行かれました。

「マタイによる福音書」27章27節から38節までを朗読。

これはイエス様が過越の祭を守るために、エルサレムにやって来られました。そのときに近くの村に行って「ろばを引いてきなさい」と言われ、そのろばに乗ってエルサレムにやって来られたのです。イエス様はエルサレムに何度も来ています。この時ばかりはちょっとすることが違っていた。それは「救い主がろばの子に乗っておいでになる」(ゼカリヤ 9:9)という預言の実現でもあったのです。ご自身が救い主でいらっしゃることを、そのことを通して明らかになさったのであります。ですから、多くの人々が出て来まして、イエス様を「ホサナ」「ホサナ」と、歓声をもって迎えました。それはイエス様が「救い主だ」と。ただ、そのとき集まった人たちの思いはイエス様が革命を起こして、クーデターでも起こしてローマの圧政下にあったユダヤの国を解放してくれるに違いないと、期待したのです。そして、期待が大きく膨(ふく)らんだのです。ところが、その後イエス様のしていることを見ていると、ちっともそういうそぶりがない。だんだんと失望に変わってしまいました。やがて、木曜日が「最後の晩餐」、後になって「最後の晩餐」と言っているわけですが、その頃は過越の祭の食事を共にする喜びの日でありました。食事のとき、イエス様は懇々と弟子たちに言い聞かせなさった記事が「ヨハネによる福音書」14,15,16章です。子なるキリスト、父なる神、聖霊なる神、三位一体の神について細かく語っておられます。そして、その席で弟子たちの足を洗ってくださった。木曜日のことを[洗足木曜日」という言い方をいたします。食事が終わった後、弟子たちを連れてイエス様はゲツセマネという園に行かれ、そこで祈られました。それまで、弟子たちはまさかイエス様が次の日には殺されることをつゆだに知らない、全く知りません。眠りこけている状態でしたが、ゲツセマネでイエス様は父なる神様との激しい霊的な苦しみ、戦いに置かれました。そして、その中から神様の御心に従う。父なる神様に従ってと、自らを神様にささげきって、カヤパの屋敷、ピラトの法廷、ヘロデ王の所と曳(ひ)き回され、イエス様は裁きをお受けになりました。多くの兵士やその他の人たちがイエス様を悪し様(ざま)にののしり、嘲弄(ちょうろう)し、打ちたたきました。ついに彼らはイエス様を十字架につけました。38節に「同時に、ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた」。イエス様に並んで三本の十字架がゴルゴタの丘に立てられました。その左右には実際に罪を犯した犯罪者がイエス様と共に置かれたのです。それはイエス様が罪人である、ということを公言する証拠でもあります。だから、イエス様は義なる御方、何一つ罪を犯したことのない御方でありながら罪人の仲間になった。これは大変大きな事態であります。

「マタイによる福音書」27章45,46節を朗読。

このときイエス様は十字架にかけられ、そして12時から3時にわたって血を流し、生身の体で、両手両足を釘づけられて、やりで胸を突かれ、自分の肉体の重みで肉体が裂けて行く痛みに耐えてくださった。そしてついに最後に叫んだお言葉が「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。父なる神様からも罪人としてイエス様は断罪され、罪に定められてしまう。これはイエス様にとって決定的な悲しみであり、絶望です。それまではまだしも父なる神様に「父よ」「父よ」と交わりがありましたが、事ここに至ってイエス様はついに罪人のかしらとして父なる神様から打たれたのであります。そして50節に「イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。51 すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、52 また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った」。地震が起こってイエス様は最後に息を引きとられました。そして、天が暗くなり、地が震い動いたと語られています。大きな悲しみがその場を覆ったのです。

なぜイエス様がそんな罪を負わなければならなかったのか?それはただ私たちのためなのです。「そんな二千年も昔の話をどうして今になって」と思われるでしょうが、私たちがささげるべきいけにえは、傷のない全きもの、完全なものでなければ神様に受け入れていただくことはできないので、神様はご自分のひとり子をこの世に遣わして、人の姿かたちとしてくださったのです。欠けだらけで汚れた者の身代わりとして全ての罪を負わせられたのです。それは完全なあがない、罪の赦しです。2度も3度も繰り返さなければならないような中途半端なものではなく、二度と繰り返す必要がない。だからたとえ2千年前のことでありましても、それで過去、現在、未来、永遠にわたって神様の赦しを完成してくださったのです。だから、たとえ2千年たった今であろうと、「私たち信じる者に救いを得させる神の力」(ローマ 1:16)です。イエス様の十字架の死を他人のための死としてではなくて、私の罪のためであるとしっかり信じる者を、父なる神様は義なる者としてくださる。キリストのゆえに罪を赦して私たちを罪なき者としてくださる。これが十字架です。イエス様が十字架に命を捨ててくださった故に、信じる私たちも父なる神様は罪を赦してくださる。

罪を赦してどうするか? 私たちが神様と親しく交わることができ、罪を消された者となり、私たちの心の闇を取り除いてくださる。だから、私たちは罪を取り除かれたとき、神様と和らぐ者となる。神様を「アバ父よ」「天のお父様」と、心から信頼する。これが救いです。そのとき私たちの心の闇は消えます。「神は光なる御方」と聖書にありますが、真の光が私たちの心を照らして闇を追い払ってくださる。だから、「ヨハネによる福音書」1章に語られているように、「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(5節)と。闇に光が輝くとき、闇は消えて行きます。最初に申し上げたように、罪のゆえに私たちの心に差してくる陰、言い様のない寂しさ、孤独、あるいは落胆や失望感、そういうものを取り除くのは私たちが神様に顔を向けるときです。神様の光を喜んで受けることができる道、これが十字架です。だから、イエス様の十字架を見上げて行くとき、心安らかに過ごすことができる。私たちの思い煩いや心配、それらいろいろな物が出てくる原因は、まさに神様に心が向いていない、心にまだ闇を抱えているかぎり何をしても満足を得ることができません。私にとっての救いが何であるか? 私はどういう意味で救われなければならないかをしっかりと自覚して行きたい。そして、常に主の十字架を見上げて行く。「今日も主が私の罪のゆえに命を捨ててくださる」。そのことを感謝して行く。「私がそこに死ぬべきところ、いや、死んだって何の役にも立たない私だけれども、神様はひとり子を賜う程の大きな愛を今日も注いで罪を赦しておっておられる」ことを信じて行く。そして、罪赦された者を力づけてくださるためにイエス様がよみがえってくださった。

「マタイによる福音書」28章1節から7節までを朗読。

ここにイエス様がよみがえられた日のことが語られています。主が木曜日に弟子たちと食事をした後、金曜日の午後3時に至って息絶えてくださった。その当時、その日は安息日の前の日でした。安息日には何もできないので、急いでイエス様を取り下ろしてアリマタヤのヨセフという人の墓に取りあえず埋葬したのです。次の日は安息日でした。そして、その安息日が終わって週の初めの日、1節に「週の初めの日の明け方」、まだ明るくならない頃でしょうか、マグダラのマリヤとほかのマリヤが墓にやって来ました。すると、そこに天の御使いが下って来て墓の石を取り除いて、そして語りかけたのが5節以下であります。「この御使は女たちにむかって言った、『恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、6 もうここにはおられない』」。「もうここにはおられない」。イエス様はもう墓にはいらっしゃらない。死んでおしまいではない。確かに私たちの罪のあがないとなってくださって、十字架に死んで、墓に葬られ、陰府(よみ)にまで下りました。しかし、その主は墓を打ち破ってよみがえってくださった。「もうここにはおられない」。何のためにイエス様はよみがえってくださったのか? それは私たち信じる者がキリストと共にイエス様のよみがえりの新しいいのちに生きるためです。というのは、罪を赦された者であっても、私たちには正しい生き方ができない。私たちにはその力がない。あったらとっくの昔にそれをしているはずです。私たちが神様の御心にかなう正しい歩みができるのでしたら、それは上等であります。しかし、そもそもできないのであります。私たちは弱い者であり、罪を犯すばかりの者です。しかし、神様はその罪を赦してくださった以上、私たちが二度と罪の道に歩まないで済むように、私たちの古いいのちを捨てて、新しいいのち、よみがえってくださったイエス・キリストが私たちと共に生きてくださる。私たちの内に宿ってくださる。これが神様の救いの完成であります。いま私たちの内にもよみがえったイエス様が宿っておられるのです。「え!私にでしょうか?」とよく言われます。「信じる者に」です。イエス様に宿っていただくには、何をしたらいいのか? 資格試験があるわけでも、面接試験があるわけでもありません。修行や訓練を受けて、教育を受けて資格をもらってとか、そんなものでもありません。ただ一つ、「イエス様がよみがえって、私の救い主となって私の内に宿って来てくださる」と信じる者。

「ローマ人への手紙」6章4節に、「すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである」。「彼と共に葬られる」。私たちはイエス様の十字架はただイエス様が死んでおしまいではなく、実は私がイエス様と共に十字架に死んだ者。パウロが「我キリストと偕(とも)に十字架につけられたり。最早(もはや)われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」(ガラテヤ2:20文語訳)と語っています。私たちもイエス様と共に死んだ者となって、その証詞としてバプテスマを受けます。あの水によるバプテスマは「イエス様の十字架の死は私のものです」ということの証詞であります。だから水に葬られる、言い換えると死ぬのであります。皆さんもかつて何十年も昔死んだはずでありますが、いかかですか? まだ生きていますか。また生き返って、「私はよみがえりました」と、私はよみがえらなくてもいい。イエス様がよみがえってくださって、主が私を生かしてくださる。だから、「わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」(ガラテヤ 2:20後半)とパウロは言っている。4節に「わたしたちもまた、新しいいのちに生きるため」とあります。新しいいのちを私たちに、主が与えてくださる。「いのち」とは、イエス様ご自身をつかむことです。イエス様こそが命です。イエス・キリストそのものがいのちです。だから、イエス様はラザロの記事の所で「わたしはよみがえりであり、命である」(ヨハネ 11:25)とおっしゃいました。イエス様イコール命です。だから「いのちに生きる」ことは、新しいいのち、キリストによって生きる。だから、どんなことでも、いま私たちは自分が生きているのではなくて、イエス様が私にあって生かしてくださる。イエス様がこのことをさせてくださる。ここへ導いてくださる。イエス様が今このことを与えてくださる。このことの中に置いてくださっている。いつも「イエス様が……」と自覚する。これがよみがえりの主と共に生きることです。2千年前によみがえった、過去のことではなく、主がよみがえったことは、今この世にあって生きている私たちが、もはや自分で生きているのではなく、どんなこともイエス様によって、主によってと、キリストによって生きる者となる。これが「新しいのちに生きる」ことです。

 今年もこうしてイエス様の復活を記念させていただきますけれども、ただ昔を思い出して記念するだけではなく、よみがえってくださったイエス様は今もお言葉のごとく、信じる私たちの内に宿って、生きる者としてくださる。神様の御心にかなう者へと清め、造り替え、新しくするために、私たちの内にあって今日も生きる者としてくださっている。ですから、どんな時にもイエス様に目を注いで行きたい。この年頭に与えられましたお言葉に「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」(Ⅱテモテ 2:8)とあるように、イエス・キリストをいつも思っている。これが新しいいのちに生きる生涯です。御言葉に約束されたように「わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」。私たちの生き方を見直して、キリストによって生きる道を歩みたいと思います。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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